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2015年4月14日 (火)

『経済学と経済教育の未来』

04031652_551e46ae058c4_2八木紀一郎(代表) +有賀裕二・大坂 洋・大西 広・吉田雅明編『経済学と経済教育の未来』(桜井書店)を、著者の一人である大坂洋さんよりお送りいただきました。ありがとうございます。

http://ecoedu.jp/2014/12/post-22.html

経済学教育の画一化に抗して

本書の企画は,日本学術会議の経済学分野の「参照基準」の策定作業に対して多くの学会および研究者・大学教員が憂慮を表明した署名運動の中から生まれました。

多様性と創造性の促進こそが民主的な社会の基礎

ー経済学の社会性・創造性をとりもどすー
経済学教育の画一化とそれによる学生・生徒たちの視野の狭隘化は,経済学自体が社会科学としてもつべき多様性と創造的な発展の可能性を失わせかねません。

現在の大学での経済学教育の画一化への動きは,各大学,各学部レベルでの人事やカリキュラムをめぐる議論においても強い影響力を持っています。それは大学のみならず,中学,高校での社会科教育,ひいては市民の全般的な社会科学的リテラシーに波及しつつあります。経済学教育が一面的なものになることは,多様性と創造性を保証しながら協働していく民主主義的な社会の構築にとって誠に憂うべきことです。

学派・学会を超えた真摯な討論
本書は所属学会・学派を超えた執筆陣により,多様な側面から参照基準を検討してゆきます。『参照基準』問題の背景にある大学教育の「国際的質保証」の課題を批判的に考察し,標準的とされている経済学を中心とするカリキュラムを超える多様性を経済学が持っていることを伝えるとともに,経済学の教育の創造的可能性を探求してゆきます。

という趣旨の本で、内容は以下の通りです。

まえがき 八木紀一郎
序論 経済学の「参照基準」はなぜ争点になったのか(八木紀一郎)
第1章 教育に多様な経済学のあり方が寄与できること――教育の意義を再構築する――(大坂 洋)
第2章 経済学はどのような「科学」なのか(吉田雅明)
第3章 マルクス経済学の主流派経済学批判(大西 広)
第4章 競合するパラダイムという視点(塩沢由典)
第5章 純粋経済学の起源と新スコラ学の発展――今世紀の社会経済システムと経済システムの再定義――(有賀裕二)
第6章 「経済学の多様性」をめぐる覚書――デフレと金融政策に関する特殊日本的な論争に関連させて――(浅田統一郎)
第7章 経済学に「女性」の居場所はあるのか――フェミニスト経済学の成立と課題――(足立眞理子)
第8章 経済学の多様な考え方の効用――パート労働者の労働供給についての研究例から――(遠藤公嗣)
第9章 地域の現実から出発する経済学と経済教育――地域経済学の視座―(岩佐和幸)
第10章 主流派経済学(ニュークラシカル学派)への警鐘――経済理論の多様性の必然――(岩田年浩)
第11章 大学教育の質的転換と主体的な経済の学び(橋本 勝)
第12章 働くために必要な経済知識と労働知識(森岡孝二)
付録
大学教育の分野別質保証のための 教育課程編成上の参照基準:経済学分野(日本学術会議)
「経済学分野の教育課程編成上の参照基準」の審議について(岩本 康志)

いろんな分野の方がいろんなことどもを書かれているのですが、どちらかというと、教育という観点からの正統派的なカリキュラム編成の参照基準に、制度学派やマルクス派など新古典派以外のさまざまな学派の経済学者が文句をつけているという構図のように見えます。

そういう構図を見ると、私などからするとまずは、その大学生相手の経済学「教育」の職業的レリバンスはどう考えているのですか?と問いたい気持ちが湧いてきますが、まさにそれに答えようとしているのが、お送りいただいた大坂さんの「教育に多様な経済学のあり方が寄与できること――教育の意義を再構築する――」という文章です。冒頭に本田由紀さんの『教育の職業的意義』や拙著まで引いて、いろいろと論じておられるのですが、最後のパラグラフでこういう風に語っています。

・・・日本の学校の内部でこうした<抵抗>的側面は現在全くと言ってよいほど消滅している。他方で、学校の外で教育の<抵抗>的側面を支えてきた人々がいる。職業的意義の<抵抗>的側面が大学内部に根づかなかったことは、大学が企業システムに都合の悪い教育を排除してきた一つの証拠であろう。・・・

もう一つ、職業的意義に関わる点を論じているのが森岡孝二さんの「働くために必要な経済知識と労働知識」ですが、

・・・今日では経済学部の学生を含む大学生のほとんどは、卒業後、労働者として民間企業や公共機関などに雇用されて働く。その意味では大学生は明日の労働者である。しかし、不思議なことに「参照基準」には「労働者」という用語はどこにも見当たらない。・・・

・・・「参照基準」に出てこないのは「労働者」だけではない。雇用契約を説明する上で欠かせない「労働市場」も「労働時間」も「賃金」も出てこない。・・・

・・・「経済学分野の参照基準」における学生の卒業後の職業生活に関する記述には、賃金も労働時間も労働組合も出てこない。就職というタームさえない。・・・

と批判しています。

ただ、これは「経済学」部の学生さんだけの話ではないわけで、ここでこういう形で論じて、経済学部教育の中だけの話にしてしまうべきなのかどうかという議論もありそうです。

それこそ同論文の最後で冊子「知って役立つ労働法」を紹介しつつ、

・・・働くときに必要な基礎知識を学ぶには、労働法についてもある程度の理解が求められるが、それは経済学にとっても無縁ではない。労基法に触れずに賃金や労働時間について学ぶことは難しい。そう考えると、労働知識を身につけることは、キャリア教育の課題であると同時に、経済学教育の一部でもあると言いうる。・・・

と述べているのは、経済学教育だけの話でもなさそうに思われます。

現在国会に上程中の青少年雇用促進法案に、労働法教育の努力義務が盛り込まれたこともあり、この辺もう一歩踏み込んだ議論が必要なのでしょう。

他の論文は、どちらかというと、教育という視点よりは、学問研究者として主流派(新古典派)を批判しているものが多く、私のコメントするキャパを超えているので基本的にスルーしておきますが、浅田統一郎氏の論文が少数派だったリフレ派の勝利宣言ぽいのは、ネット上の一部では話題になるのかも知れません。

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コメント

濱口樣

とりあげて下さってありがとうございます.

前に,草稿バージョンをお送りしましたが,草稿の時点では,もっと濱口主義の色濃いものでした.あまりにも濱口主義者宣言だったことと紙幅の関係で,現在の形になりました.

濱口さんの立場からは私と森岡さんの文章をのぞいて,職業的意義への言及が少なすぎるとお感じになるであろうことは,よく理解できるつもりです.卒直にそれは今の大学の教員の認識の反映ではないかと思います.(と,書くと他の著者の方に怒られそうですが)

ただ,私としてはあの本の内容にはおおむね満足しています.たとえば,新古典派の方法論をマル経にとりいれている大西広さんや,主流派,非主流派の学問上の協力の必要性を説く遠藤公嗣さんの議論など,私のような極論ばかりにはならなかったことはよかったと思っています.ただ,主流派の立場で熱心に経済教育に尽力されている皆さんの職業教育,消費者教育の観点からの参照基準への評価をとりいれることができなかったことが心のこりです.

掲載の段階の原稿で薄くなってしまったもう一つの点は,岩本委員長をはじめ,検討分科会の皆さんが異論に対してとても真摯に対応してくださったことへの感謝です.参照基準の初期の案には「主流派の人々はこんなにアホなんか」というショックを卒直に感じましたが,その後の岩本先生の対応は,今後あるであろう見直しでも継承していただきたい,模範になるものです.(にもかかわらず,最終案には不満はありますが)

大坂さん、コメントありがとうございます。
改めて昨年末お送りいただいていた草稿を読み直してみました。
正直、わたくしや本田由紀さんの影響が露骨に出過ぎていて、全体の調和という観点からは削除を命じられたのはやむを得なかったでしょう。
上では言及しませんでしたが、遠藤さんの文章も、取り上げられた鈴木亘氏の議論をきちんと評価するところは評価した上で論じていて、好感の持てるものだったと思います。

クリエイティブな経済学教育

経済学教育の画一化に抗して、多様性と創造性の促進こそが民主的な社会の基礎であるとの認識のもとに、経済学分野の参照基準を検討するという。参照基準とは経済学の基本的な知識と理解の基本的な素養であるとしている。

経済学委員会経済学分野の参照基準検討分化会名簿を見ると、日本経済の失われた20年の理論的な支柱を担ってきた学者が主要な構成員になっているし、日本経済の失われた20年のどこに問題があったかの反省もない。

参照基準とは経済学の基本的な標準理論を検討するのであって、現実の経済とは別次元のものであるというのだろうか。確かに、現実の経済は社会的価値観や政治の影響を受けるため、経済学だけを抜き出して標準理論を作るという作業は難しいのかもしれない。

しかし、多くの経済学者は自分が所属する学派の理論に固執し、あるいは政治的な主張に迎合して、経済論を開陳してきたではないか。そうでなければ、日本経済の失われた20年の間に、多くの経済学者がデフレを擁護する論調に染まることはなかったのではないだろうか。主流から外れる論調に対しては異端のレッテルが張られ、彼らの議論は封殺されてきたのである。

会経済学分野の参照基準検討分化は、このような状況に対する反省にたって、多様性と創造性の促進を目指しているのだろうか?

hamachanブログの最近のスレッドで“クリエイティブでない経済学部生”において、経済学部生の答案には、法学部生あるいは社会学部生の答案と比べて、クリエイティブな部分に欠けているという記載があったが、多分そういうところがあるのかなと思ってしまった。

上からの理論の押しつけがより顕著なのかもしれない。知識としての理論にそぐわない回答に対しては低い評価がされるのかもしれない。むしろ、理論の上にたって、独自の議論の展開が求められているのに、そのような回答が少ないのだろう。そもそも、会経済学分野の「参照基準」検討分化会において、「多様性と創造性の促進」を謳うとは皮肉ではないか。

hamachanブログの最近のスレッドで“大坂さんonL型大学”が多方面から注目されたようである。NHKのクローズアップ現代でも、G型大学とL型大学が取り上げられていた。今、グローバル人材を育てるG型大学と職業訓練学校的なL型大学に分類しようとしているのだろうか?

筆者には的外れの議論のように思える。そもそも、G型大学とL型大学の分類は、いわゆる大学受験の際の偏差値による分類の延長線上にあるのではないかと思う。G型大学がグローバル人材を育てるというなら、グローバル人材とはどのような人間かが問われる。

偏差値はひとつの尺度ではあるとは思うが、グローバル人材にはインテリジェンス(知性)が問われる。創造性だとかインテリジェンスは、偏差値とは別の次元にある。

偏差値は知識の多寡を問うのに対してインテリジェンス(知性)は真実を見抜きそれを表現する能力である。グローバル人材に求められるのは、知識の多寡だけではなく、インテリジェンス(知性)であろう。だとすると、偏差値の延長線上にあるG型大学とL型大学の議論は的外れということになる。

日本の教育は、創造性だとかインテリジェンスのトレーニングに欠けている。知識をつめこめば、創造性だとかインテリジェンスが育つわけではない。

経済学教育の問題に戻ると、標準理論を身に着けたからといって、その知識を応用する能力に長けているとは限らない。むしろ標準理論をたてに、ステレオタイプの議論を繰り返すだけである。失われた20年の間にどれだけの経済学者が、日本経済の不況の原因を探り、自分の言葉で議論をしたのだろう。

米国の大学(および大学院)における、宿題の多さは有名である。週に2時間の授業に対して、6時間から8時間かけて宿題をこなすことが要求される。理論の習得だけではなく理論をどのように使いこなすのかがトレーニングされる。帰納と演繹の試行錯誤の繰り返しの中で、直観(感性)が養われ、現実に対処するための知性が養われる。

フランスの高校では、最終学年に哲学の授業が文学系では週8時間、経済・社会系では4時間、科学系では3時間となっている。哲学はバカロレアでも出題され、小論文も書かされるという。

何故、哲学の授業と思うかもしれないが、まさにインテリジェンス(知性)を鍛えるためである。インテリジェンスとは真実を見抜きそれを表現する能力である。

フランス人は理屈っぽいところはあるが、自分のオリジナリティを表現することにこだわる。それが、芸術であれ、科学であれ、文学であれ、あるいは社会・経済学においてでもある。学者であれ企業家であれ、あるいは職人であれ、彼らはオリジナルな表現にこだわり、表現の自由を重視する。

G型大学とL型大学の分類も必要なしとは言わないが、日本の大学改革で必要なのは、創造性だとかインテリジェンスのトレーニングである。

hiro樣

私に言及しているので,ちょっと濱口さんの軒下を借りて一言.私は冨山氏のL型,G型に共感しましたが,それらの区別が偏差値の延長とは考えておりません.自分のブログに書くつもりで暇がなくて書けませんが,冨山氏のその後の議論も含めて,職業教育に学問性が必要ないという偏見が蔓延しているのにあきれはてています.

たとえば,冨山氏は簿記に言及しています.ビジネス系の職業教育において実務に直結するコスト観念の養成が必要であり,そのためには簿記・会計的な内容が必要だと思いますが,それにふさわしい簿記・会計の内容は簿記の資格試験で要求されているような記帳の手順ではありません.あらたなカリキュラムを日本での土壌のないところから作るのですから,L型を実現するには,少くとも一定数の大学ではそういった職業教育のカリキュラム編成をリードするような役割の大学が必要になります.そこでは十分な学問的な裏付けが必要となることです.

もう一つ,日本ではアメリカやヨーロッパほど,大学が学生をきたえていないという点ですが,これは日本の社会が一旦,「標準」的な学歴ルートからドロップアウトした新卒者を排除する形での新卒者一括採用をほとんどの大企業がしていることと,関連していると思います.大学生を4年で卒業できないことは就職上大きなリスクであり,大学は多数の学生にそのようなリスクを負わせることは困難な状況です.これが日本の大学の教育が大甘になっている原因だと思っています.この点は失なわれた20年にキャリアを積めなかった若者のこれからのキャリア形成への再トライのことを考えても,日本の社会が多少の「標準」ルートからのドロップアウトを容認するように変化していく必要があると思います.また,そのような「標準」ルートに乗れている若者など今や少数派なわけですし.

上の二つのことは,いずれも日本の,とりわけ人文・社会系の大学教育に教育的意義(職業的意義も,職業に結びつくであろう学問的意義も)がまったく期待されなかったことの反映と思います.

一言といいつつ長くなってしまってすみません.

大坂様

G型大学とL型大学に関して、グローバルVSローカル、アカデミックVS職業訓練という言い回しについては、違和感を持っています。

大学教育の多様化を図り、学生自身が自分の資質とマッチングをとりながら大学を選択できるようにするべきだと思います。また、学生が自身の資質と合わない選択をした場合には、入学試験で振り落す、あるいは卒業資格をとる過程で振り落していくことも必要だと思います。

学生は自分の希望と要求される資質のマッチングをとりながら大学を選択してゆくことになります。

富山氏のいうアカデミックVS職業訓練という分類もよくわからないのですが、職業訓練が実践的(実用的)な教育を意味するなら、日本の大多数の大学は実践的な教育に欠けているように思えます。

職業訓練がテクニックの習得を意味するなら、ステレオタイプな議論をする日本の経済学者はおしなべてテクニシャン的です。テクニシャンとは、定型的な知識あるいは技能を固定的に(正確に)反復する人達です。

それでは、テクニシャン的な能力に対比される能力は何かというと創造力や知力だと思います。グローバルVSローカルという文脈で議論するなら、テクニシャン的な能力(定型的な知識あるいは技能)に加えて創造力や知力を要求されるのはグローバルな人材に限りません。

グローバルVSローカルというネーミングについても、言葉尻の問題かもしれませんが違和感を覚えます。これからは、地方があるいは中小企業が世界で活躍する必要があるのですから。

富山氏の揚げ足取り的な議論になってしまったのかもしれませんが、大学教育の多様化と学生の選別には賛成です。

何をもって選別するのかというと、やはり競争によって選別するということになるのでしょう。ただ、知識の多寡に加えて、創造力や知力も競うべきだと思います。コンクールで音楽家を選ぶのに、技術に加えて感性や表現力を評価するように。

大坂さんの、

>もう一つ,日本ではアメリカやヨーロッパほど,大学が学生をきたえていないという点ですが,これは日本の社会が一旦,「標準」的な学歴ルートからドロップアウトした新卒者を排除する形での新卒者一括採用をほとんどの大企業がしていることと,関連していると思います.大学生を4年で卒業できないことは就職上大きなリスクであり,大学は多数の学生にそのようなリスクを負わせることは困難な状況です.これが日本の大学の教育が大甘になっている原因だと思っています.

そういう事情があったのですね。やはり、学生を教育する学校の問題は、学生を受け入れる企業の問題でもあるのですね。G型大学とL型大学についても、大学教育の多様性を育てゆくためには、それを受け入れる企業も変化する必要があるということですね。

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