低賃金にすればするほどサービスが良くなるという思想(再掲)
世間の状況をつらつら見るに、4年以上前に本ブログに書いたこの記事が批判した奇妙な思想が今なお猛威をふるっており、ますます盛んであることに驚きと情けなさを感じざるを得ません。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-ee80.html (低賃金にすればするほどサービスが良くなるという思想)
まあ、城繁幸氏の場合は、実のところは官民問わず賃金処遇制度の問題であると意識しながら、あえて釣りとして(はやりの時流に乗って)公務員叩きをしてみせた気配が強いのですが、
http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/cfe86d13b5103d8cf8e1b72a3e754a0b(公務員の賃金をいくら引き下げても構わない理由)
http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/e3ad8b0a11acf9c195d542929f8b86d0(訂正:公務員は別に流動化しなくてもいいです)
こういう釣り記事を真っ正面から受け止めて、本気に信じてしまう(あるいはむしろその先に突き進んでしまう)人々がやはりいるわけです。
http://d.hatena.ne.jp/AMOKN/20110520(【コラム】公務員の賃金をいくら引き下げても構わない理由 解説編)
>いわゆる土方と呼ばれる仕事を見れば分かりますが、給料安くても不正もせずに過労死ギリギリまで働いていたりします。
以前、考察したときは下記の2点で縛られているからと考えていましたが、これを経営者側の立場で考えるとなるほどと思えることがあります。
おまえの代わりはいくらでもいるんだよ。
好きでやっているんだろう。
>いくつかの病院で働いていた時、凄く不思議だったのは一番プロフェッショナルだった病院はもの凄く看護婦さんの給与が低かったことです。患者にとって何が一番心地よいかを考えて、常に改善しようと心がけていました。仕事は過酷ですから、どんどん辞めていくわけですが、それを補うために看護学校も経営してどんどん若い看護婦を補充していくわけです。若い方が給与は安いですから経営上も利点があります。
そんなところで働いているなんて可哀想かと思うとそうでもないですね。彼女らはそこでの経験が後の仕事をしていく上で、大学出の看護婦とは全然次元の違う看護が出来るようになっているはずです。
これらに共通しているのは、誇りを持っていたり、好きな仕事なのに給与安いとどうなるかということです。
自分は金のために働いている訳じゃないということを嫌が上でも自覚せざるを得なくなるわけです。
じゃあ、何のために働いているのか。
それはお客さんや患者さんに喜んで貰うためなんだという凄くシンプルな答えに行き着くわけです。
いやあ、なんというか、天然自然の何の悪意も感じられないほどのブラック企業礼賛。
ここまで来ると、いっそ清々しい。
このあとがさらにすさまじい。
>逆に給与が仕事の内容に比べて高いとどうなるでしょうか。
自分は金のために働いている。こんな楽して儲けられるのはこの仕事しかない。この仕事は手放さないようにしようと考えます。でも、こんなに手を抜いてもこれだけ貰えるなら、クビにならない程度に手を抜いておこうとなるわけです。別にクビになるわけでも、給与が減るわけでもないなら、仕事を改善する必要もなくね。変にクレームが付かないように前の人と同じようにしておこうとなるわけです。
まさにどこかで見た勤務態度でしょ。
よって、給与を下げるとどうなるか。
恐らく劇的に公共サービスは改善されるでしょう。
金やそれに付随する社会的地位のために働いていた人達はまず最初に辞めていきます。
そして、自分が誰のために働いているのか、その人達のために自分が何をすべきかを考える人達だけが残っていくでしょう。もちろん、そういう人達もどんどん辞めていくでしょう。その代わり、もっと良い行政サービスができる、したいという人達が入ってきます。要するに市場原理が働くわけです。
えっ!?それが市場原理なの???
ケインズ派であれフリードマン派であれ、およそいかなる流派の経済学説であろうが、報酬を低くすればするほど労働意欲が高まり、サービス水準が劇的に向上するなどという理論は聞いたことがありませんが。
でも、今の日本で、マスコミや政治評論の世界などで、「これこそが市場原理だ」と本人が思いこんで肩を怒らせて語られている議論というのは、実はこういうたぐいのものなのかも知れないな、と思わせられるものがあります。
労働法の知識の前に、初等経済学のイロハのイのそのまた入口の知識が必要なのかも知れません。あ~あ。
(追記または謝罪)
上述の批判は、俗流ブルジョワ経済学説に毒されたモノトリ主義的労働貴族思想のしからしむるところであったのかも知れません。
上記リンク先に昨日書き込まれたコメントは、そのような俗物思想に対し、強烈な打撃を与えるものでありました。
>少年時代にマルクスの著作と出会って以来、一貫して共産主義を信奉している者です。この2010年代においてもなお、本物のコミュニストと出会えたことに感動しております。
「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」。これこそが我々共産主義同志の理想であり、本来ならば労働者の敵であるはずの資本家の側にも、我々コミュニストと同じ思想信条をお持ちの方がおられることに対して、大変驚いております。
貨幣から解放された労働、労働それ自体を目的とする労働。まさにコミュニズムの真髄です。とくに、経営者の報酬は1円で良いはず。当然、AMOKN様は有言実行しておられますよね。資本家でありながらコミュニストとしての闘いを続けておられるとは、頭の下がる思いです。
共産主義の同志に対して、「えっ!?それが市場原理なの???」とは、まことに失礼千万なものの言いようであったと深く反省しております。
ただ、わたくしはかかる崇高な理念に殉じるにはあまりにもマテリアリストでありますので、おつきあいするのは控えさせていただきたいと存じます。
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一言で言い表せるような気がします。
要するに「やりがいの搾取」というやつではないでしょうか。
看護師・救急救命医・教員の事業場なんかがそういうことが多いでしょうか。あと、映画制作・アニメ制作・舞台関係(我々の現場)などもそうではないかと思います。
労働の成果が時間的に蓄積できない、生産と消費が同時に行われるような、無形のサービス部門が多いと思います。
投稿: endou | 2015年10月 8日 (木) 00時03分
や、アイロニカルなエントリーかと思ったら結構本気っぽかったので、高度な釣りかと思ったら、コメント欄を閉じているという。
つまり本気なんですね。
投稿: Dursan | 2015年10月 9日 (金) 04時15分