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2015年7月25日 (土)

宮本太郎さん on 学びが生きる採用選考を@毎日新聞

本日、毎日新聞の経済観測というコラムに、宮本太郎さんが「学びが生きる採用選考を」を寄稿しています。

http://sp.mainichi.jp/shimen/news/20150725ddm008070145000c.html

 就職活動の解禁が遅くなったため、実態はともかく、かたちの上では8月から企業の採用選考が始まる。そんな折、労働組合の連合が古賀伸明会長と大学生との討論集会を開催し、就職活動のあり方などを巡って意見交換した。

 そこである学生は、採用選考では大学で学んだ知識や技能はあまり問題にされず、結局何が採用を決めるのかが分からないと不安を語っていた。そのとおりであって、労働問題研究者の濱口桂一郎氏の表現を借りれば、日本の正規雇用は人間に仕事が張り付く「メンバーシップ型」だ。仕事に人間が張り付く欧米流の「ジョブ型」とは大きく異なる。とくに文系の場合、学生はこれからさまざまな仕事を張り付ける「素材」として評価され、必要な知識や技能はその都度会社のなかで教えられる。就職活動解禁時期の変更は、学生に学業をしっかり修めてもらうためとされるが、ここには大きな矛盾があるのだ。

 サークルやゼミで何に取り組んだかを聞かれるのは、大学の偏差値共々、「素材」の良さを示すエピソードとしてである。ゆえに、「ご縁がありませんでした」という不採用通知がたまると人間が否定されたような気持ちになる。

 メンバーシップ型雇用が「会社人間」をつくってきた面があり、ジョブ型雇用への転換を求める流れもある。だが、メンバーシップ型には職業生活の幅を広げる効用もある。大事なことは、仮に「素材」重視が続くとしても、雇用のダイバーシティー強化(多様化)で人材評価の幅を広げ、併せてその客観的基準も示していくことや、さらにその基準と大学教育の達成目標とをリンクしていくことだ。大学は職業生活の予備校ではない。しかし、大学でのがんばりは採用選考で評価されるべきだ。

最後のパラグラフが、現実と折り合いをつけながらも、なんとか方向性を示したいという希望がない交ぜになった苦衷を表しているように思われます。

レリバンスのない大学教育における『がんばり』を、採用選考でどう『評価』しうるのかが明確でないが故の現状でもあるわけで。

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コメント

> 併せてその客観的基準も示していくこと

「素材」の客観的評価基準というのは、つまり「人間性の客観的評価」ということになると思うのですが、それがもたらすであろう惨い帰結を理解しての発言なのでしょうかね?

かつて日本企業が大学別のリクルーター制で新卒者の採用を行っていたころ、「企業は学歴ではなく人間性を評価すべきだ」といった批判がありました。「人間性を評価」することとなったのがまさに今の「就活」であり、その帰結が「不採用通知がたまると人間が否定されたような気持ち」になる、というものなわけです。これは当然予想できる帰結だったと思いますが、「悪い結果」を考えないのはその人の性というものなのでしょうかね。

どうも根本的に勘違いしていると思うのは、企業の採用時の評価基準をどう変えようと、応募者全員が採用されることはない、という点ですね。企業の採用人数は、その企業の事業上の都合によって決まるものであって、評価基準も応募者の質も無関係なのですよね。だから好景気なら質の劣る応募者も採用されるし、不景気なら質の高い応募者も不採用になるわけでして。

大学にとって学生は授業料と助成金をもたらす収益源ですけど、企業にとっての従業員は賃金を支払う対象であり、コストなのですよね。少なければ少ないほど良いわけです。コストが売上を恒常的に上回ることになれば、遠からず企業は倒産することになるわけです。つまり、企業の事業上の都合と無関係に学生が採用される、などということはありえない、ということですね。少なくとも自由経済下では。共産主義の計画経済下でなら、「客観的基準」で労働者を職に割り振る、ということが行われていたのかもしれませんけど。

>メンバーシップ型には職業生活の幅を広げる効用もある。大事なことは、仮に「素材」重視が続くとしても、雇用のダイバーシティー強化(多様化)で人材評価の幅を広げ、

まさにこれを目指した結果、ハイパーメリトクラシーが蔓延し、IGさんのおっしゃるように「人間性」や「人間力」の評価を競う就活地獄にはまりこんだわけですよね。そもそも人間が人間総体を評価しようとするのが、傲慢で無謀な行いであるということに誰も気づかなかったのか。そんなこと神様じゃなきゃできっこない。できもしないことをしようとして誰もかれもが疲弊してしまったのです。

そして「人間性」の評価は、結局ブルデューの言う文化資本の評価につながって、階級の再生産を招くだけだということも、あまりに分かり切ったことだったと思います。学歴だけ評価したほうが、はるかに公平で平等であるのは自明の理です。まあ、学歴社会批判には、学力の足りない子弟を持った富裕層や有力者の利害が反映していたようにも思いますけどね。盛田昭夫氏の「学歴無用論」などは典型でしょう。

>大学でのがんばりは採用選考で評価されるべきだ

しかし、アカデミックな大学教育でのがんばりを職業能力として評価できるのは、高い教養や専門知識を求められる一部のエリートだけなわけです。ほとんどの人間はエリートになれないという厳然たる事実にどう向き合うのか、高度成長期以降の教育はこのことからずっと逃げてきたように思います。

宮本太郎氏が誠実で善意にあふれる人物であることは疑いませんが、しかしそのことが冷厳なる事実から目をそむける結果になっていることも否定はできないでしょうね。なるほど、「地獄への道は善意で敷き詰められている」とはよく言ったものです。それは宮本氏のみならず、高度成長期以後の日本人の多くに当てはまることであるように感じます。

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