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« 高校新科目「公共」は労働法教育の場となり得るか | トップページ | 2015年第4回派遣・請負問題勉強会開催予告 »

2015年8月 7日 (金)

でじゃびゅ・・・・

https://twitter.com/hahaguma/status/629122472395157504

大学(特に文系)の教育内容を説明する際に、大学教員がしばしば「社会や仕事には直接役に立ちませんが」と前置きするのってやめたらどうかと思う。それは「役に立つ」という言葉の意味を狭くとらえ過ぎだし、自信をもって「どのように役に立つ(もしくは有意義)」なのか力説すべきだと思う。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html (哲学・文学の職業レリバンス)

平家さんの「労働・社会問題」ブログで、大学教育の職業レリバンスをめぐって平家さんと私との間にやりとりがありました。これのもともとは、本田由紀先生のブログのコメント欄におけるやりとりです。

http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060327

この日のエントリーで、本田先生は例によって「大学の学習でどんな能力・スキルを身につければ、社会でどのように役に立つのかを、きっちりと学生に示せるか」云々という文章を引いて、大学教育の職業レリバンスの重要性というご自分のテーマを強調されていたわけですが、これに対するコメント欄において、「通りすがり」氏が「私は大学で哲学を専攻しました。その場合、「教育のレリバンス」はどのようなものになるんでしょうか?あと国文とか。」という皮肉に満ちた発言をされたのです。

私だったら、「ああそう、職業レリバンスのないお勉強をされたのねえ」といってすますところですが、まじめな本田先生はまじめすぎる反応をされてしまいます。曰く、「哲学や国文でも、たとえばその学部・学科を出られた方がどんな仕事や活動に従事しており、学んだ内容がそれらの将来にいかなる形で直接・間接に関連しうるのかを強く意識した教育を提供することはできると思うのです。それと同時に、ある分野に関するメタレベルの認識を与えることが教育において常に意識される必要があると思います。たとえば国文ならば、文学や「言葉」とは人間にとっていかなる意味をもっているのか、それを紡ぎ出す出版や編集、マスメディアの世界にはどのような意義と陥穽があるのか、といったようなことです。いずれにしても、今を生きる人間の生身の生にかかわらせることなく、ただ特定の知識を飲み込め、というスタンスで教育がなされることには問題があると思います」と。

これは「通りすがり」氏の皮肉な口調に対する対応としては、あまりにも正面から受け答えされ過ぎたとも言えますし、逆に、通りすがり氏の無遠慮なものの言い方に変に遠慮して、本来のご自分の職業レリバンス論の意義を失わせるような後退をされたのではないかという印象も受けます。

このやり取りに対して、平家さんがご自分のブログで、やや違った観点からコメントをされました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_6.html

ここで平家さんが言われているのは、「大学のどのような学部であっても、学生に社会人として意味のあるスキル、能力を身につける機会を提供することは可能」であり、「それは「その主張の根拠を明示して、自分の主張を明確に述べるスキル」である、「哲学など人文科学系の学部は、むしろこういう教育に向いているのではないでしょうか」ということです。

これに対して、私は話がおかしくなっているのではないかと感じました。その旨を当該エントリーへのコメント欄に次のように書き込みました。

あえて、手厳しい言い方をさせていただければ、それは問題の建て方が間違っているのではないでしょうか。ここで言われているのはあくまで「職業的レリバンス」であって、そういう「人間力」的な話ではないはずです。いや、もちろん、そういう自己主張能力的なスキルは大事ですよ、でも、そのために哲学や文学をやると言うことにはならない。それは哲学や文学のそれ自体としての意義(即自的レリバンスとでもいいますか)に対してかえって失礼な物言いでしょう。それに、おそらく、ロースクールあたりで現実の素材を使ってやった方が、もっと有効でしょう。

問題は、大学教育というものの位置づけそれ自体にあるのではないでしょうか。学校教育法を読めばわかりますが、高校も高専も、短大も、大学院ですら、「職業」という言葉が出てきますが、大学には出てこないんです。職業教育機関などではないとふんぞり返っているわけですよ、大学は。実態は圧倒的に職業人養成になっているにもかかわらず。

冷ややかに言えば、哲学や文学をやった人のごく一部に大学における雇用機会を提供するために、他の多くの人々がつきあわされているわけです、趣味としてね。いや、男女性別役割分業のもとでは、それはそれなりに有効に機能してきたとは言えます。しかし、もはやサステナブルではなくなってきた、そういうことでしょう。

特に後半はかなり舌っ足らずなので、大変誤解を招きかねない表現になっていますが、前半でいってることは明確だと思います。ただ、話が本田先生のブログから始まっただけに、私が本田先生の立場に立ってものを言っているという風に誤解されてしまった嫌いがあるようです。

平家さんは翌々日のエントリーで、

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_8.html

「私としては、問題を発展させたという意識です」と言われています。それはそうなんですよ。もとの本田先生のコメント自体が、哲学や国文にも職業レリバンスを見つけようという(どこまで本気かはわかりませんが)姿勢で書かれていますから。私としては、そういう回答の仕方自体が、「問題の建て方が間違っている」と言いたかったわけです。本田先生自身が自分の主張を裏切っているのではないか、と言っているのです。

いや、もちろん、これは「職業レリバンス」なる言葉の定義をどうするかということに最後は至りつくのです。しかし、こういう本田先生のコメントや、それを発展させた平家さんのコメントの方向性というのは、結局、職業レリバンスというものを、現実の労働市場から引き離し、何やら抽象的な「メタレベルの認識」だの、「人間にとっていかなる意味」だの、いやもちろん大いに結構ですよ、大いにおやりになればよい、私も大好きだ、趣味としてね、しかしそういう観念的な世界に持ち出すだけではないかと言いたかったわけです。

実際、本田先生のコメントや平家さんのコメントに見られるのは、まさに本田先生が「言うな!」と叫んでおられる「人間力」そのものではありませんかね。私は、実は人間力なるものはそれなりに大事だと思うし、「言うな!」とまで叫ぶ気はありませんが、少なくとも「職業レリバンス」が問題になっているまさにその場面で、そういう得体の知れない人間力まがいを提示するというのはいかがなものか、と言わざるを得ません。ご自分の主張を裏切っているというのはそういうことです。

上で申し上げたように、私は「人間力」を養うことにはそれなりの意義があるとは考えていますが、そのためにあえて大学で哲学や文学を専攻しようとしている人がいれば、そんな馬鹿なことは止めろと言いますよ。好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。

職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。

(追記)

あり得べき誤解を避けるため、平家さんのブログのコメント欄に以下のようなコメントを追加しておきました。

私は、個人的には哲学や文学は好きです。特に、哲学は大好きといってもいい。「哲学者や文学者も生かして置いた方が豊かな生活が送れる」と思っています。そして、そういう人々を生かしておくためには、「哲学や文学を教える」役割の人間を一定数社会の中に確保しておくことが重要であろうと考えています。問題は、それを”制度的に”「教えられる」側の人間の職業生涯との関係で、それをどう社会的に調整すべきかということです。

「性別役割分業の下での有効性のお話」は、そういう意味合いで申し上げたことです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)

平家さんのブログでのやり取りに始まる11日のエントリーの続きです。

平家さんから再コメントを頂きました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_11.html

この中で、平家さんは「大学の先生方が学生を教えるとき、常に職業的レリバンスを意識する必要はないと思っています。勿論、医学、薬学、工学など職業に直結した教育というものは存在します。そこでは既にそういうものが意識されている、というよりは意識しなくても当然のごとくそういう教育がなされているのです。法学部の一部もそういう傾向を持っているようです。問題は、むしろ、柳井教授が指摘されているように経済、経営、商などの学部や人文科学系の学部にあるのです」と言われ、「特に人文科学系の学問(大学の歴史をたどればこれが本家本元に近いでしょう。)は、学者、ないしそれに近い知的な職業につくケースを除けば、それほど職業に直結していません。ですから、そういう学問を教えるときに職業的レリバンスを意識しても、やれることには限界があります」と述べておられます。

この点については、私は冒頭の理科系応用科学分野及び最後の(哲学や文学などの)人文系学問に関する限り、同じ意見なのです。後者については、まさにそういうことを言いたいたかったのですけどね。それが、採用の際の「官能」として役立つかとか、就職後の一般的な能力として役立つかどうかと言うことは、(それ自体としては重要な意義を有しているかも知れないけれども)少なくとも大学で教えられる中味の職業レリバンスとは関係のない話であると言うことも、また同意できる点でありましょう。

しかしながら、実は大学教育の職業レリバンスなるものが問題になるとすれば、それはその真ん中に書かれている「経済、経営、商などの学部」についての問題であるはずなんですね。この点について、上記平家さんのブログに、次のようなコメントを書き込みました。

きちんとした議論は改めてやりますが、要するに、問題は狭い意味での「人文系」学部にはないのです。なぜなら、ごく一部の研究者になろうとする人にとってはまさに職業レリバンスがある内容だし、そうでない多くの学生にとっては(はっきり言って)カルチャーセンターなんですから。
ところが、「経済、経営、商などの学部」は、本来単なる教養としてお勉強するものではないでしょう(まあ、中には「教養としての経済学」を勉強したくってきている人がいるかも知れないが、それはここでは対象外。)文学部なんてつぶしのきかない所じゃなく、ちゃんと世間で役に立つ学問を勉強しろといわれてそういうところにきた人が問題なんです。

現在の大学の「職業レリバンス」の問題ってのは、だいたいそこに集約されるわけで、そこに、実は本来問題などないはずの哲学や文学やってる人間の(研究職への就職以外の)職業レリバンスなどというおかしな問題提起に変な対応を(本田先生が)されたところから、多分話が狂ってきたんでしょうね。
実は、今燃え上がっている就職サイトの問題も、根っこは同じでしょう。職業レリバンスのある教育をきちんとしていて、世の中もそれを採用の基準にしているのであれば、その教育水準を足きりに使うのは当然の話。

もちっと刺激的な言い方をしますとね。哲学や文学なら、そういう学問が世の中に存在し続けることが大事だから、大学にそれを研究する職業をこしらえ、その養成用にしてははるかに多くの学生を集めて結果的に彼らを搾取するというのは、社会システムとしては一定の合理性があります。
しかし、哲学や文学というところを経済学とか経営学と置き換えて同じロジックが社会的に正当化できるかというと、私は大変疑問です。そこんところです。

哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。

なんちゅことをいうんや、わしらのやっとることが職業レリバンスがないやて、こんなに役にたっとるやないか、という風に反論がくることを、実は大いに期待したいのです。それが出発点のはず。

で、職業レリバンスのある教育をしているということになれば、それがどういうレベルのものであるかによって、採用側からスクリーニングされるのは当然のことでしょう。しっかりとした職業教育を施していると認められている学校と、いいかげんな職業教育しかしていない学校とで、差をつけないとしたら、その方がおかしい。

足切りがけしからん等という議論が出てくるということ自体が、職業レリバンスのないことをやってますという証拠みたいなものでしょう。いや、そもそも上記厳密な意味の人文系学問をやって普通に就職したいなんて場合、例えば勉強した哲学自体が仕事に役立つなんて誰も思わないんだから、もっぱら「官能」によるスクリーニングになったって、それは初めから当然のことなわけです。

経済学や経営学部も所詮職業レリバンスなんぞないんやから、「官能」でええやないか、と言うのなら、それはそれで一つの立場です。しかし、それなら初めからそういって学生を入れろよな、ということ。

(法学部については、一面で上記経済学部等と同じ面を持つと同時に、他面で(一部ですが)むしろ理科系応用科学系と似た側面もあり、ロースクールはどうなんだ、などという話もあるので、ここではパスしておきます)

<追記>

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060417

「念のために申しておきますとね、法律学や会計学と違って、政治学や経済学は実は(それほど)実学ではないですよ。「経済学を使う」機会って、政策担当者以外にはあんまりないですから。世の中を見る眼鏡としては、普通の人にとっても役に立つかもしれませんが、道具として「使う」ことは余りないかと……。」

おそらく、そうでしょうね。ほんとに役立つのは霞ヶ関かシンクタンクに就職した場合くらいか。しかし、世間の人々はそう思っていないですから。(「文学部に行きたいやて?あほか、そんなわけのわからんもんにカネ出せると思うか。将来どないするつもりや?人生捨てる気か?なに?そやったら経済学部行きたい?おお、それならええで、ちゃあんと世間で生きていけるように、よう勉強してこい。」・・・)

コメント

こんにちは。日ごろより大いに勉強させていただいております。
今日のこのエントリを読んで、かつて大学受験のときに母と交わした会話を思い出しました。
私「文学部を受ける」
母「小説家になるのかい」
私「あと、政治学科も受ける」
母「政治家になるのかい」
私「…………」
向学心に燃えていた(笑)当時、なんつー俗っぽいことを言うんだ、と反発心を覚えたものですが、案外それは高卒就職した母にとって当たり前のギモンだったのかなー、と今では思います。。。

投稿: いずみん | 2006年4月20日 (木) 22時37分

いずみんさん、それはお母様が正しかったのですよ、人的資本理論からすると。

もとより、人間は人的資本であるだけではありません。そういう経済理論を「俗っぽい」と見下して、イデアの世界に生きるプラトニックな人生観もありえます。というか、そういうのがなかったら、人間世界にあんまり希望はないかも知れません。

ただ、問題はそれが経済学自身に跳ね返ってくることで、

いずみん「経済学部を受ける」
母「ケーザイ学者になるのかい」

とは普通ならないで、

いずみん「経済学部を受ける」
母「ビジネスウーマンを目指すのね」

となるのが普通でしょう。(ホント?)

それが、実学じゃないとか、「世の中を見る眼鏡」とかいわれたのでは、娘の学費を出す立場からすると、詐欺か?と言いたくなるかも知れません。

(追記)
ホントのところを言うと、経済学は役に立たないわけではありません(と思います、素人なりに)。人的資本理論なんかも、会社の人事担当者にとっては、私は必須の知識だと思います。

参考までに:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532131618/qid=1145845019/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/503-0048332-7207103

投稿: hamachan | 2006年4月24日 (月) 09時22分

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)

平家さんからさらにお返事を頂きました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_14.html

「あまり意見に差がないのです」と仰るとおり、既に対立する議論を戦わせるというよりは、お互いに面白いネタを転がしているという感じになっていますが、あえてネタを膨らませてみましょう。

私は公共政策大学院というところでここ3年「労働法政策」という授業をやってきているんですが、あるトピックで学生から大変興味深い反応が出てきたことがあります。

それは男女雇用均等法政策の中で、最近話題になっている間接差別を取り上げたときなんですが、2004年に出された男女雇用機会均等政策研究会報告の中で提示された間接差別に該当する可能性のあるとされた7つの事例を紹介して、あなた方はどう思いますか?と尋ねたときに、学生たちが一致して「そんなのは自分で選んだんじゃないか、何を言ってるんだ」と大変否定的な反応が返ってきたのが、「募集・採用に当たって一定の学歴・学部を要件とすること」だったんですね。

http://www.mhlw.go.jp/houdou/2004/06/h0622-1.html

ここに顕れているのは、、まさに平家さんの言われる「、「『経済、経営、商』などの学部」の学生が「文学部なんてつぶしの利かないところじゃなく、ちゃんと世間で役に立つ学問を勉強しろといわれてそういうところに来た人」であるとすると、そのような志向を持った人を選び出すために、どのような学部を卒業したかという情報を利用」するということでしょう。

歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。で、そういう立場からすると、「なによ、自分で文学部なんかいっといて、いまさら間接差別だなんて馬鹿じゃないの」といいたくもなる。それが、学部なんて関係ない、官能で決めるんだなんていわれた日には・・・。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)

4月の11,17,25日に、平家さんとの間でやり取りした大学教育の職業レリバンスの話題ですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html

その後、稲葉先生のブログ経由で、東大教育学部の広田先生がこの問題に関連する大変興味深いエッセイを書いておられることを知りました。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060513#p2

内容の簡単な要約は以下にあります。

http://d.hatena.ne.jp/merubook/20060502/p2

特に面白いのは次の一節です。

「しかし、日本の人文・社会科学のこれまでの発展を支えてきたのは、実はこうした研究者を養成しない大学なのだ。大学院を終えた若手の研究者の大半は、それら地方国立大や中堅以下の私学に就職してきた。雑務も授業負担もまだ少なかったし、研究者を養成しないまでも、研究を尊重する雰囲気があった。・・・いわば、地方国立大や中堅以下の私学が、次の次代を担う若手研究者の育成場所となってきたのだ。

地方国立大や中堅以下の私学が研究機能を切り捨てて、顧客たる学生へのサービスを高度化させようとするのは、大学の組織的生き残りを目指す経営の論理からいうと、合理的である。・・・だが、その結果、若手の有望な研究者がせっかく就職しても、その後研究する余裕がない。」云々

この一節に対しては、山形浩生さんが

http://cruel.org/other/rumors.html#item2006050101

で、いかにも実務家インテリとしての感想を漏らされています。「ふざけんじゃねえ。三流私大の学生(の親)はあんたらに優雅に研究していただくために高い学費を納めてるわけじゃねーんだ!」というのは、おそらくかなり多くの人々の共感を呼ぶ罵声でしょう。「悪い意味での朝日体質」とは必ずしも思いませんが。というか、保守系人文屋も同じだと思うので。

ただ、これはそういって済ませられるだけの問題でもないだろうとも思います。稲葉先生が的確に指摘されているように、これは「研究者・高等教育担当者の労働市場の問題」なのであり、そういう観点からのアプローチが必要なはずです。

私には、まずもって「人文・社会系」と対象を大くくりにすることが問題を混乱させているように思われます。その中には、大学で教えられる教育内容が、大学教授となること以外には職業レリバンスがほとんどないような領域もあれば、企業や役所に就職してからの実務に多かれ少なかれ職業レリバンスが存在する領域もあるからです。

前者の典型は哲学でしょう。大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。

これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです。上で引いた広田先生の文章に見られる、自分の教え子(東大を出て下流大学に就職した研究者)に対する過剰なまでの同情と、その彼らに教えられている研究者なんぞになりえようはずのない学生に対する見事なまでの同情の欠如は、この辺の感覚を非常に良く浮かび上がらせているように思います。

ところが、この議論がそのまま広田先生とそのお弟子さんたちに適用できるのかというと、ちょっと待ってくれという点があります。彼らは教育学部なんですよね。教育学部っていうのは、社会的位置づけがある意味で180度違う分野です。

もともと、大学の教育学部というのは、ただ一つを除いて、戦前の師範学校、高等師範学校の後継者です。つまり、学校の先生という職業人を養成する職業教育機関であって、しかも最近はかなり揺らいできているようですが、教育学部卒業と(大学以外の)教師たる職業の対応性は、医学部や薬学部並みに高かったわけで、実は人文・社会系と一括してはいけないくらい職業レリバンスの例外的に高い領域であったわけです。

ただ一つの例外というのが、広田先生がおられる東大の教育学部で、ここだけはフツーのガッコのセンセなんかじゃなく、教育学というアカデミックな学問を研究するところでした。そこを出た若い研究者の卵が、ガッコのセンセを養成する職業訓練校に就職して、肝心の訓練指導をおろそかにして自分の研究ばかりしていたんではやっぱりますいんでなかろうか、という感じもします。

実は、こういう研究者養成システムと実務家養成システムを有機的に組み合わせたシステムというのは、理科系ではむしろ一般的ですし、法学部なんかはかなりいい加減ですが、そういう面もあったと言えないことはありません。ロースクールはそれを極度に強調した形ですが、逆に狭い意味でのローヤー養成に偏りすぎて、医療でいうパラメディカルに相当するようなパラリーガルの養成が抜け落ちてしまっている印象もありますが。

いずれにせよ、このスタイルのメリットは、上で見たような可哀想な下流大学の哲学科の学生のような、ただ研究者になる人間に搾取されるためにのみ存在する被搾取階級を前提としなくてもいいという点です。東大教育学部の学生は、教育学者になるために勉強する。そして地方大学や中堅以下の私大に就職する。そこで彼らに教えられる学生は、大学以外の学校の先生になる。どちらも職業レリバンスがいっぱい。実に美しい。

もちろん、このシステムは、研究の論理と職業訓練の論理という容易に融合しがたいものをくっつけているわけですから、その接点ではいろいろと矛盾が生じるのは当たり前です。訓練を受ける側からすれば、そんな寝言みたいな話ではなく、もっと就職してから役に立つことを教えてくれという要求が出やすいし、研究者の卵からは上で広田先生が書かれているような苦情がでやすいでしょう。

しかし、マクロ社会的なコストを考えれば、そういうコンフリクトを生み出しながらも、そういう仕組みの方がよりヒューマンなものではないだろうか、と思うわけです。

では、人文・社会系で一番多くの人口を誇る経済系の学部は一体どっちなんだろう、というのが次の問題ですが、とりあえず今日はここまで。

<追記>

読み返してみると、やや広田先生とそのお弟子さんたちに揶揄的に見えるような表現になっている感があり、若干の追記をしておきたいと思います。

実は、広田先生とそのお弟子さんたちの業績に『職業と選抜の歴史社会学-国鉄と社会諸階層』(世織書房)というのがあり、国鉄に焦点を当てて、近代日本のノンエリートの青少年たちの学歴と職業の姿を鮮烈に描き出した傑作です。こういうノンエリートへの暖かいまなざしに満ちた業績を生み出すためには、上で引用したようなノンエリートへの同情なき研究エゴイズムが充たされなければならないのか、というところが、この問題の一番難しいところなのだろうな、と思うわけです。

http://www.bk1.co.jp/product/2495103

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コメント

この問題に関しては、議論は多いですが、実態に関する情報が少ないと思います。
例えば、私は、職業教育については、「学んだ内容がすぐ陳腐化してしまわないだろうか」という点に危惧を持っています。
(例えば、最近はデータサイエンスがブームになって、データサイエンス学部も設立されるようになっていますが、民間企業でデータサイエンスを仕事にしている人達の間では、「もうブームは終わり、供給過多になっている」ということがいわれているようです。
医師や弁護士の資格のように、国がうまく規制を作り供給を制限しているケースを除き、受けた教育で食べていくのは難しいのではないか、という懸念は多くの人が持っていると思います。)

「すぐ陳腐化してしまわないだろうか」等の問題にどう対処するかを考える上で、職業教育を実践しているヨーロッパ諸国の実態を知ることが重要になると思います。例えば、個人的には、
1. スウェーデンみたいな国は、具体的にどういったシラバスやカリキュラムで職業教育を行なっているのか?
2. どのくらいの割合の学生が職業教育を受けているのか?
といった点に興味があります。
これらの点に関して、論文などあるでしょうか。

また、2については、私なりにごく簡単に調べてみましたが、
http://www.oecd.org/edu/skills-beyond-school/ASkillsBeyondSchoolCommentaryOnSweden.pdf
p.9のFigure 1.によると、スウェーデンでは、中等後教育の学生(postsecondary students)のうち、高等職業教育(higher vocational education)を受ける人は、15%と書いているように読めます。
これは、「国立大学を一部のグローバル大学とその他大勢のローカル大学に分け、後者には職業教育に従事してもらう」という主張から想像される数字よりは、かなり少ないようにも見えますがいかがでしょうか。

いや、文学や哲学に職業レリバンスはありますよ。ただし、エリートに限る。

エリートに必要な議論する力や文書処理能力を養う意味でも、「官能」を高める意味でも。でも、一番重要なのは箔をつけてノンエリートとの身分的差別化を図るという機能でしょう。私はノンエリートから峻別されるエリートの存在自体が社会にとって重要なインフラだと思いますし、現在の日本が停滞に陥っているのはこのインフラを破壊してしまったからだと思っています。

そもそも前近代においても文学や哲学といった教養は貴族にとって上記の有用性をもって尊ばれていたし、貴族に対する教育需要によって学者は食いつなぎ、学問を維持発展させてきた。近代に入っても基本的には同じ構図が続いた。

問題は、戦後、高等教育が普及して大学が大衆化し、大学教育がエリートのものだけではなくなったという事態にどう対処するかであって、これは先進国共通の課題であったわけです。そしてその対処に日本はもっとも失敗した。

ただ、それは近代日本の高等教育の歴史に規定された失敗だったというべきでしょう。

前近代の伝統的教養体系を近代化の過程で一旦廃棄したこと。新たに西欧流の教養体系を受け入れたけれど、その教育は大学ではなく、格下の旧制高校で行われたこと。大学文学部も元来は西欧の知を翻訳輸入する実学的側面をもっていたこと。旧制高校は大学より格下だが、しかしそこで教養教育を受けることはエリートにしか許されぬ特権であり、そこから排除された人々(実業学校出や軍人など)にとってルサンチマンの対象だったこと。戦後、旧制高校は大学の教養部として統合され教養教育は万人に開かれたが、エリート教育の建前のまま大学は増設されていったこと。大学の肥大化は高度成長期に形成された日本型雇用システムと奇妙な適合性を獲得し、大学の肥大化に拍車がかかったこと。その過程で職業教育は忘れ去られていったこと。

これらの事実を眺めると、どこかの時点で抜本的に高等教育をデザインしなおすべきであったという思いはぬぐえません。しかし、それはなされぬまま、大学院の肥大化まで起きて大学は自らの学問基盤を掘り崩してしまった。

不思議なのは、昨今の文系廃止縮小騒ぎで、それに反対する人々が、文系は役に立つと主張したり、いや役に立たないものを切り捨てるのかと叫ぶ光景です。単なる教養です、それが何か?と開きなおればよいのに。教養としては役に立つ、でもそれ以上のものではない、少なくともノンエリートにとっては。そう真正面から言えばよい。そのうえで、十分な教養教育をするにはどれだけの人員、予算が必要なのか、教養教育の担当者も研究者である意味があるということを訴えればよい。そして教養教育のなかで、学問の維持発展に必要な研究者の規模をどう確保していくのか、議論すればよい。何故的外れな議論ばかりするのか。結局単なる教養の先生になるのが嫌なのでしょう。教養の重要性を訴えながら、教養教育を蔑視している。しかし、そのような態度こそ、現在の大学の混乱をもたらした元凶でしょう。

あと、文系は基本的に教養ですと位置づけた場合、一番困るのは主流派の経済学かもしれない。理論も計量も、職業教育としての意義が乏しいのはもちろん、実は教養としての意義も微妙な部分があるからです。むしろ経済思想や経済史の方が教養としての意義は大きい。

最後に念のため。上記に出てくる無遠慮な「通りすがり」氏は私とは別人です。いや、私も十分無遠慮ですが。

申し訳ありませんが、複数の方が同じ「通りすがり」というハンドルネームでコメントされるのは、読む側の立場からすると大変困ります。

どうしても「通りすがり」とお名乗りになりたいのであれば、せめて「通りすがり第2号」とか「通りすがり無遠慮派」とかにしていただければと思います。

失礼、今後は通りすがり2号と名乗らせていただきます。(ほんとに二人目かといわれると困りますが。。。)

hanicomさん

お示しのOECDの資料少し拝見しましたが、p.9のFigure 1.が示すのはParticipation in postsecondary VET( vocational education and training)つまり、中等教育後の職業教育、職業訓練を受けている学生の中での内訳のグラフのようです。そのうち、Professional higher education、すなわち大学における学士課程での職業教育を受けているのが40%、Higher vocational educationは労働市場と密着し、理論教育と実地教育を組み合わせた、ブルーカラー労働者や低学歴の家庭の出身者に高等教育の機会を与えるもののようです(両角道代「スウェーデンにおける若年者雇用と職業能力開発」より)。「中等教育後の職業教育、職業訓練を受けている学生」が中等教育後の若者のうちどれほどを占めるのかはこのOECD資料からはぱっと見わかりません。いずれにしても、今後日本で導入されるであろう職業教育大学に対応するのはProfessional higher educationの方だと思います。

大学進学率を論ずる場合、アカデミックな専門教育(より厳密にいえば研究者養成教育)と職業教育を分けて論ずるべきですが、そのような観点からの統計が十分に整備されていないように感じます。まあ、現実がそれほどきれいに分けられないからでもありましょうが。。。

問題の本質は研究者、あるいは高度専門職、より広く言ってエリートとしての教育を受けるのはどの程度の規模にすべきかということだと思います。それ以外の人々は、(教養教育は広く万人に開かれているべきとしても)、より職業的意義をもつ高等教育を受けてくださいという話でしょうね。

>職業教育については、「学んだ内容がすぐ陳腐化してしまわないだろうか」という点に危惧を持っています。

いや、陳腐化しても学び直しなどで自らキャリアマネジメントを行う、そのような主体的な労働者となる基礎を如何に教育システムの中で育んでいくのかという話だと思います。経済変動で会社にマネジメントしてもらえる労働者がどんどん少数になっていくという趨勢に如何に対応するかという話でしょうね。もちろん労働者個々人をサポートする労働政策とセットでなければ機能しないものです。

滋賀大学でデータサイエンス学部を設置するという構想は、このような観点からはいささか的外れの観がありますね。そもそも学部制度を廃止したほうがいいんじゃないかなあと思いますが。。。

たしかにもう少しヨーロッパの実態を調査する必要があると思います。上で引用した両角論文も制度面の解説が主ですからね。

大学が常に学術の最先端にあるのならば、「陳腐化」を懸念する必要はないはずなのですけどね。むろん、現実はそうではないというのは承知していますが。

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... 1979 年には、オートマトンと言語の理論は活発な研究領域であった。あの本【引用者注:前著】の目的は数学的な傾向の学生がその分野で新しい貢献をするのを励ますことであった。
...
... CS 【引用者注:コンピュータ科学】はより職業的な科目になり、多くの学生に厳しい実利主義が生まれている。我々はオートマトン理論の諸相が多くの教科で本質的な道具であると今でも信じているし、学生がすぐにお金になる技術だけを習いたいとどれほど強く望んだとしても、オートマトン理論の標準的なコースに含まれている理論的で視野を拡げる練習問題は今でも価値を失っていない、と信じている。しかし、コンピュータ科学の学生が選べる科目リストの中に確実に位置を占め続けるためには、数学と並んで応用を強調する必要がある、と思われる。

J.ホップクロフト/R.モトワニ/J.ウルマン.
『オートマトン 言語理論 計算論Ⅰ 第2版』 序文より引用
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通りすがり2号さん
ご指摘、どうもありがとうございます。データの詳細が詳しく書かれていないので、よくわからないところもありますが、おっしゃるとおりかもしれません。

私なりにまた少しだけ調べてみたところ、以下の論文を見つけました。www.cedefop.europa.eu/files/5515_en.pdf
この論文のp.44のFigure 2には、Tertiary programmes with academic orientationと、Tertiary programmes with occupation orientationの比率が載っていますが、EUのどの国でも、前者の割合が半分以上を占めます。ただし、この結果の解釈には注意が必要で、前者はISCED 5Aにいる学生の割合を測っていますが、
http://www.uitec.jeed.or.jp/images/fiftyyear/50th_05/09.pdf
にあるように、ISCED 5Aには、「医学や歯学、建築学」などに関連した実学も含まれています。

ちなみに、上にあげた論文の第4章には、職業教育の実例も書かれています。挙げられている例は、農業、看護、情報技術、教員養成、金融の遠隔教育、技術・イノベーション経営です。金融の遠隔教育以外は日本でも類似の学部・学科があるので、正直なところ、「EUと日本で実態は大差ないのでは?」という疑念を抱きました。

職業教育が重要だという理念ばかりが先行して、実態をよく調べず改革を断行して、法科大学院の二の舞になることを恐れています。

IGさん
>大学が常に学術の最先端にあるのならば、「陳腐化」を懸念する必要はないはずなのですけどね。

私は、「需要が飽和して儲けられなくなる」という意味で、「陳腐化」という言葉を使っています。ある学問・技術を使って「儲けられる・儲けられない」ということと、その学問・技術そのものの価値は、全く別の問題だと思います(具体例としては、純粋数学が挙げられると思います)。

hanicomさん

根本的な問題は、労働者としてエリート、高度専門職、ノンエリートに分かれざるをえない学生に対して、肥大化した大学教育はいかに対応するかという問題だと思います。大学進学率が20%程度であれば、ノンエリートのことは考えなくてもよかったでしょうが、すでに50%に達している現状では、このことは喫緊の課題でしょう。

エリートはもちろん高度専門職の教育については、需給関係からみた学生数の定員管理が不可欠でしょう。法科大学院はこの点で完全に失敗しています。文科省の権限が弱く、大学院数の制限ができなかったのが問題ですが、今後政府のコントロール可能性を高める必要があるでしょう。

ただ、今般問題になっている高等教育での職業教育の増大は、むしろノンエリート労働者にならざるを得ない学生への教育をどうするかという問題だと思います。彼らには企業による安定的雇用も、キャリアマネジメントも期待できません。生活の安定については社会保障の充実によるしかありませんが、キャリアマネジメントについては、まずは自分で主体的にできるようになる必要がある。そのための自覚を形成して、基礎を形成する職業教育が必要なのだと思います。ですから、ノンエリート向けの職業教育というのは、安定的な食いぶちの確保という要素は薄い。厳しい労働市場で生き抜いていくための最低限の装備を身につけさせてあげようという程度の話です。しかし、現在の大学はこの程度のこともできていない。

>正直なところ、「EUと日本で実態は大差ないのでは?」という疑念を抱きました。
このあたりはそれこそ実態を見てみなければわからないでしょうね。一方、人文社会科学の多くが、教養教育としてはともかく、専門教育としては多くのノンエリート学生にとって職業教育たりえないのは否定できないでしょう。

ただ、ノンエリート学生への高等教育をどうするかという問題に直面しているのは、国立大学よりも私立大学の方です。この点で国立大学の改革から着手した文科省は、順番が違うではないかという批判にさらされても仕方ないでしょう。しかし、文科省は私大への介入権限が乏しい。このあたりの矛盾が最大の難点でしょうね。私大に対する政府の規制を強化すべきだとは思いますが。。。

フランスの職業教育の実態については以前こちらのブログでご紹介いただいた『HRmics』21号に実態が報告されていますね。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/04/vshrmics21-0173.html

日本とは対極的な、「籠の鳥」と言える仕組みで、以前コメント欄に書かせていただきましたが、正直これを日本にそのままもってくるのは難しいでしょう。日本の実情に合わせた仕組みの構築が必要です。

問題は国公私の大量にある文系をどうするかでしょうね。
当然ながら現在それで飯を食ってる教員の反発は強いでしょうし
ただ現状文系学部で適当に過ごしホワイトカラーリーマンになって
定年まで勤め上げるというモデルが崩壊してますからね。
ハマちゃん先生はジョブ型への移行を進めており
自分も同意なんですが
国や大学関係者が理解しているかというと疑問です
彼らの意見を見るとジダンの変化に合わせて
ジョブ型へ移行しようというより
がんばって古き良きメンバーシップ型に
戻そうって感じなんですよね。

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