経済学部の職業的レリバンス(再掲)
本田由紀さんが意味不明のつぶやきをしていたので、思い出しました。
https://twitter.com/hahaguma/status/617745186106404865?p=p
なんか今見てる手元のデータでは、経済学の大学教育の質がやばい感じなのだが…ごにょごにょ…寝よ…
大学の経済学部の教育のレリバンスについては、6年前にこんなエントリを書いてましたな。
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html
たまたま、今から11年前の平成10年4月に当時の経済企画庁経済研究所が出した『教育経済研究会報告書』というのを見つけました。本体自体もなかなか面白い報告書なんですが、興味を惹かれたのが、40ページから42ページにかけて掲載されている「経済学部のあり方」というコラムです。筆者は小椋正立さん。本ブログでも以前何回か議論したことのある経済学部の職業的レリバンスの問題が、正面から取り上げられているのです。エコノミストの本丸中の本丸である経企庁経済研がどういうことを言っていたか、大変興味深いですので、引用しましょう。
>勉強をしないわが国の文科系学生の中でも、特にその傾向が強いと言われるグループの一つが経済学部の学生である。学生側の「言い分」として経済学部に特徴的なものとしては、「経済学は役に立たない(から勉強しても意味がない)」、「数学を駆使するので、文科系の学生には難しすぎる」などがある。・・・
>経済学の有用性については、確かに、エコノミストではなく営業、財務、労務などの諸分野で働くビジネスマンを目指す多くの学生にとって、企業に入社して直接役立つことは少ないと言えよう。しかし、ビジネスマンとしてそれぞれの職務を遂行していく上での基礎学力としては有用であると考えられる。実際、現代社会の特徴として、経済分野の専門用語が日常的に用いられるが、これは経済学を学んだ者の活躍があればこそ可能となっている。・・・
>・・・ところが、経済学の有用性への疑問や数学使用に伴う問題は、以上のような関係者の努力だけでは解決しない可能性がある。根本的には、経済学部の望ましい規模(全学生数に占める経済学部生の比率)についての検討を避けて通るわけにはいかない。
>経済学が基礎学力として有用であるとしても、実社会に出て直接役に立つ分野を含め、他の専攻分野もそれぞれの意味で有用である。その中で経済学が現在のようなシェアを正当化できるほど有用なのであろうか。基礎学力という意味では数学や物理学もそうであるが、これらの学科の規模は極めて小さい。・・・
>大学入学後に専攻を決めるのが一般的なアメリカでは、経済学の授業をいくつかとる学生は多いが専攻にする学生は少ない。もちろん、「望ましい規模」は各国の市場が決めるべきである。歴史的に決まってきた現在の規模が、市場の洗礼を受けたときにどう判断されるのか。そのときに備えて、関係者が経済学部を魅力ある存在にしていくことが期待される。
ほとんど付け加えるべきことはありません。「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。
何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。これに比べたら、哲学や文学のような別に役に立たなくてもやりたいからやるんだという職業レリバンスゼロの虚学系の方が、それなりの需要が見込めるように思います。
ちなみに、最後の一文はエコノミストとしての情がにじみ出ていますが、本当に経済学部が市場の洗礼を受けたときに、経済学部を魅力ある存在にしうる分野は、エコノミスト養成用の経済学ではないように思われます。
(参考)
経済学の職業的レリバンスについては:
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)
平家さんのブログでのやり取りに始まる11日のエントリーの続きです。
平家さんから再コメントを頂きました。
http://takamasa.at.webry.info/200604/article_11.html
この中で、平家さんは「大学の先生方が学生を教えるとき、常に職業的レリバンスを意識する必要はないと思っています。勿論、医学、薬学、工学など職業に直結した教育というものは存在します。そこでは既にそういうものが意識されている、というよりは意識しなくても当然のごとくそういう教育がなされているのです。法学部の一部もそういう傾向を持っているようです。問題は、むしろ、柳井教授が指摘されているように経済、経営、商などの学部や人文科学系の学部にあるのです」と言われ、「特に人文科学系の学問(大学の歴史をたどればこれが本家本元に近いでしょう。)は、学者、ないしそれに近い知的な職業につくケースを除けば、それほど職業に直結していません。ですから、そういう学問を教えるときに職業的レリバンスを意識しても、やれることには限界があります」と述べておられます。
この点については、私は冒頭の理科系応用科学分野及び最後の(哲学や文学などの)人文系学問に関する限り、同じ意見なのです。後者については、まさにそういうことを言いたいたかったのですけどね。それが、採用の際の「官能」として役立つかとか、就職後の一般的な能力として役立つかどうかと言うことは、(それ自体としては重要な意義を有しているかも知れないけれども)少なくとも大学で教えられる中味の職業レリバンスとは関係のない話であると言うことも、また同意できる点でありましょう。
しかしながら、実は大学教育の職業レリバンスなるものが問題になるとすれば、それはその真ん中に書かれている「経済、経営、商などの学部」についての問題であるはずなんですね。この点について、上記平家さんのブログに、次のようなコメントを書き込みました。
きちんとした議論は改めてやりますが、要するに、問題は狭い意味での「人文系」学部にはないのです。なぜなら、ごく一部の研究者になろうとする人にとってはまさに職業レリバンスがある内容だし、そうでない多くの学生にとっては(はっきり言って)カルチャーセンターなんですから。
ところが、「経済、経営、商などの学部」は、本来単なる教養としてお勉強するものではないでしょう(まあ、中には「教養としての経済学」を勉強したくってきている人がいるかも知れないが、それはここでは対象外。)文学部なんてつぶしのきかない所じゃなく、ちゃんと世間で役に立つ学問を勉強しろといわれてそういうところにきた人が問題なんです。現在の大学の「職業レリバンス」の問題ってのは、だいたいそこに集約されるわけで、そこに、実は本来問題などないはずの哲学や文学やってる人間の(研究職への就職以外の)職業レリバンスなどというおかしな問題提起に変な対応を(本田先生が)されたところから、多分話が狂ってきたんでしょうね。
実は、今燃え上がっている就職サイトの問題も、根っこは同じでしょう。職業レリバンスのある教育をきちんとしていて、世の中もそれを採用の基準にしているのであれば、その教育水準を足きりに使うのは当然の話。もちっと刺激的な言い方をしますとね。哲学や文学なら、そういう学問が世の中に存在し続けることが大事だから、大学にそれを研究する職業をこしらえ、その養成用にしてははるかに多くの学生を集めて結果的に彼らを搾取するというのは、社会システムとしては一定の合理性があります。
しかし、哲学や文学というところを経済学とか経営学と置き換えて同じロジックが社会的に正当化できるかというと、私は大変疑問です。そこんところです。哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。
なんちゅことをいうんや、わしらのやっとることが職業レリバンスがないやて、こんなに役にたっとるやないか、という風に反論がくることを、実は大いに期待したいのです。それが出発点のはず。
で、職業レリバンスのある教育をしているということになれば、それがどういうレベルのものであるかによって、採用側からスクリーニングされるのは当然のことでしょう。しっかりとした職業教育を施していると認められている学校と、いいかげんな職業教育しかしていない学校とで、差をつけないとしたら、その方がおかしい。
足切りがけしからん等という議論が出てくるということ自体が、職業レリバンスのないことをやってますという証拠みたいなものでしょう。いや、そもそも上記厳密な意味の人文系学問をやって普通に就職したいなんて場合、例えば勉強した哲学自体が仕事に役立つなんて誰も思わないんだから、もっぱら「官能」によるスクリーニングになったって、それは初めから当然のことなわけです。
経済学や経営学部も所詮職業レリバンスなんぞないんやから、「官能」でええやないか、と言うのなら、それはそれで一つの立場です。しかし、それなら初めからそういって学生を入れろよな、ということ。
(法学部については、一面で上記経済学部等と同じ面を持つと同時に、他面で(一部ですが)むしろ理科系応用科学系と似た側面もあり、ロースクールはどうなんだ、などという話もあるので、ここではパスしておきます)
<追記>
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060417
「念のために申しておきますとね、法律学や会計学と違って、政治学や経済学は実は(それほど)実学ではないですよ。「経済学を使う」機会って、政策担当者以外にはあんまりないですから。世の中を見る眼鏡としては、普通の人にとっても役に立つかもしれませんが、道具として「使う」ことは余りないかと……。」
おそらく、そうでしょうね。ほんとに役立つのは霞ヶ関かシンクタンクに就職した場合くらいか。しかし、世間の人々はそう思っていないですから。(「文学部に行きたいやて?あほか、そんなわけのわからんもんにカネ出せると思うか。将来どないするつもりや?人生捨てる気か?なに?そやったら経済学部行きたい?おお、それならええで、ちゃあんと世間で生きていけるように、よう勉強してこい。」・・・)
コメント
こんにちは。日ごろより大いに勉強させていただいております。
今日のこのエントリを読んで、かつて大学受験のときに母と交わした会話を思い出しました。
私「文学部を受ける」
母「小説家になるのかい」
私「あと、政治学科も受ける」
母「政治家になるのかい」
私「…………」
向学心に燃えていた(笑)当時、なんつー俗っぽいことを言うんだ、と反発心を覚えたものですが、案外それは高卒就職した母にとって当たり前のギモンだったのかなー、と今では思います。。。投稿: いずみん | 2006年4月20日 (木) 22時37分
いずみんさん、それはお母様が正しかったのですよ、人的資本理論からすると。
もとより、人間は人的資本であるだけではありません。そういう経済理論を「俗っぽい」と見下して、イデアの世界に生きるプラトニックな人生観もありえます。というか、そういうのがなかったら、人間世界にあんまり希望はないかも知れません。
ただ、問題はそれが経済学自身に跳ね返ってくることで、
いずみん「経済学部を受ける」
母「ケーザイ学者になるのかい」とは普通ならないで、
いずみん「経済学部を受ける」
母「ビジネスウーマンを目指すのね」となるのが普通でしょう。(ホント?)
それが、実学じゃないとか、「世の中を見る眼鏡」とかいわれたのでは、娘の学費を出す立場からすると、詐欺か?と言いたくなるかも知れません。
(追記)
ホントのところを言うと、経済学は役に立たないわけではありません(と思います、素人なりに)。人的資本理論なんかも、会社の人事担当者にとっては、私は必須の知識だと思います。参考までに:
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4532131618/qid=1145845019/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/503-0048332-7207103投稿: hamachan | 2006年4月24日 (月) 09時22分
その前のエントリが:
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)
その後のエントリが:
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c586.html(専門高校のレリバンス)
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)
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文I、文III、ネコ、文II
とか
経済学部生は回数券で通う
とか
言われていましたね。
投稿: ちょ | 2015年7月 8日 (水) 14時30分
学部の教育については語られているとおりだろう。だが、大学院の教育はそれとは異なると言えるのではないか。
例えば、労働問題について中央省庁で政策を立案しようとする人々は、少なくとも今後は、みなそういう問題に関する勉強を大学院でしてきた人間であるべきではなかろうか。
(誰がそうだとは言わないが)学部卒の人間が叩き上げで勉強した結果中央政府の政策立案にかかわれるという今の仕組みはおかしいと言わざるをえない。
投稿: vox_populi | 2015年7月10日 (金) 01時04分
↑
こういうしょーもない言説が出てくるのは、国によって雇用システム、教育システムが異なるという比較社会学的思考の基本が身についていない人間が欧米との比較で日本社会について語るという無謀を犯すからでしょうね。
日本では学部段階で専門教育を行いますが、アメリカでは学部では教養教育しかしない。専門教育を受けるのは大学院から。つまり、アメリカのマスターコースが日本の学部3,4年で、アメリカのドクターコースが日本の修士課程にあたる。日本は博士号取得者が少ないと言われますが、それはこのようなシステムの違いを無視した妄言にすぎない。比較するならアメリカの博士号取得者と日本の修士号取得者の数を比較しなくてはならない。
日本では官僚も学部段階で専門教育を受けて後はOJTで知識を身につけていく非常に安上がりなシステムになっている。それゆえに多くの人間が少ない負担で高等教育を受けられ、立身出世の機会が開かれていた(まあ、それ以上に財政規模が小さすぎるという問題があったわけですが)。アメリカのように高い授業料で大学院まで行かなければ専門教育を受けられないのであれば、富裕層しかエリートにはなれない。これが表面上平等を謳いながらその実厳しい階級社会であるアメリカの社会構造を支える要因の一つでしょう。上の人は以前日本は階級社会になるべきではないと言っていたように思うが、その同じ口で「学部卒の人間が叩き上げで勉強した結果中央政府の政策立案にかかわれるという今の仕組みはおかしい」などという言辞を弄することに矛盾を感じないのだろうか?
ただ、国際的にエリート層の学位のインフレが進む現状では既存の日本のシステムをそのまま維持するのは無理というものでしょうね。
この点でヨーロッパの動きが参考になります。ヨーロッパ大陸諸国も日本同様学部段階で専門教育を行いますが、学位はディプロマ、ドクターの二段階でした(戦前の日本もそうだったと思いますが)。しかし近年ヨーロッパ諸国の高等教育システムを標準化するボローニャ・プロセスなるものが進んでいるようです。学位については英米型の三段階システムを採用し、ただし学部で専門教育まで行うのは従来通り。研究大学では学部段階で修士号まで与えることで従来のシステムからの変動を最小化しようという考えのようです。
日本もこの動きに合わせるべきではないかという思います。現在進む大学改革では研究大学と職業教育大学の分化が唱えられていますが、研究大学では修士号まで与えるシステムにしてしまうべきでしょう。もちろん厳しいクオリティコントロールが必要で、研究大学の数も限定すべきでしょうね。その代わり多額の予算を注入して教育環境を改善すべきです。奨学金も充実すべきでしょう。研究大学を卒業した人間は修士号取得者として何年か働いた後、大学院に入り直して博士号を取得するというエリートのキャリアパスを形成していくのが望ましいのではないでしょうか。もちろん大学側も研究者養成とは異なる実務家向けの大学院の整備を進めるべきでしょうね。
大学院拡大によって大量発生した博士号、修士号取得者について政府が責任をとって中央省庁に雇用せよという議論が見られますが、これは筋違いでしょう。文部省が進めた大学院倍増計画は理系の修士を想定したもので、文系の大学院拡大は考えられていなかった。しかし大学側が安上がりな文系の大学院の乱造に走ったというのが実態のようです。
計画に関わった潮木守一氏の証言
「大学院倍増計画の実相」
http://ushiogi.com/inbaizou.pdf
「しかし「倍増計画」という言葉がたちまち一人歩きするようになった。あたかもどの分野も単純に一律倍増を答申しているように理解されたが、実際はそうではなかった。理工系大学院は積極的拡大が必要だったが、文科系大学院の場合には拡大の必要性は低かった。
むしろ既存の収容定員を削減しなければならないかもしれない恐れさえあった。分野ごとのアンバランスは明確であった。
しかし国の立場からすれば、ある分野は拡大させ、ある分野は縮小するといった、分野限定的な施策を打ち出すことはできない。そこで結論的には、大学院全体を大括りにした倍増する必要があるとする基本方向を示すにとどまった。もともとすべての分野を均等に倍増するといった考え方はまったくなかった。ところで国の立場からは直接定員管理を行えるのは、国立大学だけである。私立大学の大学院新増設に対しては「準則主義」が原則であり、提出される計画が基準を満たしている限り、それを認めるのが基本的な立場であった。つまり大学院卒業者の需給アンバランスは、私立大学それ自身の責任で考えるべき問題で、かりにある分野での需給アンバランスがおきたとしても、国の関与すべき問題ではなく、各大学院が自主的に判断すべき課題とされていた。」
まあ、このあたりの政府の権限の弱さが現在の大学の混迷を招いたわけですが、権限が弱くて出来ることがないのなら最初から大学院倍増計画なんてぶちあげなきゃよかったのにと思わないでもありません。
いずれにしても、大学側の無責任が大きいのは事実ですから、まず大学が事態に主導的に対応すべきでしょう。自治には責任がつきものです。
問題は大学院のクオリティコントロールが全くなされていないことです。STAP細胞事件で理系においてすら大学院教育が出鱈目であることが暴露されてしまいましたが、文系は輪をかけてひどいものでしょう。そのような出鱈目な人間が修士や博士の学位をもっているというだけで、中央省庁の政策立案に関わることになどなったらそれこそ悪夢です。亡国の危機です。そのような事態だけは何としても避けてほしい。
もちろん真に能力ある大学院修了者はその学識にふさわしい仕事を政府が生み出して社会に貢献させる必要があります。
長期的には大学と実務を行き来する学識あるエリートが社会を指導するシステムを構築すべきでしょう。今般の大学改革がその一里塚にならねばなりません。大学側の責務は重大だが、その自覚が乏しいのではないかと危惧される昨今です。
投稿: 通りすがり | 2015年7月13日 (月) 22時14分
私自身は、田舎の大学の経済学部を出たのですが、あの頃を振り返ってみると、素人考えながら、以下の方向で経済学部を改革してはどうか、と考えています。
改革案:
学部1年,2年は、ミクロ経済学、マクロ経済学など、経済学部の伝統的な講義を行い、学部3,4年では、法学系と会計学系の二つに絞って教える。
理由:
経済学の職業的レリバンスは中途半端である。明らかに文学や哲学よりはその職業的レリバンスが高いが、理工学と比較すると低い。
官僚や国家公務員2種、都道府県の地方上級職公務員になるならば、経済学的知識は明らかに役に立つ。経済政策の立案や経済統計の収集、解釈に経済学部のアカデミックな知識が必要なのは明らかだろう(何よりも公務員試験で経済学は独立した一科目として出題される)。他に、金融機関のアナリスト職、新聞記事も同様だ。彼らが文学や哲学の知識を仕事に使うことはないが、経済学の知識は使う。
一方で、上記以外の職においては必ずしも経済学的知見は必要とされない。今、職業的レリバンスの欠如が問題になっているのは、上記の職に就く見込みが低い学生を多く抱える、地方の大学の経済学部である。
しかし、経済学的知識は政府の経済政策の妥当性を検討する材料になるという意味で、有権者の教養としての存在意義はある。したがって、たとえ経済学の知識を使わない職種に就業するとしても、ミクロ経済学とマクロ経済学の入門レベル程度は履修するのが望ましい。
以上の考察より、学部1年2年では職業的レリバンスが低い伝統的な経済学部の科目を教え、3,4年では職業的レリバンスが比較的高い法学系統や会計学系統に絞って学ばせるべきである。
宇都宮大学「地域デザイン学部」、千葉大学「国際教養学部」のように何を学ばせたいのかよく分からない改革より、上述の地味な方向の改革の方が具体的で、過去のアカデミックな知識との親和性もあり、好ましいのではないかと考えています。報道を見ていても、このようにシンプルに考える議論がほとんど目につかないのは何故でしょうかね。
投稿: thinking Holiday | 2016年4月 9日 (土) 16時13分
はあはあ。
コメントを初めて読まさせていただきまして一言だけ。
最近の日本学術会議での経済学教育におけるメインストリーム重視とそれを良しとしない流派からの様々の議論を含有すると、枝葉の前にその世界は「流派騒動」状態で、まずはそこの整理しないと…ですねえ。
経済学って問題の源泉は学問である限りは流派でしょ。
職業訓練でしたら理解できますが別物ではないですかねえ。
投稿: kohchan | 2016年4月10日 (日) 10時18分