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2015年11月30日 (月)

『現代思想』11月号「大学の終焉」のミニ感想

9784791713080_2いろいろ読むべきものが重なって、遅ればせながら『現代思想』11月号の特集「大学の終焉」を読みましたが、

http://www.seidosha.co.jp/index.php?cmd=read&page=9784791713080&refer=FrontPage

【討議】
大学への支配と抵抗 / 鵜飼 哲+島薗 進

【エッセイ】
「大学改革」と日本の将来 / 池内 了
グローバル教育プログラムの二つの間違い / 平川克美
見知らぬ人との人文学 「自由と平和のための京大有志の会」の運動から / 藤原辰史

【インタビュー】
「人文社会系は役に立たない」は本当か? 「通知」批判から考える / 吉見俊哉

【大学改革の争点】
それでも守るべきは、大学の自治である  / 石原 俊
制度的保障論批判 「大学」の国法上の身分を中心に / 石川健治
簿記とシェイクスピア 「人文社会科学系批判」言説によせて / 隠岐さや香

【改革下の現場】
国立大学改革と人文系の(明るくない)未来 / 室井 尚
屍を乗り越えて進む非常勤 非正規の一部隊としての / 入江公康

【人文学の実践】
人文系BF私大を再活性化するためのいくつかのアイディア / 上野俊哉
脱・国体と亡命 / 酒井直樹

【人文学のコア】
人文学の後退戦 文科省通知のショック効果に抗って / 西山雄二
文献学への新たな回帰? / 宮﨑裕助
文献学についての95のテーゼ / W・ハーマッハー 大塚良貴 訳

【大学と国家の歴史】
大学とはなにか 近代ヨーロッパ大学史からの応答? / 橋本伸也

正直言って、4年以上前に『月刊社会民主』に書いた文章の、この最後の言葉に付け加えるべき感想は、特に感じられませんでした。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/shaminshinsotsu.html

・・・やや皮肉な言い方をすれば、こういう教育と労働市場の在り方にもっとも消極的であるのは、「学問は実業に奉仕するものではない」と称して職業的意義の乏しい教育を行うことによって、暗黙裏に日本的企業の「素材」優先のメンバーシップ型雇用に役立っていた大学教授たちであろう。彼らの犠牲者が職業的意義の乏しい教育を受けさせられたまま労働市場に放り出される若者たちであることは、なお彼らの認識の範囲内には入ってきていないようである。





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コメント

はまちゃん先生は4年以上前からそのように仰っていたのでしょうが、輩出、受け入れ双方が偏差値採用でdoだったし、今はお互いの量的肥大化と質的選別化をせざるを得ない表象ですよね。
なんか生産性がないというか、ここに社会として必要不可欠な「人」はいますかね。

自分たちの存在価値が社会の中で揺らいでるので
文系の大学職員の反応がヒステリックなのも
当然といえば当然かと

ただアカデミアを標榜するものが
相手に無教養だとかレッテル貼ったり
職業教育受けても職業自体無くなったらどうする?
と決まりきった事しか言えないのはどうなのかと
人文系で身につく批判的思考が大事と言いながら
自分たちはものすごく保守的で批判的思考なんてなく
決まり切った事しか言えないのはギャグですかね?

学生にも課題図書として読ませたりしている本の作者氏のコメントとしては残念です。このようなものいいに,濱口先生の古典的な教養観とか学力観への攻撃性を感じるのは誤っていますか? 先生ご自身がその古典的教養の豊かさゆえに現在のポジションにいらっしゃるのが明らかなのに。

例のL型大学の冨山氏によるスライドで,工学部で教えることの例として「機械工学」ではなく「TOYOTAで採用している工作機械の使い方」を,と例示されていた点,工学系の大学教員からみるともう到底あり得ない話です。そんな人が作った機械だれが信用するかと。この冨山氏のような人が経営していれば,まあものづくり企業は即,アウトでしょうね…。「現代思想」当該号でも誰もこのことに触れていないのは驚きますが。しかし,濱口先生からこの点への批判を読んだこともないように思います。あえていうと「HR Watcher」2014年11月記事のおわりのほうでこのスライドをとりあげ「冨山氏の職業教育観にはかなりの問題がある」とあるくらいでしょうか。

こうした状況は,わたしからは濱口先生含む多くの方のこの問題への見方が基礎的教養というものへの相当な軽視を含んでいるようにみえます。

日本の大学の工学系学部・学科・大学院専攻群では他国ではあまり類例がなくなったレベルの研究重視教育が行われていて,そのことが(特に企業への人材輩出という側面からみて)問題含みであることは教育現場でも認識されており,この点を問題視した平成17年の中教審答申「新時代の大学院教育」の示す方向性にもおおむね好意的とのことです(梅宮ほか,工学教育,61-4(2013))。この論文によれば中教審答申は「コースワークを充実し,関連する分野の基礎的素養の涵養を図ることが必要」といっていますが,そのような改善が行われる前の卒論指導では,実際機械工学の素養が十分ない学生に工作機械の使い方を教えるというような教育が現に行われていたといえなくもない。つまり,少なくとも工学部に関してはあのスライドの逆をやれという話になっているわけです。可能なら両方やりたいという認識なのですが,教員の研究実績というプレッシャーもあり,学生からみても卒論というものの面白さがあったりで,結果いまでもやはり基礎側が弱めという側面は残っていますが…

工学系は実学の最たるもので,その意味で濱口先生や本田由紀先生の「職業的意義なし」批判からは最も遠いところにあるのだとは思いますが,その分野でも基礎的素養はあり,その基礎的素養を学ぼうとする態度とか古典的な学力観の有効性はおそらく分野横断的であると感じます。本質を極めようとする力とか意欲とかそういうこと。

結局,大学のようなもので教育活動をしようとするとき,こうした古典的学力観にかわる学力観とか教養観とかいうもので,現在の大学ほどのマスな教育を支えうる理論的支柱はないのでは,と思います。そこを補強してくださらないと,結局単なる悪しき反知性主義に落ちてしまうように思います。

やはり就職環境の大転換に対応しきれなかった大学教育者の罪は重いのではないでしょうか。指数関数的なテクノロジー発展により極々一部の高等教育を授けそれを受けられる学生と、あとはこれまたエリート化したたとえば医学部生以外は高度成長期にあった学歴リターンはなくなったわけで、それを知らなかったではすまされないでしょう。ましては奨学金と称する学生ローンまで組んで入学する学生に卒業後の誰もが判るような就職格差は80年代以降先述した技術進歩によりお見通しだったわけですから、ローン返済すらままならずブラックリストにのせられようものならば繰り返しますが罪は重い。労働界同様に自律性を失い、前者は組織すべき仲間を、教育界はそれを見越して指導すべき学生諸君を事実上学費ペイヤーとしてお客様扱いしていたといわれても仕方ないのではと思います。ただし、LだのGだのおっしゃる方にはまったく賛同できません。卒業後の労働市場がなにも変わっていないのですからLもGも意味ないではありませんか。

高木亮さま


ここに引用した1パラグラフだけではなく、リンク先の「新卒者就職難問題の構造的背景と今後の課題」をお読みいただいてその言葉の文脈を理解いただければ、「古典的な教養観とか学力観への攻撃性」という誤解も解消するものと信じております。

専門職業人に必要な基礎的教養を教えているんだ、と自信を持って言えるのであれば、何も言うことはないのです。
残念ながら、職業を目の敵にする人々こそが、言葉の正確な意味においてもっとも質の低い反知性主義に陥っているようにすら見えます。就活学生に呪いをかける内田樹氏のように。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b43f.html">http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b43f.html


「リベラルアーツが不必要」なんて誰も言ってないですし、イノベーションの源泉の一端を担っていることはあるだろうと思います。

現状日本のリベラルアーツ系の分野の問題点はメンバー全員を食わせていけるほど付加価値を想像できない点にあります。
その点から見れば裾野を削って、せめて大学院で学んだもの全てが大学の専任講師として生きていけるまで成員を減らすというのも案としては重要かと思う次第です。

はまちゃん先生から高木様への後段のコメントこそ大学の抱える闇なのです。偏差値での選別と格差はあっても終身雇用を正味期限をすぎても維持してきた日本の。
とはいっても、事実として今日まで大健闘をしてきたことも認めながら、就職氷河期世代の労働意欲にも大学教育の再入学制度等(職業訓練ではなく)で雇用も福祉も再活性化させる政治決断の時期にさしかかっているのではないでしょうか。そうした巨視的姿勢でこの課題に積極的なご意見が出されたらLとGも広がりをもつものと思われます。

はまちゃん先生、ご活躍で風当たりもお強いでしょうが、今回のご返事でのU氏やI氏(アゴラのね)等への使用方法はお考えになったほうが先生の品位を誤解というより利用しがちな人々へのかえって福音かと思います。ヘイトスピーカーがウジャウジャいますから。

日本の大学は学術に傾きすぎて職業や学生の進路を無視
し過ぎだろってのがハマちゃんの主張かと
基礎の軽視というよりアカデミアに閉じこもって
自分の研究はしたいし国から補助金は欲しい
でも学生の進路はシラネって人に対する批判ですね。
要は内田氏の様な進歩的を気取りながら内実、凄く保守的な人に
対する批判であるわけです。

確かに当然ではありますが文系の先生でも学生の進路に関して
熱心な人も多いので文系では主語が大きすぎる点は陳謝致します。


日本だけでも無いと思いますが
研究のが実業より高尚であるという価値観が大学という組織では
根強くゆえに研究者のプライドが実業の方を向く事を許さ無い
というのが大きな問題ですね。

もっとも大学の成り立ちからすれば実業こそが
大学の本筋な気もしますが

何だかアレコレ書いてまとまりがなくなってしまいましたが
ご容赦を

連投すいません。

自分が内田氏のような人に憤りを感じるのは
大学は学問の場であり職業教育はけしからんっていう態度ですね。
多くの学生は学問をしたい訳ではなく
大卒の肩書による新卒カードでの就職が目的であり
また親御さんも多くは大卒の肩書で安定した
職に付いて欲しいと思い学費を払っているのに
それを無視しすぎだろうと

しかもそれが進歩的を気取る人程そんな反応しかしない点もです。
進歩的なら新しい試みにレッテルを貼るのではなく
受け入れて咀嚼してから判断されてはどうでしょうか?
学術の場であり他は受け入れんって物凄く保守的だし
全然批判的な思考なんて出来てませんよね?


また前述しましたが大学の成り立ちからしても
当初は職業人の養成というのが第一であり
大学は学問の場であり職業教育はけしからんって見当はずれ
な批判でもある訳ですよ。

高木亮さんの主張は「基礎的素養も大事な職業能力」
hamachanさんの主張は「基礎的素養は就職活動で評価されないので職業能力とは言えない」

つまり、高木亮さんの主張は、基礎的素養を評価しない企業のあり方に対する疑問ともとれます。「市場主義は万能か?」という話の延長上の話です。

ちなみに、hamachanさんは以下のようにおっしゃってますが…

>専門職業人に必要な基礎的教養を教えているんだ、と自信を持って言えるのであれば、何も言うことはないのです。

経済学部や法学部の教員も「専門職業人に必要な基礎的教養を教えているんだ」、と自信を持って回答されることでしょう。

うーん。。。
「基礎的教養」「基礎的素養」という言葉が意味するものについて各人ばらばらなので、議論がすれ違っているように見受けられますね。

『現代思想』の特集で議論している人々が問題にしている教養は、カント、ヘーゲルからデリダやフーコーなどフランス現代思想などに及ぶ哲学、思想、歴史、文学などの古典的教養ですよね。

高木さんが問題にされる「日本の大学の工学系学部・学科・大学院専攻群では他国ではあまり類例がなくなったレベルの研究重視教育が行われてい」ることによって軽視されているという基礎的素養はこれらの古典的教養とは無関係ではないけれど別のものでしょう。工学を学んでいくための基礎的な構えやものの考え方、マナーといったものだと思います。これは工学に限らず、理系全般で起こっていることではないでしょうか。STAP細胞問題はこのことを露にした。彼女は研究倫理以前に基礎的な研究能力自体が欠如していたのでしょう。何があるべき研究か自体の観念がないために、自分が不正を行ったという自覚すらなかったのではないかと思います。

このような問題の背景には、推薦入試やAO入試、大学院重点化などによる大学、大学院の肥大化があるでしょう。大量の、しかも質の確保できない学生に対し、従来の「師の背中を見て学ぶ」というような教育は通じない。教育環境の悪化を前に、教師は自分の研究に没頭し、学生、院生を自分の研究の手駒としか扱えなくなった。このような経緯があるのではないかと推察します。いや、私は文系の人間なので、勝手な憶測にすぎませんが。

理系の基礎的素養問題については教育環境の改善、コースワークの確立によって対処できるのではとは思います。(財源をどうするのか、適正規模はどれほどかは難しい問題ですが)

問題は古典的教養の立て直しです。人文社会系の研究者は教養の重要さを訴えるが、そもそも現状の教養教育自体が著しく劣化している。教養部の解体、大学の大衆化が背景にあるでしょう。700以上ある大学のうち、専門教育はおろか、教養教育すらまともに行えていない大学が大半ではないでしょうか。多くの大学が、学生に大卒の身分を与えるかわりに研究者に職を与えるだけの存在となっている。教育機関として機能していない。それでも日本型雇用全盛で、まだ偏差値による人材のスクリーニング機能を果たしているうちは良かったが、雇用システムの崩壊と大学の大衆化によってその機能すら果たせなくなった。

この現状に対し、大学を研究大学と職業教育大学に分け、どちらも十分な教養教育を行える体制を確保したうえで、おのおの研究教育、職業教育を担うという方向性にいくべきではないかと思います。今般の大学改革はこのような方向性の元で教養教育を立て直すチャンスだと私は考えます。

高木さんのおっしゃるように「大学のようなもので教育活動をしようとするとき,こうした古典的学力観にかわる学力観とか教養観とかいうもので,現在の大学ほどのマスな教育を支えうる理論的支柱はないのでは」と私も思います。しかし、その古典的教養自体が現状の多くの大学では崩壊している。むしろその崩壊状況のもとで高給を食んで恥とも思わない大学教員が多くいる。内田氏などはその典型だったでしょう。

研究者は自らの研究環境を守るためにも、今般の大学改革において、あるべき教養教育、専門教育の体制について積極的に発信すべきでしょう。従来の日本型雇用システムを前提とした大学と労働市場との接続がもはや成り立たないということを自覚したうえで。

『現代思想』の特集は果たしてそのような議論ができているのだろうか。私は未読ですが、濱口さんの感想からすると、どうもそうではないように思われますね。

教育機関と社会(主に企業)そして行政(国ではなく教育機関所在自治体)の三方による統括的な育成を制度化(押し付けではなく、あくまで学生中心のメニュー選択法)できたらと思います。
学生を生活者(消費者)のみにしない教育システムは上記三方の協働なしでは生まれないテクノロジー社会となっている現実、ますます進む未来想像を働かせると必然として行き着く先であると思うのですが。いまこそ戦後はじめての巨視的議論が望まれます。

すべての問題の根源は、
「大学」が多すぎることでしょうな。

だから、

>多くの学生は学問をしたい訳ではなく
>大卒の肩書による新卒カードでの就職が目的であ
>りまた親御さんも多くは大卒の肩書で安定した
>職に付いて欲しいと思い学費を払っているのに
>それを無視しすぎだろうと

ということになるんだろう。

でも、大学が来てくれと頼んだわけじゃない。
学問に興味ない人がなんで大学進学を希望するのかが問題でしょう。
(やたら高学歴を採用したがる企業側の問題?)

大学には大学の社会的役割があるので、

「学術の場であり他は受け入れんって物凄く保守的だし全然批判的な思考なんて出来てませんよね?」

といってしまうのはどうかな。
大学以外のどこで学術ができるのか?
「大学は職業教育をすべきである」という考えに対する批判的思考は?

多様性を認めない意見を否定するのは多様性の否定だ的な見解に見える。

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