総合雑誌?
たまたま目に付いたのですが、
http://d.hatena.ne.jp/sakuranomori/20151216/p1
・・・「現代思想」のような雑誌を「総合雑誌」といいます。背伸びしたい(?)かつての大学生は「総合雑誌」によって、大学では出会うことのない学者や知識人などの思想を勉強して、あるいは、勉強するふりをしていました。しかし、私が大学生の頃すでに総合雑誌「離れ」が問題視されていて、むしろ講義を履修している先生の論考が掲載されているときだけ興味を持つような印象でした。そして他方で、コミック誌や趣味の雑誌ファッション、スポーツ、マネー、オタクカルチャーなど)はまだまだ健在でした。現代ではどうでしょうか。そもそも現代における知識人とはなんでしょう。
私の知る限り、総合雑誌とは『文藝春秋』『中央公論』『世界』『展望』といった政治経済系の評論を中心とする雑誌の謂であって、その亜種がいわゆるオピニオン誌であり、文学評論やら哲学やらのこ難しい屁理屈の一杯詰まった『現代思想』とかのたぐいは、ある時期にはニューアカ雑誌とか呼ばれていましたが、分類すれば『思想』とか『理想』などの哲学雑誌のたぐいであって、少なくとも総合雑誌などとは呼ばれていなかったことだけは間違いないか、と。
いや確かにここ数年、『現代思想』誌が時々教育問題とか労働問題といったトピックを、それもかつてのようなやたら哲学的ジャーゴンの一杯詰まった読んでもよく意味のわからない論文ばかりではなく、まさしく総合雑誌かな?と思われるような視角からの論文が結構載るようになったりしているので、まったく間違いではないと言えるようになってきているのかも知れませんが、少なくとも、バブル期に学生たちが総合雑誌離れした云々の話に持ち出すにはあまりにも不適当ではないか、と。
ある時期までの、そして現在においてもある程度までは、『現代思想』はまさしく「へたれ人文系インテリ」(@稲葉振一郎)の御用雑誌であった/あるというのが正確な認識であるように思われます。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-41d5.html (『現代思想』6月号「特集ベーシックインカム」)
ちなみに、同じ特集の中の栗原康氏の「大学賭博論 債務奴隷かベーシックインカムか」という文章が、なんというか、もう「へたれ人文系インテリ」(@稲葉振一郎)の発想そのものという感じで、大変楽しめます。
栗原氏にとって、大学とは、
>一つは予測可能な見返りのある大学、もう一つは予測できない知性の爆発としての大学、この二つである。
ところが、前者の大学において「就職活動のための授業カリキュラム」というのは、
>コミュニケーション能力、情報処理能力、シンボル生産能力、問題解決能力、自己管理能力、生涯学習能力・・・・・・・・
と、まさしくシューカツ産業が提示する人間力以外の何ものでもないようです。大学で本来学ぶことになっているはずの知的分野は、卒業後の職業とは何の関係もないというのが、絶対的な前提になっているわけですね。
つまり、栗原氏にとっては、大学が大学としてその掲げる学部や学科の看板の中身というのは、原理的に「予測可能な見返り」のあるものではなく、「予測できない知性の爆発」という賭博でしかない、というわけで、まあ典型的なへたれ人文系インテリの発想ということなんですが、なんでこれがベーシックインカム論の特集に入ってくるかというと、
>大学には、二つの道がある。一つは債務奴隷化、もう一つはベーシックインカムである。・・・・・・この賭に負けはない。自分の身を賭して、好きなことを好きなように表現してみること。・・・・・・・
と、好きなことを好きなようにやるんだから、その生活費をお前ら出せよ、という主張につながってくるからなんですね。
いうまでもなく、大学という高等教育機関はへたれ人文系の学問ばかりをやっているわけではなく、大学で学ぶ学問それ自体に職業的レリバンスが高い分野も多くあります。そういう高級職業訓練機関に学ぶ学生がきちんと訓練を修了し、高い技能を持った労働者として就職していけるように、その生活費の面倒を見ようというのは、別段ベーシックインカム論を持ち出さなくても、アクティベーションの考え方からも十分説明できますし、むしろより説得的に説明できるでしょう。
大学や大学院の授業が給付付き職業訓練であっていけないなどというのは、本質的に同じものである「教育」と「訓練」を勝手に役所の縦割りで区別しているからだけのことであって、その方が頭が歪んでいるのです。職業訓練を受けるために学生を債務奴隷にするなんて、(教育政策としてはともかく)労働社会政策としては歪んでいるわけですから。
ところが、栗原氏の議論には、そういう発想はないんですね。学生に生活費を支給すべき根拠は、その受講する職業訓練の社会的有用性ではなく、「好きなことを好きなように表現してみること」であるわけです。
まさに、好きなことをやるかわいい子どもに糸目を付けずに大盤振る舞いしてくれる豊かな親になってくれよ、それがあんたらの責任だ、というのがへたれ人文系ベーシックインカム論であるようです。それは、親の年功賃金によっていままで維持されてきた仮想空間を全面的に拡大しようという試みなのでしょうが、いうまでもなくそれが実現する見込みは乏しいでしょうね。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-4fd4.html (就活のリアル@『現代思想』4月号)
最近、むつかしげな哲学思想ばかりでなく現代社会のアクチュアルなテーマも時々取り上げるようになった『現代思想』が、「就活のリアル」という特集を組んでいます。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/5-0c3d.html (『現代思想』5月号特集「自殺論」)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-0d09.html (教育クライシス@『現代思想』2015年4月号)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/11-b07c.html (『現代思想』11月号「大学の終焉」のミニ感想)
正直言って、4年以上前に『月刊社会民主』に書いた文章の、この最後の言葉に付け加えるべき感想は、特に感じられませんでした。
・・・やや皮肉な言い方をすれば、こういう教育と労働市場の在り方にもっとも消極的であるのは、「学問は実業に奉仕するものではない」と称して職業的意義の乏しい教育を行うことによって、暗黙裏に日本的企業の「素材」優先のメンバーシップ型雇用に役立っていた大学教授たちであろう。彼らの犠牲者が職業的意義の乏しい教育を受けさせられたまま労働市場に放り出される若者たちであることは、なお彼らの認識の範囲内には入ってきていないようである。
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レスポンスがあったようです。
http://d.hatena.ne.jp/sakuranomori/20151216/p1">http://d.hatena.ne.jp/sakuranomori/20151216/p1
投稿: hamachan | 2016年3月12日 (土) 23時44分