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« 政治的関心は「意識高い系」? | トップページ | 2015年派遣法改正で残された課題――日雇派遣の矛盾 »

2016年1月17日 (日)

労働組合は成長を拒否できるのか?

Dio 連合総研の機関誌『DIO』311号をお送りいただきました。

http://rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio311.pdf

特集は「希望としての定常型社会〜成長戦略への対抗軸を求めて〜」で、次のような論考が並んでいるのですが、

希望としての定常型社会 広井良典……………………6

金利と利潤のない経済の構想 水野和夫 …………………10

救済から必要へ−寛容な社会と格差是正 井手英策 …………………14

社会的分断を超えて 筒井淳也 …………………18

正直言って、労働者の労働者としての利益を追い求めるために存在するはずの労働組合のシンクタンクが、こういう(あえてきつい言い方をしますが)腹ふくれ満ち足りたブルジョワの息子の手すさびみたいな議論をもてあそんでいて良いのでしょうか、という根本的な疑問が湧いてくるのを禁じ得ません。特に最初の二つ。

心のビッグバンだの、精神革命だの、いやそういう議論がそれなりの場でなされるのは大いに結構だし、そういうのが大好きな人々がいることもわかる。でもね、それって、日本の労働組合のナショナルセンターのシンクタンクの機関誌でやるべき事なんだろうか。

本当に今の日本の労働者、とりわけ労働組合に組織されることもなく使用者の私的権力にさらされて、低い労働条件を何とかしたいと思っている労働者に呼びかける言葉が、「希望としての定常型社会」なんですか。

そして、見果てぬ夢を夢見る夢想家ではない現場で何とか生きていこうとしている労働者たちに送る処方箋が「金利と利潤のない経済の構想」なんですか。

壮大な議論は私も嫌いじゃないし、リアルな議論とつなげる道もないわけじゃないと思う。でもね、これじゃ接ぎ穂がなさすぎる。

何というか、そのあまりの落差に言葉を一瞬失う感が半端ないのですが。

(棚卸し)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-5bad.html (「成長」は左派のスローガンなんだが・・・)

いうまでもなく、ヨーロッパでは、これが左派の代表的な発想なのであって、それがねじれている日本は、さて誰に責任があるのでしょうかね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-211d.html (「成長」は労組のスローガンなんだし)

いや、あまりにも当たり前のことではあるのですが、極東に来ると、「成長」論者というのは「質の高い仕事、社会正義、そして不平等との戦い」を敵視する人々であるという社会認識(というか、自己認識)がけっこう広まっているので、頭を抱えたくなるわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-a0c8.html (左翼が「成長」なんて主張したことはない だって!?)

確かに、まっとうなリフレ派じゃない「りふれは」の手合いの言う「成長」は、社会全体のブラック企業化を狙っているとしか思えないようなニュアンスがぷんぷん漂ったりしてますからね。

でも、そういう「りふれは」風インチキ「成長」が嫌だからといって、反成長論になだれ込んでみたって、いいことは一つもないわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-8159.html (何で日本の左派なひとは「成長」が嫌いか)

ジョブ型社会では、経済成長すると、「ジョブ」が増える。「ジョブ」が増えると、その「ジョブ」につける人が増える。失業者は減る。一方で、景気がいいからといって、「ジョブ」の中身は変わらない。残業や休日出勤じゃなく、どんどん人を増やして対応するんだから、働く側にとってはいいことだけで、悪いことじゃない。

だから、本ブログでも百万回繰り返してきたように、欧米では成長は左派、社民派、労働運動の側の旗印。

メンバーシップ型社会では、景気が良くなっても「作業」は増えるけれど、「ジョブ」は増えるとは限らない。とりわけ非正規は増やすけれど、正社員は増やすよりも残業で対応する傾向が強いので、働く側にとってはいいこととばかりは限らない。

とりわけ雇用さえあればどんなに劣悪でもいいという人じゃなく、労働条件に関心を持つ人であればあるほど、成長に飛びつかなくなる。

も一つ、エコノミック系の頭の人は「成長」といえば経済成長以外の概念は頭の中に全くないけれど、日本の職場の現実では、「成長」って言葉は、「もっと成長するために仕事を頑張るんだ!!!」というハードワーク推奨の文脈で使われることが圧倒的に多い。それが特に昨今はブラックな職場でやりがい搾取するために使われる。そういう社会学的現実が見えない経済学教科書頭で「成長」を振り回すと、そいつはブラック企業の回し者に見えるんだろうね。

まあ、要すれば文脈と意味内容のずれによるものではあるんだが、とりわけ経済学頭の人にそのずれを認識する回路がないのが一番痛いのかもしれない。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b066.html (決まってるじゃないか。自分の成長のためだよ!)

「1日の平均勤務時間は16時間くらいでしたね。サービス残業はあたりまえで、泊まりもありました。みんなけっこう自分から長時間労働をしているので、おかしいなと思い、『どうしてこんなに働くんですか』って聞いたことがあるんです。そうしたら『決まってるじゃないか。自分の成長のためだよ!』と……。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-5698.html (「成長」をハードワークの同義語として擁護/反発する人々)

本ブログでも何回も指摘しているのですが、なまじまじめに経済学を勉強してしまったありすさんは、世間一般で、とりわけブラックな職場で人をハードワークに追い込むマジックワードとして用いられる「成長」という言葉が、厳密に経済学的な意味における「成長」とは全然違うことにいらだっているわけです。

でもね、その「成長」への反発は、そういう「成長」を振りかざす人々がいるからその自然な反作用として生じているのである以上、お前の用語法は経済学における正しい「成長」概念と違う、といってみても、なかなか通じきれないわけです。

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コメント

これが結成時よりの「連合」予定説的帰着ですね。最近某新聞に結成当時を知る労組貴族が特集されておりおかしいなあ?と勘ぐっておりまいしたらやっぱりね。1980年代以降の世界的な労組の大衰退傾向は資本のグリーバル展開が理由でバカでも容易に想定できたのに、いわば残党が言い訳として都合がよい定常社会を唱える広井さんと資本主義の利重低下による終焉を唱える水野さんを利用しているのですから、利用された両氏にはなんともお気の毒なかんじです。
はまちゃんブログをご覧の皆さんは、アンソニー・アトキンソンの最新本「21世紀の不平等」東洋経済新報社刊をお勧めします。
未来は意志があれば、理想とはいかなくとも動かせる可能性は持てると思います。
労組は今や政府が代替性を持つことで企業との交渉を行うため、勤労所得の搾取者(労組費)時代となったのです。そういうと、医療労働組合のデモを見ても切迫感はなく笑って駄弁って銀座を練り歩いてるもんね(笑)。その対極に、一次産業や物流(トラック)のデモは迫力ありました。

井手氏と言えば出たばっかりのこれは

分断社会を終わらせる:「だれもが受益者」という財政戦略 (筑摩選書) 単行本(ソフトカバー) – 2016/1/14
井手英策 (著), 古市将人 (著), 宮﨑雅人 (著)

連合が、とか労働貴族が、とかそういう問題ではなくて、日本で「社会変革を志す」人々の共通の問題では?ほとんどの労働組合は、どちらの意味でも「成長派」だと思いますけど。

hamachanも「成長至上主義」の迷妄から完全に自由ではないようですね。この間の持論の繰り返しみたいですが。この特集は「成長戦略」への対抗軸を扱ったもので、まさに今日の(欧州も含めた)世界の労働運動にとっての喫緊の課題を提起しています。「お前の用語法は経済学における正しい「成長」概念と違う」というのなら、そもそもhamachanの経済学がリフレ派とは違うにしても時代遅れになっているということでしょう。欧州労働運動の持続可能な成長論は緊縮政策に対抗するプロパガンダ(ロビンソン女史が言うとおり経済政策はおしなべてプロパガンダとして提起されます)として理解しないと本質を見誤ります。そこでのキーワードが社会の「持続可能性」であることは論を俟たず、今回の特集とも基本認識は一致しているはずです。勿論「成長神話」の残滓が紛れ込んでいるという問題もあるでしょうが。成長が格差や貧困を解決する時代はとうに終わっているのです。「成長至上主義」「成長神話」もまた危機に立つ資本主義のプロパガンダですが、その狙いは成長がなければ諸問題は解決できないと信じ込ませ、実際に成長ができない中で、「成長戦略」を装いつつ困窮する労働者家計からいっそうの収奪を行うことです。問題の解決には、その根因を見定めなければなりませんが、それは資本主義というシステムの腐朽化であって、これを止めないことには労働者の未来はないということを、世界の労働運動ははっきりと認識すべき転換点にあるということです。20世紀初頭のロシアでは成長が問題を解決する鍵であったことは間違いありません。だからレーニン、トロツキーのネップ政策はまったく正しい経済政策でありえたわけです。しかしいまの労働運動や左派の運動、あえていえば今日のボルシェビキが掲げるべき政策は、資本主義を、具体的には巨大営利企業としての株式会社制度を揚棄した持続可能な「定常型社会」の実現であるというのが、この特集を企画した私の本意なのです。いま必要なことは失われた成長に未練がましくしがみつくことではなく、大胆なパラダイム転換だということです。
なおこの点については私自身の以下の論考を、労働運動が共有すべき情勢認識としてご参照下さい。いずれにしてもhamachanのお怒りを奇禍じゃなかった奇貨として、論議がひろがればよいのですが。
http://www.fair-labor.soc.hit-u.ac.jp/rh-junpo/151125.pdf

私は、成長さえすればどんなに格差が広がっても良いじゃないか、パレート万歳ていう意味での成長至上主義者ではもちろんありませんが、経済成長なしにより平等な再配分が容易に達成できると信じるほどの反成長主義者でももちろんありません。

成長という原資があってこそ、さまざまな抵抗を極小化しつつ労働者の地位向上が可能であるという考えを「迷妄」と断じてしまった後に残る労働者の戦略はいかなるものでありうるのか、私には理解できかねるものがあります。

少なくとも、現在「失敗した理念の勝利」の凱歌の中で、居丈高に進軍する緊縮財政と生活労働条件の切り下げ攻勢に抵抗するヨーロッパの労働運動にとって、「反成長」が対立軸であるなどと言ったら、何をふざけたことをいっているんだと言われかねないのではないでしょうか。

申し訳ありませんが、私はその点については断固として「ヨーロッパ出羽の守」なのです。

まあhamachanがどこかで書いていた「要すれば文脈と意味内容のずれによるものではあるんだが」ってことでしょうが、「成長戦略」(中身はQEと緊縮の組み合わせという欧州型とおっつかっつでしょう)というプロパガンダに対抗軸を出すことが、たとえ「定常型社会」を謳っていたにせよ、直ちに「反成長主義」と決め付けるのはいかがなものかと思うしだいです。あまり関心がないので詳細は詳らかにしませんが、世に通俗的な反成長主義なるものが、ローマクラブの成長の限界などを半端に飲み込んで存在するのでしょうが、もとより私はその手の反成長主義に与するものではありませんし、広井さんも水野さんも、反成長主義などというレッテルを貼られたら極めて不快に思われるでしょう。実際問題として高橋伸彰さんがDIO12月号で指摘しているように現状のGDPは直近のピークである1997年をいまだ下回っているわけで、これは定常にもならない失政・悪政による後退なので、公正な分配政策と雇用政策のよろしきを得れば、向こう5年や10年は安倍君の言う名目600兆円はさておき、500兆円の大台を超えるくらいには回復=成長することも大いにあるでしょう。中長期的に見ても就業人口の減少を考えれば、定常状態を維持するにも一人頭の付加価値産出はイノベーションなどで成長しなけりゃなりません。ただ成長=規模の拡大が問題を解決するわけではなく、毎年500兆円近くの付加価値を生み出す経済の運営が革命的に改善されれば、1億総動員体制など敷かなくとも、すべての国民が安心・安全に生活できるはずで、何で計るかにもよりますが成長は結果としてついてくることもある程度に考えておけばよいと思います。国民経済の規模を拡大することが問題を解決するというまやかしに同調できないというのが私の結論です。

Hayachan様の13:05コメントの最終のメッセージには大いに賛成です。広井さんも水野さんも確かに「反成長」とは言われておりません。今までとこれからは違うのだから、違うということを前提に新しい社会を考えようと言うことでしょうか。が、付加価値を生み出す経済の運営が「革命的に改善」(用語がおかしいです)されても雇用環境もついてこなければ国民は安心・安全に生活できる保障獲得どころか、富は一部により集中するでしょうからこの話のミソとはここでしょうか?。でもイノべーションだ!って雇用と生活向上に存在の使命を集中する労働側が言い出すと混乱するのは私が遅れているからでしょうか?。時代がそこまで追い込んであるのでしょうか?。イノベーションにも複数のセクターがあることは存じておりますが、結局は清算主義であり、アニマルスピリッツをも含めた場合は時間軸では非自発的失業を容認しなければならず、その救済法を語る社会保障制度に行き着くような帰結になると思われるのですが。連発してごめんなさい。

実質1%・名目3%の成長-これは日銀が目指しているところでしょうが―では50年後に実質経済規模が1.644倍になるに過ぎません。医療・介護・子育て等を「成長」の軸にすえればエネルギー消費量は今以下である可能性が高いのです。
この数字で、成長だ、反成長だ、脱成長だといってみても仕方がないように思います。政策で問題なのは、「再分配は是か非か」ではないでしょうか?

片桐様に賛同です。ただし是非ではなく再分配財源の原資(これが問題の成長でしょうか)の徴収と集約セクターの受け持ち選択の最適化(社会保険と税)と給付対象とその給付方法(現物か現金か)等を経済環境(主に人口構成の問題です)にファインチューニングし続けるしかないというオチではないでしょうか。座布団はいただけないでしょうが、大きな政府も小さな政府(無意味な選別ですがあえて)の国々も、要は先進国クラブはそれなりの再分配制度を持っているのです。でなければ、教育も行き届いたクラブの部員が暴動を起こすでしょう。政治はもはやイデオローグなんぞで大衆を煽動できるダイナミズムを持ち得ませんから。労組もそういう帰結としての企画なのだったではと思います。

ところで平等って何?
成果や能力や勤労に関わらず平等/格差是正ってそれは全然公平じゃないよね。

身分制度のような悪しき格差もあれば、善であり必要である格差もあると思う。

「不当な」格差を是正しろと叫ぶ論者(あるいは最低限度だけは保障しろと言う論者)の側からもそろそろ、「良い格差もある・悪い平等もある」って話が出てもいいのでは。

分配の話は、「悪い格差もある」って言えない人達が、どんどん経済左翼側に言ってしまう(意図的に働かないで福祉で食って何が悪い・河本全面擁護論など)。

私は欧州流の福祉国家には懐疑的で、「あれだけ中流階級を虐めていれば、下層(白人の福祉生活者や、移民)へのヘイトがあるのもしょうがないよな」と思ってしまう。

福祉関係者が、「救済ではない、助け合いだ」と言っても、厚労省が、「年金を損得で考えるな」と言っても、実体は「だれかが福祉で食うにはだれかが働かないといけないよね」ってことで、高齢化や財政難や福祉国家化によって「働いている中流階級の負担が上がっていくよね」ってことなんだ。

増税される方としては増税されたくないし、働いて稼いだ金で下層民のしりぬぐいしたくないのは当たり前。そろそろ建前を脱して分配の規模を話し合うべきだ。

私も労働組合員ですが、自分で食っていけないレベルの層とそこそこ高所得な層が同じ団体に属する意味が見いだせない。

中流層にとって貧乏人に分配することは2万パーセント損にしかならないわけで、我々のような高所得な職種の組合が、「税金上げて累進を高めて貧乏人にバラマキしろ」と叫ぶ意味が全く分からない。労働組合とは組合員の利益団体なわけで、その加盟者のほとんどが損を政策を掲げることはあってはならない。

自分たち高所得労働者の利益に反する自虐的自傷的政策を延々と垂れ流し続ける組合に存在理由はあるのか?

そっくりな話があります。
某出版社サイトで、このままでは大学生の奨学金利用による社会問題は大変なことになるという趣旨の記事に対して、あるコメンテーターは高額の奨学金(金額は真偽があり書きませんが)を院生時代までに累積しているが、所得の高い会社に入社しリビングコストも会社寮にはいているため返済に悲観なんてもないと。要はそうした身分を逃した人個別の問題だと言わんばかりで、まあ真贋不明な愉快犯的ヘイトスピーカーだろうなあと見過ごしましたが、こちらで出会うとは朝からびっくりぽんでした。
最初の文面最後に、「そろそろ建前を脱して分配の規模を話し合いべきだ」次の〆に「自分たち高所得労働者の利益に反する自虐的自傷的政策を延々と垂れ流し続ける労組に存在意義はあるのか?」。
おそらく年金保険制度にもこうでしょうか。「賦課方式は老人ポピュリズムで下層民の尻拭いだ。俺の高額所得は俺だけのモノ。積み立て方式にしろ」と。自分一人で積み立てたらよいだけですよ。積み立てられる高額ならば。そしてその人生の過程で何があっても俺はロビンソンクルーソー並みに誰にも世話にもならず生きていく」と。年金は保険方式ですし組合も生産組織への帰属があっての組合費支出ですから、一切を断てばすべてのうち「支出」に関してはクリアできますよ。ただし、もう一方のご自慢の高額収入も一切立たれ、しかしそれにより自由を獲得できるのですからお勧めします。なぜならば、その席に着くべき人がたまたまチャンスを逃したにすぎないため、貴殿よりパフォーマンス高く生産組織にも、労組にも、そして社会への便益向上が見込まれる可能性が見込まれ、最後になりましたが、社会平等が差異を認めたうえでその不平等があっても各自のケイパビリティに強く関与できる社会に近づけばすくなくとも今よりマシでしょう。運に恵まれ、たまたま獲得した優越的権利を絶対的なものに考える狭量を大手組合批判として小生ははまちゃんブログを通じて指摘したつもりですし、本村様のコメントは理解もできますし、それを越せない労組にこそ責任は大きいと考えるのです。そもそもユニオンショップなどで組合の存亡自体を回避する姿勢が福祉国家を強化した時代の「負の遺産」なのだと思います。時代の合理性は次に時代には不合理な制度ともなるのです。だから「過去の制度すらなかった人々」の受け入れざるを得なかった社会基準と「今」と「未来」を持続可能な国へとファインチューニングしましょうといっているのです。国が吹っ飛べば高額収入もなにもかも吹っ飛んでしまうのです。利得と損失しか考えないのを許されるのはミクロ問題だけです。マクロ問題にそれを持ち込んだらそこでGame Over。

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