スウェーデンは「ナチ」か?(再掲)
「スウェーデン政治経済情報」さんという方のツイートが、北欧福祉国家と移民・難民問題について、本田由紀さんに疑問を呈するかたちでこう述べていたので、
https://twitter.com/sweden_social/status/675697785140740096
日本における教育と労働に関する権威である本田由紀教授が、デンマークは欧州で最も移民・難民の受入要件が厳しい国で、デンマークの福祉制度はあくまでもデンマーク人のみを対象とする「閉じた福祉」であることを把握してないとは思えない。
https://twitter.com/sweden_social/status/675700059799851009
ここでも紹介しているとおり、デンマークの難民受入条件は最近急速に厳格化されている。「寛大な」福祉はこの「排除の論理」と表裏一体。この点に触れずに、いいところだけしか見せない大使館の宣伝を「すごすぎる」と無批判に垂れ流すことは、北欧信者には受けても、社会的には害悪にしかならない。
https://twitter.com/sweden_social/status/675710753962254336
雇用と福祉の両立という点で社会モデルの理想型であった北欧諸国は、経済のグローバル化や難民の大量流入でその存立基盤を急速に失っている。過去の遺産としての制度をただ賞賛する段階はとっくに過ぎていて、それをどう維持するのか(無理であっても)に注目すべき時に来ている。
6年以上も昔のエントリですが、本ブログで取り上げたこれを思い出しました。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7380.html (スウェーデンは「ナチ」か?)
・・・・もちろん、問題は、「ソーシャル」のかけらもないくせに、スウェーデンは解雇自由だという間違った思いこみだけでスウェーデンモデルを振り回す無知蒙昧さんなどではなく、国家はキライだけど「社会」はスキという「ラディカルな市民社会論」な方々にあります。北欧のことをよく知らないまま、そういう「左バージョンの反近代主義」(@高原基彰)でなんとなく憧れている人にとっては、次の会話は大変ためになるでしょう。
>市野川 ・・・それで、少し乱暴に言ってしまうと、今までソーシャルなものはナショナルなものと不可分で、ナショナル・ソーシャリズム、極論すれば「ナチ」しかなかった。つまり、ソーシャルなものがナショナルな境界、ナショナルな規制の中でしか担保されないというところがあったと思うんです。・・・・・・そこで、小川さんにお聞きしたいのは、北欧についてもソーシャルは結局「ナチ」でしかなかったのかどうかなんですが、その辺りいかがでしょうか。
小川 ナチス・ドイツのような自国民中心主義は、北欧のような小国ではそもそも成立しようがない。ただ、北欧福祉国家がナショナルなソーシャリズムから発展したかといえば、確かにそういう面があります。様々な歴史的背景がありますが、まず大きな転機として両大戦間の危機があった。世界大恐慌など戦間期に経済危機が深刻化する中で、共同体的な結合を志向するコミュニタリアン的な渇望が生まれていく。この時、議会制民主主義、社会民主主義が多くの国で挫折してしまいました。スウェーデンでは、社会民主党のハンソンがマルクス主義にはない「国民の家」というスローガンを唱えました。ソーシャルな救済とある種のコミュニタリアン的な価値が統合された形で、北欧の社会民主主義は生き残ったわけです。
つまり、一言で言えば、スウェーデンの社会民主主義とは「ナチ」である、と。
それが今もっとも先鋭的に現れている分野が移民問題になるわけです。
>現代ヨーロッパは、移民をめぐる問題で大きく揺れています。北欧も例外ではなく、福祉国家の価値観を共有せず、負担を十分に行わない移民、また男女平等とイスラム的な文化の衝突などに直面して、福祉国家の権利を国民に閉じようとする福祉国粋主義(ショービニズム)が問題になっています。つまり、国民的(ナショナル)に平等を確保することが、他者の排除を意味するようになってきている。それはまさにナショナル・ソーシャルゆえの境界化だと思うんですが、ではそこから、現実にここまできたナショナルな平等を否定すべきなのか、それは「赤子を風呂の水とともに捨てる」ことにならないかと。
こういう問題を真剣に考えないで、ふわふわと北欧ステキとかいってるのが「北欧神話」なんじゃないかとも思いますが、それはともかく、
>市野川 ソーシャルなものと多文化主義って、本来そりが合わないんですよね。・・・ソーシャルなものって、平等の創出に向けて介入や支援を呼び込んでいく一方、平等を求めるがゆえに、どうしても画一性の方に傾いてしまうんですね。
このナショナルな画一性、平等性ががっちりとあるがゆえに、解雇法制自体の規制度とは別に、北欧社会が雇用の流動性と社会の安定性を両立させているという面もあるわけです。わたしがよく引用する、「デンマーク社会って、国全体が一つのグループ企業みたいなもの」という某労組関係者の話ともつながってきます。
逆に日本はそういう画一性、平等性が欠けているというところから話が出発するのです。
>小川 北欧を持ち上げる論調では、最近ではしきりに「フレクシキュリティ」という言葉が濫用されていますが、大きな政府という部分はあえてあまり言われないんですね。公共部門により地方で雇用を創出し、男女の公私の共同参画を促進し、職業教育を行う。そうした公的な基礎的インフラがあっての労働市場の柔軟化であることが忘れられている。日本には市民的な反公務員・反増税感情があり、アナキズムの伝統もあり、北欧とはまったく異なる国家観を形成していると思います。
こういうところに、「左バージョンの反近代主義」(@高原基彰)が効いているんでしょうね。
ま、与党も野党も、公務員叩けば人気が出ると思い、実際その方が人気が出るような国に「フレクシキュリティ」は無理というのが本日の「ナチ」ならぬ「オチ」ということで。
(追記)
なんだか、相当な数のはてぶがついたようです。
http://b.hatena.ne.jp/entry/eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/09/post-7380.html
多くの方はご理解いただいているようですが、念のため一言だけ。上で市野川さんやそれを受けてわたしが言ってる「ナチ」ってのは、もちろんドイツの国家社会主義労働者党とわざとイメージを重ねることをねらってそういう言い方をしているのですが、文脈から判るように、あくまでも「ナショナル」&「ソーシャル」な社会システムという普通名詞の意味で言ってるわけで、ここでホロコーストだの南京虐殺だのといった話とは(根っこにさかのぼればもちろんつながりがないとは言えませんが)とりあえずは別次元の話です。
むしろ、これは必ずしも市野川さんの意見とは同じではないかも知れませんが、わたしの歴史観からすれば、アメリカのニューディールも、フランスの人民戦線も、日本の国家総動員も、スウェーデンの社会民主主義も、「ナショナル」&「ソーシャル」な社会システムへ、という同時代的な大きな変革のそれぞれの諸国における現れなのであって、その共通性にこそ着目すべきではないか、という話につながりますし、日本の話で言えば、戦時下の国家総動員体制と終戦直後の戦後改革とが一連の「ナショナル」&「ソーシャル」なシステム形成の一環としてとらえられるという話にもつながるわけです。
もう少し突っ込んで論じたエントリとしては、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-1c36.html (ナショナリズムにかかる以前のエントリ)
<tari-Gさんのコメント>
>自由や平等を考える立脚点は、まずもって「同胞」ではなくて「人」でなくてはならないと私は思います。本来言うまでもないことですが。それは今に至るまでNationがさんざんやってきている暴虐からもそう思います。
もちろん、Stateから離れることはできません。しかしだからといって、「人」ではなく「同胞」に基盤を置こうというのは、それこそ懲りずにNationに過度の楽観を抱いている脳天気にしか、どうしても私には思えないんですよ。
だいたい、Nationから独立した内心の自由すら未だに確立できないこの国にいながら、Nationに期待するということ自体、歴史どころか現在も把握できていないのではかなろうかと思わずにはいられませんが。
<hamachanの応答>
>私は別に「懲りずにNationに過度の楽観を抱いている」つもりはなく、「自分の経験」からも「他人の経験」からも、ネーションは劇薬であることは重々承知しているつもりです。
しかし、この劇薬は、危ない危ないと言っていればそこから逃れられるものではなく、インターナショナリズムを掲げた共産主義運動がまさに最悪の形のナショナリズムの泥沼に陥ったごとく、自分は逃れていると思っている人間が一番その危険に近いところにいるという逆説をもたらすということも、我々が歴史的経験から学んだところでしょう。
実を言えば、我々が自分以外のものに何らかの同情(シンパシー)の念を感じるのは、その自分ではないものに自分と通じる何物か共通性を感じるからであり、その自我包絡をどの範囲までに及ぼし、どの範囲には及ぼさないかは、必ずしも一義的に決まるものではありません。かつては親族などの血のつながりがその範囲を決定していたわけですし、現在でもそれが重要な要素であることには変わりはないでしょう。ネーションというのはそういう自我包絡のきわめて近代的な一形態であり、リアルなシンパシーを通常感じないような人々にまでそれを及ぼすための心理的な装置であることも、ご承知の通りです。
そんなものに何の意味があるのか?自分の親戚でもなければ縁者でもない人々になんで同情なんて及ぼすの?たとえば、日比谷公園に勝手に集まってきた失業した派遣労働者を何とかしなければいけないなどと、なぜ感じるの?ということですね。
仮に、「何を馬鹿なことを言っているのだ。世界の貧しい人々のことを考えろ。日本の派遣切りなんて天国みたいなものだ」と、国際政治学的には適切なことを言われたら、「いやあ、もっともだ」と納得するだろうか、ということでもあります。「同胞」と同胞でないただの「人」に差別をつけないということは、つまり「同胞」であってもその「人」並みにしか扱わないということなわけで。
そういう言葉の上では限りなく美しく、現実の行為においては冷酷でしかあり得ないコスモポリタニズムに対し、「つまり俺たちを仲間として扱わないということだな」という反発がどういう形態をとるであろうかと考えると、(まさに歴史の実例が語るように)「同胞」ではない「人」を「敵」として描き出し、その敵への敵愾心を煽り立てることによって、その対照物である「同胞」を仲間として手厚く扱えと主張する、悪い意味におけるナショナリズム(あるいはむしろショービニズム)が噴出し、瀰漫することになるでしょう。
いや、最近の右翼雑誌などを見ていると、まさにそういうメカニズムが働いているように思われます。
リベサヨがソシウヨをもたらすというのは、そういうことを言っているつもりです。
(追記)
dojinさんの「研究メモ」に、スウェーデン民主党という極右政党のTVCMの話題が取り上げられていて(本ブログにトラバをいただいています)、そこで「福祉ショービニズム」が論じられています。
http://d.hatena.ne.jp/dojin/20100830#p1(TV放映を拒否されたスウェーデン民主党の選挙CM)
>年金受給者用、移民用にそれぞれカウントされていく札束、そこによろよろと歩み寄るスウェーデン人のおばあさん。するとその横から、ブルカをかぶり、ベビーカーを引いた大量のムスリム系の女性が追い抜いていく。。。スウェーデンのテレビ局に放映を拒否されたこのスウェーデン民主党のCMは、ヨーロッパで台頭しつつある福祉ショービニズムを象徴的に描きだしている。
このエントリで、わたくしの過去のエントリがリンクされています。本エントリの参考として読まれてもいいと思われますので、ちょっと引用しておきます。
« 第15回日韓ワークショップ報告書 労働市場における格差拡大の現状と課題:日韓比較 | トップページ | 丸谷浩介『求職者支援と社会保障』 »
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