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2015年7月19日 (日)

生活賃金

Dio 連合総研から『DIO』306号をお送りいただきました。特集は「働く者にとって望まれる 「多様な働き方」の前提条件」で、ラインナップは

http://rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio306.pdf

雇用社会の危機と労働法制の課題 毛塚 勝利……………………4

「多様な働き方」における生活賃金の課題 藤原 千沙……………………8

フランスにおける非正規労働者への均等待遇制度 大山 盛義 …………………12

労働者派遣における集団的労使関係の形成の課題 ~ドイツでの経験が示唆するもの~ 高橋 賢司 …………………16

4人中3人までが労働法学者ですが、ここではむしろ違う観点から生活賃金の問題に切り込んでいる藤原千紗さんの文章を。

言われていることは、私も『新しい労働社会』などで語ってきたことに繋がりますが、

 これまで日本の労働組合は、いわゆる電産 型賃金で知られるように、「食える賃金」「生 活できる賃金」を求めて、生計費を考慮した 賃金要求を行ってきた。純粋な生活給として だけでなく、職務給、職能給、成果主義賃金 など賃金をめぐってさまざまな議論が行われる なかでも、雇用労働者である以上、賃金で生 活することは大前提であり、たとえ仕事や成 果に応じた賃金であろうと生活できる賃金水 準を下回ることは想定されていなかった。賃 金が生活できる水準であることは当然であり、賃金をめぐる労使の議論はその水準を超えて、 どのような賃金決定が公平・公正であるかが 焦点とされてきたのである。

 労働組合は、少なくとも正社員の賃金につ いては、その賃金制度がどうであれ、生活で きる賃金水準を曲がりなりにも獲得してきたと して、では「多様な働き方」ではどうなのか。 「多様な働き方」とは従来のような正社員では ない働き方を意味するものだとすると、そう いった働き方を選択しても生活できる賃金は 保障されるのか。

 「多様な働き方」の議論で決定的に欠けて いるのは、果たしてそれで食べていけるのかと いう、賃金の視点である。

 不思議なことに、「多様な働き方」の議論に おいては、その仕事の賃金だけで生活するこ とは想定されておらず、他に生計維持手段が あることが前提されているかのようである。 パートの女性は夫がいるので、生活できる賃 金水準でなくても困らないという前提で、正社 員の賃金とはかかわりなく、最低賃金制度や 労働市場の需給関係で賃金が決められてき た。

 このように、正規と非正規とでは賃金の考 え方や決め方がまったく異なり、均等処遇が 行われていない日本の現状において、「多様な 働き方」=「従来の正社員ではない働き方」 が広がれば、生活できる賃金を得ることので きない労働者が増加するのは必然である。稼 働年齢層の貧困率が他の先進諸国と比べても 高い日本の現状は、非正規雇用の賃金では必 ずしも生活できないことを知っていながら対処 してこなかった労使の双方と、賃金の不十分 性を税や社会保障といった所得再分配でも対 処してこなかった政府、政労使すべての責任 である。

では、これまでの電産型賃金の流れを引く正社員の「生活できる賃金」ではなく、すべての労働者にとっての「生活できる賃金」とはどのようなものであるべきか。

藤原千沙さんはこのように語ります。

 第一に、世帯モデルとしては、親1人子1人 モデルを提唱したい。現状でも最低賃金でフ ルタイム働けば自分一人の生計費は確保できる かもしれない。だが労働者一人の生活をかろ うじて満たすだけの賃金水準では、子どもを 産み育てることはできず、労働力の世代的再 生産は不可能となる。

 他方、親2人子2人といった共稼ぎモデルで は、その賃金水準の半分で親1人子1人の世帯 が暮らせるわけではない。規模の経済が働か ないからである。むしろ、親1人子1人が生活 していくことができる生計費を「生活できる賃 金」水準として設定すれば、親が2人いれば 子どもは2人以上養育することが可能となるの であり、母子世帯や父子世帯であっても少な くとも子ども1人であれば貧困に陥らずに生活 していくことができる。

 第二に、その賃金水準を得るために必要な 労働時間は、日々の労働力再生産のために、 また世代的な労働力再生産のために、必要な 生活時間が加味されていなければならない。 これについては、連合が掲げる「年間総労働 時間1800時間」モデルは、労働時間1日7.5時 間、年間労働日240日(週休2日)をベースとし たものであり、妥当であろう。  生活できる賃金を考えるうえで労働時間の 視点は重要である。時給1000円で年間3000 時間働けば年収300万円を得ることはできる。 だが年間240労働日で年間3000時間とは1日 12.5時間労働である。1日24時間の半分が有 償労働に費やされ、それ以外は生物体として の生理的時間だけで毎日が終わる暮らしは、 生活しているとはいえない。ただお金があれ ば子どもが育つわけではなく、子どもと向き 合いともにすごす時間が必要である。労働力 の再生産にとって必要なのはお金だけではな く、時間の保障が不可欠である。

 第三に、このように設定された生活できる 賃金を、誰がどのように保障するかである。直接賃金として個別企業に求めるのか、ある いは間接賃金として税や社会保障のルートで 求めるのか、いずれの方法もありうる。 

そして、その観点から賃金制度のあり方についても、次のように重要な指摘をしています。

 重要なのは、労働者の職務に合わせた賃金 であっても、労働者の能力に合わせた賃金で あっても、それが生活できる賃金水準を下回ら ないことである。そしてその水準は子どもの養 育費用が全額社会化されない限り、労働者の 年齢にしたがって上昇していく。それゆえ、労 働者の年齢にしたがっていかに賃金を上げてい くことができるか、能力形成や職務配置のあり 方が具体的な労使の課題となる。また、現実 問題として、3年や5年といった有期雇用が広が るなかでは、単なる一企業の処遇のあり方にと どまらず、企業横断的な教育訓練や評価制度 のあり方を考えていかなければならないだろう。

ややもすると細かい議論に没入しがちな賃金論について、少し原点に戻って議論するために必要なことがさらりと示されています。

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コメント

藤原さんには、上智大の三浦まりさんとともに、連合総研の「賃金・雇用の中長期的あり方」に関する研究委員会でアドバイザーをお願いしているのですが、そこでも「あるべき賃金」とは次世代の再生産を可能にしながら生活できる賃金です。
生活できる賃金については藤原さんの書かれているように「企業の賃金支払いを労働者個々人の具体的生活に対応させることは非現実的」(中小企業は特にそうでしょうし、ましてや非正規労働者の賃金実態を考えると一層非現実的)だとすれば、選択肢は「間接賃金として税や社会保障のルートで求める」ことに絞られそうです。つまり「生活できる賃金の一部が個別企業からではなく政府を通した所得再分配のルートで保障されるようになれば、たとえ失業しても、無業者でも、自営業や請負労働者でも享受できるようになり、社会的連帯は広がる」でしょう。
これは「あるべき賃金」の公正さをどのような基準で判断するのかにも関わります。この点についてわたしは"Business labor trend"(2015.3)に寄稿した「あるべき賃金をめぐる論点について」の中で「「あるべき賃金」を一定の仕事スキルを持った「一人前労働者」に、同一価値労働同一賃金の原則を適用することであると位置づけることの当否について検討する。これは「一物一価」という市場経済の原則を賃金に当てはめた同一価値労働同一賃金という基準が、生計費や再生産費用としてみた「あるべき賃金」の公正さをそれ自体として担保しうるのかという問題である。
研究委員会の論議からは離れるが、筆者はこの問題の検討にはアマルティア・センの平等論が某かの示唆を与えるのではないかと考えている。センは適切な所得分配について「必要」に基づく概念と「功績」に基づく概念という対抗する二つの基本的な考え方があるとした。必要とは生存から社会生活の維持までを含む生計費であり、功績とは労働の対価とみなしてもよかろう。その上で「必要」に基づく概念は「功績」に基づく概念よりも解釈に統一性があり、「不平等」とは何かといった分配上の判断を下すための基礎として高い優先順位を持つと述べている[『不平等の経済学』(1973)]。
それでは「必要」に基づいて相対的に大きな所得シェアを受け取り、なおそれが平等であると判断される根拠としての「必要度」は、どのような方法で認定されるのか。これに対するセンの答えはケイパビリティ(capability:通常「潜在能力」と訳される)の平等こそ「必要」が平等に充足しているか否かを判断する最善の情報的基礎であるというものだと主張する[『不平等の再検討』(1992)など]。ケイパビリティとは人が生活するに当たって必要とされる諸機能(「栄養の補給」といった基礎的なものから「幸福の追求」など洗練されたものまで多岐にわたる)を組合せ、実現する可能性ないしは自由度といった概念である。センのケイパビリティ概念は、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』などに由来するとも言われるが、近代が大きな節目(連合運動方針でいう「パラダイムシフト」)を迎えようとする時代にあって、「あるべき賃金」の構想をギリシャ哲学にまで遡る壮大な温故知新があってもよいのではないか。
ところで同一価値労働同一賃金の原則は所得の分配を専ら「功績」に依存するものであるから、センの立論はこれに対するアンチテーゼともみなしうる。しかし、例えば主たる生計の維持者たる一般労働者と家計補助的なパート労働者が同一価値労働に従事していた場合であっても賃金に格差が生じることを是認するのか。まず実際の格差が「必要」に基づくものか、専ら雇用形態の違いによる不当な差別(労働契約法第20条違反)かの峻別が先に立つが、この逆説を解く鍵は、「必要」に関わる所得の一定部分を給与所得(直接賃金)から外出しして、現物給付に重きを置いた公的給付(間接賃金)に置き換えることの裡に見出されるのではなかろうか。公的給付には財源問題が必然的に付随するが、連合が法人企業の税・社会保険負担率をGDPの1割程度にまで引き上げることを提言していることなども勘案しながら、公正で合理的な負担のあり方が検討されるべきであろう。」とまとめてみました。
周知のようにセンのケイパビリティ概念はマルクスの『ゴータ綱領批判』に由来するものですが、藤原さんも書いているように「働いても貧困から抜け出せず、働くことが報われない社会構造は、資本制経済社会の根幹を自体である。労働組合や労働運動にとっても労働の価値の凋落は見過ごすことの出来ない抵抗すべき課題」だとすれば、「あるべき賃金」論は最も基本的な対抗軸に据えられるべきだと思います。

早川さんは、長沼弘毅さんをご存じでしょうか。終戦直後に大蔵省の局長や次官を務めながら、生活賃金や同一労働同一賃金に関する本をたくさん書き、退官後はクリスティの翻訳やホームズ研究書をたくさん出した人ですが、その終戦直後期の、生活賃金と同一労働同一賃金をめぐる問題意識には、今でも考える材料が結構あるように思われます。

そういう問題意識が失われたのは、賃金が高いのは『能力』が高いからだという言説が一般に受け入れられていったからですが、その初発の時点において、そもそも本当に大企業正社員の『能力』は、規模別賃金格差が示すほどに中小零細企業労働者の『能力』よりもずっと高いのか?という疑問はあったはずです。

その疑問に正面から答えることなく、中小企業問題を周辺化することでやり過ごしてきたことの一つの帰結が、90年代以降の非正規労働問題という形での噴出であったのかも知れません。

金子良事さんが、シンポの報告で、


http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-394.html">http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-394.html

フロアからも元高校の先生が教え子たちの進路から提起されていた問題、いわゆる大企業モデルである日本的雇用システムに包摂されない人たちをどう考えるのか、という点は逸することが出来ない話です。

と述べていますが、中小零細企業という日本型雇用の中核ではないけれども、明確にその外側でもない周縁的存在を、日本の労働研究がどれくらい真面目に向き合ってきたのかという問題でもあるのでしょう。

貴重なご教示をいただきありがとうございます。長沼弘毅さんについては全く存じ上げませんでした。創元文庫の長沼訳「オリエント急行の殺人」は昔読んだような(笑)。シャーロキアンであれば、赤羽隆夫さんなどにも影響を与えたのでしょうか??生活賃銀全書は入手困難なようですが、「日本の古本屋」に「同一労働同一賃金について」が出ているようなので購入してみます。
中小零細議業問題については、金子さんがコメントされているシンポジウムにおいても、メインスピーカーの佐口和郎さんが「1950年代に選択されなかった道:中小企業労働者の問題」として、またコメンテーターの木本喜美子さんも「もうひとつの正規雇用層としての小零細企業労働者の存在」として、触れられてはいるのですが、”そうした問題もありますね”という以上に突っ込んだ議論にはなりませんでした。70年代くらいに出た東大社研の「転換期の労使関係」でも自動車、鉄鋼(船だったか?)、国鉄と中小が研究対象になっているのですが、中小は確か浜田精機などの争議が中心で、研究者には中小は争議という切り口でしか見えていないのかなあと思ったところです。争議にでもならなければ史料が残っていないのでしょうか(JAMの地方組織にはいろいろ残っていそうな気もしますが)。で、金子さんにもシンポジウムのあと、FBのコメントで中小の問題も重要ですよね、と書き送ったのですが、「中小企業労働者については研究者は無理ですよ、蓄積もないし。JAMさんに期待します。」とのことでした(苦笑)。そのJAMさん(および連合内中小産別)はいま、全国中小企業家同友会などの経営者団体や黒瀬直宏氏などの研究者とも連携して、「中小企業問題研究会」を立ち上げていますので、足下の政策課題ばかりでなく、歴史研究にも問題意識を拡げてゆかねばならないと思い至った次第です。

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