交通整理の交通整理
金子良事さんが「交通整理」をされたというのですが、正直言ってますます交通渋滞になっているようにしか思えず、とはいえせっかく交通整理していただいているので、それに沿ったかたちで、自分なりに交通整理をしてみたいと思います。
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-410.html (働く女子の運命(続))
第一に、私はマルクス主義的な見解を支持するわけでもなんでもなくて、濱口先生がわざわざ引き合いに出されているので、伝統的なものをすっ飛ばした妙な読み替えはいかがなものかということを言っているのです。
私がマルクス経済学を引き合いに出したのは、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/12/post-ca5f.html
の追記にも書いたように、もっぱら
ある意味で「ソーシャル」な理論が、それ自体もっとも女性差別的なロジックとして機能した、というこのアイロニーの指摘
にあります。
マルクス経済学は労働者の味方だからとかそんなことは全く関係なく、マル経の理論構造それ自体が、否応なく男性が女房子供の分まで給料を稼ぐのだから、というかたちで女性差別的なベクトルを持っているという、大沢真理さんが20年以上も前から指摘している話を、それをほとんど知らない労働法などの分野の人々に示すという意味からであって、それ以外ではありません。
そして、その意味においては、これは「妙な読み替え」などではなく、まったくまっすぐなロジックをそのまま出しただけだと思います。「伝統的」という言葉の意味が不明ですが、マルクス主義が女性差別的であるはずがないという感覚であるとすれば、それはとっくに否定されているように思います。
大企業偏重で見るのはおかしいと言っていたのは、濱口先生自身ですし、小池先生の『賃金』には中小企業その他も出てくるので、そのことをすっ飛ばすのは二重基準です。
ここも話が二重三重にねじれているんですが、まさに中小企業が年功的ではないのは、知的熟練がないからだという小池和男氏の説明の仕方を、女性の賃金が年功的に上がらないのは知的熟練がないからだというロジックと同型的であり、そのロジック自体がインチキではないかと指摘しているのが再三出てくる大沢真理氏であり、そういうかたちでまさに「すっ飛ばす」どころか、議論のもっとも枢要の部分で利用していると思うのですが、何が二重基準なのか、よく理解できません。
そこで第2パラグラフで、こう繋がっていくのがますます意味不明になってきます。
第二に、それに対するお答えとして、80年代以降の女性政策を駆動したのが婦人少年局の官僚やフェミニストだから、そこのBGやOLの話が中心になるんだということでしょう。私も別にそういう側面があることを否定しているわけではありません。しかし、そうであるならば、正直、マル経や小池理論の読み直しでのずらしは蛇足でしょう。余計な捻りはなしで、婦人運動と、女性官僚の話だけで十分だったと思います。
上で述べたように、蛇足どころかまさに肝心要のキモのつもりなのです。実際、記述の上でもそうなるように書いているつもりであり、何人かの読者の方もそこが印象的という風に言われているだけに、どこをどう読んだら「蛇足でしょう」という解釈になるのか、ますますわからなくなります。素直に読んでいただければ良いと思うのですが。
次のパラグラフは、一見些細な言葉遣いのように見えますが、実は大きな「ずらし」がされています。
第三に、マルクス経済学的発想云々から離れても、女性の低賃金問題は婦人少年局の主要なテーマであったわけで、均等法もその延長線上にあったはずです。
婦人少年局の、そして男女平等を論ずる人々の「主要なテーマ」は、まさにその直後の大場綾子さんの引用自体が語っているように、断じて「女性の低賃金問題」などではありません。はっきり言って、これはかなり重大なごまかしになっているようにおもいます。いうまでもなく、彼らの「主要なテーマ」は、「男女同一賃金」であり、「賃金以外の雇用条件や待遇のうえでの男女平等」であって、そういう男女差別という視角を欠いた単なる「低賃金」問題ではありません。
男女平等という観点を抜きにした単なる低賃金問題「だけ」を問題にすることができれば、例えば本書で、「総評は賃上げ一本槍」の項で引用した1962年度運動方針のこの台詞でいいことになります。
われわれが要求しているのは、たんに、年功なり、男女なりの賃金格差が縮小すればよいということではなく、年配者、男子の賃金を引き上げながら、青年なり婦人なり、臨時工なりの賃金を一層大きく引き上げて短縮する。言い換えれば、同一労働同一賃金は賃金引き上げの原則であって、たんなる配分の原則ではない
これは、しかしながら男女格差それ自体を問題にしたくない男性組合員のロジックでしかないことは明らかでしょう。問題を格差ではなく低賃金にするというのは、半世紀以上も前からある議論ですが、今読み返せばその欺瞞性もよくわかります。講座派でも何でもいいですが、これは日本的低賃金構造という議論とは切れた話であって、それこそ伝統的な社会政策学の議論にあまり引きずられない方がいいとおもいます。
少なくとも、男女均等法に繋がる、そしてその後の議論に繋がるロジックは、単なる「低賃金」問題ではなかったことを出発点にしなければ、単に本書だけでなく、過去半世紀の政策の流れがまったく違う姿になってしまうでしょう。
第四に、大羽さんがおっしゃる法としての基準の問題は、基本的に97年と06年改正でもうほぼ終わってしまって、あとはそれを実現するために、何をするかというフェーズに入っているというのが私の認識です。
いや、法的平等の問題は97年改正でほぼ終わっているというのは、私もそう書いています。ただ、雇用社会の実態はその頃を境に、むしろ男並みに無限定に働く女は男並みに処遇するよ、というフェーズに移行し、問題は「均等世代から育休世代に」移行した、というのが、本書第4章で論じているところであるので、それは単なる「あとはそれを実現するために、何をするかというフェーズ」とはとても言えないと思います。
ごちゃごちゃとして、あまり交通整理にもなっていない気がしますが、少なくとも金子さんの文を読んで頭が交通渋滞状態になってしまったのを、何とか自分なりに解きほぐそうとしてずらずらと書き下ろしてみました。
改めて考えてみると、私がここがキモよ、ここを読んでね、というつもりで書いたところを、そういう風にとっていただけていないことが、交通渋滞の原因かな、という気がしました。
それはもちろん私も叙述ぶりにも原因があるのかも知れませんが、労働法学系の方はわりと素直に私の意図するかたちで読んでいただけているようなので、私が一言も言っていない「女性の低賃金問題」が、あたかも最大の課題のように飛び出してくるのを見ると、金子さんの読みぶりはやはりあまりにも「伝統的」な社会政策学的志向のゆえんではないかという感もあります。
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