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2015年8月

女子教育と職業レリバンス

韓国釜山に行っている間に、いろんな事があり、こんなご依頼も飛び込んできたようですが、

https://twitter.com/cramaxx/status/637269771604525057

北田暁大は鹿児島県知事の余波で本田由紀の職業教育論をディスろうとしてんのか。姑息を通り越して哀れなイタイ人になってる。

https://twitter.com/cramaxx/status/637270486536228864

ここは濱口桂一郎先生に、遅れてきたリベサヨ崩れこと北田暁大氏による本田由紀批判を、盛大に嘲笑していただきたいと思います。(期待)

事情もよくわからないので、嘲笑だの侮蔑だのといった、それ自体が自らの品性を引き下げる体のことをやるつもりはハナからありませんが、

(世の中には、薄っぺらな言葉で人を「嘲笑」することで自分が優位になったと感じてうれしがる人々がいますが、もちろんそういう言動がもっとも多くの人の「嘲笑」を買うものであるわけです)

女性差別的な教育談義を批判するのに、職業教育批判を持ち出すような方がいるとすれば、それこそ「人文」系の知識人といわれる方々の社会認識の偏りを示しているのでしょう。

むしろ、職業レリバンスの乏しい教育を娘に受けさせることが、花嫁レリバンスの高さに繋がっていたことが、「人文」系大学教員の雇用機会の拡大の大きな理由であったわけですけど。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html (なおも職業レリバンス)

・・・歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。で、そういう立場からすると、「なによ、自分で文学部なんかいっといて、いまさら間接差別だなんて馬鹿じゃないの」といいたくもなる。それが、学部なんて関係ない、官能で決めるんだなんていわれた日には・・・。

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日韓労働フォーラムから帰国

ということで、、昨日釜山で開かれた第15回日韓労働フォーラムから帰国しました。

相手方の韓国労働研究院のサイトに、プログラムがアップされているので、ハングルですが、こちらにコピペしておきます。

http://www.kli.re.kr/kli_home/notice/vew.home-42000;jsessionid=556C6C2D98404E05921AC8F5F711B1C8?docId=A98233F6CFD90EBA49257EAD000547C2&seq=2228&listNum=2228

[제15차 한·일노동포럼] 노동시장 격차확대 현황과 정책과제

개최일자(시간)2015-08-28 (10:00)  개최장소노보텔 앰배서더 부산, 4층 아이리스홀 주최한국노동연구원(KLI), 일본 노동정책연구·연수기구(JILPT) 후원 문의처044-287-6092 국제협력실 원고 

10:00-10:20

 개회사

방하남 (한국노동연구원 원장)

스게노 가즈오 (일본 노동정책연구·연수기구 이사장)

 

세션 I. 하도급의 현황 및 법적 쟁점

사회: 스게노 가즈오 (일본 노동정책연구·연수기구 이사장)

10:20-10:50

 발제 1. 일본 청부(請負)노동의 문제 ― 경위와 실태

하마구치 게이치로 (일본 노동정책연구·연수기구 수석총괄연구원)

10:50-11:20

 발제 2. 한국 사내하도급의 현황과 정책과제

김기선 (한국노동연구원 연구위원)

11:20-11:40 휴식

11:40-12:10

 토론

일본 노동정책연구·연수기구 참가자

장홍근 (한국노동연구원 노사관계연구본부장)

12:10-14:00 오찬

 

세션 II. 노동시장 격차확대와 정책과제의 대두

사회: 방하남 (한국노동연구원 원장)

14:00-14:30

 발제 1. 한국 원·하청구조와 근로조건 격차

안주엽 (한국노동연구원 선임연구위원)

14:30-15:00

 발제2. 격차사회에 직면한 일본 지역노동운동 ― 개인가맹 유니언 활동을 중심으로

오학수 (일본 노동정책연구·연수기구 주임연구원)

15:00-15:30

 토론

일본 노동정책연구·연수기구 참가자

이정희 (한국노동연구원 연구위원)

15:30-15:50 휴식

15:50-16:50

 종합토론

일본 노동정책연구·연수기구 참가자

박명준 (한국노동연구원 국제협력실장)

오선정 (한국노동연구원 연구위원)

16:50-17:00 폐회

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社労士試験から

去る8月23日に実施された社会保険労務士試験の問題がアップされています。

http://www.sharosi-siken.or.jp/pdf/05/mondai_01_takuitu47.pdf (択一式)

http://www.sharosi-siken.or.jp/pdf/05/mondai_02_sentaku47.pdf (選択式)

択一冒頭の労基法の問題もなかなかいい問題ですが、目を引いたのは、労務管理その他労働・社会保険に関する一般常識の第5問。

わが国の企業の人材マネジメントの変化に関する次の記述のうち、誤っているのはどれか、という問いで、その「B」に:

人材マネジメントの基本的な考え方として、「仕事」をきちんと決めておいてそれに「人」を当てはめるという「ジョブ型」雇用と、「人」を中心にして管理が行われ、「人」と「仕事」の結びつきはできるだけ自由に変えられるようにしておく「メンバーシップ型」雇用があり、「メンバーシップ型」がわが国の正規雇用労働者の特徴であるとする議論がある。

という選択肢がありました。

なにい?ジョブ型だのメンバーシップ型だの、俺は認めんぞ、ペケだ!!と興奮しないでくださいね。「・・・とする議論がある。」という選択肢なんですから、あなたが気に入らなくても、そういう議論があることは確かなんです。

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日韓労働フォーラム

MERS(中東呼吸器症候群)の感染騒ぎがようやく収まったところへ、北朝鮮の「準戦時状態」宣言でまたもどうなるかと思いましたが、台風も今日には北に抜け、明日から無事に日韓労働フォーラムに行けそうです。

第15回日韓労働フォーラム「労働市場における格差拡大の現状と政策課題」(2015/08/28釜山)

報告者は、

日本の請負労働問題-経緯と実態:濱口桂一郎

韓国の社内請負の現況と政策課題:キム・ギソン

韓国の元請・下請構造と労働条件の格差:アン・ジュヨプ

格差社会に立ち向かう地域労働運動-個人加盟ユニオンの取り組みを中心に:呉学殊

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実定法と生ける法有給休暇編

これまたネット上で騒ぎになっているようですが、

http://doda.jp/careercompass/compassnews/20150814-13385.html(会社を休む理由、これってセーフorアウト!? マナーの専門家に聞きました)

https://news.careerconnection.jp/?p=15436(有給休暇に「マナー」は必要? 識者の指摘に「だから取得率が上がらない」とネット疑問視)

「マナーの専門家」が「識者」かどうかはともかく、労働基準法で労働者の権利、使用者の義務として規定されている有給休暇の話をなんでマナーの話にするんだとお怒りの方々が多いようですが、いやいやこれこそ六法全書に書かれている実定法と、現実の職場社会を支配する「生ける法」のずれというものであってですね。

112050118六法全書上の有給休暇とはひと味違うその実例を、『日本の雇用終了』からいくつか・・・・。

(1) 年次有給休暇、育児休業の取得を理由とする雇用終了

 労働者としての権利行使に係る雇用終了のうち最も典型的なものは、法律で認められた年次有給休暇や育児休業の権利を行使した(あるいはしようとした)ことを理由とする雇用終了であり、6件ある。

・10185(非女)普通解雇(25万円で解決)(不明、不明)

 会社側は「個性が強く、店のスタッフとの関係も不仲で、口論が絶えない」こと、他のパート従業員から「このままではここで働けない、やめる」との話が再燃したため、「店舗の運営を第一と考え」「不協和音を理由に」解雇を通告したと主張。本人側は「私が・・・労働基準監督署に対して申告したこと等を理由に解雇されたと判断」している。
 本人の申立によると、「有休は付与されるはずですけどもと聞いたら、次長がパートには有休はありませんとはっきり言われた」、「時間外労働手当のことを聞いたら言ってる意味が分からないといわれた」、「本部に問い合わせしたところ、雇用契約書および労働契約書は社員にはありますが、パートさんにはありませんといわれた」ため、監督署に相談し、次長が呼び出され、指導してもらった。
 これは、日常の「態度」と「発言」が交錯するケースであるが、むしろ労働法上の権利を主張するような「個性の強さ」が同僚との関係を悪化させる「態度」の悪さとして捉えられ、権利を主張しないことが「職場の和」となるという職場の姿が現れている。

・10220(正男)普通解雇(不参加)(不明、無)
 身内の不幸で有休を申し出たら、店長が「うちには有休はない。今まで使った人もいない。いきなり言われても困る。自分に聞かれても分からない」等と不明瞭な回答をし、そののち有休を取得したが、そののち解雇通告されたもの。
 会社側は「有休の取得と解雇は関係ない」、「労働意欲がなく、何度注意しても改善せず、就業に適さない。他の子に悪影響を及ぼす」のが解雇理由だとしている。なお、「店長は経験が浅く、労働法について詳しく理解していなかったのでこじれた」と説明している。
 会社側不参加のため詳細不明だが、有休と解雇がまったく無関係とも思われず、「有休=労働意欲の欠如」という認識があるようにも見える。

・30017(正女)普通解雇(打切り)(3名、無)
 社長に有休を願い出、了解を取ったにもかかわらず、その初日に「会長が大変怒っておられる。2週間も有休を取るような無責任な人は、うちには要らない」と連絡され、有休後出勤すると、会長から「要らないとは解雇の意味である」と通告。
 会社側は「通常の勤務態度や得意先の態度に当社の信用を失墜させるような行動が多々あり、その都度注意したものの一向に改善が見られないことによるもの」と説明。有休はきっかけで、本質はむしろ本人の勤務態度への認識にあるようで、「我々と社長の仕事上の指示も選り好みでものによると『こんなん私いやや社長やってえなあ』と馴れ馴れしく拒否するようになった」といった態度が許し難かったらしい。
 態度を理由とする解雇が権利行使をきっかけに噴出したケースといえよう。

・30204(非女)普通解雇(12万円で解決)(40名、無)
 会社側によれば、当日の朝「子どもが病気なので休む」と連絡があったが、当日パチンコ店にはいるのを目撃したため、勤務態度不良として解雇したもの。そもそも事前に休暇届を出しておらず、「有休とは認め難い」「単なる欠勤」との認識である。
 本来有休の利用目的は自由であり、パチンコに費やしたからといって不利益取扱いが許されるわけではないが、使用者には時季変更権があり、それが行使不可能な申請には問題がある。実際には、本当に子どもが病気であれば看護休暇の代替として認容するのが普通であろうが、実はパチンコに興じていたことで、「態度」への怒りが噴出したとみられる。

・30264(非女)普通解雇(6万円で解決)(25名、無)

 有休の権利を主張したら、社長から「うちにはない。パートにはない」と30分口論になり、実際に休んだのち、社長の叔父から「これ何や。景気が悪いから有休は出せない」と1時間説教され、さらにそののち有休を取ったら、社長から「今から仕事しなくてもよい」「首ということか?」「そうだ」「有休のことを言ったからか」「違う、休むからだ、困るからだ」とやりとり。会社側は、「零細企業においては、現実には有給休暇なんてないよねという暗黙の了解があって、これまではあまり請求もされなかったのは事実ではあるが、拒否したことはない」と述べている。
 これも権利行使が「態度」の問題となるケースだが、会社側が「零細企業の現実」を率直に語っている点が興味深い。

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問題は障害云々ではなく捨て扶持論

ネット上で結構騒ぎになっているようですが、

http://news.i-cybernet.com/news-id73678.html (ホリエモン「障害者は働くな。無駄」「多くは社会的にはプラスにはならないよ。したいならやり方を考えよう」)

http://yasuyukiarakawa.hatenablog.com/entry/2015/08/24/100929 (【検証】障害者差別発言とされているホリエモンのツイッターを順番に読んでみた(解説付き))

話が障害者差別か否かという方向にねじれてしまっているようですが、いうまでもなくホリエモン氏の昔からの持論は、障害者であるか否かを問わず、生産性の低い人間は下手に働いて人に迷惑をかけるんじゃなく、黙って捨て扶持をもらって引っ込んでろ、という点にあります。

9784165030904 わたしが、『日本の論点2010』の「ベーシックインカム論の落とし穴」で指摘したのも、まさにその点でした。

・・・・・上述でも垣間見えるように、BI論とネオリベラリズムとは極めて親和性が高い。例えば現代日本でBIを唱道する一人に金融専門家の山崎元がいるが、彼はブログで「私がベーシックインカムを支持する大きな理由の一つは、これが『小さな政府』を実現する手段として有効だからだ」、「賃金が安くてもベーシックインカムと合わせると生活が成立するので、安い賃金を受け入れるようになる効果もある」、と述べ、「政府を小さくして、資源配分を私的選択に任せるという意味では、ベーシックインカムはリバタリアンの考え方と相性がいい」と明言している*1。またホリエモンこと堀江貴文はそのブログでよりあからさまに、「働くのが得意ではない人間に働かせるよりは、働くのが好きで新しい発明や事業を考えるのが大好きなワーカホリック人間にどんどん働かせたほうが効率が良い。そいつが納める税収で働かない人間を養えばよい。それがベーシックインカムだ」、「給料払うために社会全体で無駄な仕事を作っているだけなんじゃないか」「ベーシックインカムがあれば、解雇もやりやすいだろう」と述べている*2。なるほど、BIとは働いてもお荷物になるような生産性の低い人間に対する「捨て扶持」である。人を使う立場からは一定の合理性があるように見えるかも知れないが、ここに欠けているのは、働くことが人間の尊厳であり、社会とのつながりであり、認知であり、生活の基礎であるという認識であろう。この考え方からすれば、就労能力の劣る障害者の雇用など愚劣の極みということになるに違いない。・・・・・

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『社会政策 福祉と労働の経済学』

L22058駒村康平,山田篤裕,四方理人,田中聡一郎,丸山桂著『社会政策 福祉と労働の経済学』(有斐閣アルマ)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641220584

というか、それにしても、『社会政策』ですか!

複数の学問領域にまたがる「社会政策」を,社会保障政策と労働問題を有機的に連携したものととらえ,経済学の手法で分析する意欲的テキスト。いま注目される住宅政策も取り扱う。現状や制度,歴史的経緯などにも目配りし,バランスよく叙述する。

いや、その昔は『社会政策』というタイトルの教科書がいっぱい出てましたな・・・(遠い目)。というか、「社会政策」という学問分野がまだ存在してた。

いつしか労働系の人々は「社会政策から労働問題へ」と口々に唱えて労働問題研究者となり、いっぽう社会保障を研究する人々は「ソーシャル・ポリシー」と唱え、一応社会政策学会という所に席を同じうしているように見せかけながら、その実は心の中は限りなくかけ離れてうん十年・・・であったわけです(表現にやや誇張あり。

うん十年後に『社会政策』といういかにも古めかしいタイトルで出されたこの本は、しかしながらまさに現代的な「労働と社会保障の交錯」という問題状況が産み出したものと言えるでしょう。

下に、私が編著の『福祉と労働・雇用』(ミネルヴァ書房)の「はしがき」に書いた認識を引用しておきますが、本書はそういう時代認識を踏まえて、改めて労働と社会保障という両分野を有機的に連携させて総体としての現代社会政策を描き出そうとしたもので、著者らの意欲が伝わってくる教科書です。

序 章 社会政策の射程
第1章 社会政策はなぜ必要か
第2章 社会政策の経済理論
第3章 所得格差─不平等の測定と評価
第4章 社会保障の財政─再分配の機能と規模
第5章 貧困─生活保護
第6章 労働市場─日本型雇用システムと労働問題
第7章 労働条件─労働規制と労災保険
第8章 失業─雇用保険,能力開発と雇用保護法制
第9章 障害─生活保障と社会参加支援
第10章 育児─保育サービスと育児休業
第11章 住宅─公営住宅と住宅手当
第12章 健康─医療保険
第13章 介護─介護保険と介護休業
第14章 老齢─年金保険
終 章 社会政策の将来展望

あえて望蜀をいえば、育児だけでなく、教育もまた社会政策の基軸の一つだというのがあれば良かったかな、と。

(参考)

120806『福祉と労働・雇用』はしがき

 本書は、『福祉+α』というシリーズの一巻として『福祉と雇用・労働』と題されている。他の諸巻が福祉・社会保障政策のある分野なりある側面を切り出して論じているのに対し、福祉・社会保障政策と雇用・労働政策という一応別領域に属するものを「と」という接続助詞でつないで、その間の関係を論じている点に特徴があると言えるだろう。
 もっとも、福祉・社会保障政策と雇用・労働政策がどこまで別分野なのかということ自体、考え方によって、また時代によって必ずしも答えは一つではない。政府機関でいえば、戦後1947年に労働省が新設されるまでは厚生省が両者をともに管轄していた。厚生省が設置される1938年以前は内務省の外局である社会局が労働部、保険部、社会部の3部体制でこれら政策を担当していた。これに対応して、学問分野としても「社会政策」という領域が確固として存在し、現在の福祉・社会保障政策と雇用・労働政策を含めた総体を研究していた。この時代は福祉・社会保障政策と雇用・労働政策は別の存在ではなく、むしろ一体をなしていたのである。
 これに対し戦後両者の関係は次第に疎遠になってきたように見える。「社会政策学会」という名の学会は今日に至るまで存在し続けてきているが、とりわけ高度成長期から安定成長期に至るまでの時期は、労働・雇用問題の研究と福祉・社会保障の研究は別々の問題意識に基づき、別々に行われてきたようである。その背景としては、高度成長期に確立した日本型雇用システムにおいて、大企業の正社員を中心として企業単位の生活保障システムが相当程度に確立し、公的な福祉を一応抜きにしても企業の人事労務管理の範囲内で一通りものごとが完結するようになったことがあろう。福祉・社会保障政策はその外側を主に担当する。その意味では、福祉と労働の幸福な分業体制が存在していたとも言えよう。
 これを逆に言えば、日本型雇用システムによってカバーされる範囲が徐々に縮小し、企業単位の生活保障からこぼれ落ちる部分が徐々に増大してくるとともに、両者がどのように密接に連携しているのかあるいはいないのかが、次第に大きな問題として浮かび上がってくることになる。今日、「福祉と労働・雇用のはざま」の問題が様々に論じられるようになってきたのは、一つにはこうした日本社会システム全体の大きな転換が背景にあると思われる。
 またこれと裏腹であるが、家族を扶養する男性正社員を前提とした労働・雇用の枠組みの中に、家事・育児責任を負った女性労働者が入り込んでくることによって、これまで見えなかった子育て支援の必要性が可視化されてきたり、仕事と家庭の調和といった問題意識が浮かび上がってくる。これもまた「福祉と労働・雇用のはざま」の問題として論じられることになる。


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「労働の人間化」の極致としてのブラック企業

「労働の人間化」(=QWL:労働生活の質)の極致としてのブラック企業

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『日本の雇用と中高年』短評

26184472_1 拙著『日本の雇用と中高年』(ちくま新書)に、ツイートで短評がありました。「 コパさんアートブック」さんです。

https://twitter.com/co8_/status/635798153820659712

濱口桂一郎「日本の雇用と中高年」読む。若者に比べて問題にされることのない、中高年の雇用問題について。求人の年齢制限、名ばかり管理職、定年制など、いろんなトピックの「ねじれ方」がわかる。各種政策委員会や判例の歴史的言質とその知識社会学的な背景もふまえた、とても実直な筆致でした。

https://twitter.com/co8_/status/635798512882479104

「日本の雇用と中高年」職務も勤務地も労働時間も限定されない、世にも珍しいメンバーシップ型の日本雇用から、それらを限定するジョブ型の正規雇用を増やすことの提言。是々非々はあるだろうけど、そもそも毎日肩までつかっている日本の雇用のあり方を相対化するにはよい本。辞めるけど!辞めるけど!

「とても実直な筆致」という評言は、大変ありがたいものです。

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『人事の潮流』経団連出版

Bk00000380『人事の潮流』経団連出版を讃井暢子さんよりお送りいただきました。ありがとうございます。

https://www.keidanren-jigyoservice.or.jp/public/book/index.php?mode=show&seq=380&fl=1

守島基博(一橋大学大学院教授)、藤村博之(法政大学大学院教授)、河合江理子(京都大学大学院教授)ほか17名の研究者や専門家が、現在の人事労務の問題点や未来の人材マネジメント、イノベーティブな企業の創成について解説。

ということで、以下のような方々が寄稿しています。

Ⅰ パラダイムシフトする人材マネジメント
人材マネジメントの新たな枠組みの必要性/守島基博
「職場」機能の再認識と現場人事/西村孝史
人材管理の常識を問い直す/島貫智行
終わりなき「人事システム」の変革/江夏幾多郎

Ⅱ イノベーティブな企業の創成
挑戦する企業風土を醸成する/藤村博之
「未来に開かれた働き方改革」の実現/鶴光太郎
定年後も居続けてほしい人材の育成/高木朋代
企業の変革を阻害する三つの壁/高橋克徳
これまでにない「人事の役割」/阿部正浩
人材の多様化に合致した働き方を整備する/大嶋寧子
企業業績を高める組織的アプローチ/一守 靖
組織変革を導く隠れた一手/高田朝子
層別人材マネジメントと「隠れた人材コスト」削減/守島基博
経営者は将来の方向性を示せ/新 将命
海外からみた人材育成上の課題/河合江理子
ポスト工業化社会への舵取り/太田 肇
働き方の多様化と人事管理の自由化/今野浩一郎

この中で、後半の方に入っている守島さんの「層別人材マネジメントと「隠れた人材コスト」削減」は、ちょっと刺激的なことを言っています。ここでいう「層別」の「層」とは、例の働く蟻さんの話で有名な「2・6・2」、つまり優秀層2割、中間層6割、対処の必要な層2割のことです。

今後、この3層についてはっきりと異なった人材マネジメントをしていかないと、「隠れた人材コスト」が大きくなり、企業にとってマイナスが大きくなるという主張です。

じゃあ、具体的にどうするべきか?は、是非本書をぱらぱらとめくって確認してください。


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いやだから・・・・

労務屋さんが『エコノミスト』の海老原提案に反応されているのですが、

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20150824#p1(海老原嗣生氏のさりげなく大胆な提案)

いやだから、グレードとか言うんじゃなくて、セグメント化だと言うとるわけですが。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-8dd5.html(海老原嗣生『偏差値・知名度ではわからない 就職に強い大学・学部』)

・・・まことに、もともとセグメント化されていた労働市場が、就職情報会社によってノンセグメント化されたかのごとき幻想を振りまいてしまったことが、今日の悲喜劇(喜劇の代表が例の岩波書店問題でしょうが)のもとになっていることを考えれば、海老原さんがこういう本を書かれるのはまことに理にかなったこととも言えましょう。・・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-76b7.html(岩波書店と新卒採用問題)

・・・実をいえば、近年の就活問題の深刻化は、猫も杓子も大学に進学するようになり、セグメント化された労働市場が縮小し、みんな大海に漕ぎ出さなければならなくなったことに一つの原因があるわけで、ある種の「実績関係」というのは、労働市場で決して強い立場にない中小企業やそこに就職する人々にとっては有用な仕組みでもあったわけです。・・・

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-739e.html(かくもしつこい岩波ストーカー記者はこちらでしたか)

・・・現実の市場というのは、とりわけ労働市場というのは、さまざまな形でセグメント化されることで意味のあるアクセスが可能となり、意味のある面接が可能になるわけで、それはお互い時間と空間の限られた生身の人間同士のやることである以上あまりにも当たり前であるわけですが、それが近年の全部がネット上でクリック一つでやれてしまう、やれたような気になってしまうバーチャル労働市場の悪しき影響で、生身であることを忘れたこういう議論が横行することになってしまうわけです。・・・

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インターバル規制の拡大を@『労働新聞』

平壌じゃない方の『労働新聞』8月24日号の「主張」に、「インターバル規制の拡大を」というのが載っています。

http://www.rodo.co.jp/periodical/news/20158173029.php(リンク先に記事なし)

中身は、8月10日号にのったJTBグループ9社でインターバル規制が導入されたという話をネタに書かれており、本ブログでも既に取り上げたところですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/jtb-7b0a.html(JTBグループ労連でインターバル規制)

その「主張」の最後で、ちょっと踏み込んだことを書いています。

・・・我が国の労働時間短縮は、ここに来て停滞気味である。現行の割増賃金規制だけでは、一段高いハードルを乗り越えることができないかも知れない。・・・・

今国会に上程している労働基準法改正案は、労働時間規制の緩和が主題となっている。次の同法改正では、長時間労働規制の質的な飛躍につながる議論を求めたい。

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『争点』批判へのコメント?

Show_imageアモーレと労働法によれば、大内伸哉さんが、『労働法の争点』に対する萬井隆令さんの批判(『労働法律旬報』7月上旬号)に対するコメントをされるようです。

http://souchi.cocolog-nifty.com/blog/2015/08/post-82b8.html

・・・そのあと,萬井先生が労旬に書かれた,『労働法の争点』批判が話題になりました。本庄君もJILPTの山本君も批判の対象とされたそうで,私はそれをまだ読んでいないのですが,合宿が終わると是非目を通して,コメントをしてみたいと思います。

これは楽しみ。

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若森みどり『カール・ポランニーの経済学入門』

201320 ある方のお薦めで買って読みました。

実を言うと、、カール・ポランニーはもう40年近く前に大学のゼミで読まされて以来、物事を考える際の一つの基軸であり続けています。

http://www.heibonsha.co.jp/book/b201320.html

その時に読まされた『大転換』(旧訳、悪魔の挽き臼の絵が表紙の奴)が、大学時代の本を次々と手放していってもなぜか手元に残り続け、未だに書棚に鎮座しています。

20年近く前に、ブリュッセルに勤務していた頃、当時連合総研におられた井上定彦さんと鈴木不二一さんが来訪さ61851yodrll__sl500_sx349_bo12042032れて、吞みながらあれこれ喋っていて、何かの拍子にポランニーの話になって、とても意気投合したこともありました。

今よみがえるポランニーの思想には、「人間のための経済」への想像力がある。民主主義を犠牲にしてまで経済効率が優先される現代世界の状況を警告したその思索をたどり直し、ポスト新自由主義時代を見据えた「人間の自由」を問う。市場システムへの自発的隷従という呪縛を解き、産業文明における良き社会の可能性を探る一冊。

日本に戻ってからいろんなところでものを書いたり喋ったりするようになって、基本的には雇用労働の個別問題を論じているのですが、ちょっと風呂敷を広げると、そこに奥から出てくるのは若い頃に学んだポランニー的な枠組みであったというのは、たとえばこれなんかによく現れていますね。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/keieiminshu1.html (EU労働政策の新たな方向(『経営民主主義』2000年夏号)

冒頭のある方は、本書の参考文献に私の「「失敗した理念の勝利」の中で」が載っているよ、ということで知らせてきたのですが、これも、欧州労研の論文集の紹介なのですが、その根っこにある思想は、ポランニー的なものだと思います。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/seikatsurinen.html「失敗した理念の勝利」の中で(『生活経済政策』2012年4月号)

・・・・この急激な経済思想の逆転劇を、去る2012年1月に刊行された欧州労研(欧州労連の附属研究機関)の報告書は「失敗した理念の勝利(A triumph of failed ideas)」*1という苦い題名の下に描き出している。この言葉は、アメリカの経済学者ポール・クルーグマンがニューヨークタイムズ紙のコラム(「ゾンビが勝利するとき」*2)で書いた次の文章からきている。「歴史家が2008-2010年を振り返ったとき、一番不思議なのは、私が思うに、失敗した理念の奇妙な勝利だろう。自由市場原理主義はあらゆることについて間違ってきた--なのに、そいつらが今やかつてよりも全面的に政治の場を支配している。」もちろん、クルーグマンは米国のコンテキストでこの台詞を述べているのだが、それをちょうど現在の、金融危機がソブリン危機に転化することで、それまでの金融資本主義批判の雰囲気が一気に緊縮財政、公共サービス削減に転換してしまった現在のヨーロッパの政治状況を批判する台詞として使おうとしているわけである。

 ほんの数年前には「失敗した理念」と烙印を押されていた死せる経済思想の奇妙な「黄泉帰り」をもたらしたものは何か?同報告書は、EU各国の様々な資本主義モデルとそれらが示した危機への対応の様相が、逆説的に今日の市場原理主義の制覇をもたらしたことを明らかにしている。

本書が力を込めて描き出しているのは、そしてその原典であるポランニーの『大転換』が説いているのは、19世紀に猛威をふるい、次第に「社会の自己防衛」により押しとどめられてきていた自己調整的市場への信仰が、第一次大戦後のヨーロッパ大陸という、もっとも不適切な時期に不適切な場所で、絶対正義として押しつけられ、その結果ファシズムを生み出してしまったという苦い経験ですが、それとほとんど同型的なパターンが、ソブリン危機後のヨーロッパで繰り返されているということほど、一度目の悲劇を二度目の喜劇で繰り返してもまだ飽き足りずに三度目の正直を狙っている歴史の皮肉を感じざるを得ません。

Atriumphoffailedideaseuropeanmodels 上の論文で紹介した欧州労連の『失敗した理念の勝利:危機における欧州資本主義モデル』(2012年)の続編が、『分断された統合:欧州における失敗した理念の勝利-再訪』として今年刊行されています。

http://www.etui.org/Publications2/Books/Divisive-integration.-The-triumph-of-failed-ideas-in-Europe-revisited

Divisiveintegrationthetriumphoffailこれらの本で欧州労連が警告を発しているのは、まさに欧州統合という名の下に、各国民を分断するような政策が進められているということに対してです。

こういう現代ヨーロッパの姿を頭に置きながら、若森さんの本を読んでいくと、どきっとするような記述が一杯出てきます。

なぜ、失敗した理念が勝利し続けるのか?

ポランニーの問いは現在もなお生きています。

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L型談義

Twitter上でちょっとしたL型談義があったようで、

https://twitter.com/iida_yasuyuki/status/634885578018832384

正直L型大学論で出てる「実学」って,全然仕事の役に立たないと思う.まさにコモディティ化しつつある技能を教えてどうすんだと.そしてコモディティへの特化をすすめるコンサルってコンサルとしてほんとに有能なの?

https://twitter.com/T_akagi/status/635086919152435200

L型大学の学生が受け入れられる余地があるなら、現状でも大学生よりも、専門学校の生徒がもてはやされてるはずですよね。

https://twitter.com/juns76/status/635089539812323329

Fラン大学と実学教える専門学校を比較すれば専門学校のほうが就職優位な現実があるんだよ

今の中堅大学がL型大学化して実学教えれば就職は間違いなく良くなるでしょ

https://twitter.com/juns76/status/635090069297074176

赤木智弘も飯田泰之も中小企業の実態知らないくせにいい加減なこと言わないほうがいいよね。

https://twitter.com/juns76/status/635090817560899584

「L型大学論で言われてる実学って全然仕事の役に立たないと思う」と主張する飯田泰之と赤木智弘の両名がどっちも、一般企業で働いたことがないという点について。

働いてから物言えよ。

https://twitter.com/kumakuma1967_o/status/635210511311749120

大学にいるのはむしろそういう一般企業で働いたことない人たちなんですが。

https://twitter.com/adiabaticQC/status/635093377713729536

うちの職場に高専卒(卒業後は豊橋技科大や阪大,東工大へ編入)がいますが,それはそれは優秀です。飯田泰之と赤木智弘は何もわかってへんな。>RT

https://twitter.com/kumakuma1967_o/status/635213404525867008

その「職場の人」はL型でない大学卒ですよね。(もちろん高専卒の人も優秀です。)じゃあなんで「理系は高専が主流」になってないのかな?

https://twitter.com/kumakuma1967_o/status/635213550240198656

だいたい、高専はかなりグローバルに通用する教育してて、L型とかじゃねえよ。

https://twitter.com/kumakuma1967_o/status/635216652301299712

L型大学よりはちゃんとした高等専門学校や専門高校がもっと必要なのかもねぇ。とは思うんだが。

https://twitter.com/juns76/status/635264893151645697

それは、高校卒業の時点で、筑波大や東大工学部のほうが高専より、優秀な人材が集まるからだよね。

Bランク以下の人材に対して、どういう教育をするかってことなんだよね。

実学重視っていうのは間違いではない。つか、4年かけて弥生会計の使い方のみ教えるって話じゃないだろうに。

毎度おなじみの話のねじれ具合ですが、この手の議論がお約束のように必ずねじれていくのは、どのレベルの大学、どのレベルの学生の話をしているのかという肝心要のところを意識的に曖昧にするという悪癖が原因なのでしょう。

高校レベルでいえば、何回か紹介しているように、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/6-3e75.html (「日本型雇用システムと職業教育の逆説」@『産業と教育』6月号)

・・・最初の普通科X校は、偏差値36である。尼崎に近いところのようで、ずっと定員割れが続き、入学者の半分しか卒業に至らず、卒業者の半分がなんとか就職にこぎ着ける。先生方は丁寧な寄り添うような進路指導をするのだが、いわゆる「荒れた学校」で、授業が成立しないような生徒たちに履歴書を書かせるので精一杯であり、その困難はきわまる。

 次の工業科Y校は、偏差値37である。中小企業集積地とあるので東大阪であろう。偏差値はX校と大して変わらないが、入試倍率は1倍を下回ることはなく、就職実績は遙かに高い。約3割は工学系の大学や専門学校に進学し、7割が就職するがすべて正規雇用で、大手・中堅も多い。

 非常に面白いのがY校と同じ地域にある普通科Z校であり、偏差値37である。X校同様の「荒れた学校」として「Z校に行っているなんて、とても言えない」ような状況だったが、地元密着の学校づくりを目指し、普通科高校でありながら2年次から専門コースを設け、週1回インターンシップに行かせるなどしたところ、その評判は「見違えるくらい変わった」という。

 というとZ校の成功物語のようであるが、実はよくなったのは専門コースだけである。そして、2013年度からこの専門コースを総合学科として独立させることになっていて、取り残された普通コースは依然として「困難校」のままである。同じ偏差値なら普通科に行くより専門高校に行く方がはるかに人生の未来が開かれるというこの現実を、しかし普通科進学が議論の余地なき「善」であった時代に青年期を過ごした世代の親たちは、必ずしもよく知らないまま子供たちの進路を左右しているのではなかろうか。

こういう実態に対して、いや俺が出たかつての日比谷高校はなんたらかんたらとご託を並べて反論したつもりになっている痛い人々が多すぎるというのが最大の問題なのでしょう。いや、ここで問題になっているのは、そういう「普通科」じゃなくって、こういう「普通科」なんだよ、と幾らいってもわからない。

もちろん、それは単純に「むちむち」だからなんじゃなくって、ほんとはうすうすそういうことはわかっているくせに、それを正面から認めると自分の生計に直接響くものだから、わざとわかってないふりをして、たとえば京大総長の(当該大学に適用する限りそれほど間違っていない)台詞を鬼の首を取ったみたいにもって回りたがるわけでしょうが。

それにしても、いつまでこういう「ごっこ」遊びみたいな空疎な議論を続けるつもりなのだろうか、としみじみ思いますね。

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パプーシャの黒い瞳

ポーランド映画。

http://www.moviola.jp/papusza/

T0019731q 書き文字を持たないジプシーの一族に生まれながら、幼い頃から、言葉に惹かれ、文字に惹かれ、こころの翼を広げ、詩を詠んだ少女がいた。ブロニスワヴァ・ヴァイス(1910-1987)、愛称は“パプーシャ”。ジプシーの言葉で“人形”という意味だ。彼女は成長し、やがてジプシー女性として初めての「詩人」となる。しかし、その天賦の才能は彼らの社会において様々な波紋を呼び、その人生を大きく変えることになった……。

生まれたときは第一次大戦前なのでロシア領だったはず。少女時代も独立共和国とはほとんど縁のない放浪の生活。ナチスの占領をくぐり抜けて、社会主義体制下で定住化政策が進められ、それと独自の文化を守ろうとするジプシーたちの対立という大きな時代の流れが背景にあって、その狭間を生きざるを得なかった彼女の悲劇が際立って浮かび上がるのでしょう。良かった。

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その「社会民主主義」ってどこの社会民主主義?

よくわからないツイートがあったので、

https://twitter.com/oxomckoe/status/634293141403648000

社会民主主義を支持するということは、不便に耐えるということであり、田舎の生活に馴染むということで、率直に言って東京に暮らしているという段階でその人はネオリベだと思う。

これ、ほんとに意味がよくわからない。イギリスの労働党でもないし、フランスの社会党でもないし、ドイツの社会民主党でもないし、とにかく私の知ってる社会民主主義のどこをどうひっくりかえしても、「不便に耐えるということ」とか「田舎の生活に馴染むということ」とかいうのと結びつかない。イメージ的にはむしろ逆。

一般的に、田舎に引っ込んでいる人よりも都会で生活している人の方が保守政党よりも社会民主政党に投票するという傾向があるのは昔から政治学でいわれていますしね。イギリスの投票地図を見ても、ロンドンや中部の産業都市とスコットランドが労働党の地盤で、イングランドの田舎が保守党の地盤。

日本のかつての社会党というのも、西欧のまともな社会民主主義からしたら相当に異常な代物だったのは間違いないけれど、それにしても田舎に引っ込んで不便に耐えるというのとはあんまり結びつかない。都市と田舎の投票傾向は西欧と同様だったし。

今ではかつての社会党の名残の社会民主党というのは都市でも田舎でもほとんど存在感のないミニ政党になっていて、田舎に支持層が一杯いるわけでもない。

皮肉でも反論でもなく、単純に、どこのどういうイメージでこういうツイートになるのかがわからないので。

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ブラックバイトが問いかけるもの@『労基旬報』2015年8月25日号

『労基旬報』2015年8月25日号に「ブラックバイトが問いかけるもの」を寄稿しました。

タイトルから想定される中身よりも、数段皮肉の効いたものになっているのではないかと思います。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo150825.html

 2012年に今野晴貴『ブラック企業』(文春新書)が刊行されて以来、労働論壇の注目トピックはブラック企業問題でしたが、最近そこにブラックバイトという言葉が付け加わったようです。今年4月に刊行された大内裕和・今野晴貴『ブラックバイト』(堀之内出版)も話題を呼び、厚生労働省も今年3月には「アルバイトの労働条件を確かめよう!」キャンペーンを実施し、6月には 「アルバイトの労働条件」について労働基準局長と大学生の座談会が開催されるなど、政策課題としても注目されつつあります。

 ブラックバイトとは、「学生であることを尊重しないアルバイト」と定義されます。具体的には、学生に対して拘束力が強まり、試験前や試験期間にテスト勉強ができないとか、講義やゼミをアルバイトのために欠席してしまい、単位を落としてしまうといった事態が頻発しているというのです。

 この問題を特集している『POSSE』27号によると、ブラックバイトとは(a)職場への過剰な組み込み、(b)最大限安く働かせる、(c)「職場の論理」に従属させる人格的支配からなるということですが、これは今までの日本型雇用システムにおける正社員に適用されるロジックと非正規労働者に適用されるロジックの奇妙な組合せになっていることがわかります。

 しかし、筆者も含めた上の世代には、こうした最近のアルバイト事情はなかなか伝わりにくいようです。なぜブラックバイト問題が上の世代に伝わりにくいかというと、上の世代にとってはブラックではない学生バイトが当たり前だったからです。かつては、学生の都合に合わせてシフトを調整するという企業が当たり前であったのです。ところが、それが大きく変わってしまいました。

 実は、これはアルバイトと並ぶ伝統的非正規労働形態であるパートタイマーにおいて先行して起こった非正規労働の基幹化という事態の、文脈を異にした再現という面もあるのではないかと思われます。

 ただし、パートの場合は、主婦が片手間にパートをしている→パートの仕事が基幹化して肝心の主婦業がおろそかになっている、ケシカラン・・・という主婦モデルからの批判が主流化する方向には行かず、パートといえどもれっきとした労働者だ→パートの仕事が基幹化してきたのなら、それに応じた処遇にしろ・・・という労働者モデルからの批判が主流化する方向に行きました。そして、家事育児といったそれまで主婦の「本業」と考えられていたことどもについては、(もちろん社会意識は必ずしもそうなっていませんが)労働者みんなにとってもその間のバランスを取られるべき問題であるというWLBモデルが主流化していきます。

 また、いわゆるフリーターの場合は、主婦や学生といった社会学的「本業」がないだけに、より直裁に、かつての臨時工をめぐる議論に近い形で、労働者モデルからの批判がされました。

 これに対して、ここに来て改めて学生という社会学的「本業」とのコンフリクトが前面に出てくる形で非正規労働者の基幹化がクローズアップされてきたわけです。

 とすると、目の前の様々な問題を一旦括弧に入れて、マクロ的にものごとの推移を考えれば、
・学生が片手間にバイトをしている→バイトの仕事が基幹化して肝心の学生業がおろそかになっている、ケシカラン・・・という学生モデルからの批判
・バイトといえどもれっきとした労働者だ→バイトの仕事が基幹化してきたのなら、それに応じた処遇にしろ・・・という労働者モデルからの批判
という二つの方向性があることがわかります。現時点では、この両方の流れが入り交じっています。

 主婦モデルが(意識は別として)政策レベルでは過去のものになりつつあるのに対し、学生モデルは現在でもなおかなりの正統性を持っています。だからこそ「学生であることを尊重しないアルバイト」という単純明快な定義がされるわけです。「主婦であることを尊重しないパート」がブラックパートだなんて言ったら、アナクロニズム扱いされるのとは違います。

 しかし、私はむしろそこにブラックバイト現象を根っこのところで生み出している問題点があるように思います。それは、そんなに大事な大学の授業って、ほんとにそんなに大事なの?という肝心要のところで、実は必ずしもそうだと思われていない、とりわけ人文社会系の学部ではそういう傾向が強いという、みんなうすうすわかっている問題です。その背景にはもちろん、中身は空白の石版でも、働く意欲だけは満々であることが求められる「就活」があるわけです。そこまで踏み込まないでこの問題を議論しても、表層的な議論にとどまっている感をぬぐえないところがあります。

 やや先走って言うと、学生が大学で受ける授業とコンフリクトのない正しい就労形態というのを追求していくと、それこそドイツのデュアルシステムとか、アメリカのインターンシップモデルのような産学連携型の学習と労働の組み合わせという方向にならざるを得ないのではないでしょうか。しかし、それこそ人文社会系の大学の先生方から口を揃えて非難囂々の政策なのです。

 

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ユニクロの変形時間制

日経の一面トップにでかでかと載っていますが、

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ19HPS_Z10C15A8MM8000/(ファストリ、週休3日制導入 地方の正社員1万人対象)

ファーストリテイリングは10月、週に4日働いて3日休む制度を国内の全従業員の5分の1に当たる約1万人の正社員を対象に導入する。介護や子育てのために正社員を諦める層のつなぎ留めや採用増などにつなげる。人材獲得競争が激しくなる中、人手不足感が強い小売業やサービス業を中心に勤務体系を柔軟に見直し働き方を多様化する動きが広がりそうだ。・・・

人手が集まらなくて店を閉めざるを得なくなっているWとかDとかを尻目に(http://www.asahi.com/articles/DA3S11922848.html)、かつては同じようにブラック企業と叩かれていたユニクロが、いまや限定正社員、ワークライフバランスの星として賞賛されるようになるとは、今野さんらも予想もしていなかったでしょう。この辺は経営者としてのすごさなんでしょうね。閑話休題。

実はこの記事、よく読んでいくと、

・・・1日8時間の勤務時間を10時間に延ばすため、1週間あたりの給与水準は変わらない。・・・

と、要するに変形労働時間制であることが分かります。これ、労働法関係者は知っているように、終戦直後の労働基準法制定当時からある仕組み(若干変化あり)です。今までだって、ごく普通にやれた制度です。それをやらなかったのはなぜかと言えば、正社員というのはそんなもんじゃないと思い込んでいたからだけでしょう。

ある企業が変形労働時間制を導入しますという、「ふう~ん、それで?」となるような話題が、日経の一面トップを飾って、「多様な働き方広がる」と見出しがつけられるというところにこそ、ブラック企業だったはずがいつの間にかホワイト企業の代表みたいになっちゃったユニクロのすごさが現れていると言うべきか。

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言葉の運命

面白いことに、わたくしがこねて作った言葉のうち、「りふれは」(≠「リフレ派」)は、わりと私が意図した意味で使われることが多くなったようです。もちろんそれは、ネット上での著名な「りふれは」(≠「リフレ派」)諸氏の様々な言動のしからしむるところであって、それら言動を目の当たりにした人々がその印象を言い表すのに「りふれは」(≠「リフレ派」)という用語がぴったりしたということなのでしょう。

これと対照的なのが、それ以前から結構気の利いた言葉だと思ってこねて作ったつもりの「リベサヨ」が、

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%EA%A5%D9%A5%B5%A5%E8

リベラル左派。左派を自任しながら国家権力の介入を嫌悪するあまり新自由主義(ネオリベラリズム)に近づく層。濱口桂一郎の造語。

現実のネット界では、99.5%以上全く違う意味で使われてしまっていて、「リベサヨ」の「リベ」が「ネオリベ」ないしヨーロッパ諸語でいうところの「ソーシャル」の反対語としての「リベラル」の「リベ」であると正しく認識して使っている方はほとんど見当たらない(「ふくろうおやじ」さんくらいか)、という状況です。

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職業教育忌避の原点は戦時期の記憶

金子良事さんつぶやいて曰く

https://twitter.com/ryojikaneko/status/633555635506819072

戦時期の本を読んでたら、まあ、戦後教育の人たちが職業教育を嫌ったのも分かった気がした。あれは完全にマンパワーポリシーへの反発だよね。そりゃ、清水義弘(の政策)が生理的に嫌われるわけだわ。

いやだから前からそう云うてます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/kikan242.html(「職業教育とキャリア教育」 『季刊労働法』242号)

戦時下には1941年に国民学校高等科に必修として実業科をおき、これを高等科教育の根幹としました。また、中学校、高等女学校では芸能科及び実業科がおかれました。しかし、戦争が激しくなると、実業教育的学習は勤労動員の中に吸収されてしまいました。これが戦後非難の的になり、勤労に対する拒否反応が強く、普通教育における実業教育の伝統を正当に評価できなくなってしまいました。

その結果、戦後も

戦後、新制中学校では、国民学校高等科の実業科を受け継いで必修教科として職業科をおきました。これは農業、工業、商業、水産、家庭の諸科目と職業指導を合わせ、一般教育、職業指導及び職業準備の3つの目標を持つものとして設けられました。ところが、この趣旨は理解されず、ほとんどなおざりとなり、混乱と不振を極めました。そこで、1951年には職業・家庭科として生活技術学習とされました。その後、1962年からは技術・家庭科として、男子向けには工業中心の内容、女子向けには家庭科中心の内容となりました。職業指導的側面は教科からは消え、進学指導とともに「進路指導」とされ、学級活動の一部となってしまったのです。

 さて、戦前から女子については小学校及び中等学校レベルで裁縫と家事が必修とされており、戦後の高等学校でも家庭科が必修とされてきました。女子差別撤廃条約の批准を契機として、1989年の学習指導要領の改正によりようやくこの男女差別が解消されました。これはすべての男女生徒に職業人教育を課すようにするためのいい機会でしたが、家庭科関係者の反対で実現しませんでした。

ということになってしまったわけです。

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富士通総研早川英男氏の「今こそ「日本的雇用」を変えよう」

富士通総研のサイトに、同総研の早川英男氏(元日銀理事)による「今こそ「日本的雇用」を変えよう」という2回にわたるコラムが載っています。

http://www.fujitsu.com/jp/group/fri/column/opinion/201508/2015-8-3.html

http://www.fujitsu.com/jp/group/fri/column/opinion/201508/2015-8-4.html

読んでいくと、どこかで見たような記述がいっぱい出てきます。

というか、こういうのを見ると金子良事さんあたりはまた「hamachanの影響力おそるべし」とか云ってからかうんでしょうけど。

・・・長い間、日本的雇用とはJ. アベグレン(『日本の経営』、1958年)の言う終身雇用、年功序列、企業別組合の「3種の神器」に他ならないと考えられてきた。しかし、近年は濱口桂一郎労働政策研究・研修機構主席統括研究員が提起した「メンバーシップ型」雇用という概念が多くの識者の注目を集めている。ここで「メンバーシップ型」雇用とは、「『女房子供を扶養する男性正社員』を前提に仕事の中身も、働く時間も、働く場所すらも無限定に会社の指示のままにモーレツ社員として働く代わりに、新卒一括採用から定年退職までの終身雇用と、毎年定期昇給で上がって行く年功賃金制を保証された働き方」のことである(注3)。この概念の中核は、職務(ジョブ)内容が無限定だという点にある。日本で「あなたの職業は何ですか?」と問われると、大抵は会社員、サラリーマンなどと答えるが、これはまさに職務が限定されていないためである(大企業であれば、むしろ「○○社に勤めている」と答えた方が分かりやすい)。一方、欧米などでは、どの会社で働くにしても職務内容が明示された仕事に就くのが普通であり、上記の質問にも設計技師、経理、窓口業務(テラー)、秘書などと答えるだろう。これが「ジョブ型」雇用と呼ばれるものである(ちなみに、日本でもパートやアルバイトなどの非正規雇用は、普通ジョブ型である)。

ここで、「メンバーシップ型」雇用について、いくつかの重要なポイントを指摘しておこう。まず第1に、終身雇用や年功序列賃金は定義の中に含まれているし、こうした無限定な働き方の労働者を組織するには企業別組合以外あり得ない。したがって、従来の「3種の神器」という捉え方と矛盾するものではない。しかし第2に、終身雇用や年功序列に着目すると、労働者にとってのメリットが強調されがちであり、経済学的にも合理性が説明しやすい(注4)。これに対し、「メンバーシップ型」雇用の概念では「残業、転勤、何でもあり」というデメリットも明示されているという違いがある。実際、先の濱口氏の定義を一読すれば、私たち日本人は手に取るように分かるが、多くの欧米人にとっては「残業、転勤、何でもあり」などといった働き方自体がほとんど理解不能だろう。第3は、こんな無限定な働き方は、賄い付きの独身寮に囲い込まれた若者を別にすれば、専業主婦である配偶者(または自宅通勤の場合、専業主婦の母親)に支えられない限り容易ではないということである。・・・

・・・このように、「日本的雇用」が成功を収めると、他の制度もそれを前提とする形となって行った。故青木昌彦教授の比較制度分析の言葉を使えば、制度的補完性の形成である(注5)。その1つが、税・社会保障制度である。日本では、無限定正社員である夫と専業主婦である妻+子どもからなる世帯を「標準世帯」と呼び、これを前提に制度が組み立てられた。その特徴は、社宅や住宅ローン、レジャー・スポーツまでを含む福利厚生を企業に押し付け、高齢者の介護を専業主婦のいる家庭に押し付けることで、社会保障負担を軽減し、「小さな政府」を実現するというものだった。言わばその「見返り」として設けられたのが、税制面での配偶者控除であり、厚生年金の3号年金(専業主婦は保険料を払わなくても、夫の保険料のみで年金受給権が与えられる)という専業主婦を優遇する制度だ。(4)で述べるように、後にこれらは女性の労働参加を抑制する制度として問題となってくる。

もう1つは教育である。前述のように、日本企業は学校での職業教育に期待せず、自らOJTで職員の教育を行う方針を採ったが、これは職業教育の価値を評価しない教育関係者からも歓迎された。その結果、学校は職業教育を事実上放棄して一般教養を重視することとなり、大学進学を目指さない生徒まで普通高校に通うことになった(工業高校、商業高校の多くは普通科に転換した)。中卒が普通だった時代と違い、大学進学者が増えた時代においても、本当に企業内のOJTの方が学校教育より優れていたのかは疑わしい。しかし、「自社流のやり方」に自信を深めていた多くの大企業が新卒採用時に「地頭は良いが、色に染まっていない」学生を求めたため、大学でも一部の理工系を除いて職業教育が行われることはなかった。ここで注目すべきは、企業がOJTの吸収力を保証する地頭の指標として大学の序列(後には偏差値)を使った結果、厳しい受験競争が繰り広げられた一方、大学で学んだ学問内容を重視することはなかったため、大学がレジャーランドと化したことである(注6)。・・・

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外国人技能実習生に集団的労使関係を!?

Show_image『労働法律旬報』8月上旬号には、びっくりするような論文が載っていました。

http://www.junposha.com/catalog/product_info.php/products_id/1016?osCsid=fht3bf4ke3satb2ies74gs82f6

といっても、編集部企画の特集「労働者派遣法改正のゆくえ」ではありません。

[特集]労働者派遣法改正のゆくえ
2015年労働者派遣法改正案の問題点
―衆議院における国会審議で明らかになった点を中心として=沼田雅之・・・07
「直接雇用申込みみなし」規定の分析=塩見卓也・・・19
派遣法「改正」の経過と背景=北 健一・・・27

どちらかというと、これらがわりと(少なくとも労働業界人にとっては)毎度おなじみの議論であるのに対して、今まで指摘されたことのない切り口で外国人技能実習生の問題に切り込んでいるのが

[研究]外国人実習生の法的保護のあり方=田中恒行・・・33

です。「はじめに」に、その問題意識が明確に書かれています。

・・・そして、技能実習生がたとえ高い志を持っていたとしても、技能実習制度には事実上「労働移動の自由」がないために、心無い使用者の職場に実習に行くことになってしまった場合には、途中帰国、すなわち実習を断念する以外にその場から逃れる術はない。労使の力関係を見たとき、技能実習生は圧倒的に不利な立場に立たされている。

・・・そして残念ながら、現行の技能実習制度の枠組みの中で、この構造的問題を解決する仕組みは存在しない。

本論文は、技能実習制度に存在するこの構造的な問題を解決するための方策として、技能実習制度における集団的労使関係の可能性について検討することを目的とする。ここで集団的労使関係とは、技能実習生による労働組合と、使用者による労働条件の交渉・協議のためのメカニズムと規定する。

そう、問題を抱えた実習生が外部のユニオンに駆け込んで・・・という事後的個別的な対応ではなく、本来的な集団的労使関係システムによって実習生を保護するメカニズムを確立しようという壮大な構想なのです。

といえば、それは近年非正規労働者について議論され始めた話の応用版か?と思われるでしょう。まさにそうで、私もそういう議論をしてきましたし、それこそ、たとえば連合総研なども今年に入って

http://rengo-soken.or.jp/kenkyu/2015/04/post-43.html(派遣労働における集団的労使関係に関する調査研究)

といった取り組みを始めていますが、さすがに外国人実習生にもそれを適用しようという議論は今までのところ見当たりませんでした。それは田中氏も言うように、

・・・技能実習制度における集団的労使関係について正面から論じた研究はこれまでほとんど存在しない。

その理由としては、技能実習生が日本国内で団結し、団体交渉を行うという発想が、「非現実的」と思われていることがあげられよう。

ということでしょう。しかし、

しかし、労働者が労働者としての権利を実現しようとする姿勢を、「非現実的」であると考えるのであれば、それは日本国憲法に規定されている労働基本権を無視した発想といわざるを得ない。それは日本人労働者に対してのみならず、技能実習生に対しても同様であろう。

まったくそのとおりです。ぐうのねもでない正論。

詳しくはぜひ同誌の論文を読んでほしいと思います。注目すべきポイントとしては、

第1に「使用者」として、実際に実習を行う実習実施機関のみならず、監理団体を含める必要性を提起・・・

第3に労使交渉・協議の付議事項として、技能実習制度の趣旨を実現するために必要と思われる就業請求権、「就労価値」、キャリア権について検討

といった点があります。

とにかく、外国人労働問題についての議論を間違いなく一歩進めた重要な論文です。

ところで・・・、この論文の筆者の田中恒行さん、「放送大学大学院」としか肩書きが書かれていないのですが、私の知る限り、経団連に同名の方がいらしたと思うのですが、もしかしてご本人なのでしょうか?

(雑記)

ちなみに、上記論文とは関係ないのですが、この論文が始まる33ページの直前の32ページに、北健一さんのルポの最終ページがあって、そこに、ヒューコムエンジニアリングの出井智将さんのインタビューが丸々1ページ載っています。

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オワハラ時代の大学と就活@『エコノミスト』

Image 明日発売の『エコノミスト』8月25日号が「オワハラ時代の大学と就活」を特集しているようです。

http://www.weekly-economist.com/2015/08/25/%E7%9B%AE%E6%AC%A1-2015%E5%B9%B48%E6%9C%8825%E6%97%A5%E7%89%B9%E5%A4%A7%E5%8F%B7/

海老原さんも

大手企業に受かる新卒者は全体の3割 「普通の学生」と中小のマッチングを ■海老原 嗣生

という記事を書いているようですが、一番興味をそそられるのは「有力6私大トップインタビュー」です。

34 慶応義塾大学 清家 篤 塾長 「すぐに役立つ者はすぐに役に立たなくなる」

35 立教大学 吉岡 知哉 総長 「就活時期後ずれに一定の評価」

36 明治大学 福宮 賢一 学長 「大学は『総合的な人間力』を養う場」

37 東洋大学 竹村 牧男 学長 「グローバル人材を育成、就職実績向上を目指す」

38 帝京大学 冲永 佳史 理事長・学長 「社会の変化に対応できる人材を育てる」

39 近畿大学 塩﨑 均 学長 「就活では、大学と企業で新たな模索が必要」

いや、清家さんが「すぐに役立つ者はすぐに役に立たなくなる」と言われるのは、それは慶應義塾長として慶応大学生に向けて言える立場だからなのであって、それとは対極にある大学のトップとして同じ言葉を発せられるかというと、やはりそう言うわけにはいかないでしょう。むしろ、「いま役に立たない者はいつまで経っても役に立たないのだ」と発破をかけなければならないはずです。それでなければ、学生たちに対する責任を果たせないはずですし。

日本には600の私立大学がありますが、それらがすべて慶應義塾大学と同じ行動様式を取っていて良いわけではないという、ごく常識的なはなしですが、こと教育問題という特殊な言説領域にはまり込んでしまうと、その常識がどこかに跳んでしまうのが不思議です。

そういえば、先日の文部科学省の某通知をめぐっても、京都大学長の台詞をありがたがってもって回る向きが結構見られましたが、いや、戦前の京都帝国大学時代からこの方、京大文学部ほど、言葉の正確な意味での職業的レリバンスの高い文学部はあまりないのではないですかね。

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女性社員の多数派 “一般職”の未来は描けるか@『Works 』Vol.131

W131_0リクルートワークス研究所の『Works 』Vol.131をお送りいただきました。

http://www.works-i.com/publication/works/

メイン特集は「バーチャルリアリティが人と組織を変える日」ですが、ここでは第2特集の「女性社員の多数派 “一般職”の未来は描けるか」を取り上げます。

全文がここで読めます。

http://www.works-i.com/pdf/w131_2toku.pdf

さて、この特集は一般職の歴史を振り返るところから始めるのですが、残念ながらそれはそれまで一般職という名で呼ばれてこなかったものに「一般職」というラベルが貼られたところから始まってます。男女均等法施行で、「女」という区分ができなくなったので、ほぼそのままそれに「一般職」という名前をつけた30年前です。

でも、一般職問題というのは、その名前がつく前にも存在し、そしてその時代の感覚に基づいて「解決」がされ、その解決があまりにもあまりだから、そういうわけにはいかなくなった、そういう問題なんです。

抽象的でよくわからない?

この特集のはじめの方に出てくる「企業の言い分」というのを並べてみましょうか。

問題1 給与の高さと業務内容が不一致

「40代の一般職には、処遇は高いのにパワーポイントやエクセルが使えないという人もいる。でも、社内の人や仕組みに精通していたりするので、誰も文句が言えません」(40代 男性)

「一般職の給与テーブルは年功的要素の強い工場の技能職と同じものを使っていたため、入社以来ずっと定型業務に従事しているにもかかわらず、給与が高くなっています」(50代 男性)

41mvhocvl拙著『日本の雇用と中高年』(ちくま新書)を読まれた方は軽いデジャビュを感じたのではないでしょうか。

第5章の2「中高年女性の居場所」で引用した結婚退職制が問題になった住友セメント事件(東京地判昭41.12.20)における「企業の言い分」です。

被告は、昭和33年4月、爾後採用する女子職員のみにつき次の制度を採用した。すなわち、女子職員を、専らタイプライターによる印書、電話交換業務のほか、比較的軽度の経験技能をもつて処理することができ高度の判断力を必要としない補助的事務のみに従事させることとした。ここに補助的事務とは、文書の発受信、コピーの作成、事務用品の配布、使い走り、来客の取りつぎ、清掃、お茶汲み、その他男子職員の指示による計算、文書の浄書整理、電話連絡等の事務を指称し、業務計画立案、調査、研究報告、物品保管受払等の事務を含まない。そして、後者は男子職員のみが取扱うものとした。よつて、被告は、それ以後職員に関して採用資格につき、男子は大学又は高校卒、女子は原則として高校卒に限り、採用手続につき、男子は本社採用、女子は事業場において欠員の生じた都度採用とし、採用後の身分につき、男子は当初最下級の雇員であるが以後逐次昇進して幹部従業員となり得、他の事業場へ配置転換され得る。女子は結婚までの腰かけ的勤務であるから雇員以上に昇進せず、他の事業場へ配置転換されないと定めるなど、男子職員と女子職員との差異を明確にした。特に、被告は右時点以降、女子職員の採用に当り、「結婚又は満35才に達したときは退職する」ことを労働契約の内容とする旨定めて、その旨の念書をこれらの者から提出させ、もつて被告はこれらの者が結婚したとき解雇し得ることとした。

わが国においては、一般に賃金は男女の別によりかなりの格差があり、とくに高年層において顕著であるが、被告は男女同一賃金の原則に徹し、高校卒の職員については、初任給、爾後の昇給とも、成績査定により生ずる差を除けば、年令を問わず男女同一の賃金を支給してきた。その根拠は次のとおりである。被告において大多数の女子職員は、前述の補助的事務に限り従事せしめられるが、男子職員は前述のように女子職員に比し責任の重いかつ企業に対する貢献度の高い事務に従事せしめられるのであるから、むしろ男子職員の賃金を女子職員のそれより高くすることが合理的である。しかし、結婚前の女子は、既婚女子に比して家事等に煩わされず、したがつて、被告の業務に寄与する程度が比較的高いので、被告はこの点を考慮して、労働に対する対価のほか結婚準備金の意味も含めて、女子職員の賃金を男子職員のそれと同額と定めていたわけである。
 ところで、これらの女子職員は、補助的事務に従事する場合であつても、細かい注意力、根気、正確性を必要とするのに、結婚後において、託児施設その他結婚後も勤務を継続する諸条件が整つていないため、家庭本位となり、欠勤がふえ、前示の適格性を欠き、その他労働能率が低下するのである。それにも拘らず前記賃金制度のため、これら長期勤続の女子職員は、これよりも責任ある地位に就いている男子職員(ことに大学卒業者)に比しより高額の賃金を給せられるという不合理が生ずるに至つた。そこで、被告の男子職員らの多数から、この不合理の是正を求める要望が強まつていた。
 この要望に対処して、なお男女職員の実質的平等を実現するには、女子職員の賃金体系を男子のそれと均衡のとれるように低下させ、女子が他社なみの低賃金で永く勤められるようにするか、女子職員の賃金体系をそのままにして雇入条件につき男子のそれと別異の定めをなし、女子を高賃金で結婚までの短期間に限り特定の職種につき雇うかの二方法が考えられる。被告は、女子職員を比較的労働能率の高い結婚前のみ雇傭して企業経営の効率的運用に寄与させる方針の下に、原則として後者の方法を選ぶこととした。
 これは女子職員にとつてもその間他社に比し高い賃金を得ることとなり有利である。
 このほか、組合が昭和35年において男女別の年令別最低基本給及び昭和38年において男女別の中途採用者(学校卒業時たる大学卒22才、高校卒18才等を過ぎてから採用されたものをいう。)の初任給に関し、女子の基本給及び初任給を男子のそれの約70%にするよう提案し、被告もこれを承諾したのは、男子職員の右要望に副つたものである。

同書では男女別定年制が問題となった東急機関工業事件(東京地判昭44.7.1)も引用しましたが、それは省略します。

それが男女均等法でどうなったか。これまた大変率直に「企業の言い分」を語ったものを同書から引用します。

男女雇用機会均等法の・・・最大の影響は、女性なり社会の意識変化を引き起こすだろうということです。今でも女性の職場進出が目立っていますが、・・・今でも辞めなくなっている女の人が一層辞めなくなるということです。
 ところが困ったことに、銀行の人事管理には建前と本音がいろいろあります。・・・給与システムとか退職金システム等も、ある一定年齢で女性が辞めてくれることを前提にして制度ができています。従って女性が長く居続けたら、システムは崩れてしまいます。ですから将来を考えた場合、女の人が辞めなくなることを前提としたシステムを構築しないと対応できなくなります。
 これまでの銀行の賃金システムはどうなっていたのかと言いますと、男子の処遇を念頭に置いて職能資格制度を導入していましたから、入社後、年齢とともに経験も積み、努力もし、能力も上がっていくということで賃金も右上がりに上がってゆくようになっていました。・・・
 一例として、A君とB子さんの二人がいて、学校の成績もほぼ同じぐらいで似たような能力であり、共にいい仕事をしているとしますと、当然、賃金は同じカーブで上がってゆきます。
 ところがB子さんが数年後に結婚したとしますと、日本の場合、家事責任はB子さんに掛かってきます。しかも子供が生まれれば、当然、事務処理能力のダウン、銀行に対する貢献度のダウンは避けられません。ある時点で賃金が下がるというシステムを入れざるを得ないと思います。
 ところが・・・職能資格制度の本質は、総て上がる哲学しかないのです。・・・横這いになるとか下がるという考え方は一つも入っていないのです。そういう制度の中で、家事の面倒を見なければなりません。赤ちゃんの面倒も見なければなりません。従って銀行で働く分はちょっと落ちますという女性を総てが上がる職能資格制度の中に入れていた矛盾が何故これまで破綻しなかったかと言いますと、大体25,6歳で女性が辞めていたからです。
 しかし、今後、女子が若年で退職しなくなるとすれば、このシステムを再設計しない限り問題の発生を防ぐことはできません。そこで考え出されてきたのが・・・「コース別管理制度」です。

こういう一般職の「前史」を見ると、実は問題の本質は変わっていないのではないか、という気すらします。

後ろの方に、矢島洋子さんの言葉を引きながら、こう述べている部分がありますが、結局「一般職」問題とは「総合職」という特殊な(少なくとも世界の普通の労働者のあり方としては特殊な)働き方がかつては男性のデフォルト、今では(建前上)男女共通のデフォルトになっているという問題の裏返しの問題であるということなのでしょう。

そして、最近採用された一般職については、「彼女たちの多くは、仕事を“ 腰かけ” と思っているのではありません。ちゃんと働き続けたい、しかし、総合職として転勤も長時間労働も受け入れながら家庭を持つというのは、あまりにハードルが高い。そういう人たちが現実的な選択として一般職を選んでいるのではないでしょうか」というのが矢島氏の見立てだ。これは、座談会に出席してくれた人々の主張とも一致する。
我々は、この、とても現実的でいわば地に足のついた彼女たちの選択を、あまり否定的に捉えるべきではない。彼女たちは、仕事の与え方や期待のかけ方を間違えず、多様な選択肢があることを示せば、大いに成長する可能性を秘めている。

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45歳まで産める! これだけの理由@『プレジデントウーマン』

011523『プレジデントウーマン』第5号を、送りいただきました。

http://woman.president.jp/list/magazine

今までおつきあいのない雑誌なので、どうしたことだろうと思ったら、海老原嗣生さんの関係だったようです。

海老原さんの企画らしい、

Features3 45歳まで産める! これだけの理由

人生設計がガラリと変わる!? 医者も知らない衝撃の事実

という記事が、12ページにわたって、高齢出産を気にするな、まだまだ産めるぞ、と発破をかけています。

これ、海老原さんのここ数年のペットテーマなんですが、正直、なるほど、と思えないのですね。

414bbr4jbl__sx230_海老原さんがこれを主張する理由は、3年前の『女子のキャリア』(ちくまプリマー新書)の最後に出てきた「35歳が女性を苦しめて過ぎている」で、日本的な「遅い昇進」と出産育児の両立を図るためには、出産適齢期をもっと後ろ倒しすべきだといわれていることからくるわけですが、本当にそうなのかなぁ、という疑問がぬぐいきれないのです。

日本的な教育システムとその中で育った若者の実態からすれば、入口は日本型のメンバーシップ型モデルを維持するしかない一方で、中高年や高齢者をどうするかを考えればどこかでジョブ型に着地させるしかない。ではどこでスイッチするかというと、海老原さんは35歳くらいというイメージで、これは男性の若者と男性の中高年を想定すれば、つまり変数が二個の二元連立方程式を解くのであれば、まことに現実的な解と言えるでしょう。

ところが、35歳くらいでメンバーシップ型からジョブ型に着地するのでは、その35歳が妊娠出産の上限年齢とされたきた女性にとっては、子どもが産めなくなってしまいます。そう、海老原さんが高齢出産問題に一生懸命取り組むのは、ここに理由があります。35歳までに子供を生まなければならない女性という第3の変数を入れて三元連立方程式にすると、海老原理論では女性の解は存在しないことになってしまうからです。

そこで、いや三元連立方程式にもちゃんと解があるんだ、というためには、女性は35歳を過ぎても40歳を過ぎてもちゃんと子どもが産めるんだ、と前提条件を変更する必要があります。そのための理論武装が、今回の『プレジデントウーマン』の特集記事なんですね。

ただ、さりながら、これを読んでもなかなか説得されないのですね。そもそも論として、労働社会のあり方のツケを、マタニティという生物学的な要素に回すような解が本当に正しい解なのだろうか、という疑問がぬぐえないからです。

これは本質的に困難な問いだと思います。

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「トルコ娘」の労働者性

産経に、

http://www.sankei.com/world/news/150812/wor1508120054-n1.html(アムネスティ新方針「性的労働者を犯罪としないよう求める」 女性人権団体反発「性産業に味方するのか」)

という記事が載っていて、話題になっているようですが、労働法に関わるものとしては、ここはやはり「性的労働者」って、労働法上の「労働者」なのか?という問題にこだわってみたいところです。

というわけで、「○○の労働者性」シリーズ、今回は1960年代前半という高度成長期ただ中で、当時新たな風俗営業として展開していた「トルコ風呂」で働く18歳未満の児童「トルコ娘」をめぐる裁判例です。

上六観光トルコ温泉事件(大阪家庭裁判所判決昭和41年1月18日最高裁判所刑事判例集21巻9号1228頁)及び同控訴審(大阪高等裁判所昭和41年9月29日最高裁判所刑事判例集21巻9号1235頁)、そして同上告審(最高裁判所第二小法廷昭和42年11月8日最高裁判所刑事判例集21巻9号1216頁)ですが、いずれもその労働者性を認めています。その根拠は、高裁判決がまとまっているので引用すると、

弁論要旨第三項について
 論旨は、本件については労働基準法の適用がない。そもそも労働基準法第九条には「この法律で労働者とは、職業の種類を問わず、前条の事業又は事業所(以下事業という)に使用される者で、賃金を支払われる者をいう」と規定しており、これを分析すると、第一に使用されるものであること、即ち使用従属関係にあること第二に賃金を支払われるものであることの二条件が備わらなければならない、ところが、トルコ娘は使用されるものでなくて、トルコ温泉の施設を使用させて貰い、これに対して一日百円の使用料を支払つている。この使用料は一ケ月分では三千円になり、低廉でない。会社側として、この使用に関連し、使用秩序を保つため規則を設けているが、これは施設の管理者として当然のことで、会社がトルコ娘を使用する事由とはならない。又トルコ娘から履歴書、入店申込書の提出、公休の割当、過怠金の徴収、点呼、訓辞等が行なわれていたとしても、経営者として施設を十分に利用して、客に満足を与えるに必要な統制上の措置に過ぎない。
 次にトルコ娘に対しては賃金は支払われていない。労働基準法第一一条によると「この法律で賃金とは、賃金、給料、手当、賞与その他名称の如何を問わず、労働の対償として使用者が労働者に支払うすべてのものをいう」と規定している。被告会社はトルコ娘に対してはサービス料を客から受取らせるようにしているけれども、これは決して使用者が客から一旦受取つてトルコ娘に渡すべきものでない。
 更に、本件の適用事業は労働基準法第八条第一四号に該当するのではなくて、同条第一三号に該当するものである。トルコ温泉は、公衆浴場法に基く浴場であつて、旅館、料理店などの接客業に類するものではなくて、保健衛生を目的とする企業であることは明白である、というのである。
 よつて案ずるに、労働基準法の適用される労働者は、同法第九条によると、この法律で労働者とは、職業の種類を問わず、前条の事業又は事業所(以下事業という)に使用される者で、賃金の支払われる者をいうとあるので、使用される者であることと賃金を支払われる者であることが要件である。
 そこで先ず、本件につき使用従属関係につき検討するのに、原判示証拠によれば、被告会社がトルコ娘を決定するについては、同娘に面接し、履歴書を提出させ、植田勝治に代り橋本孝道が会社業務に従事するようになつた昭和三九年八月以降には入店申込書を提出させた上、採用を決定し、採用決定の場合には同娘の店名を指定し、就業前に会社の者がトルコ娘等に客に対する扱い、マツサージ等の技術の講習を実施し、就業については各娘に公休日の割当をし、更に毎日の出勤時間を午後一時、三時、五時、と区分し、三交代制にし娘等に順次交代に出勤時間を指定し、欠勤書留簿を設けて出欠を統制し、正当の理由なき欠勤、遅刻に対しては各一回につき前者には二〇〇円後者には一〇〇円の過怠金を徴収することとし、出勤者に対しては点呼、部長等から客に対する扱い態度についての訓示をなし、出勤時間中は自由な外出を認めず、会社々則を定め(原審において取調べられた昭和三九年一〇月二一日付司法警察員西村繁治作成の捜索差押許可状の執行と現場の写真撮影についての復命書に添附の写真9参照)右社則に違反した時は、出勤停止処分を申し渡す旨規定し、なお勤務につき住込を希望するものには、会社所有経営の大和寮に居住させ、月一五〇〇円程度の部屋代を取るのみで、その厚生を計り、又従業中、身につけるブラジヤー、シヨートパンツの貸与などもしていること又会社は入浴客に対しては入浴料を取るがこの他にトルコ娘にも三〇〇円(後には四〇〇円)のサービス料を支払うべき旨掲示していることが認められる。これらの事情を勘案すると、会社のトルコ娘に対する関係は、指導、監督につきかなり強力な措置を包含し、その指導監督の下に会社の命ずる労務に服する義務を科する意図を持つており、同娘等もまたこれを当然のこととして受入れていると認められ、被告会社と本件トルコ娘との間には使用従属の関係にあるものと認めるのが相当である。なるほど、原判示証拠によれば、トルコ娘は、出勤の都度、一回一〇〇円を会社に施設使用料の名目で出しているが、トルコ娘のチツプ収入が月平均四、五万円にもなることが窺え、これら金額を対比するときは施設使用料というのは単なる名目的なもので、むしろ施設を使用している態を装うにすぎないものと解せられる、なお、トルコ娘に施設を使用せしめるに過ぎない場合でも、統制的措置をとることは施設利用に関する秩序維持に当然必要であるとの考も成立ち得るが、前記認定の事情では、施設利用に関する秩序維持以上の使用服従関係を認めざるを得ない。
 次に、賃金支払の関係につき案ずるに、労働基準法第一一条によると、この法律で賃金とは、賃金、給料、手当、賞与その他名称の如何を問わず、労働の対償として使用者が労働者に支払うすべてのものをいうとある。従つて客から直接に労働者に支払われるチツプは、原則としては賃金ではない。しかし、労働の報酬として使用者から労働者に支払われるものであれば、その名称の如何に拘らずすべて賃金であるので、労働の報酬として使用者の施設を使用する利益を労働者に与えられておればこの利益は賃金と解すべきである。ところで原判示証拠によれば本件上六トルコでは、入俗客より入浴料として一〇〇〇円ないし一四〇〇円を徴収するが、トルコ娘に対しては給料の支払はせず、トルコ娘はその収入としては入浴客に対し、洗身、洗髪、マツサージ等を実施し、これに対するサービス料(チツプ)として、各入浴客から直接に、会社の何等の関与もなく(会社はサービス料三〇〇円(後日四〇〇円となる)を支給されたいと掲示している程度のみ)三〇〇円(後日四〇〇円となる)以上の金員を受領していたものであることトルコ娘は会社に対し出勤毎に一日一〇〇円を施設使用料として支払つていることが認められ、一応賃金を支給しない形態を採つているかのようであるが、右施設使用料は前叙のとおり、単なる名目的なものに過ぎず、元来、トルコ娘の得るサービス料はトルコ娘が上六トルコ経営にかかる営業設備を使用して入浴客の洗身、マツサージ等をする労働の対償として右客より支払われるものであり、また入浴客はこのようなトルコ娘のサービスが期待できるので高額な入浴料金を支払うものであるから、上六トルコはトルコ娘の労働によるこのような利益をうる対償として同娘等が右サービス料を得るため、会社の営業設備を使用する利益を同娘等に与えているものと認めるのが相当である。してみると、この営業設備を使用する利益が労働の報酬として支払われ、トルコ娘に対し賃金の支払がなされているというべきである。
 更に、本件上六トルコの事業が、労働基準法第八条の第一三号(保健衛生の事業)か第一四号(接客業等)のいずれに該当するかを検討するのに、原審証人斉藤保吉の証言を始め原判示証拠によれば、上六トルコは公衆浴場法に基き許可されたものであるが、この許可の形式からだけで事業の種類が確定されるものではなく、労働省労働基準局長から大阪労働基準局宛の昭和四〇年一月二三日付三九基収第八九三三号の二に「いわゆるトルコ風呂に対する法第八条各号の適用に当つては、一般の事業場の場合と同様に当該事業場の労働の具体的態様等に即して個別的に判断すべきものである」とあるように、現実の態様に即して個別的に労働基準法第八条各号の適用を判断すべきものと解する。ところで、原判示証拠によれば、上六トルコでは、ソーシヤルトルコ部屋三四室、グランドトルコ部屋二一室及びデラツクストルコ部屋一三室計六八室の個室を有し、これらの個室は外部から内部の見えない作りとなつており、一般共同浴場は有せず時期において相違はあるがトルコ娘を数十名持ち、このトルコ娘が入浴客と一対一で個室内で、ブラジヤーとシヨートパンツのみで、応対し、その洗身、洗髪、爪切り、ひげそり、マツサージ等の作業に就いていることが認められ、この現実の態様にかんがみると、上六トルコの事業は労働基準法第八条第一四号の接客業に該当するものというべく、よつて同法第六二条第一項、第四項に基く一八才未満の女子に対する深夜業禁止規定の適用を免れない。
 以上の次第で本論旨は理由がない。所論のトルコ娘に労働基準法の適用があるならば、これらに対し労災保険の加入、解雇予告手当の問題を如何に考えるかは本論旨では特に論及の要はない。

と述べています。最高裁は上告を棄却していますので、これが現在でも日本国法体系における正しい解釈であるはずです。

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マル経の枠組みで現状分析に苦闘する

金子良事さんが始めた時ならぬ竹中恵美子系社会政策の話ですが、ねずみ王様からこんなツイートがついて、

https://twitter.com/yeuxqui/status/630606761158799364

マル経の枠組みで現状分析に苦闘するというのは、ぼくのひとまわり上ぐらいの世代までは残存していたスタイルだった。読むとたしかに達成も蓄積もあるのだが言語的障壁が高い。ある世代は、マル経的価値論の枠内からの離脱にかなりの負荷がかかっているのだが、その意味は理解しがたいものでもある。

Cover実は、先日ある本を読んだばかりだったので、私も全く同じ感想を抱いていたところだったのです。それは、中川スミ『資本主義と女性労働』(桜井書店)という本で、

http://www.sakurai-shoten.com/content/books/088/bookdetail.shtml

フェミニストによる経済学批判と切り結んで、経済学とジェンダー、女性雇用、家事労働、労働力の再生産、性別賃金格差、「家族賃金」思想など、女性労働問題の核心を追究。
66歳で急逝した『資本論』研究者の女性労働論集。

えっ?「フェミニストと切り結んで・・・」ということは、フェミニストの敵側?というと、書いていることのかなりの部分は、その論敵(?)とよく似ていて、正直あまり見分けがつかないのです。ある一点を除けば。

  • 序章 経済学とジェンダー:家事労働・労働力の価値・「家族賃金」
  • 第1章 家事労働と資本主義的生産様式:私的・無償労働としての家事労働の性格づけをめぐって
  • 第2章 女性労働問題の「特殊性」をめぐって:大沢・竹中論争の意味するもの
  • 第3章 「家族賃金」イデオロギーの批判と「労働力の価値分割」:家族単位から個人単位への労働力再生産機構の変化
  • 補論 大沢真理さんのコメントに答えて
  • 第4章 日本型企業社会における女性の労働と家族
  • 第5章 ジェンダー視点から見た賃金論の現在:マルクスはどう読まれてきたか
  • 第6章 女性の雇用労働者化と「家族賃金」思想:「労働力の価値および価値分割」論をどう理解すべきか
  • 第7章 賃金理念をめぐって:労働総研報告書「均等待遇と賃金問題」が提起したもの

その一点、というのは、おそらくこれが1942年生まれの著者と私の間の世代差の所以かも知れませんが、そのフェミニスト風の議論の一つ一つにこれでもか、これでもか、というくらい、マルクスの資本論の典拠を一生懸命もってきて、それによってその議論の正当性を論証しようと努力し続けている点なのですね。

そして、これまた大変皮肉なことに、この本で、内容的に論敵として批判の対象になっているのは、実はもっぱら正統派のマルクス主義者たちなんですね。これは前にもちょっと書いたことがありますが、戦時中からの家族賃金論を経済学的に正当化したのはマルクス経済学者たちによる「同一労働同一賃金説」で、女房子供の生活費まで含めて成人男子労働者の労働力の『価値』なんだからそれだけよこせ、という議論ですね。この中川さんの本を読むと、1990年代になってもそういう議論で中川さんを批判する学者が結構居たようです。

いや、何が言いたいかというと、そういう議論の中身では完全にマル経学者たちと正反対で、フェミニストたちとほぼ同じ議論をしている中川さんが、議論の枠組みというか、立て方の作法としては、徹頭徹尾マルクスの資本論のここにこう書いてあるから正しいんだ、という議論の仕方を貫いているのです。

なんでそこまでマルクスなんていうひげのおっさんに操を立てなければいけないかがよくわからない、という素朴な感想を抱いていたところなので、ねずみ王様の感想がぴたりときた感じです。

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大沢・竹中「論争」について

あんまりこのトピックに深入りする気はないのですが、金子さんが気合いを入れて突っ込んできているので一言だけ。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-398.html(再び竹中恵美子先生の著作をめぐって)

まあ、しかし、私は竹中恵美子を読もうとは思っても、自分から『家父長制と資本制』を再読しようとは思わないですし、大沢さんの『企業社会を超えて』もそうですね。今、ちょっと読み返してみたら、やっぱり古いなと感じました(竹中先生ほどではないにしても)。今、読むなら、やっぱり『生活保障のガバナンス』ですよ。これ、大沢先生の中で一番じゃないかなと思います。

それは『生活保障のガバナンス』は1年半前に出たばかりなので湯気が出るくらいホットなのは当然ですが、『企業社会を超えて』だって、たとえば内閣府の男女共同参画会議の今の議論にもっていってもまだ通用する程度には湯気が立っています。最近はあまり読む人はいないのかも知れないけれど、ジェンダー派の社会政策論で一冊挙げろと言われたら、やはりあまりほかにないように思います。

それから、

濱口先生も言及されている大沢さんの竹中批判については完全に的外れで、その昔、大河内先生の型論が批判されたときとまったく同じパターンの理解不足ですから、これを仮に論争と呼ぶならば、完全に竹中先生の勝ちです。

勝ちも負けも、あれはそもそも炎上狙いの難癖であって、その目的は、女のくせにマルクスとかよく勉強してよくやっとるわい、と、どうせ女のことなんか特殊理論だと思って高みから見ていた古めかしい男どもにがつんを一発食らわせることにあり、そのためにそれまで女子労働論の代表だった竹中さんを公衆の面前で殴りつけてみせた、ということなのではないかと。

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「定年制」戦時体制に源

本日の東京新聞に、「<戦後70年 私たちのくらし> 人生に定年なし」という特集記事が載っていて、その中に「働くシニア増加 再雇用者の78%「生活のため」」という記事があり、主として明治大学の遠藤公嗣さんが「高齢でも働く人が増えるのは社会にとって望ましい。ただ個々の能力を生かし切れていないのでは」等と語っています。

http://www.chunichi.co.jp/article/living/life/CK2015081002000005.html

その左下のコラムっぽいコーナーに「「定年制」戦時体制に源」というミニ記事が載っていて、そこにわたくしが顔を出しています。

「定年制度の芽は、実は戦時体制にあったんです」と話すのは労働政策研究・研修機構(東京都)主席統括研究員の浜口桂一郎さん(56)だ。

国民を戦争に動員するため、政府は労働統制を強化し、賃金統制令などで年功賃金と退職金支払い、五十五歳定年制を企業に強制。地方の産業報国会は「男の操だ 変わるな職場」という戦時スローガンを作り、転職を防いで生産効率を高めることで協力した。ただ、労働力不足などで定年制はほとんど機能しなかった。

敗戦で労働統制はなくなったが、「終戦直後の労働争議の影響で、企業は戦時中の制度をそのまま上書きしたような雇用慣行を導入した」。

当時の電力業界の賃金表は、年齢を重ねるほど昇給し、扶養家族手当も盛り込む。年功序列と五十五歳定年制が普通になったという。低賃金で若年労働者を使えるこの制度は「高度成長期には、企業にとって都合が良かった」。

一九八六年、六十歳定年制を規定した高齢者雇用安定法が成立し、九四年に義務化された。現在は六十五歳までの継続雇用が義務付けられている。米国や英国など一部の先進国では、定年制は差別であるとして法律で禁止されている。

読まれて気がつくと思いますが、この記事の書き方はあまり正確ではありません。定年制の萌芽が生じたのはむしろ戦前期で、戦時中は定年という形式自体はむしろ中断しています。ただ、定年制と密接不可分である企業固定的な長期雇用制と、年齢に基づく年功賃金制度を、国家権力を背景にして民間企業に強制したのが戦時期であったので、そこをおおざっぱに言えば「定年制度の芽は、実は戦時体制にあったんです」と言って間違いではない、ということです。うかつに読まれると誤解を招く書き方になっているので、念のため注記しておきました。

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中澤誠『ルポ 過労社会─八時間労働は岩盤規制か』

9784480068453中澤誠さんから『ルポ 過労社会─八時間労働は岩盤規制か』(ちくま新書)をお送りいただきました.ありがとうございます。

http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480068453/

長時間労働が横行しているのに、さらなる規制緩和は必要なのか? 「働きすぎの日本人」を取材し、雇用社会の暗部をリポートする。佐々木俊尚氏、今野晴貴氏推薦

内容は、東京新聞(中日新聞)記者として中澤さんが取材してきた労働時間関係のルポをまとめたものです。

第1章 「残業代ゼロ制度」の舞台裏(「残業代ゼロ制度」創設へ
成果に応じて賃金を払う制度? ほか)
第2章 労働規制緩和を疑う(誰が望んでいるのか
一筋縄ではない人事評価 ほか)
第3章 はびこる長時間労働(残業は例外、だが…
残業の上限、大手の七割が「過労死ライン」 ほか)
第4章 すさんだ職場(トヨタのエンジニアの過労死
「韓国と年間一千時間違う」 ほか)
第5章 誰も守ってくれない(ワタミ新入社員の過労自殺
過労の裏に違法は残業手続き ほか)
第6章 長時間労働からの脱却(過労死防止法が成立
命より大事な仕事って ほか)

二箇所で私のコメントが出てきます。IT関係の専門業務型裁量労働制のところと、最後の限定正社員のところです。

労働時間法制については、中澤さんの問題意識自体はかなり的確でありながら、それを政策論とかみ合わせるところが、いささか定型的な決まり文句型になっていて、現行制度で既に空洞化している「8時間労働は岩盤規制か」と問いかけるところに既にずれを感じてしまいます。

興味深いのは最後の「長時間労働からの脱却」で、ワタミやすき家が依然ヒール役として登場するのと対照的に、ユニクロが颯爽と正義の味方として登場してきます。

・・・熊沢誠・甲南大学名誉教授は「ノンエリートでも正社員として生きる道を作ったのがユニクロの制度」と解説する。

・・・熊沢名誉教授は、「転勤や残業という制約を受けないのだから、正社員との賃金か宇佐は仕方ない。今の日本で一番の問題は雇用が不安定なことだ。無期雇用になることで、その問題は解消し、生活は安定する」とし、「今までの正社員は無限定に会社からの要求を受け入れざるを得なかった。その要求が限定されることの意味を前向きに捉えるべきだ」と限定正社員の広がりをプラスに評価する。

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竹中理論はなぜ使えないのか

金子良事さんが終日都立図書館にこもって竹中恵美子著作集を読んでいたそうです。

http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-397.html

で、その結論は、

・・・結論から言ってしまえば、今、竹中恵美子著作集で読むべきものはほとんどない、というのが私の印象でした。・・・ただ、そういうものを一通り、勉強してきて、あえて言いますが、そのほとんどはアウト・オブ・デートです。それくらい時代が変わっているのです。

これは率直に言って、私自身の実感でもあります。女性労働論にきちんと取り組もうと思って、竹中著作集を通読して感じたのとほぼ同じです。

ただ、そのアウトオブデート感は、実はかなりの部分、ものの言い方というか議論の際の用語法に規定されている面もあります。竹中女子労働論を特殊理論に過ぎないと叩いた大沢真理さんの議論と、では本質においてそんなに違うかというと、かなり似ているとも言える。

大沢さんの本は、たとえば20年以上も前の『企業中心社会を超えて』が現在においてもとてもアクチュアルで、その中の台詞をそのまま今日の女性政策の舞台にもっていっても湯気が出るくらい通用しそうなのに、竹中理論がそう見えないのは、二世代か三世代くらい前の古めかしいマルクス主義的概念枠組みを必死にこねくり回しながら、その用語法を駆使して何事かを言おうとしているからで、それは同時代的には大変意味のある作業であったのであろうなあ、とは思うけれども、それを追体験することに(思想史的意義以上の)意義があるかというと、いささか疑問というところです。

竹中さんはその後むしろラディカルフェミニズム系に走って、著作集の後ろの方はそういう論文が並んでいるのですが、それはそれでファンがいっぱいいるのでしょうけど、そっちは逆に女性労働論に使えるかというと使いにくい。今日の労働社会政策が求める理論を提供しているわけではない、という感じになっちゃってます。そして、やや失礼な言い方ながら、そういう議論をするなら上野千鶴子さんの大風呂敷の方が読んでて楽しい。

ただ、これまた失礼極まる言い方になるのかも知れませんが、竹中さんがそういう知的茨の道を切り開いてきたからこそ、その弟子筋の研究者たちが、今日的な意味で使える研究成果をたくさん生産することができているのであろうとも思われるので、やはりその研究史的意義が大なるものがあるとは思うのです。

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最低賃金しか払えない企業よりも、実際に働く人を守るべきじゃない?

黒川滋さんのツイートに、こういうのがあったので、誰が目覚めたんだろう、と思ってリンク先を覗いてみたら・・・・、

https://twitter.com/kurokawashigeru/status/630012821359624192

最低賃金しか払えない企業よりも、実際に働く人を守るべきじゃない?というお話。 http://otokitashun.com/blog/daily/8283/  … 10年遅れてきた小泉教。最低賃金の意義を発見したことは進歩。労働力商品の取引がどうあるべきか、という労使関係論なしにこの話をしてもムダ。

http://otokitashun.com/blog/daily/8283/

私は常々、世代間や性差などの様々な格差を解消するためには

「雇用の流動化」

が一丁目一番地(最重要)であると主張しています。

年功序列・終身雇用・正社員という特権を排除していかなければ、

若者や女性の立場はいつまで経っても改善されることはありません。

さて、この分野に関連して宇佐美典也さんは、流動性に加えて生産性を高めるためにも

「最低賃金の引上げ」の必要性を説いています。

現在の最低賃金は企業にとっては恩恵を受けられるものであるが、

労働者側から見れば割を食った設定になっていると、元経産官僚である彼は喝破します。

諸説ありますが、最低賃金を引き上げることは

やり方次第で雇用の流動化の促進に寄与すると言われています。

賃金が上昇すれば、「最低賃金ギリギリでなければ維持できない」会社は淘汰されていきます。

そこで雇用されていた人々はマーケットに戻りますから、流動性が嫌でも増すわけです。

また、賃金があがることで、労働者・雇用者側の力が強くなることも予想されます。

労働市場の流動化のためにも、ゾンビ企業をいつまでも生き延びさせる低賃金を禁止すべし、という、新自由主義の理念からも最低賃金の意義を説く議論で、これはこれで筋の通った議論です。

ただ、大変皮肉なのは、この話題が「アゴラ夏休み特別セミナー2015」というイベントに出てきたもので、しかもそこに麗々しく顔を並べている面々は:

11852751_894830420591819_11626201_2

もしかして、左端の方は、

https://twitter.com/ikedanob/status/274724260117897216

最低賃金の廃止は、半世紀前にフリードマンの提唱した政策で、経済学者はほぼ全員賛成しているが、政治家はほぼ全員が反対。これは論理ではなく心理の問題。

とか、

https://twitter.com/ikedanob/status/326754820440592385

「最賃を引き上げて成長する」というのが矛盾していることも理解できない政権。

とか、

https://twitter.com/ikedanob/status/624257385834528768

内閣府は「賃金が上がると雇用が減る」という法則を知らないのか。それとも非正規が切られるだけだからかまわないと思ってるのか。

とか口走っていた方ではないかという気が一瞬したのですが、多分見間違いでしょうね。そうでなければ、目の前で自分の持論が完膚なきまでに破壊粉砕されているのに、にこにこと笑っていられるはずはありませんからね。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-a344.html (ゾンビ企業の味方です!キリッ)

池田信夫氏は、こと労働者が絡まない限りは、ゾンビ企業は潰せ潰せ!と、中小企業に対してまことに峻厳な姿勢を示しますが、なぜかこと労働者が絡むと、最低賃金を払えないような、社会保険料を払えないようなゾンビ企業を断固擁護します。

ゾンビ企業に働く労働者は、多くの場合、池田氏の非難する(NHK社員のような)立派な既得権はほとんどなく、正社員といってもずぱずぱクビを斬られていますが、池田氏にとってはそういう労働者が絡むようなゾンビ企業こそ、地球が滅ぶ日まで守り抜かねばならない存在なのでしょうか。

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労働条件を聞かないことが合理的だったメンバーシップ型社会

溝上憲文さんのこの記事がやや炎上気味に話題になっているようですが、

http://president.jp/articles/-/15860 (「仕事内容」より「労働条件」ばかりを聞く学生はいらない)

「学生の中には『勤務時間は何時間ですか、残業はありますか』と聞いてくる人もいます。労働条件のほうが優先度が高く、仕事に対する情熱を感じない学生が非常に多い。そんな学生に労働の権利だけを断片的に教えるのは危険だと思います。働くとはどういうことか、働く喜びや意義を大学で教えてほしいですね」

・・・採用担当者が強調するのは、労働環境がよいか悪いかよりも、仕事にやりがいを持てるかどうかを重視してほしいということです。中堅商社の採用担当者は「労働者の権利だけを振りかざすような社員は会社のリスクにつながり、排除したいと思う経営者も多いのではないか」と指摘します。

付け焼き刃的に損得だけの労働法の知識の前に教えるべきことがあるのかもしれません。

https://news.careerconnection.jp/?p=14946 (「労働条件ばかり聞いてくる学生は願い下げ」 人事の本音に批判殺到「前時代的すぎる」)

この問題を考える上では、伝統的な日本が雇用をきちんと守っているメンバーシップ型企業を前提とする限り(あくまでも「限り」)、労働条件を細々と聞くような、近代的雇用労働関係を前提とする労働者像は合理的ではなく、むしろ不合理なものとなってしまうものであったということを理解することでしょう。

本来、この「本来」というのは、民法や労働基準法その他の日本国の実定労働法令を前提とすれば、ということですが、本来、雇用関係というのは労務の提供と報酬の支払いの交換契約なので、労働条件を細々と聞かないなどというのは、不動産を買うときに「ええわ、ええわ」で細かいことを確認しないまま買っちゃうようなもので、端的にアホゥな行動でしかありません。

債権債務関係に入ろうというのに、その契約条件を細かく問いたださない方が良いなどというのは、まともな感覚から言ったらキチガイじみた話です。

にもかかわらず、ここが大事ですが、にもかかわらず、戦後日本で確立したメンバーシップ型社会においては、そういう実定法が前提とする当然の行動様式が、かえってクレイジーに見えるような社会であった、そして社会の主流の人々であればあるほど、そういう「おとなの常識」を身に染みこませて、「勤務時間は何時間ですか、残業はありますか」と聞くような行動様式を、近代人として立派であるとして褒めるどころか、学生気分の抜けない馬鹿げた奴だと見なしてきたわけです。

そして、それはそれ自体としては、つまり、そういうメンバーシップ型をちゃんと守るような企業を前提とする限り、職業人生全体としては決して損はしない、むしろ労働条件をごちゃごちゃ言うような馬鹿者よりもずっといい目を見るという形で、ちゃんとご褒美がもらえてきたのです。

そういう「常識」があまりにも確立していたが故に、それをうまいぐあいに「エクスプロイット」するブラック企業がはびこることもできたわけです。

このあたりの機微は、『情報労連REPORT』2013年8/9月号に書いた「ブラック企業現象と労働教育の復活」でも触れましたが、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/johororen1308.html

「労働教育」という言葉は、現在ではほとんど死語となっていますが、かつては労働省の課の名称として存在したれっきとした行政分野でした。終戦直後に占領軍の指令で始まり、労働省設置時には労政局に労働教育課が置かれ、労働者や使用者に対する労働法制や労使関係に関する教育活動が推進されたのです。ところがその後1950年代末には労働教育課が廃止され、労働教育は行政課題から次第に薄れていきます。その最大の要因は、「見返り型滅私奉公」に特徴付けられるメンバーシップ型正社員雇用が確立するにつれて、目先の労働法違反について会社に文句をつけるなどという行動は愚かなことだという認識が一般化していったことではないかと思われます。つまり、労働法など下手に勉強しないこと、労働者の権利など下手に振り回さないことこそが、定年までの職業人生において利益を最大化するために必要なことだったわけです

 ところが、近年若者の間で問題となっているブラック企業現象とは、そういう労働者側の権利抑制をいいことに、「見返りのない滅私奉公」を押しつけるものでした。そこで働く若者の側にブラック企業の行動の違法性を明確に意識する回路がきちんと備わっていれば、どんな無茶な働かせ方に対してもなにがしか対抗のしようもありうるはずですが、日本型雇用システムを前提とする職業的意義なき教育システムは、そもそも労働法違反を許されないことと認識する回路を若者たちに植え付けることを必要とは考えてこなかったのです。とりわけ、非正規労働者やブラック企業の若い労働者など、労働条件が低く、将来的にも低い労働条件の下で働く可能性が高い人ほど、労働者の権利を知らず行使することもできないという傾向にあることが、問題意識として大きくクローズアップされてきました。

メンバーシップ型社会においては「労働法など下手に勉強しないこと、労働者の権利など下手に振り回さないことこそが、定年までの職業人生において利益を最大化するために必要なことだった」ということをきちんと踏まえないと、この問題に対する議論は何か薄っぺらな上滑りしたものになってしまいます。

もちろん、メンバーシップ型社会というのは、いかなる意味でも法律上その他の規制によって成り立っているものではなく(日本国の法律制度は徹頭徹尾ジョブ型)、労使双方の暗黙の了解の上に成り立っているという意味では法的には極めて曖昧なものなので、会社がメンバーシップ型に処遇してくれると「勝手に」信じ込んで滅私奉公したあげくに使い捨てられたとしても、それは自己責任にしかならないわけですが。

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2015年第4回派遣・請負問題勉強会開催予告

NPO法人人材派遣・請負会社のためのサポートセンターが開催する2015年第4回派遣・請負問題勉強会の開催予告がアップされています。

http://www.npo-jhk-support119.org/

1.開催日時

 2015年10月13日(火)13:00~17:00

※開始時間がいままでと変わります

2.会場

 東京「第一ホテル両国」5F清澄

TEL:03-5611-5211

3.内容

 (1)講演

講演① 株式会社ニッチモ代表取締役 海老原嗣生様

「雇用改革議論の問題と目指すべき方向-欧米の現状からみる問題点とあるべき姿-」

講演② 労働政策研究・研修機構 主席統括研究員 濱口桂一郎様

「日本型雇用と女子の運命」

講演③ 東京大学社会科学研究所 教授 水町勇一郎様

「世界の労働法改革の方向性と日本の課題」

(2)パネルディスカッション

「雇用改革の議論の行方とこれからの雇用社会(仮)」

○コーディネーター:法政大学キャリアデザイン学部教授 坂爪洋美様

○パネリスト:上記講演者3名(海老原様、濱口様、水町様)

海老原嗣生さん、水町勇一郎さん、それに私という面子ですが、私の喋るテーマだけ「女子の運命」とかになっていますね。hamachanが「女子」について何を言う気なのか、と気になった方はどうぞ。

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でじゃびゅ・・・・

https://twitter.com/hahaguma/status/629122472395157504

大学(特に文系)の教育内容を説明する際に、大学教員がしばしば「社会や仕事には直接役に立ちませんが」と前置きするのってやめたらどうかと思う。それは「役に立つ」という言葉の意味を狭くとらえ過ぎだし、自信をもって「どのように役に立つ(もしくは有意義)」なのか力説すべきだと思う。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html (哲学・文学の職業レリバンス)

平家さんの「労働・社会問題」ブログで、大学教育の職業レリバンスをめぐって平家さんと私との間にやりとりがありました。これのもともとは、本田由紀先生のブログのコメント欄におけるやりとりです。

http://d.hatena.ne.jp/yukihonda/20060327

この日のエントリーで、本田先生は例によって「大学の学習でどんな能力・スキルを身につければ、社会でどのように役に立つのかを、きっちりと学生に示せるか」云々という文章を引いて、大学教育の職業レリバンスの重要性というご自分のテーマを強調されていたわけですが、これに対するコメント欄において、「通りすがり」氏が「私は大学で哲学を専攻しました。その場合、「教育のレリバンス」はどのようなものになるんでしょうか?あと国文とか。」という皮肉に満ちた発言をされたのです。

私だったら、「ああそう、職業レリバンスのないお勉強をされたのねえ」といってすますところですが、まじめな本田先生はまじめすぎる反応をされてしまいます。曰く、「哲学や国文でも、たとえばその学部・学科を出られた方がどんな仕事や活動に従事しており、学んだ内容がそれらの将来にいかなる形で直接・間接に関連しうるのかを強く意識した教育を提供することはできると思うのです。それと同時に、ある分野に関するメタレベルの認識を与えることが教育において常に意識される必要があると思います。たとえば国文ならば、文学や「言葉」とは人間にとっていかなる意味をもっているのか、それを紡ぎ出す出版や編集、マスメディアの世界にはどのような意義と陥穽があるのか、といったようなことです。いずれにしても、今を生きる人間の生身の生にかかわらせることなく、ただ特定の知識を飲み込め、というスタンスで教育がなされることには問題があると思います」と。

これは「通りすがり」氏の皮肉な口調に対する対応としては、あまりにも正面から受け答えされ過ぎたとも言えますし、逆に、通りすがり氏の無遠慮なものの言い方に変に遠慮して、本来のご自分の職業レリバンス論の意義を失わせるような後退をされたのではないかという印象も受けます。

このやり取りに対して、平家さんがご自分のブログで、やや違った観点からコメントをされました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_6.html

ここで平家さんが言われているのは、「大学のどのような学部であっても、学生に社会人として意味のあるスキル、能力を身につける機会を提供することは可能」であり、「それは「その主張の根拠を明示して、自分の主張を明確に述べるスキル」である、「哲学など人文科学系の学部は、むしろこういう教育に向いているのではないでしょうか」ということです。

これに対して、私は話がおかしくなっているのではないかと感じました。その旨を当該エントリーへのコメント欄に次のように書き込みました。

あえて、手厳しい言い方をさせていただければ、それは問題の建て方が間違っているのではないでしょうか。ここで言われているのはあくまで「職業的レリバンス」であって、そういう「人間力」的な話ではないはずです。いや、もちろん、そういう自己主張能力的なスキルは大事ですよ、でも、そのために哲学や文学をやると言うことにはならない。それは哲学や文学のそれ自体としての意義(即自的レリバンスとでもいいますか)に対してかえって失礼な物言いでしょう。それに、おそらく、ロースクールあたりで現実の素材を使ってやった方が、もっと有効でしょう。

問題は、大学教育というものの位置づけそれ自体にあるのではないでしょうか。学校教育法を読めばわかりますが、高校も高専も、短大も、大学院ですら、「職業」という言葉が出てきますが、大学には出てこないんです。職業教育機関などではないとふんぞり返っているわけですよ、大学は。実態は圧倒的に職業人養成になっているにもかかわらず。

冷ややかに言えば、哲学や文学をやった人のごく一部に大学における雇用機会を提供するために、他の多くの人々がつきあわされているわけです、趣味としてね。いや、男女性別役割分業のもとでは、それはそれなりに有効に機能してきたとは言えます。しかし、もはやサステナブルではなくなってきた、そういうことでしょう。

特に後半はかなり舌っ足らずなので、大変誤解を招きかねない表現になっていますが、前半でいってることは明確だと思います。ただ、話が本田先生のブログから始まっただけに、私が本田先生の立場に立ってものを言っているという風に誤解されてしまった嫌いがあるようです。

平家さんは翌々日のエントリーで、

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_8.html

「私としては、問題を発展させたという意識です」と言われています。それはそうなんですよ。もとの本田先生のコメント自体が、哲学や国文にも職業レリバンスを見つけようという(どこまで本気かはわかりませんが)姿勢で書かれていますから。私としては、そういう回答の仕方自体が、「問題の建て方が間違っている」と言いたかったわけです。本田先生自身が自分の主張を裏切っているのではないか、と言っているのです。

いや、もちろん、これは「職業レリバンス」なる言葉の定義をどうするかということに最後は至りつくのです。しかし、こういう本田先生のコメントや、それを発展させた平家さんのコメントの方向性というのは、結局、職業レリバンスというものを、現実の労働市場から引き離し、何やら抽象的な「メタレベルの認識」だの、「人間にとっていかなる意味」だの、いやもちろん大いに結構ですよ、大いにおやりになればよい、私も大好きだ、趣味としてね、しかしそういう観念的な世界に持ち出すだけではないかと言いたかったわけです。

実際、本田先生のコメントや平家さんのコメントに見られるのは、まさに本田先生が「言うな!」と叫んでおられる「人間力」そのものではありませんかね。私は、実は人間力なるものはそれなりに大事だと思うし、「言うな!」とまで叫ぶ気はありませんが、少なくとも「職業レリバンス」が問題になっているまさにその場面で、そういう得体の知れない人間力まがいを提示するというのはいかがなものか、と言わざるを得ません。ご自分の主張を裏切っているというのはそういうことです。

上で申し上げたように、私は「人間力」を養うことにはそれなりの意義があるとは考えていますが、そのためにあえて大学で哲学や文学を専攻しようとしている人がいれば、そんな馬鹿なことは止めろと言いますよ。好きで好きでたまらないからやらずには居られないという人間以外の人間が哲学なんぞをやっていいはずがない。「職業レリバンス」なんて糞食らえ、俺は私は世界の真理を究めたいんだという人間が哲学をやらずに誰がやるんですか、「職業レリバンス」論ごときの及ぶ範囲ではないのです。

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。

職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。

(追記)

あり得べき誤解を避けるため、平家さんのブログのコメント欄に以下のようなコメントを追加しておきました。

私は、個人的には哲学や文学は好きです。特に、哲学は大好きといってもいい。「哲学者や文学者も生かして置いた方が豊かな生活が送れる」と思っています。そして、そういう人々を生かしておくためには、「哲学や文学を教える」役割の人間を一定数社会の中に確保しておくことが重要であろうと考えています。問題は、それを”制度的に”「教えられる」側の人間の職業生涯との関係で、それをどう社会的に調整すべきかということです。

「性別役割分業の下での有効性のお話」は、そういう意味合いで申し上げたことです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)

平家さんのブログでのやり取りに始まる11日のエントリーの続きです。

平家さんから再コメントを頂きました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_11.html

この中で、平家さんは「大学の先生方が学生を教えるとき、常に職業的レリバンスを意識する必要はないと思っています。勿論、医学、薬学、工学など職業に直結した教育というものは存在します。そこでは既にそういうものが意識されている、というよりは意識しなくても当然のごとくそういう教育がなされているのです。法学部の一部もそういう傾向を持っているようです。問題は、むしろ、柳井教授が指摘されているように経済、経営、商などの学部や人文科学系の学部にあるのです」と言われ、「特に人文科学系の学問(大学の歴史をたどればこれが本家本元に近いでしょう。)は、学者、ないしそれに近い知的な職業につくケースを除けば、それほど職業に直結していません。ですから、そういう学問を教えるときに職業的レリバンスを意識しても、やれることには限界があります」と述べておられます。

この点については、私は冒頭の理科系応用科学分野及び最後の(哲学や文学などの)人文系学問に関する限り、同じ意見なのです。後者については、まさにそういうことを言いたいたかったのですけどね。それが、採用の際の「官能」として役立つかとか、就職後の一般的な能力として役立つかどうかと言うことは、(それ自体としては重要な意義を有しているかも知れないけれども)少なくとも大学で教えられる中味の職業レリバンスとは関係のない話であると言うことも、また同意できる点でありましょう。

しかしながら、実は大学教育の職業レリバンスなるものが問題になるとすれば、それはその真ん中に書かれている「経済、経営、商などの学部」についての問題であるはずなんですね。この点について、上記平家さんのブログに、次のようなコメントを書き込みました。

きちんとした議論は改めてやりますが、要するに、問題は狭い意味での「人文系」学部にはないのです。なぜなら、ごく一部の研究者になろうとする人にとってはまさに職業レリバンスがある内容だし、そうでない多くの学生にとっては(はっきり言って)カルチャーセンターなんですから。
ところが、「経済、経営、商などの学部」は、本来単なる教養としてお勉強するものではないでしょう(まあ、中には「教養としての経済学」を勉強したくってきている人がいるかも知れないが、それはここでは対象外。)文学部なんてつぶしのきかない所じゃなく、ちゃんと世間で役に立つ学問を勉強しろといわれてそういうところにきた人が問題なんです。

現在の大学の「職業レリバンス」の問題ってのは、だいたいそこに集約されるわけで、そこに、実は本来問題などないはずの哲学や文学やってる人間の(研究職への就職以外の)職業レリバンスなどというおかしな問題提起に変な対応を(本田先生が)されたところから、多分話が狂ってきたんでしょうね。
実は、今燃え上がっている就職サイトの問題も、根っこは同じでしょう。職業レリバンスのある教育をきちんとしていて、世の中もそれを採用の基準にしているのであれば、その教育水準を足きりに使うのは当然の話。

もちっと刺激的な言い方をしますとね。哲学や文学なら、そういう学問が世の中に存在し続けることが大事だから、大学にそれを研究する職業をこしらえ、その養成用にしてははるかに多くの学生を集めて結果的に彼らを搾取するというのは、社会システムとしては一定の合理性があります。
しかし、哲学や文学というところを経済学とか経営学と置き換えて同じロジックが社会的に正当化できるかというと、私は大変疑問です。そこんところです。

哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。

なんちゅことをいうんや、わしらのやっとることが職業レリバンスがないやて、こんなに役にたっとるやないか、という風に反論がくることを、実は大いに期待したいのです。それが出発点のはず。

で、職業レリバンスのある教育をしているということになれば、それがどういうレベルのものであるかによって、採用側からスクリーニングされるのは当然のことでしょう。しっかりとした職業教育を施していると認められている学校と、いいかげんな職業教育しかしていない学校とで、差をつけないとしたら、その方がおかしい。

足切りがけしからん等という議論が出てくるということ自体が、職業レリバンスのないことをやってますという証拠みたいなものでしょう。いや、そもそも上記厳密な意味の人文系学問をやって普通に就職したいなんて場合、例えば勉強した哲学自体が仕事に役立つなんて誰も思わないんだから、もっぱら「官能」によるスクリーニングになったって、それは初めから当然のことなわけです。

経済学や経営学部も所詮職業レリバンスなんぞないんやから、「官能」でええやないか、と言うのなら、それはそれで一つの立場です。しかし、それなら初めからそういって学生を入れろよな、ということ。

(法学部については、一面で上記経済学部等と同じ面を持つと同時に、他面で(一部ですが)むしろ理科系応用科学系と似た側面もあり、ロースクールはどうなんだ、などという話もあるので、ここではパスしておきます)

<追記>

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060417

「念のために申しておきますとね、法律学や会計学と違って、政治学や経済学は実は(それほど)実学ではないですよ。「経済学を使う」機会って、政策担当者以外にはあんまりないですから。世の中を見る眼鏡としては、普通の人にとっても役に立つかもしれませんが、道具として「使う」ことは余りないかと……。」

おそらく、そうでしょうね。ほんとに役立つのは霞ヶ関かシンクタンクに就職した場合くらいか。しかし、世間の人々はそう思っていないですから。(「文学部に行きたいやて?あほか、そんなわけのわからんもんにカネ出せると思うか。将来どないするつもりや?人生捨てる気か?なに?そやったら経済学部行きたい?おお、それならええで、ちゃあんと世間で生きていけるように、よう勉強してこい。」・・・)

コメント

こんにちは。日ごろより大いに勉強させていただいております。
今日のこのエントリを読んで、かつて大学受験のときに母と交わした会話を思い出しました。
私「文学部を受ける」
母「小説家になるのかい」
私「あと、政治学科も受ける」
母「政治家になるのかい」
私「…………」
向学心に燃えていた(笑)当時、なんつー俗っぽいことを言うんだ、と反発心を覚えたものですが、案外それは高卒就職した母にとって当たり前のギモンだったのかなー、と今では思います。。。

投稿: いずみん | 2006年4月20日 (木) 22時37分

いずみんさん、それはお母様が正しかったのですよ、人的資本理論からすると。

もとより、人間は人的資本であるだけではありません。そういう経済理論を「俗っぽい」と見下して、イデアの世界に生きるプラトニックな人生観もありえます。というか、そういうのがなかったら、人間世界にあんまり希望はないかも知れません。

ただ、問題はそれが経済学自身に跳ね返ってくることで、

いずみん「経済学部を受ける」
母「ケーザイ学者になるのかい」

とは普通ならないで、

いずみん「経済学部を受ける」
母「ビジネスウーマンを目指すのね」

となるのが普通でしょう。(ホント?)

それが、実学じゃないとか、「世の中を見る眼鏡」とかいわれたのでは、娘の学費を出す立場からすると、詐欺か?と言いたくなるかも知れません。

(追記)
ホントのところを言うと、経済学は役に立たないわけではありません(と思います、素人なりに)。人的資本理論なんかも、会社の人事担当者にとっては、私は必須の知識だと思います。

参考までに:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532131618/qid=1145845019/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/503-0048332-7207103

投稿: hamachan | 2006年4月24日 (月) 09時22分

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)

平家さんからさらにお返事を頂きました。

http://takamasa.at.webry.info/200604/article_14.html

「あまり意見に差がないのです」と仰るとおり、既に対立する議論を戦わせるというよりは、お互いに面白いネタを転がしているという感じになっていますが、あえてネタを膨らませてみましょう。

私は公共政策大学院というところでここ3年「労働法政策」という授業をやってきているんですが、あるトピックで学生から大変興味深い反応が出てきたことがあります。

それは男女雇用均等法政策の中で、最近話題になっている間接差別を取り上げたときなんですが、2004年に出された男女雇用機会均等政策研究会報告の中で提示された間接差別に該当する可能性のあるとされた7つの事例を紹介して、あなた方はどう思いますか?と尋ねたときに、学生たちが一致して「そんなのは自分で選んだんじゃないか、何を言ってるんだ」と大変否定的な反応が返ってきたのが、「募集・採用に当たって一定の学歴・学部を要件とすること」だったんですね。

http://www.mhlw.go.jp/houdou/2004/06/h0622-1.html

ここに顕れているのは、、まさに平家さんの言われる「、「『経済、経営、商』などの学部」の学生が「文学部なんてつぶしの利かないところじゃなく、ちゃんと世間で役に立つ学問を勉強しろといわれてそういうところに来た人」であるとすると、そのような志向を持った人を選び出すために、どのような学部を卒業したかという情報を利用」するということでしょう。

歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。で、そういう立場からすると、「なによ、自分で文学部なんかいっといて、いまさら間接差別だなんて馬鹿じゃないの」といいたくもなる。それが、学部なんて関係ない、官能で決めるんだなんていわれた日には・・・。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)

4月の11,17,25日に、平家さんとの間でやり取りした大学教育の職業レリバンスの話題ですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html

その後、稲葉先生のブログ経由で、東大教育学部の広田先生がこの問題に関連する大変興味深いエッセイを書いておられることを知りました。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060513#p2

内容の簡単な要約は以下にあります。

http://d.hatena.ne.jp/merubook/20060502/p2

特に面白いのは次の一節です。

「しかし、日本の人文・社会科学のこれまでの発展を支えてきたのは、実はこうした研究者を養成しない大学なのだ。大学院を終えた若手の研究者の大半は、それら地方国立大や中堅以下の私学に就職してきた。雑務も授業負担もまだ少なかったし、研究者を養成しないまでも、研究を尊重する雰囲気があった。・・・いわば、地方国立大や中堅以下の私学が、次の次代を担う若手研究者の育成場所となってきたのだ。

地方国立大や中堅以下の私学が研究機能を切り捨てて、顧客たる学生へのサービスを高度化させようとするのは、大学の組織的生き残りを目指す経営の論理からいうと、合理的である。・・・だが、その結果、若手の有望な研究者がせっかく就職しても、その後研究する余裕がない。」云々

この一節に対しては、山形浩生さんが

http://cruel.org/other/rumors.html#item2006050101

で、いかにも実務家インテリとしての感想を漏らされています。「ふざけんじゃねえ。三流私大の学生(の親)はあんたらに優雅に研究していただくために高い学費を納めてるわけじゃねーんだ!」というのは、おそらくかなり多くの人々の共感を呼ぶ罵声でしょう。「悪い意味での朝日体質」とは必ずしも思いませんが。というか、保守系人文屋も同じだと思うので。

ただ、これはそういって済ませられるだけの問題でもないだろうとも思います。稲葉先生が的確に指摘されているように、これは「研究者・高等教育担当者の労働市場の問題」なのであり、そういう観点からのアプローチが必要なはずです。

私には、まずもって「人文・社会系」と対象を大くくりにすることが問題を混乱させているように思われます。その中には、大学で教えられる教育内容が、大学教授となること以外には職業レリバンスがほとんどないような領域もあれば、企業や役所に就職してからの実務に多かれ少なかれ職業レリバンスが存在する領域もあるからです。

前者の典型は哲学でしょう。大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。

これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです。上で引いた広田先生の文章に見られる、自分の教え子(東大を出て下流大学に就職した研究者)に対する過剰なまでの同情と、その彼らに教えられている研究者なんぞになりえようはずのない学生に対する見事なまでの同情の欠如は、この辺の感覚を非常に良く浮かび上がらせているように思います。

ところが、この議論がそのまま広田先生とそのお弟子さんたちに適用できるのかというと、ちょっと待ってくれという点があります。彼らは教育学部なんですよね。教育学部っていうのは、社会的位置づけがある意味で180度違う分野です。

もともと、大学の教育学部というのは、ただ一つを除いて、戦前の師範学校、高等師範学校の後継者です。つまり、学校の先生という職業人を養成する職業教育機関であって、しかも最近はかなり揺らいできているようですが、教育学部卒業と(大学以外の)教師たる職業の対応性は、医学部や薬学部並みに高かったわけで、実は人文・社会系と一括してはいけないくらい職業レリバンスの例外的に高い領域であったわけです。

ただ一つの例外というのが、広田先生がおられる東大の教育学部で、ここだけはフツーのガッコのセンセなんかじゃなく、教育学というアカデミックな学問を研究するところでした。そこを出た若い研究者の卵が、ガッコのセンセを養成する職業訓練校に就職して、肝心の訓練指導をおろそかにして自分の研究ばかりしていたんではやっぱりますいんでなかろうか、という感じもします。

実は、こういう研究者養成システムと実務家養成システムを有機的に組み合わせたシステムというのは、理科系ではむしろ一般的ですし、法学部なんかはかなりいい加減ですが、そういう面もあったと言えないことはありません。ロースクールはそれを極度に強調した形ですが、逆に狭い意味でのローヤー養成に偏りすぎて、医療でいうパラメディカルに相当するようなパラリーガルの養成が抜け落ちてしまっている印象もありますが。

いずれにせよ、このスタイルのメリットは、上で見たような可哀想な下流大学の哲学科の学生のような、ただ研究者になる人間に搾取されるためにのみ存在する被搾取階級を前提としなくてもいいという点です。東大教育学部の学生は、教育学者になるために勉強する。そして地方大学や中堅以下の私大に就職する。そこで彼らに教えられる学生は、大学以外の学校の先生になる。どちらも職業レリバンスがいっぱい。実に美しい。

もちろん、このシステムは、研究の論理と職業訓練の論理という容易に融合しがたいものをくっつけているわけですから、その接点ではいろいろと矛盾が生じるのは当たり前です。訓練を受ける側からすれば、そんな寝言みたいな話ではなく、もっと就職してから役に立つことを教えてくれという要求が出やすいし、研究者の卵からは上で広田先生が書かれているような苦情がでやすいでしょう。

しかし、マクロ社会的なコストを考えれば、そういうコンフリクトを生み出しながらも、そういう仕組みの方がよりヒューマンなものではないだろうか、と思うわけです。

では、人文・社会系で一番多くの人口を誇る経済系の学部は一体どっちなんだろう、というのが次の問題ですが、とりあえず今日はここまで。

<追記>

読み返してみると、やや広田先生とそのお弟子さんたちに揶揄的に見えるような表現になっている感があり、若干の追記をしておきたいと思います。

実は、広田先生とそのお弟子さんたちの業績に『職業と選抜の歴史社会学-国鉄と社会諸階層』(世織書房)というのがあり、国鉄に焦点を当てて、近代日本のノンエリートの青少年たちの学歴と職業の姿を鮮烈に描き出した傑作です。こういうノンエリートへの暖かいまなざしに満ちた業績を生み出すためには、上で引用したようなノンエリートへの同情なき研究エゴイズムが充たされなければならないのか、というところが、この問題の一番難しいところなのだろうな、と思うわけです。

http://www.bk1.co.jp/product/2495103

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高校新科目「公共」は労働法教育の場となり得るか

今朝の紙面に、高校に新科目「公共」が導入されるという記事が出ています。正確には、中央教育審議会に示したということですが、文部科学省のサイトにはまだ出ていないようなので、とりあえず新聞報道でコメントしますが、

http://www.asahi.com/articles/ASH835VJBH83UTIL03M.html (高校に新科目案「公共」「歴史総合」 18歳選挙権受け)

 2020年度にも小中高校で順にスタートする新学習指導要領について、文部科学省は5日、22年度をめどに高校に必修の「公共」「歴史総合」(いずれも仮称)などの新科目を設ける案を公表した。文科相の諮問機関「中央教育審議会」に示した。16年度中に答申する方針だ。

 公民科の「公共」は選挙権年齢が18歳以上に引き下げられたことを受け、選挙など政治参加について学習する。将来、成人年齢が引き下げられるという意見も踏まえ、社会保障や契約、家族制度、雇用、消費行動といった社会で必要なことを学ぶ。

 自民党が13年に、社会で必要になる規範意識を養うとして新設を提言した。文科省も、現行の科目より実践的で幅広い新科目が必要と判断した。ただ、必修化で「倫理」など別の科目を学ばなくなる可能性もあり、既存の科目で習う専門的な知識が学べなくなることを心配する声もある。

ちらりと「雇用」という言葉が出てきていますが、これは本ブログでも何回も取り上げてきた実践的な労働法教育を想定しているのでしょうね。労働3法の名前をお題目よろしく唱えることができるというようなんじゃなくて、労働者としての権利をどこをどういう風に動かせば実現できるかという実践的な教育を。おそらく並んでいる社会保障とか、契約とか、消費行動とかも、そういう権利教育としての実践的なものを想定しているのであろうと思われます。

そうした実践的な知識が欠落したまま社会に出て行ってしまうことが問題であるという観点からすれば、これは基本的に望ましい方向だと思われます。

http://www.asahi.com/articles/ASH8541LKH85UTIL00Y.html (新科目「公共」、自民提言に沿う 教育現場には懸念も)

もちろん、そういう方向に「懸念」を持つ向きもあるわけですし、たしかに、とにかくマナーを学ばせろというというような中身になってはまずいのですが、

公民科については、自民党のプロジェクトチームが2013年6月、「社会でつまずき、責任ある行動がとれない若者が多い」として、規範意識や社会のマナーを学ばせる必要性を指摘。「(現行科目は)客観的な知識は断片的に教えているが、パッケージ化した全体像は示されていない」として、科目の新設を求める提言を発表した

文科省の担当者はかなりわかっているようで、

文部科学省は、おおむね提言通りの内容で検討している。担当者は「主権者や労働者、消費者など、様々な主体として自立することについて学ぶための科目が必要。専門性も大事だが、高校生の貴重な時間を何に使うか、優先順位を考えなければならない」と話す。。

「様々な主体として自立する」ためには、何よりも権利と義務をきちんと学ぶことが必要であるわけです。

このトピックについては、昨年も本ブログで取り上げておりました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-affb.html (新科目「公共」に労働法教育を)

例によってネット上ではつまらぬイデオロギー的空中戦になっているようですが、これこそ、今まで文部科学省がやってるやってるといいながら公民で労働3権を教えてるだけという状態だった労働法教育を、リアルなレベルできちんと位置づけるいい機会でしょう。

大事なのは、どんな無茶ぶりでも言うことを聞くというたぐいの規範意識ではなく、自らの正当な権利を社会に通用する規範としてきちんと示せるという規範意識として作っていけるかですが、そういう建設的な方向に持って行けるかは、これを変な空中戦にしていかないことが大事です。

なお、記事には「公共」のほかにも、近現代史中心の「歴史総合」を必修にするということも載っています。これについては細かく論じませんが、現代社会の問題をまともに議論するためには現代に繋がる歴史の知識が必須なのに、それが希薄な人が多い(あるいは著しく偏った知識だけで語る人が多い)ことを考えれば、大変重要なことだと思います。

(追記)

早速文科省のサイトに、資料がアップされたようです。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/053/siryo/1360750.htm

このうち、「教育課程企画特別部会 論点整理のイメージ(たたき台)(案)」というのを見ますと、

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo3/053/siryo/__icsFiles/afieldfile/2015/08/06/1360750_1.pdf

○ また、公民科は、様々な課題を捉え考察する基となる概念・理論や先哲の多様な思想を学び、自ら考え選択・判断する力を鍛える教科としての意義を持つ。そうした公民科における共通必履修科目として、家庭科や情報科をはじめとする関係教科・科目等とも連携しながら、主体的な社会参画に必要な力を、人間としての在り方生き方の考察と関わらせながら実践的に育む科目「公共(仮称)」の設置を検討することが求められる。なお、「公共(仮称)」については、社会的・職業的な自立に向けて必要な力を育むキャリア教育の中核となる時間として位置付けることを検討する。
この際、学校教育活動全体の中でのインターンシップの在り方や位置付け等についても、併せて検討することが求められる。

「キャリア教育の中核」という位置づけなんですね。

だとすればますます、労働法教育を中心とした権利としてのキャリア教育という観点をきちんと入れ込んでいくことが重要になってくるでしょう。

あと、この文書は興味深いところがいくつかあります。「新しい学習指導要領が目指す姿」の中に、

○ また、子供たちに職業や社会で必要となる資質・能力を育むためには、学校と社会との接続を意識し、一人一人の社会的・職業的自立に向けて必要な基盤となる能力や態度を育み、キャリア発達を促す「キャリア教育」6の視点が重要である。学校教育に「外の風」を取り込み、世の中と結び付いた授業等を通じて子供たちにこれからの人生を前向きに考えさせることが、主体的な学びの鍵となる。

とありますが、どういう「外の風」を取り込んでいくかが重要になるわけです。

井の中で「外の風」を嫌がっているだけではどうにもなりません。

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『HRmics』22号

Image2海老原さん率いるニッチモの『HRmics』22号が届きました。ネット上にも電子ブックとして既にアップされています。

http://www.nitchmo.biz/hrmics_22/_SWF_Window.html

特集記事は「教育研修」です。

1章 教育研修には、経営合理性があるか?

01.研修効果を測るHR的な標準手法
02.労働経済学が検証した教育研修効果
03.経済学的な結論への人事的な補足

2章 今日的課題に悩んだら、壁の穴研修を

01.視野の転換
02.アセスメントとチームビルディング
03.視野の拡大
04.組織の風通しを良くする
05.ブレークスルー

3章 経営と人事を結ぶ、教育投資のあり方

01.日本型組織と日本型研修の問題点
02.戦略的人事に求められる教育のメカニズム

ちなみに私は、「雇用問題は先祖返り」の連載が終わった舌の根も乾かぬうちに、今度は無謀にも「原典回帰」などという連載に手を染め、1回目はこともあろうに、シドニー&ベアトリス・ウェッブの『産業民主制論』を取り上げています。なんということだ!

原典回帰 第1回

シドニー&ベアトリス・ウェッブ著『産業民主制論』

はじめに

 前号の「労務賃貸借と奉公の間」で、2年間の連載「雇用問題は先祖返り」に終止符を打ったはずなのに、なぜかまた連載タイトルを変えてしゃしゃり出てきたようですな、このhamachanという奴は。しかも、毎回の先祖返りが病膏肓に入ったのか、今度は「原典回帰」と称して、労働問題の古典文献を紹介するなどと、身の程を知らぬことを口走っているようです。お前はそういう器ではないとたしなめるべき海老原御大が、面白がってけしかけているんだから世話はありません。古典相手にどんなトンデモ議論を振り回すことになるのか、御用とお急ぎでない皆さんは是非足を止めて、このけったいな連載を一瞥して笑いものにしてやってください。

労働問題の古典と言えば・・・

失われた失業保険機能

団体交渉とは集合取引

標準賃銀率

雇傭の継続と日本型デフレ

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『医療の質・安全学会誌』Vol.10No.3

Image1_2『医療の質・安全学会誌』第10巻第3号が届きました。

昨年11月22日に開かれた医療の質・安全学会でわたくしが行った報告「日本の労働法と超過勤務」が掲載されています。

目次は以下の通りです。

http://qsh.jp/zasshi_vol10_3.pdf

【特集】医療の質・安全の観点から見た業務体制と業務環境のあり方 273

日本の労働法と超過勤務 274 濱口 桂一郎 労働政策研究・研修機構
医師が健康に働ける職場を 278 保坂 隆 聖路加国際病院 精神腫瘍科
医療者(薬剤師)の「働きがい」と「働きやすさ」を考える . 283 古川 裕之 山口大学大学院 医学系研究科/ 医学部附属病院 薬剤部・臨床研究センター
看護職の超過勤務を考える . 288 ─看護師たちの「気遣い」と残業─ 奥 裕美 井部 俊子 聖路加国際大学
疲労を管理するノンテクニカルスキル その2 293 相馬 孝博 千葉大学医学部附属病院 医療安全管理部


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ここ数年流行りの有名な言葉

社会保険労務士試験の講師として有名な大河内満博さんのさりげないつぶやきに:

https://twitter.com/tomofullmoon/status/625757688538861568

【社労士試験】(1)今年、平成27年本試験の出題対象となる『平成26年版労働経済白書』には、「ジョブ型雇用」と「メンバーシップ型雇用」など、ここ数年流行りの有名な言葉が出てきます。仕事(職務)の内容を明確に決めておいてそれに人を当てはめる人材マネジメントを「ジョブ型雇用」と呼び、

https://twitter.com/tomofullmoon/status/625757714820370432

(2)人を中心とした管理が行われ、人と仕事(職務)の結びつきはできるだけ自由にしておいて、適宜、人に様々な仕事(職務)を与えて働かせることが多い人材マネジメントを「メンバーシップ型雇用」と呼びます。日本における伝統的な人材マネジメントは「メンバーシップ型雇用」だとされています。

https://twitter.com/tomofullmoon/status/625757737947787265

(3)そして、日本の正規雇用労働者の特徴については、①労働契約の期間に定めがないこと、②所定労働時間がフルタイムであること、③直接雇用であること、を3大要素とし、大企業ではさらに、④勤続に応じた処遇、雇用管理の体系(勤続年数に応じた賃金体系、昇進・昇格、配置、能力開発等)があり、

https://twitter.com/tomofullmoon/status/625757759837896704

(4)⑤勤務地や業務内容の限定がなく時間外労働があること、としている。なお、不思議な使われ方をしているのは「多様な正社員」という言葉で、これは「一般職社員」「職種限定社員」「勤務地限定社員」「所定勤務時間限定社員」の4つを総称したもので、いわゆる「限定正社員」のことである。以上

それにしても、「ここ数年流行りの有名な言葉」だったんですか・・・。

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一緒くたにされた

https://twitter.com/rom_emon/status/628210405492420608

リフレ派も池田信夫もhamachan先生も皆"反ファシズム"葬送派。

一緒くたにされた・・・・・。

いや、私を批判したいならいくらでも批判すればいいけど、なんぼなんでもよりによってこんな人々と一緒くたにするのはあまりにも・・・・。

(追記)

ただし、まともな人の目から見ても、前2者は似たようなもののようですが・・・。

https://twitter.com/knrjp/status/629391539668520960

池田信夫と「りふれは」は、金融政策以外大して違いない。似たもの同士。

「リフレ派」ではなく、「りふれは」ですね、もちろん。

もひとつ、

https://twitter.com/sunafukin99/status/629968570479325185

最近はイケノブとリフレ主流派の違いって金融政策への態度ぐらいしか見当たらないんだが。どんどん似てきたように思う。

https://twitter.com/sunafukin99/status/629968720673116160

元々根っ子は同じだったんだろうな。俺が勘違いしていただけ。

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若者が声を上げられないのは、大人がモノを言う姿を見せていないからだ

201508_cover_l『月刊連合』8月号は「18歳選挙権成立で考える 主権者教育×労働教育」です。

http://www.jtuc-rengo.or.jp/shuppan/teiki/gekkanrengo/backnumber/new.html

6月17日、選挙権年齢を「18歳以上」とする改正公職選挙法が成立。来年夏の参議院選挙から適用され、10代の約240万人が新たに有権者となる。
    今18歳前後の若者が生まれたのは、1990年代後半。非正規雇用が急増し、格差社会への転換期となった頃だ。学校生活や進路選択を通じて、格差や貧困、雇用の劣化を身近に感じている世代ともいえる。日本が抱える問題を解決していくためにも、若い世代の声をしっかり政治に反映させることは重要だ。あるいは、異論を封殺するような現在の政治状況において、18歳選挙権は、その流れを変える一つの転機になりうるかもしれない。大人たちはどう働きかけるべきか。「主権者教育」と「労働教育」という2つの観点からアプローチを考える。

主権者教育の方は毎日新聞の与良正男氏ですが、労働教育については藤村博之さんが「労働教育と労働組合の役割」について語っています。

昨年11月、連合が18歳~25歳の若者を対象に実施した「学校教育における『労働教育』に関する調査」。約6割が「働いていて困った」経験があるが、そのうち4割は、困ったことへの対応を「何もしなかった」と回答。これまで、学校で「職場のトラブルや不利益な取扱」への対処について学んだ経験があるのはわずか3割で、「働く上での権利・義務を学校教育でもっと学びたかった」という回答が7割を超えた。
    法政大学経営大学院の藤村博之教授は、「若者が声を上げられないのは、知識や判断力不足に加え、大人がモノを言う姿を見せていないからだ」と指摘する。

「若者が声を上げられないのは、大人がモノを言う姿を見せていないからだ」というのはその通りでしょうね。


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あったかサポートシンポ記録

Attaka_2


『NPO法人あったかサポート 第10回総会記念シンポジウム報告と討論の記録 労働・教育・福祉の一体化に向けた政策課題を探る』 (NPO法人あったかサポート)をお送りいただきました。

去る5月23日に京都で行われたシンポで、わたくし、本田由紀さん、埋橋孝文さんの3人による掛け合いがなかなか面白いのではないかと思います。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-353c.html(NPO法人あったかサポートシンポジウムの記事)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/attaka1505.html(労働という視点から教育・セーフティネットを語る)

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安藤至大さんインタビューに一点訂正

「日本の人事部」というサイトに、安藤至大さんのインタビューが載っています。前後編の前編ですが、著書『働き方の教科書』と同様、わかりやすく本質を説明されています。

https://jinjibu.jp/article/detl/keyperson/1248/

なんですが、読んでいくと、アレレ、という箇所がありました。言い間違いなのか、編集部の書き間違いなのか、要は助詞の位置がずれているんですが。

Kyp1508030102・・・J.アベグレンが1958年に著した『日本の経営』では、「日本的雇用」として「定年までの長期雇用慣行」「年功序列制度(年功賃金)」「企業別組合」の三つの要素を挙げていますが、日本の正社員は、それ以外の面でも世界的に見て珍しい働き方をしているといえます。JILPTの濱口桂一郎さんは、人仕事張り付ける「メンバーシップ型雇用」といった表現をされていますが、「契約で仕事内容や勤務地、勤務時間などを特定して雇われる」という世界的な標準とは異なり、「雇用を保障される代わりに、働き方は会社に全て任せる」という雇用のスタイルになっています。この日本的雇用は歴史的にはメリットがありましたが、現在はうまくいかなくなっています。

いうまでもなく、仕事が先にあり「人仕事張り付ける」のが日本以外の世界共通のジョブ型雇用システムであり、それとは逆に人が先にあり「人仕事張り付ける」のが日本的なメンバーシップ型雇用システムです。

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JTBグループ労連でインターバル規制

平壌じゃない方の「労働新聞」(という言い方もいい加減飽きてきましたが)に、勤務間インターバル規制の記事が載っています。

http://www.rodo.co.jp/periodical/news/2015833027.php

勤務間インターバル規制で9社が妥結――JTBグループ労連

国内旅行業最大手であるJTBグループ内の9社が、今年の15春闘で勤務間インターバル規制の導入を妥結したことが分かった。前日の勤務終了から翌日の勤務開始までの休息時間を確定して労働時間に絶対的上限を定める業界初の取組みで、11時間2社、10時間1社、9時間1社、8時間5社がその内訳。旅行業が中心だが、長時間労働となりがちな広告・イベント関連の企業なども含んでいる。生活時間の充足を通じて個々の多様性を担保し、人財力の強化につなげる考えを労使で共有した。

旅行会社というのも客商売の典型で、労働時間がずるずると長引きがちな業界なのでしょうが、そういうところでの勤務間インターバルの導入の試みは、インパクトが大きいものだと思います。

・・・JTBグループ労働組合連合会(小川一会長、約1万4000人)が今年の15春闘で統一要求に踏み切って獲得した成果で、7月1日現在、妥結した9社はいずれも新たな規制の導入に踏み切っている。各社における同規制の適用対象者は、全従業員が7社、管理監督者を除く従業員が2社となっている。

 同グループ労連が所属する上部団体=サービス連合内では初めての取り組みであり、最大手の決断が及ぼす業界内への波及効果が期待されている。

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