労働と「思想」
イスラム国方面で事態が緊迫していたさなかに、労働と思想をめぐってTwitter上で緊迫したやりとりがされていたようです。
こちらにそれが採録されていますので、こちらではいちいち引用しませんが、
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20150130(思想研究にも実学にも、集合的な技法という意味での試行錯誤がない)
このブログの人は、「思想研究」の対語を「実学」などと言っているので、その時点で話にならないのですけど、
いわゆる思想家と言われる人の通常書物に体系化された「思想」を研究するという学問(「思想史学」)と、現実社会の(普通思想家とか言われない人々の言動と彼らが織りなす相互作用の体系に表れる)ルールのシステムという意味での「思想」を研究する学問(もちろん、それ自体は「実学」ではない経験科学としての「社会科学」)との対比という意味では、興味深いものがあります。
ただ、そういう意味で言うと、この登場人物の配置状況は、それ自体があまりにも皮肉なものでありすぎる。
なぜなら、私の目からは、ここで思想系をdisっているようにみえる稲葉振一郎氏こそ、一番現実社会の「思想」よりも思想家の「思想」にばかりかまけている人に見えるからで、ここでの稲葉氏の発言自体、一種の近親憎悪というか、同じ思想系同士の「そのブドウは酸っぱいぞ」に響くところがあります。
実を言うと、私も金子氏の感覚にやや近くて、カステルみたいに壮大な労働のリアルな歴史を描き出したものとかを除けば、思想史学それ自体にはあんまり食指は動かないのですが、別にだからといってdisる気も起こらない。
私にとって思想家の「思想」が興味をそそるのは、それがケインズの言う意味で、後代の現実社会のプレイヤーをその思想の奴隷とし、現実社会を動かしてしまうことがあり得るからです。労働の世界はとりわけそれが顕著であるだけに、思想家の「思想」抜きに現実社会研究もあり得ないのですが、その限りということになります。「本当に正しいマルクス解釈」なるものに関心が持てないゆえんでもあります。
なんにせよ、いろんな意味で面白いやりとりですので、これだけに終わらせるのはもったいないですね。
(追記)
ちょっと言葉が足りなかった気がするので、若干の追記。
「本当に正しいマルクス解釈」に関心が持てないというのは、「本当に正しいマルクス解釈」と称する思想が現実社会のアクターの思想に影響を与え、現実社会の人々の行動に影響を与え、現実社会の動きそのものを(良きにつけ悪しきにつけ)左右していくその有様に関心がないということでは全くなく、むしろその逆であって、私は大変関心を持っています。
というか、まさにそういう種類の関心が結実したのが、本ブログでも取り上げたボルタンスキー&シャペロ『資本主義の新たな精神』(上)(下)(ナカニシヤ出版)であって、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-3fd2.html
そして、日本の文脈においても、かなりのずれを持ちながら、1968年世代の「本当に正しいマルクス解釈」が労働者自主管理社会主義への傾倒を経て、ヒエラルキー的じゃなくて自律的な、プロジェクト的、ネットワーク的な「資本主義の第3の精神」を称揚する思想的構えを形作っていったことは間違いなく、そしてそれが1990年代以降の英米型ネオ・リベラリズムと時に交差し合いながら、今日の日本社会の有り様を形成してきていることも確かなのです。
そういう意味では、まさに1968年的な意味での「本当に正しいマルクス解釈」は、まさに大いなる関心の対象ではあるのですが、しかしその関心の有り様は、いかなる意味でも、19世紀に生きたそのユダヤ系亡命ドイツ人の脳みその中身それ自体ではなく、その脳みその中身であると称して提示された20世紀の人々の脳みその中身であるわけです。
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