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2015年12月 5日 (土)

ミニ感想への追記

月曜日のエントリは、目次の引用にかつてのエントリの一部を貼り付けただけのほんとにミニ感想だったのですが、なぜかコメントがたくさん付いてホットエントリ化したようです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/11-b07c.html

その中で、高木亮さんのコメントに対して「通りすがり2号」さんがこう述べたのがものごとのツボをとらえているように思えました。

うーん。。。

「基礎的教養」「基礎的素養」という言葉が意味するものについて各人ばらばらなので、議論がすれ違っているように見受けられますね。

まさにそうで、医学であれ工学であれ、法学であれ、職業的意義のある学問であればこそ、それをしっかりと基礎づける基礎的教養が必要であることはいうを待ちません。

実際、ここ数日ネット上を騒がした合法的にうつに追い込む技を伝授する某ブラック社労士氏は、ロースクールを出た法務博士だそうで、だとするとこれは社労士という職業の問題なのか、それとも(残念ながら弁護士にはなれなかったけれどもその関連職業に就いた)法律関連専門職業人を養成するロースクールの教育の問題なのか、いずれにしても、職業教育における倫理性の問題を提起していることは確かなようで、やはりその根底には、基礎的教養の欠如があるようにも思われます。

http://monju-associate.com/blog/info/%E7%AC%AC%EF%BC%94%EF%BC%90%E5%9B%9E%E3%80%80%E7%A4%BE%E5%93%A1%E3%82%92%E3%81%86%E3%81%A4%E7%97%85%E3%81%AB%E7%BD%B9%E6%82%A3%E3%81%95%E3%81%9B%E3%82%8B%E6%96%B9%E6%B3%95/ (モンスター社員の解雇方法 , 会社がやれることは何でもやろう  第40回 社員をうつ病に罹患させる方法)

http://53317837.at.webry.info/201512/article_3.html (労働者をうつ病で自殺させるマニュアルの恐怖)

(上記もとのリンク先が炎上のためメンテナンス中なので、「シジフォス」ブログにある魚拓を参照のこと)

問題は、しかしながら、そういう意味での基礎的教養とは対極的な位置に存するのが、ある種の人文的「教養」をひけらかす人々の基礎的教養なのではないかという点にあります。

『現代思想』の特集で議論している人々が問題にしている教養は、カント、ヘーゲルからデリダやフーコーなどフランス現代思想などに及ぶ哲学、思想、歴史、文学などの古典的教養ですよね。

そういうおフランス現代思想風味の基礎的教養のなれの果てが、例えば内田樹氏のこういう放言になるわけで、

http://president.jp/articles/-/16716 (“教養”があればブラック企業に騙されない!)

Img_835078583c522bbe39b3fd2af6cd7a8哲学者、思想家、倫理学者、武道家などいくつもの顔を持つ現代日本屈指の教養人・内田樹氏。混迷する今の時代にこそ「教養」で武装する必要があると説くそのワケは……。

「ブラック企業」での雇用条件のひどさがしばしば問題にされます。もちろん企業側が悪いのですが、気づかずにそういう企業に就職してしまう側にも責任の一端はあります。「怪しげな会社」というのはたとえ事業内容を知らなくても雰囲気でわかるものだからです。会社のドアを開けて、社員と一言言葉を交わしただけで、「ここはやばい」と感じて一目散に逃げ出すぐらいの感受性がないと世の中は渡れません。

「電車の中で化粧をする女性」もよく見かけます。これも問題なのは、そういう行為そのものが生きる力を衰えさせていることに彼女たち自身が気づいていないことです。彼女たちは周囲の刺すような視線を浴びてもまったく動じる気配がない。普通なら、あれだけ冷たいまなざしで周囲から見つめられたら「寿命が縮む思い」がするはずです。でも、彼女たちはそれに気づかないで平然としている。

ブラック企業に就職してしまう人も、電車の中で化粧する人も、どちらも周りから発信されている「シグナルが読めない」点が共通しています。目に見えないもの、言葉で表されないものに対する感受性が著しく鈍っている。・・・・

「そんな非科学的なことを」と笑う人がいるかもしれませんが、神社仏閣・教会などの霊的なセンターがない地域、霊的な防御の弱い地域では、あきらかに人間の生きる力は弱まります。自殺率は高くなるし、カルトも広まりやすいし、家庭内でのいさかいも増えるし、子供の学力も下がる。・・・

この世界には「人知の及ばぬ境域が存在する」ということをわきまえること、それが「教養」の第1歩です。・・・

こういうたぐいの「教養」を「現代日本屈指の教養人」と褒め称えてやまない現代日本の教養観の支配下においては、「教養」という字を見たときには、それがいかなる種類の教養であるのか、まずは眉に唾を1リットルくらいつけてからものを考えてみても遅くはないようにも思われます。

それこそ学ぶべき「真の教養」だと私は思います。

その正反対だと私は思いますがね。

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コメント

褒め称えてますかえ。内田氏が商業的価値を今は持ち得ている文化人枠のお騒がせな人々の一人という事でもあるのでしょうね。東洋経済onlineではおかしな事を対談でおっしゃられていたので私もご指摘させていただき・・・・でも多いんですよ。大学教員でましてや自分の研究分野にもかかわらず間違いを気づかないままの方々。氏の時代は存じませんが、今は要素還元的に細分化され学生も視野を広くしてたら
ついていけないカリキュラムがますます「進化」していますし、ある程度の年齢の教員はまさにそれで育ってきましたからそもそも疑問を持ち得ません。そこに限り内田氏の存在意義はあるのかもしれませんね。

 このテーマは時折このブログのテーマとして出てきてそのたびにいろいろなコメントが出て、消化不良なまま話が尻切れ何とかになっているように思います。

 今回のやりとりについて言えば、大学の工学系で教えておられるらしい高木亮氏のコメントに関連する形で、ブログ主である濱口氏自身が

>「基礎的教養」「基礎的素養」という言葉が意味す
>るものについて各人ばらばら

なのが問題だと書いています。たぶんそのとおりなのでしょう。そして、高木氏が念頭に置いている「基礎的教養」とは明らかに、従来の大学の教養教育で教えられてきたような内容なのでしょう。もちろんこれを濱口氏は口を極めて批判してきたわけですが、そこで問題なのは、では濱口氏が重要だと考える「基礎的教養」「基礎的素養」とは具体的にはどういうものなのか、これが全く示されていないところなのではないかと私には思われます。

 「基礎的教養」「基礎的素養」には労働法の知識が含まれるというのであれば、それは大変結構でしょうが、しかしそれだけで「基礎的教養」「基礎的素養」と言えるのかどうか。それだけで足りるとは私には到底思えません。そして私の考えが正しければ、では労働法の知識に加えて何が、濱口氏が言うところの「基礎的教養」「基礎的素養」に当たるのか。「TOYOTAで採用している工作機械の使い方」以上のものが具体的に示されうるのかどうか。これこそが問題であり、そのような具体的な提示を濱口氏がしないからこそ、このテーマはこのブログで繰り返し出てきて、そのたびに消化不良に終わっているように私には思えます。

文化的・学術的に、それなりの期間、継続的に研究していく価値がある(その価値に変化はありうるだろうけど)ことと、
「基礎的教養」「基礎的素養」なるものをどう内容定義しつつ、それを身につけさせることの必要性についてどう考えるか、
とは分けて考えないといけないのに、内田樹氏のような方にかかれば、「人間力」よろしく、万人が身につけるべき「教養」をろくに備えない者が目立つばかりに、社会は荒れていく一方となってしまうらしい。

ちなみに「ニューアカ」といういびつな“エセ学問フィーバー”(インチキを称賛)という歴史を抜きにしては、内田樹氏の昨今の持ち上げられ方は考えられないように思うのだが、「ニューアカ現象」は特に世間の感受性が乏しかったため(教養が乏しかったから起こった)、とはならないらしい。

ついでに言えば、最近はどうか知らないが、以前は内田氏は「理屈はどうでも憲法9条は守るべきだ」というおよそ学術者とは思えぬ言動を示し、まともな論者たちからは「冷たいまなざしで」見られていたのに、周囲の「シグナルが読めない」まま、同じ主張を繰り返していたように記憶しているが・・・(それとも「憲法9条」に関しては、理屈立てないのが教養あるふるまいなのかしらん)。

大学が教養や素養を教える場であることは間違いないですが、それを「何のために」しているのかが問題とされているのだと思います。いまどき「大学教育は"何か"のためではない」と言っていていいのかどうか。「いいところに勤めて、お給料をもらえて、よりよい暮らしが送れる」という目的を、いつまでも貶めていていいのかどうかと思います。

それに素直に考えれば、優れた職業高等教育の場では「基礎的教養」「基礎的素養」は当然教えられるだろうと思ってしまいますが、「職業高等教育」を批判する人が想定するのが小手先のMicrosoft Office技といったものでしかないところにもすれ違は生じています。

職業高等教育には「基礎的教養」「基礎的素養」が組み込れているという前提のうえで、もし、社会的慣習によって就活のために学生が授業を欠席せざるを得ない場合、そこの教師は「単位あげないもんね~」とか言っていられるのかどうか。

濱口先生,どうもありがとうございます。

先生の文章も改めて全文読み,また日本学術会議の2010年回答書も読み返してみました。しかし,やはり基礎的素養に関する考慮とか,そのような素養を身につけることをそもそもどのように学生に「強制」するのか(言葉が悪いですが教育はある程度の強制を内在させていますので…)という点については,やはり十分な考慮はなされていないな,と感じざるを得ませんでした。

確かに,基礎的素養ということばを不用意に使いすぎたきらいがありますので,なるべく整理されたかたちで述べるように努めたいと思います。

ここで私が問題にしたい基礎的素養を,3つのカテゴリに分けたいと思います。それは,(1) 従来の大学学部教育における教養教育,(2) それぞれの専門分野における専門基礎科目群に代表される,専門性を支える基礎,そして (3) 学校での「学び」を支える学力観もしくは一般的に認められた「よい勉学に向けての態度」といったもの。

日本学術会議回答書については,これだけの文書を関係者が合意できるかたちで刊行し得たこと自体に敬意を表さざるを得ません。しかし,その分,内容にはあまり新しい概念などの「驚き」はなかったように思います。たとえば,(1)に関係することとして,いわゆる教養教育について,27ページで竹内洋の「教養主義の没落」なる本(中公新書,2003)の終章を引きつつ,「産業社会/市民社会に参入し,安定した職業につき,豊かな人生を送るための重要なパスポートとして」の機能を失ったと述べているようです。しかし,だからといってこの種の教養が不必要などとはどこにも書いていません。むしろ,40ページに「大学は高等教育機関であると同時に、否、それ以上に、ある種の社交空間である」とまで記載しているように,大学(と,そこにおける教養教育)の現在の姿をある部分ではかなり肯定的にとらえ,それを守ろうとしているようにさえみえます。その意味で,学部教養教育について,それを大幅に変更しろという話にはなっていないと読みました。また,(2)についても,それぞれの専門分野における基礎とは何かについて「参照基準」なるものを作れといっていますが(第一部),後述のように研究重視教育なるものが行われている前提のもとでは,たいした意味合いはないように思いました(コースワーク教育がうまくいってない前提でものを考えていますが!)。

しかし,後述のように,私は工学系大学教育のような(世間一般的には職業的意義が明確と思われているような)分野でさえ,最も重要なのは実は (3) ではないかと考えています。日本学術会議のこの回答書を読み,さらにそれに深く関わった関係者の一人である濱口先生のこうしたブログポストを眺めて考えていくと,こうしたものが指し示す一連の動きが我々のような工学系大学教員へ与える影響も,今後いずれ深刻なものになるのだな,というふうに思えるようになってきました。

ここから先は,専門家でない私は体験的な話にとどめておいた方がよいと思いますので,工学系の状況と指導者としての気持ちを記述するにとどめておきます。

改めて,日本の工学系の状況の一端について,日本工学教育協会の会誌「工学教育」2013年に掲載されていたこの論文(梅宮ほか,工学教育,61-4(2013))で読み解くことができます(ネットのフリーアクセスで論文はどなたでも読めます)。これによると,日本の大学の工学系学部・学科・大学院専攻群では他国ではあまり類例がなくなったレベルの研究重視教育が行われています。これについて,企業への人材供給の観点からは問題含み,とは申しましたが,問題「含み」なのであり,全体としてはおおむね肯定的といってよいと思います。

この「工学教育」所載論文の問題は,この調査の対象になっているのが「博士課程までの大学院教育を提供し,伝統的に」「研究重視・研究室中心の教育を行ってきた15の国立大学と4つの私立大学」であることです。私はたぶんこの中には到底入らないような工学系私大の教員(よくある「入るべき大学」本などでは「最低でもこの大学」というボーダーライン上,という感じのところ)ですが(いちおう博士後期課程ありますが…),研究重視教育が無効とか思ったことはこれまで一度もありません。問題は,このような状況がどのくらい一般的にみられるかということですが,ある程度知名度のある工学系大学であればおおむねどこでも同様の印象を持っている教員が多いのではと思います。現に,私は電気系学科にいて電力方面の教育研究を行っているので,私が受け持つ毎年10名ほどの学部卒論生たちには電気学会全国大会での発表を勧めています。そして,実際に何名か(年度によりますが全体の3割程度はコンスタントにでている)は卒論生として同学会で講演を行い,ときおり論文発表賞をもらってくることもあります。発表賞は内容に対する賞ではないものの,内容のない発表ではいただけないとも思いますので,研究内容についても一定の評価をいただいた結果ではないかと考える次第です。こうしたことの教育効果は絶大で,これがない状態での大学教育など考えられないと思うほどです。ちなみに,そんなに人気のある研究室ではないので,卒論生のなかで特に成績がいい学生たちがやってくるといった状況がない中での実績です。

そして,おそらくこうした研究重視教育は,修士課程までなら就職先企業からもおおむね好意的に見ていただけているのでは,と思います。

興味深いのは,修士まではそうですがこれが博士になるといっきに話が逆転することで,研究重視教育の問題点がどのように表面化するか,という問題についてよい視点を提供してくれるように思います。実際,この研究重視教育は,専門基礎分野(たとえば電気工学における回路理論や電気磁気学とか)の素養(前述のカテゴリでいうなら(2)ですが)を幅広く育成することには必ずしも寄与しない現実があります。その一方,そうした素養を学ぶことを3年生までにしっかり学ばせることについて,我々は成功してきたとは必ずしも言えない。卒論や修士研究への取組において,こうした素養の不十分さをある部分については補う経験をし,さらに一般的には卒論等で初めて学ぶことがらに取り組むことを通じ,それ以外の不足を補おうという意欲を涵養しているということになるのでしょう。博士までいってしまうと,この不足の感覚が博士の研究の深化に伴い減失するといったことが,博士使えねえという批判の背後にあるのかも,と思います。

そして,大学と職業との接続,という観点では,とりあえず工学系では非常に高い就職率を維持できているものの,こうした大学における研究中心教育と職業との関連については疑問もぬぐえないところがあるわけです。研究テーマは基本的に教員の専門性に強く依存せざるを得ません。そのようなテーマがどのくらい役に立つかは……工学系なので,卒業後10年たっても卒論時代と同じことやってる!というようなOBもいるものの,はじめから全く関係ないところに就職を決めてくる学生もいます。その意味で,「卒論テーマの職業的意義」に関してはかなりの濃淡があり,場合によっては問題含みのケースもあるように思います。

そして,卒論はあまりにハードルが高く,それが選択科目であったならかなり高い確率で敬遠されるであろうと思われます。3年次までの教育があまり芳しい成果を挙げられずにいる一方,卒論でそれが逆転するかという感じのところまで持って行くわけですから,卒論着手前の学生たちは一様に1年先輩の卒論生をみて「あんなこと自分たちにはできない」と思う。それでも取り組ませると,なんとかそこまでゆくことができる(できない学生も当然おります…そのばあいは芳しくない成績をつけることになりますが,一般的に卒論は「参加賞」可という感じで採点するので,やってみたけれど十分できなかったということならそれで不可にはしないのが一般的です)。私の勤務する大学でも,学科によっては卒論が必修でないところがあり,実際そういうルールで指導しなければならないと脱落する学生が高い確率で出現します(必修だと,卒論が重荷になって精神的に押しつぶされるようなかたちでの脱落がわずかながらみられるという問題もあるのですが…)。

つまり,大学と職業の接続,という部分が,じつはそれほど単純なことになっていないわけです。大学学部でのコースワークベースの教育と卒論研究との接続,そして卒論研究と職業との接続のいずれにも,おそらく問題がある。まあ,そこは工学部なので,少なくとも後者の接続は「半分」程度しか問題ではない状況かとは思いますが。そして,前者にはかなり強い強制力の存在があるために,学生たちもなんとかのぼりつめることができている。

研究室の秩序を保つことを通じ,このようにくじけやすい学生たちの取り組みを後押しする目的もあり,場合によっては「卒論は就活に優先する」というような研究室独自ルールを設定することもある。私自身,週に1回の「打合せ」は,最終選考などでない限り就職活動が理由でも欠席を認めない,といいわたしています。実際にはけっこうゆるく運用しているルールであるというのは研究室に滞在して先輩との交流をしていればわかりますし,指導教員と重要な相談もできないような学生である(あるいはそういう関係しか学生・教員間にない状態である)うちはおしりを私がどう押してやろうとうまくいかない就職活動はどうせどうにもならない,と尻をまくっているところもあるわけですが…

内田樹先生のような方に対する反感や批判(やその正当性)はここでは措いて,たとえばいく人かの大学教員のブログ等で読める「卒論優先,さもなくば留年」的な研究室ルールのようなものを表面的にみて批判されるとなれば,少なくともこうしたルールの背景にあるいろいろな微妙さへの配慮はないのだなと考えざるを得ないのです。

私自身,学生にこうまでして卒論をなぜやらせるか,という問いに明確な答えはだせないと思っています。それでもやらせる理由は,ひとつには教学的にそう決まっているから,もうひとつは電気工学という分野の職業的意義の高さへの甘え。しかし,最終的にこれでもいいと手放しで思わせてくれるのが,基礎的素養概念の(3),つまり学力というのはそういうものだという信念のようなものなのです。

この点がもっとも日本学術会議の回答書に対して違和感があったところです。先に述べた「産業社会/市民社会に参入し,安定した職業につき,豊かな人生を送るための重要なパスポートとして」の機能を失ったという記述(27ページ)は,その記述自体に疑義がありますし,仮にそれがほんとうでも,そうした実利的メリットから若干切り離されたところで,学的探求の基本的態度や方法論などという観点からみて教養概念は,そのようなものを体得するための努力は何を惜しんでもせよ,という価値観とセットでいまだに有効だと思うのです。

残念ながら,その価値観は実利的な価値観(役に立つことを選択的に学べ,というようなもの)とはどうしても相容れません。もし,学生たちが卒論について「何の役に立つのか説明せよ。それが説明できない卒論などやらん」などと主張しだしたら? もう卒論など成り立ちようがなくなるでしょう。そのような状況は,むしろもともと実学的である工学系でより現れやすいかも知れません。

いまのところ,我々は4年間と長期の大学学部教育で,研究重視教育に代わりうるシステムを見いだし得ていません。逆にいえば,問題は多いとはいうものの,そのシステムはそれなりに成功してもいる。おそらく,教育・研究の補助を行うスタッフがまったく充実しておらず,コースワーク教育に関しては「あきらめ」,研究に関してはその一翼を学部学生や修士課程学生などに担わせざるを得ないという状況がこうした「成功」を帰結しているという現実もみなければならないと思いますが,ともかく日本の現状を前提にするなら現状の工学系大学の状況を横目で見て「職業訓練大学」が次の道なのか疑問で,それより緊急に考慮すべきは1年程度の短い年限で修了できるコースワーク中心の修士課程を工学系の分野含め幅広く自由に開講できるようにすることなのだろうと思っていますが…

ともあれ,もう少し思索を深めてみたいと思っています。長文失礼いたしました。

高木さんが真摯に教育に取り組まれていることが伝わってきました。以前の私のコメントの表現はいささか意地が悪すぎたかもしれません。

ただ、高木さんの上記のコメントを読んで、現場の工学教員が直面している問題は現場レベルの努力では到底解決できない問題であるとも確信しました。教員は悪くないし、学生も悪くない。企業が悪いわけでもない。社会経済システム上の構造的問題なのです。

「博士使えねえ」というのは必ずしも博士号取得者の能力不足の問題ではないと思います。高木さんが言われるような専門能力の基礎(基礎的素養2)を十分備えたとしても企業は積極的に博士を採ろうとはしないでしょう。それは単純に需要がないからです。博士にふさわしい職務や待遇を用意できるポストが企業にそんなにはない。修士と同じ待遇で納得するか?本人が納得しても社会が納得するか?あの会社は博士号取得者を安くこきつかっているという社会的批判が起きるかもしれない。企業側にそんなに大量の博士を採用するインセンティブがない。社会全体で見た場合博士が過剰供給に陥っている。過剰な教育投資となっているのです。(もちろん分野ごとに事情は大きく異なるでしょうが)

まるで高木さんたち現場の教員や院生の努力を無駄と切り捨てるような物言いになってしまいましたが、これが現実だと思います。高木さんが提示された『工学教育』所載の論文も拝見しましたが、工学教員にアンケートをとっているだけでは不十分でしょう。産業界の意見と組み合わせてその認識の食い違いを分析する必要がある。大学と産業界との調整が必要ですが、現場レベルだけではなく、マクロなレベルで行う必要がある。

技術者教育で問題となる大きなポイントは技術者の階層性でしょう。エリートとノンエリートを峻別しない日本型雇用システムにおいては忘れ去られましたが、日本ではかつて技師/技手という区分がありました。欧米ではエンジニア/テクニシャンといった技術者の階層区分が今でもある。日本型雇用が崩壊しつつある現状において、技術者に限らずこのような労働者の階層区分の復活は避けられないでしょう。職業教育大学はそのような趨勢に高等教育がいかに対応していくかに関する一つの解なのだと思います。

有体にいえば、誰もがエリートにはなれない、ほとんどの労働者はノンエリートとして一生を終えるという現実を受け入れさせるためのものです。が、同時にそのような現実に対峙して自らの権利を主張できる、自律性のある専門職業人を養成するものでなくてはならない。そのための基礎的素養を文理問わず職業教育大学では身につけるようにしなければならない。

そのような職業教育大学において、工学教育で従来からの研究室中心の研究重視教育がどこまで通用するのかは私には見当もつきません。おそらくコースワークとの組み合わせの上で最適解を探るしかないのでしょう。

学術会議回答書の述べるごとく、教養教育が「産業社会/市民社会に参入し,安定した職業につき,豊かな人生を送るための重要なパスポートとして」の機能を失ったというのは、上述のような雇用システムの変動との連関で理解すべきものでしょう。特に肥大化著しい文系ではそのことは顕著です。教養教育が、高木さんの言われる基礎的素養1が現在でも重要なのは論を俟ちません。しかしそれだけでは不足なのです。戦前のように大学教育が一部のエリートの独占物であった時代には教養教育はエリートの証であると同時に、実際エリートに役立つ基礎的素養でした。竹内洋が没落したとする教養主義はまずこの意味での教養です。(といっても、竹内はフランスとの対比で日本における教養の屈折した側面を指摘しているのですが)。大学が大衆化しても、日本型雇用全盛の時代では、特に文系では大学で学んだことは問われず、会社内での教育に適応できる基礎的素養が問われた。これはむしろ高木さんの言う基礎的素養3の学びの態度と呼ぶべきものでしょう。濱口さんの表現では官能性になるのでしょうか。

高等教育が大衆化し、日本型雇用システムが崩壊過程にある現状において、基礎的素養1や3だけでは大学と労働市場との接続が成立しなくなった。特に文系において職業的専門性(基礎的素養2)を基盤としてキャリアマネジメントを図ることが雇用の不安定化への対策として望まれるようになった。ですから、工学などの理系では従来のシステムから大幅に変化する必要性は薄いとも思います。

しかし、職業的専門性(基礎的素養2)を支えるために教養教育(基礎的素養1)と学ぶ力(基礎的素養3)が重要なのはいうまでもありません。そのためにも現状ではおざなりになっている教養教育やリメディアル教育の充実が必要です。

ただ基礎的素養3の学ぶ力はそもそも初等中等教育が本来取り組むべき課題です。この点、中等教育の動揺が近年問題となっています。普通科の偏差値の高くない高校の生徒は学ぶ意味を見出せなくなっているのでしょう。日本型雇用が崩壊しつつある現状では、中堅以下の大学にいっても不安定な雇用にしかありつけないという現実を良くわかっているからです。むしろここで職業教育大学が専門性を媒介として職業生活の見通しを与えることができるようになれば、彼らに学ぶ意味を提示することができる。自ずと学ぶ力、学ぶ態度が身につくのではないかと期待できます。

職業教育大学ができても、「大学は高等教育機関であると同時に、否、それ以上に、ある種の社交空間である」という基本は変わらないと私も思います。ただ、その社交の中身が変わってくるのではないでしょうか。研究大学においてはむしろかつてのエリート主義的な教養を媒介とした社交が復活するでしょう。対して職業教育大学では職業的専門性を媒介とした連帯が形成されるのではないでしょうか。

結果的として、エリートとノンエリートが自らの権利利益を主張しあう、健全な政治的言論空間が生まれることを願ってやみません。そのような政治的言論空間において営まれる公共的議論を支えるものとして、教養教育が重要な役割を持ち続けると私は考えます。

小生も以前のコメントに記しました(たしか医師の本?)が、初等教育をはじめとする教育制度そのものが壊れてしまっていることを理解しあい、構造的な教育制度の時代にあった構造改革が経済と同じく必要と認識しております。
問題は金融問題同様に高度経済成長モデルに適した二分法外生解決ではなく、内生=システムそのものにあるのだと思います。すでに前者での教育で育った人々が教育を供給しているのですから根本から考えな直す事柄であります。
高木様がどのような大学で研究・講義をすすめていらっしゃるかは存じませんが、小生が関わる医学部学生やトップの偏差値を有する国立大学の学生たちも講義での問答やレポートを見る限り押しなべて基礎的な教養とそこを担保するであろう素養に関してはゾッとするくらいのレベルです。
今どきの学生は知的水準がどうのではなく、彼ら彼女らの大学入学までの教育プロセスが人間形成をはじめ様々な齟齬をきたしているだと思うしかない憂うべき現状です。ブログの性質の関係で様々なご意見を拝見させていただき勉強になりましたが、どんどんとミクロに入ってマクロ解決の方法論が散見できなかったことは同時に残念でもあります。

私は理系の教育の実情を知らず、文系の教育が頭にあるので、高木さんの問題意識とどこかすれ違っているように感じました。

どうも、理系の教育が抱える問題と、文系の教育が抱える問題は真逆なのではないかと思い至りました。

工学のような理系では研究室における濃密な人間関係を基礎として教育がなされている。それが徒弟制度と批判される要因でもあるが、曲がりなりにも一定の教育効果を持ち続けてきた。ある程度の強制性の下で学生を一から鍛えあげるのに大きな役割を果たしてきた。これを軽々しく否定して機能するのだかしないのだか分からないコースワークに取り替えるのはいかがなものか。これが高木さんの問題意識なのだと思います。

高木さんの危惧は正しく、現状で機能しているものを全否定して新しいものに取り替えるたぐいの改革は非常に危険であり、失敗の可能性が高い。

ただ、既存の研究重視教育が研究者やそれに準ずるエリート技術者を養成するのには適していても、大部分のノンエリート技術者の養成に最適なものとは言えない。これが改革論者の問題意識でしょう。

ノンエリート技術者の養成はいかなる教育システムで行うべきか。アメリカ流のコースワーク教育がオルタナティブとして示されているわけですが、ヨーロッパの技術者教育にも目配りして、幅広い観点から論じるべきなのでしょう。

一言付け加えさせていただくと、技術者教育の効果を計るのに、就職率だけを見るのは誤りだと考えます。教育を受けた人間の職業人生、キャリアパス全体にいかなる効果を与えているのか、それとの連関の上で職業教育を評価すべきでしょう。そのためには教育社会学者や労働研究者との協力が必要です。そのような協力の枠組みを作るために政府や産業界の支援が望まれます。これは職業教育全般にいえることです。

一方、文系ではむしろ人間関係の希薄さが問題になっているのかもしれません。それでも伝統的な上位大学では、学生同士の勉強会や読書会、サークル活動を通じた、まさに社交によって一定の教育達成が確保されてきた。しかし大学の大衆化によって誕生した下位大学ではこのような学生の自主的活動が貧しい現状がある。上位大学も危なくなってきている。このような状況に対し、職業教育が人間関係を通じた「学び」のきっかけとなることが期待されていると思われます。

ただ、文学部はやや特異かもしれない。文学部はむしろ理系的な、研究室中心の人間関係のもとで研究重視教育がなされる。そして研究者になるかぎり、高い職業レリバンスをもっている。しかし工学などの理系と異なり、研究者以外の職業レリバンスが極端に乏しい。このあたりの特殊性が、一方では文学部の熱烈な擁護につながり、他方で激しいバッシングをもたらすのでしょう。

文理いずれにしても、高木さんのおっしゃるように「実利的メリットから若干切り離されたところで,学的探求の基本的態度や方法論などという観点からみて教養概念は,そのようなものを体得するための努力は何を惜しんでもせよ,という価値観とセットでいまだに有効」なのは確かでしょう。これを実質化するために大学のシステムの改善や人間関係の立て直しが急務なのだと思います。

それでもなぜ職業教育大学なのかという疑問が生じるかもしれない。露骨に言ってしまえば、お金の問題が大きいでしょう。雇用関係の予算や産業界の財政支援を確保するために、職業教育大学という新たな枠組みが構想されたのだと思います。もうずっと昔から産学連携は叫ばれてきたが、十分な効果を挙げていないという不満が政府にはあるのでしょう。産業界と協力しやすい制度的枠組を作ることが求められている。しかしそのせいで教育の実が失われては元も子もない。教養教育も重要だし、研究環境の確保も課題です。そのためには現場の人間がもっと声をあげることが必要でしょう。

通りすがり2号様の最終段落、そして最後の一節こそ決定的に足りのないのです。が、もはや「モノ言えば唇寒し」で、大学も非正規化がズンズンすすんでおりますことは周知のことです。
これまた本ブログおなじみのブラック云々で同義反復。
教育(大学のみならず)も国民にすべからく平準化が達成された帰結と考えます。これでよいのではないのですから、デモクラシーそのものを考える時期なのかもしれません。

追記

今や大学進学は漠然とした偏差値入学とそれにつながる偏差値就職=今や絞られた勝ち組正規入社を目指して高校進学指導もご家庭も本人の三位一体に、高偏差値獲得のための教育産業との連携が必須です。受け入れ大学も聞くところによると専門家養成大学以外では大学側の就職センターこそ教育内容以上の経営的至上命題です。ちょうど東洋経済onlineも特集しておりますが、この現実こそ学術論議以前に教育関係のステークホルダー間、とくに最終当事者となる大学はまったなしに議論すべきものであると考えます。そこを外した二分法では何も変わりはしませんし、ますます市場原理を持ち出すわかりやすい魔物たちの餌食となるのではないかと思われます。まだ余裕があるのですよ、期間更新はあるにせよ正規雇用教員でミクロの閉じこもる遺跡のような人々は。

昔の先輩の言葉を思い出しました。いわく、

「工学部出の人間といっても全く使えない。三角定規の使い方もろくに知らないし、線を一本満足に引くことすらできやしない。」

作図の技能というのは、エンジニアの基礎的素養でしょうね。コンピュータ全盛の現在でも、何かと手書きの絵を描く機会は多いです。工学分野ではコミュニケーションは絵でおこなうのが基本ですから。

余談ですが、かのポアンカレは芸術の成績が悲惨で、エコール・ポリテクニーク入学が危ぶまれたとか。

リベラル・アーツというのは、「自由人の技能」といった意味合いですが、伝統的には医師・弁護士といった、(他人から指図されるのではなく)自らの判断と責任で仕事をする人が必要とする技能といった意味合いでしょう。

つまり、欧米でいうところの「教養」、「基礎的素養」というのは、主として仕事上のコミュニケーションに必要な技能を指すのであって、知識ではない、ということですね。文学・哲学といったものも、あくまでコミュニケーションの技能、ヒューマン・スキル(対人能力)を向上させるための題材であって、極端にいえば内容は何でもよいわけです。このあたりが、日本の大学が考えるところの「教養」とは随分違っていると感じますね。

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