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2015年8月 6日 (木)

高校新科目「公共」は労働法教育の場となり得るか

今朝の紙面に、高校に新科目「公共」が導入されるという記事が出ています。正確には、中央教育審議会に示したということですが、文部科学省のサイトにはまだ出ていないようなので、とりあえず新聞報道でコメントしますが、

http://www.asahi.com/articles/ASH835VJBH83UTIL03M.html (高校に新科目案「公共」「歴史総合」 18歳選挙権受け)

 2020年度にも小中高校で順にスタートする新学習指導要領について、文部科学省は5日、22年度をめどに高校に必修の「公共」「歴史総合」(いずれも仮称)などの新科目を設ける案を公表した。文科相の諮問機関「中央教育審議会」に示した。16年度中に答申する方針だ。

 公民科の「公共」は選挙権年齢が18歳以上に引き下げられたことを受け、選挙など政治参加について学習する。将来、成人年齢が引き下げられるという意見も踏まえ、社会保障や契約、家族制度、雇用、消費行動といった社会で必要なことを学ぶ。

 自民党が13年に、社会で必要になる規範意識を養うとして新設を提言した。文科省も、現行の科目より実践的で幅広い新科目が必要と判断した。ただ、必修化で「倫理」など別の科目を学ばなくなる可能性もあり、既存の科目で習う専門的な知識が学べなくなることを心配する声もある。

ちらりと「雇用」という言葉が出てきていますが、これは本ブログでも何回も取り上げてきた実践的な労働法教育を想定しているのでしょうね。労働3法の名前をお題目よろしく唱えることができるというようなんじゃなくて、労働者としての権利をどこをどういう風に動かせば実現できるかという実践的な教育を。おそらく並んでいる社会保障とか、契約とか、消費行動とかも、そういう権利教育としての実践的なものを想定しているのであろうと思われます。

そうした実践的な知識が欠落したまま社会に出て行ってしまうことが問題であるという観点からすれば、これは基本的に望ましい方向だと思われます。

http://www.asahi.com/articles/ASH8541LKH85UTIL00Y.html (新科目「公共」、自民提言に沿う 教育現場には懸念も)

もちろん、そういう方向に「懸念」を持つ向きもあるわけですし、たしかに、とにかくマナーを学ばせろというというような中身になってはまずいのですが、

公民科については、自民党のプロジェクトチームが2013年6月、「社会でつまずき、責任ある行動がとれない若者が多い」として、規範意識や社会のマナーを学ばせる必要性を指摘。「(現行科目は)客観的な知識は断片的に教えているが、パッケージ化した全体像は示されていない」として、科目の新設を求める提言を発表した

文科省の担当者はかなりわかっているようで、

文部科学省は、おおむね提言通りの内容で検討している。担当者は「主権者や労働者、消費者など、様々な主体として自立することについて学ぶための科目が必要。専門性も大事だが、高校生の貴重な時間を何に使うか、優先順位を考えなければならない」と話す。。

「様々な主体として自立する」ためには、何よりも権利と義務をきちんと学ぶことが必要であるわけです。

このトピックについては、昨年も本ブログで取り上げておりました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-affb.html (新科目「公共」に労働法教育を)

例によってネット上ではつまらぬイデオロギー的空中戦になっているようですが、これこそ、今まで文部科学省がやってるやってるといいながら公民で労働3権を教えてるだけという状態だった労働法教育を、リアルなレベルできちんと位置づけるいい機会でしょう。

大事なのは、どんな無茶ぶりでも言うことを聞くというたぐいの規範意識ではなく、自らの正当な権利を社会に通用する規範としてきちんと示せるという規範意識として作っていけるかですが、そういう建設的な方向に持って行けるかは、これを変な空中戦にしていかないことが大事です。

なお、記事には「公共」のほかにも、近現代史中心の「歴史総合」を必修にするということも載っています。これについては細かく論じませんが、現代社会の問題をまともに議論するためには現代に繋がる歴史の知識が必須なのに、それが希薄な人が多い(あるいは著しく偏った知識だけで語る人が多い)ことを考えれば、大変重要なことだと思います。

(追記)

早速文科省のサイトに、資料がアップされたようです。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/053/siryo/1360750.htm

このうち、「教育課程企画特別部会 論点整理のイメージ(たたき台)(案)」というのを見ますと、

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/053/siryo/__icsFiles/afieldfile/2015/08/06/1360750_1.pdf

○ また、公民科は、様々な課題を捉え考察する基となる概念・理論や先哲の多様な思想を学び、自ら考え選択・判断する力を鍛える教科としての意義を持つ。そうした公民科における共通必履修科目として、家庭科や情報科をはじめとする関係教科・科目等とも連携しながら、主体的な社会参画に必要な力を、人間としての在り方生き方の考察と関わらせながら実践的に育む科目「公共(仮称)」の設置を検討することが求められる。なお、「公共(仮称)」については、社会的・職業的な自立に向けて必要な力を育むキャリア教育の中核となる時間として位置付けることを検討する。
この際、学校教育活動全体の中でのインターンシップの在り方や位置付け等についても、併せて検討することが求められる。

「キャリア教育の中核」という位置づけなんですね。

だとすればますます、労働法教育を中心とした権利としてのキャリア教育という観点をきちんと入れ込んでいくことが重要になってくるでしょう。

あと、この文書は興味深いところがいくつかあります。「新しい学習指導要領が目指す姿」の中に、

○ また、子供たちに職業や社会で必要となる資質・能力を育むためには、学校と社会との接続を意識し、一人一人の社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる能力や態度を育み、キャリア発達を促す「キャリア教育」6の視点が重要である。学校教育に「外の風」を取り込み、世の中と結び付いた授業等を通じて子供たちにこれからの人生を前向きに考えさせることが、主体的な学びの鍵となる。

とありますが、どういう「外の風」を取り込んでいくかが重要になるわけです。

井の中で「外の風」を嫌がっているだけではどうにもなりません。

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コメント

>どういう「外の風」を取り込んでいくかが重要になるわけです。

鍵になるのは「専門性」でしょうね。大阪の公募校長制度に見られるように、素人を既存組織に押し込んで改革しようという風潮が近年蔓延していましたが、ほとんどすべて失敗に終わったと言っても過言ではないでしょう。素人をいくら連れてきても混乱するだけです。信頼できる専門家を如何に育てていくかを考える必要があるでしょう。校長にしても、学校経営は企業経営とは全く異なる専門性が求められる。経済人をもってきても意味はない。さりとて現場教師からの叩き上げというのも問題がある。現場とマネジメントは違います。将来的には、研究大学の教育学部でそのような学校マネジメントの専門家を養成し、学校の経営スタッフとして自覚的に育てていくべきだ思います。そのような人材が教育委員会や文科省を行き来して広い視野を涵養するとともに、現場の意見を政策面に反映させる仕組みが必要です。もちろん、文科省と上意下達の関係におかれるべきではなく、プロフェッションとして自律的な存在であるべきですが、いかにそれを確保するか、難しいところでしょうね。

「公共」の科目もきちんと教えられる人材を長期的視点から育成するべきでしょうね。既存の教師が片手間で教えるようではだめでしょう。

>井の中で「外の風」を嫌がっているだけではどうにもなりません。

最近も痛ましいいじめ自殺事件が起きました。いじめのような人間関係上のトラブルは集団生活において必ず起こると考えるべきで、なくすことはできず、如何に対処するかが問題ですが、何故学校では自殺という最悪の事態に進展するまで有効を対処が打てないのか。それはやはり学校の閉鎖性が根底の問題としてあるように思えます。社会生活上のトラブルを解決するための規範技術の結晶が法であるわけですが、学校はそのような一般市民法から自立した部分社会、まさに治外法権の場になってしまっている。学校内の問題は学校の掟で、教育的観点から解決すべきだという信念に現場の教師たちは凝り固まっているように思えますが、教師は必ずしも紛争解決のプロではない。みんながみんな、金八先生として振る舞えるわけではありません。

近年スクールカウンセラーやスクールソーシャルワーカーといった専門職を学校に配置する試みがなされていますが、紛争解決のプロとして弁護士をスクールローヤーとして学校に配置してはどうかと思います。中立的な専門職として、学校内、あるいは学校と保護者の間の紛争解決に法的アドバイスを与え、支援するわけです。子供たちも身近で法的観点からの紛争解決を目の当たりにすることで、「自らの正当な権利を社会に通用する規範としてきちんと示せるという規範意識として作っていける」のではないかと思います。以前濱口さんもおっしゃっていたように、日本では労働法以前に一般市民法自体が社会に根付いていないのが実情なわけで、このような実地の経験を通じた法教育が必要ではないかと思います。

学校の閉鎖性は特に戦後強まったように思えますが、これは戦前の師範学校出身の教師たちのルサンチマンがあったように思います。大学出から差別された彼らは、戦後、大学の教養体系からも、労働市場からも自立した、独立王国を築きあげることでそのルサンチマンを解消したのでしょう。高度成長がその非現実的な王国を可能としましたが、高度成長が終焉すると校内暴力やいじめといった問題で動揺し、一時は管理教育の徹底によって乗り切ろうとしましたが、今やそれも限界を迎え、緩やかに内部から崩壊しつつあるように思います。速やかにこの独立王国を解体し、一般市民法秩序に統合する必要があるのです。

学校を専門職によるジョブ型雇用の集合体に再編成すること、それこそが、学校を開放的な存在として再生させ、学校が抱える諸問題を解決する道なのだと思います。それは日本社会をより開放的に変革していくことにもつながるはずです。

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