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2015年5月28日 (木)

「文」の業界

たまたま目にしたある新聞記事と、ある中東研究者のブログの文章の一節が、なぜか頭の中でらせん状にくるくると回り出したようです。

http://www.sankei.com/life/news/150528/lif1505280016-n1.html (国立大学の人文系学部・大学院、規模縮小へ転換 文科省が素案提示)

文部科学省は27日、全国の国立大学に対して人文社会科学や教員養成の学部・大学院の規模縮小や統廃合などを要請する通知素案を示した。理系強化に重点を置いた政府の成長戦略に沿った学部・大学院の再編を促し、国立大の機能強化を図るのが狙いで、6月上旬に文科相名で大学側へ通知する。

これにも例によっていっぱい批難のツイートがついているようですが、まさにそういう「文」の世界に育ってきたこの方のこの言葉の鋭いこと。本題よりはその後の嘆息めいた部分ですが。

http://chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-340.html (人質事件の検証委員会報告への反応を目にして)

・・・私自身が、文学・文化に埋め尽くされた家に育って、大学も当然のように文学部に行きながら、徐々に「文」の業界からは距離を置いていった経緯を、ふと思い出した。私は、日本の文学・文化やジャーナリズムといった業界に染まった大部分の人たちの、日本の外の世界に対する全般的で決定的な無知、論理的な思考能力の欠如、自由人ぶっていながら実は業界の「空気」を読んで流行に同調することが求められる不自由さ、そしてそのような自らが自らに選んで課しているはずの不自由さの由来を自覚することを可能にする内省の契機を備えていないように見えること、あまつさえその不自由さを外部の責に帰する言動が相次ぐことを、たび重なり積み重なって目撃した末に、ある時期から耐えられないほど、嫌になったのである。それは、私が生まれ育って学んで触れて憧れてきた「文」の美質とは、無縁であった。ある国の「文」はその社会の文化的生活を反映しているのだろう。そうであればなぜ、日本の「文」はなぜここまで貧しくなってしまったのか。あるいは「文」が精神の豊かさや高貴さではなく、貧しさや浅ましさだけを反映するような、何らかの変容が起こったのだろうか。

その後も私はごく自然に欧米圏の文化・文学には触れているし、アラブ圏の文学・文化にも研究対象としての興味を抱いている。そこには何か光るものが今でもある。しかし日本におけるその対応物には、かなり以前に深い失望を抱いて以来、触れていない。仕事で依頼されるとその瞬間だけ触れるが、仕事が終わると全て処分して忘れてしまう。「文学的」ということが事実に基づかず国際性がなく非論理的で情緒的に叫ぶことと同一視されるようになったのはいつからなのか。「哲学的」ということが頑固な思い込みを権柄づくでゴリ押しすることと同一視されるようになってしまったのはいつからなのか。・・・

特段のコメントはしません。本ブログである種の「文」な方の議論の仕方に対する違和感を表明したエントリとして、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b43f.html (「就活に喝」という内田樹に喝)

神戸女学院大学文学部総合文化学科教授の内田樹氏が、就活で自分のゼミに出てこない学生に呪いをかけているようですな。・・・・

内田氏のゼミの学生と企業の担当者が、内田氏の教えている学問の内容が卒業後の職業人生にとってレリバンスが高く、それを欠席するなどというもったいないことをしてはいけないと思うようなものであれば、別に内田氏が呪いをかけなくてもこういう問題は起きないでしょう、というのがまず初めにくるべき筋論であって、それでも分からないような愚かな学生には淡々と単位を与えなければそれで良いというのが次にくるべき筋論。

もちろん、そういう筋論で説明できるような大学と職業との接続状態になっていないから、こういう呪い騒ぎが起きるわけですが、そうであるからこそ、問題は表層ではなく根本に立ち返って議論されるべきでありましょう。

哲学者というのは、かくも表層でのみ社会問題を論ずる人々であったのか、というのが、この呪い騒ぎで得られた唯一の知見であるのかも知れません。

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コメント

池田氏は当の委員に選ばれた人ですから。
(中東研究者の中ではイスラエル寄りの方です)

それはそうと、
弁護士増員の二の舞になりませんかね。
供給過剰で理系価値暴落とか。

閉鎖チックな「文」の業界人様たちは、仲代達矢の以下のような“明け透けさ”をちったぁ見習った方がいいのではないか。。。

「みんな仲は良かったけど、やっぱり競い合いです。青山杉作さんという方が大先生だったんですけど、われわれ五十人が養成所に入った時は、「かわいそうだね、君たち」って。それがお祝いの言葉でした。「この中から俳優座へ入れるのは一人だ」と。「あとの四十九人はその一人のために月謝納めるんだからね」って言われました。/その後、私も無名塾を始めてね、千人ぐらいから五名を選抜するんです。で、アメリカに行ってアクターズ・スタジオの校長だったリー・ストラスバーグさんにお会いした際、「この五人の中から一年間に一人でもプロの俳優になってくれればいいかな」って言いましたら、「ミスター・ナカダイ、それは甘いぞ。役者なんかそんなに増えちゃったら国が滅びる。だから、十年に一人出ればいいんだ」と。「はあ、そうですか。一年に一人はダメですか?」と言っても「全然ダメ」と。でも、その通りでした。私は無名塾を三十五年やっているけど、俳優だけで食えているのは三人くらいだけですから。」(春日太一『仲代達矢が語る日本映画黄金時代』p.29)

そもそも、理科系や社会科学系(これが何故か「文系」として人文系と一緒くたにされてるのが何とも)に比して、人文系が専門的な知識とか職能とか評価されてないってのが問題のキモって気もしますね。

こういうと、職能で学問の存在意義云々言うな!とか言う声が聞こえてきそうですけどw現実問題として博物館には学芸員・図書館には司書ないし司書教諭・他にも遺跡での発掘とか国語教諭とか・・・・・なのに、こういうのって専門職として登用されることは少なく民間委託や非正規雇用も当たり前・「理系」よりは無能の様に世間では扱われ、一方で「文系」ではそれを寧ろ逆用(?)して"事実に基づかず国際性がなく非論理的で情緒的に叫ぶ"のに一生懸命で、現実の生活って切実な問題とは無縁な印象こそ存在意義だと勘違いしてしまったって思いますね。

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国立大学から「文系学部」が廃止される話は、はじめは冗談だと思ったが本気であり、どんどん現実化しているらしい。とりあえずは、文学部が「不要」で、「私立に任せる」とという。国立大学や学者などから反対の声があがってほしいが、みんな補助金等で首根っこをつかまれ、逆らえないそうで、怖い時代になっている。このブログでも、だいぶ前に指摘したが、あらためて考えておきたい。ただ…昨日も家族10人が集まった際に大人6人(全員文系)に「大学の授業で、実社会に出て役だったものがあった?」と聞いたところ皆無だった。...... [続きを読む]

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