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2015年3月 4日 (水)

要は、ジョブ型なら職業教育、メンバーシップ型なら「文系」

今朝の朝日新聞が「争論」というでかいコーナーで、例によってL型大学の冨山和彦さんと、「文系」の日比嘉高さんの意見を載せています。

http://www.asahi.com/articles/DA3S11631210.html

大学で文系学部は何を教えるべきか。むしろ職業訓練に力を入れたほうがいいのか。人文・社会科学系学部などの「廃止や転換」を促す通達を文部科学省が昨年、全国の国立大学に出して以来、議論が盛り上がっている。いま、大学に求められる役割とは何だろう。

が、両者とも、大学で教えるべき(と彼らが考えるもの)が、それ自体として即時的に役に立つのだというレベルの議論でもって対立してしまっているので、話が薄っぺらいものになってしまっています。

特に日比さん、職業教育訓練が技術革新で陳腐化するなんて話、何十年も前から耳タコ的に言われ続けていて、それこそ陳腐化してます。

問題は、社会が社会に出てきた若者をいかなる観点からいかなる指標をもって評価し、包摂していくのか、という一点にあります。

日本以外のジョブ型社会では、いかなるジョブのいかなるスキルを身につけたかでもって評価される。それは、敢えていえば本当に直ちに有用であるかどうかはわからない。世の中がそう認めてそれを理由に彼/彼女を受け入れてくれることが重要です。そういう原理で世の中ができているから、その文法に従って行動するしかない、というだけの話。

それに対して今までの日本社会では、このジョブのこのスキルがあるなんて糞みたいな話はどうでもよくて、どんな仕事でも意欲を持ってばりばりやっていく「官能性」があればよかった。何にもできないけれど何でもやれる可能性のある「文系」は、そういうメンバーシップ型の労働力ニーズに見事にフィットしていたからこそ今までウハウハ捌けていたのであって、文系大学教授氏の高邁な理念が受けていたわけではない。そこのところを見落とした議論はナンセンス。学生たちからすれば。そういう原理で世の中ができているから、その文法に従って行動するしかない、というだけの話。

従って、問題はどっちが本当に役立つかなどというナンセンスな議論ではなく、社会が若者を受け入れる受け入れ方のスタイルとして、ジョブ型の方が良いのか、メンバーシップ型の方が良いのか、という問題。というか、日本の企業がみんなメンバーシップ型で文系大学の学生さんたちを全員「官能性」でもって採用してくれるんだったら結構ですが、そうでなかったら、何にもできないが故にウハウハ採用してくれるどころか、何にもできないが故にどこにも就職できずに社会から放り出される若者を生み出すことになるという話。どっちの方が、メリットがあるのかでメリットがあるのか、そういう話。

参考までに、かつて広田照幸さんに呼ばれてミニシンポで喋った中身を再掲しておきます。

要するにこういうことなんです。

 私は実は、どういうジョブについてどういうスキルを持ってやるかで仕事に人々を割り当て、世の中を成り立たせていくジョブ型社会の在り方と、そういうものなしに特定の組織に割り当て、その組織の一員であることを前提にいろいろな仕事をしていくメンバーシップ型社会の在り方の、どちらかが先験的に正しいとか、間違っているとは考えていません。

 ある意味ではどちらもフィクションです。しかし、人間は、フィクションがないと生きていけません。膨大な人間が集団を成して生きていくためには、しかも、お互いにテレパシーで心の中がすべてわかる関係でない限りは、一定のよりどころがないと膨大な集団の中で人と仕事をうまく割り当てることはできません。

 そのよりどころとなるものとして何があるかというと、ある人間が、こういうジョブについてこういうスキルがあるということを前提に、その人間を処遇していくというのは、お互いに納得性があるという意味で、非常にいいよりどころです。

 もちろん、よりどころであるが故に、現実との間には常にずれが発生します。一番典型的なのは、スキルを公的なクオリフィケーションというかたちで固定化すればするほど、現実にその人が職場で働いて何かができる能力との間には必ずずれが発生します。

 ヨーロッパでいろいろと悩んでいるのは、むしろその点です。そこから見ると、日本のように妙な硬直的なよりどころがなく、メンバーとしてお互いによく理解しあっている同じ職場の人たちが、そこで働いている生の人間の働きぶりそのものを多方向から見て、その中でおのずから、「この人はこういうことができる」というかたちで処遇していくというやり方は、ある意味では実にすばらしいということもできます。

 ただし、これは一つの集団組織に属しているというよりどころがあるからできるのであって、それがないよその人間との間にそうことができるかというと、できるはずがありません。いきなり見も知らぬ人間がふらりとやってきて、「私はできるから使ってくれ」と言っても、誰も信用できるはずがありません。そんなのを信用した日には、必ず人にだまされて、ひどい目に遭うに決まっています。だからこそ、何らかのよりどころが必要なのです。

 よりどころとして、公的なクオリフィケーションと組織へのメンバーシップのどちらが先験的に正しいというようなことはありません。そして、今までの日本では、一つの組織にメンバーとして所属することにより、お互いにだましだまされることがない安心感のもとで、公的なクオリフィケーションでは行き届かない、もっと生の、現実に即したかたちでの人間の能力を把握し、それに基づく人間の処遇ができていたという面があります。

 おそらくここ十数年来の日本で起こった現象は、そういう公的にジョブとスキルできっちりものごとを作るよりもより最適な状況を作り得るメンバーシップ型の仕組みの範囲が縮小し、そこからこぼれ落ちる人々が増加してきているということだろうと思います。

 ですから、メンバーとして中にいる人にとっては依然としていい仕組みですが、そこからこぼれ落ちた人にとっては、公的なクオリフィケーションでも評価してもらえず、仲間としてじっくり評価してもらうこともできず、と踏んだり蹴ったりになってしまいます。「自分は、メンバーとして中に入れてもらって、ちゃんと見てくれたら、どんなにすばらしい人間かわかるはずだ」と思って、門前で一生懸命わーわーわめいていても、誰も認めてくれません。そういうことが起こったのだと思います。

 根本的には、人間はお互いにすべて理解し合うことなどできない生き物です。お互いに理解し合えない人間が理解し合ったふりをして、巨大な組織を作って生きていくためにはどうしたらいいかというところからしかものごとは始まりません。

 ジョブ型システムというのは、かゆいところに手が届かないような、よろい・かぶとに身を固めたような、まことに硬直的な仕組みですが、そうしたもので身を固めなければ生きていくのが大変な人のためには、そうした仕組みを確立したほうがいいという話を申し上げました。

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コメント

結局、マクロ経済環境の変化に伴う労働市場の変動という外的要因と、大学進学率の激増という内的要因によって、大学と労働市場を結びつけていた従来の「フィクション」が機能不全を起こし、大学の機能分化が迫られるにいたったということなんですね。ただ、エリート/ノンエリートという区別とメンバーシップ型/ジョブ型という区別は一致していないため、G型L型という区分はいささか的外れなわけですが。まあ、冨山氏もさすがに自覚したのか、ツインピークス構造とか言い出しましたね。

日比氏はむしろ、エリート/ノンエリート、メンバーシップ型/ジョブ型という区別に関係なく、労働者や職業人一般に必要な教養があり、大学はそれを担うのだという線で戦うべきでしたね。下手に冨山氏の土俵で戦っても分は悪い。

ただ、過去の教養部への差別の記憶がある人々は、大学は教養教育を担うのだという主張をストレートには出しにくいでしょうね。文科省はこのあたりの不安を払しょくしないと、現場レベルの協力が得られず、改革に失敗するでしょう。

アカデミズム側は冨山氏に押されっぱなしの印象ですね。ネットで氏への批判や愚痴に終始しているだけではらちが明かないでしょう。アカデミズム側から抜本的な改革案を出して主導権を握らなければ、現場を無視した改革騒ぎに振り回され続けるだけです。

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