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2015年5月19日 (火)

高井としを『わたしの「女工哀史」』

3811610今月の岩波文庫には、労働関係者必読の高井としを『わたしの「女工哀史」』が入ったようです。

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/38/5/3811610.html

『女工哀史』の著者細井和喜蔵(1897-1925)の妻高井としを(1902-83)の自伝.十歳で紡績女工になった著者は,労働運動を通じて和喜蔵に出会い,自らの体験を生きた資料として提供した.大正昭和の時代,貧しさのなか,ヤミ屋や日雇いで子を育てながら,福祉を求めて闘いつづけた生涯の貴重な記録.(解説=斎藤美奈子)

『女工哀史』を書いたのは女工ではありませんが、『わたしの「女工哀史」』を書いたのは女工そのものです。

版元の解説では、

 Ⅰ「『女工哀史』日記」は、炭焼きをしていた父のもとで育った少女時代、満10歳5ヶ月のときに始まった女工生活、細井和喜蔵との出会いから死別まで、その後、関西に移り、労農党の活動家だった高井信太郎と再婚するまでを描いた「戦前編」。
 満州事変が起きた翌年(1932年)から始まるⅡ「ヤミ屋日記」は、「戦中編」です。治安維持法により何度も拘束・投獄された夫の不在のなか、幼い5人の子を抱えながらの戦中の暮らし、敗戦間際に経験した空襲の生々しさ、火傷による夫の死、そして「ヤミ屋」として働いた敗戦直後の経験が描かれます。
 Ⅲ「ニコヨン日記」では、戦災からの復興期、1951年48歳のときから、71年まで続けた日雇い労働(「失対」=失業対策事業)での日々、とくに51年に結成した全日本自由労働組合の活動で、日雇い労働者の健康保険の制度化、教科書無償化闘争、託児所や乳児院の設立などのために闘ったようすが、出会った人々との思い出や自作の詩歌とともに記されます。
 「解説」は文芸評論家の斎藤美奈子さん。本書の第一の意義は、「細井和喜蔵の横顔と『女工哀史』執筆の舞台裏を伝える貴重な史料」であることとしつつ、驚嘆せずにはいられないバイタリティによって人生を切り拓いていく姿について、彼女の人生は、「むしろ『女工快史』と呼びたい」と評しています。明治末期に生まれ、大正・昭和の時代を働きながら子どもたちを育てたひとりの女性のこの傑出した一代記が、多くの読者に届くことを願っています。

ここでは、彼女が東京に出てきて東京モスリンに就職し、そこで初めてストライキに遭遇して思わず演説してしまった下りを紹介しておきましょう。

・・・その後、年月日は忘れましたが、あれは夏だっかたと思いますが、東京モスリンでもストライキがあり、決起集会が行われました。場所は寄宿舎内の大広間で、私たちがお茶やお花を習ったり、偉い人の話を聞かされる行動でした。珍しく外から通勤している男の人や、初めてお目にかかる大日本労働総同盟友愛会の偉い人たちがいました。おおぜい集まって、役員さんの話を聞いたのです。世界のうちで日本が一番労働運動が遅れていることや、外国の八時間労働、賃上げ、自由の権利なぞむつかしい話が多く、私たちはぽかんとした顔で聞いていました。

私も何か言いたくてたまらなくなり、思わず立ち上がって演壇に上がりましたが、何を言っていいのやら、目的も考えなかったので足は震えるし、顔は山火事のようで声も出ず、立ち往生でぶるぶると震えていました。書記長の藤山さんが「堀君、そこへ震えに上がったんか。何か言いたいことがあったら言いなさい」と言われて、はっと気がついて、私は子供の頃から弁護士と言われたほどの口達者だったことを思い出し、負けるものかと思いました。

「皆さん、私たちも日本人です。田舎のお父さんお母さんの作った内地米を食べたいと思いませんか。たとえメザシの一匹でも、サケの一切れでも食べたいと思いませんか。町の人たちは私たちのことをブタだ、ブタだと言いますが、なぜでしょう。それはブタ以下のものを食べ、夜業上がりの日曜日は、半分居眠りしながら外出してのろのろ歩いているので、ブタのようだというのです。私たちも日本の若い娘です。人間らしい物を食べて、人間らしく、若い娘らしくなりたいと思いますので、食事の改善を要求したしましょう」こんな内容だったと思います。全員の大拍手で、私は頭がふらふらになりましたが、その要求は次の日、いなり寿司が昼食に出され、次の日はイワシの焼いた物なぞが出されて、カツ丼やカレーライスなどがときどき食べられるようになり、ストライキも終わりました。

・・・・・

ストライキが終わって十日ほど過ぎたある夜、私の部屋へ外の部屋の人たちが怒鳴り込んできました。「こら、演説語りおるか。お前が要らんことを言ったので、ブタやら牛やら食べさせられて、おおぜい腹壊して診療所へ行ってる」と言うのです。室長の青木さんと私は、何がなにやら訳が分からんままに、平謝りに謝って、私は診療所にとんでいって、お医者さんに聞きました。先生は笑いながら、「心配せんでもいいよ。食べ慣れん脂気の多い食べ物を食べたので、胃がびっくりしているのだから、これからも肉や魚をたくさん食べなさい」と言われて、私はやれやれと胸をなぜ、安心しました。

そしたら今度は、お昼に出されたカレーライスに食堂の中は大騒ぎ。「こんなネコのへどみたいなもの食わないよ、また腹痛になると困るから」というのです。だけど女工さんの中にも東京生まれの人も少しはいて、室長をしている廣瀬さんという人が「大丈夫だよ。カレーライスといってね、西洋料理だよ。みんな食べず嫌いはよしなさい。田舎者だと笑われるよ。また堀さんに文句を言ったらいけないよ」と言ってくれましたので、私はつるし上げを免れたのです。・・・・・・

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コメント

岩波さん、この本には、きちんと印税を払っているのかな?
高井としをの遺族は存命でしょ。

女工哀史では、和喜蔵が死に、藤本成吉が死に、女工哀史の印税は、丸儲けでしょ?(笑

高井は、この件は根に持っていたみたいだよ(笑

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