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2015年2月24日 (火)

冨山和彦氏依然絶好調

さて、文部科学省の実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議ですが、着々と審議が進んで10回目です。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/gijiroku/1355370.htm

「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する基本的な方向性(案)」という資料も出され、ほぼ方向性はまとまりつつあるやに見受けられますが、それで黙っていられないのがL型大学の使徒こと我らが冨山和彦氏です。

冨山氏提出資料というのを見ていくと、1回目に提出した資料が話題を呼んだときの怪気炎が依然として吹き上がっておりまして、なかなか絶好調であります。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/koutou/061/attach/1355383.htm

まず基本思想、「高等教育を二つ山の「ツインピークス構造」へ大転換せよ!」と主張します。

1 新たな高等教育機関は、日本経済の発展を実現するための重要機関であることから、従来の大学の下に位置づけるのではなく、既存の大学と同等レベルの高度な高等教育機関と位置づける。即ち、高等教育機関の基本体系として、現状のアカデミアを重視した東大を頂点とする一つ山構造から、二つ目の高くて大きい山を形成する⇒高等教育における「学術的な一般教養」至上主義からの根本的転換(ネット時代、大学全入時代において、真の「一般教養」、すなわち生きて行くための「知の技法」は博士課程修了者を中心とする既存の大学教員の独占物ではない)を行う。
2 新たな高等教育機関では、企業での実習や演習を通じた実践力を身に着けるとともに、職業大学型教養科目として「汎用性の高い職業人としてのベーススキル」(例:ロジカルシンキング・コミュニケーションスキル・ITスキル・プログラミングスキル・簿記等)や職業資格の習得を目的としたトレーニングを行う。
3 現状の設置基準の中で、職業教育との関連が薄い項目は緩和または撤廃し、経営の自由度を担保する一方で、成果(卒業生の就職状況等)の情報開示を義務付け、市場原理による退出圧力が厳しくかかるようにし、「高い山」を形成しうる高等教育機関のみが生き残る仕組みにすることで、質の担保を図る。
4 本課題は、高等教育機関の「数」ではなく、「質・中身」の問題であることから、単なる補助金対象校の拡大による「補助金のバラマキ政策」となってはならない。

そして、次の台詞がすごいです。「「四流の大学もどき」には絶対にならない制度設計を!」。

実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関は、日本経済の発展を実現するための重要機関であること、また、学位の国内・国際通用性の観点から「大学体系の中に」位置づける。
既存の大学や短大からも、下記に指摘するような「新たな高等教育機関」大学制度に魅力を感じて転換が出ることを想定した制度とする。

で、あの台詞が再び出てきます。

「一般教養」についても、「学術的な一般教養」に拘泥することなく、本来の教養、すなわち現代の実社会において生きて行くための基礎的な「知の技法」を教える(その意味で、経済原論でサミュエルソンを読むことよりも、経営戦略論でマイケル・ポーターを読むよりも、簿記会計の基礎をしっかり身に付けることが真の「一般教養」であることは当然の結論)

さすがに、大型二種免許云々というのは引っ込めたようです。ま、簿記会計の基礎は商学系統の学問の基礎であることは間違いありません。

そして、この延長線上に、教員資格についてのこの台詞が・・・。

3. 教員資格は、産業界からみた評価・経験をベースとし、何よりも「教える力」「鍛える力」を最重要視する。現状、実質的な要件となっている博士号(≒「研究する力」らしきものを表象?)については一切問わない。(「形式」ではなく、実際に実践力の高い学生を育成できるか否かを重視する・・・博士号が「職業型」高等教育機関、特に文科系のそれにおいていかに役に立たないかは、先行して制度化されている専門職大学院で既に実証済みであり、より基礎的な実技訓練を行う大学レベルでは、なおさら役に立たないことは明白

どこかでもらってきた博士号だけを偉そうにひけらかす御仁は一番役に立たなさそうです。

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コメント

高等教育の「ツインピークス構造」は結構なんですが(しかし富山氏の世代がよくわかる)、「真の教養」の中身が簿記会計というところが、あいもかわらず富山氏の職業教育観の貧困さを露呈してしまっているように思えます。頭の固い大学教育関係者を挑発する、ためにする議論としても。

そもそも「ツインピークス構造」なら職業教育機関を大学体系に位置付ける必然性がない。大学とは別枠の高等教育機関と位置づけてもいいはずです。大学と位置づけても、従来の専門学校と同じことをやっていては、結局職業教育機関は従来型大学より格下と世間には認識されるだけでしょう。

富山氏の提示する「真の教養」の中身のお粗末さが、氏がどこかで職業教育を低く見ていることを暴露してしまっている。職業教育の専門家がしかるべき批判をすべきでしょう。

そもそも戦前においては、大学と並ぶ高等職業教育機関として旧制の専門学校が「高い山」としてあったわけです。現在の一橋大や東工大の前身ですが、これらの学校が簿記会計レベルのことしかしていなかったわけではないでしょう。「ツインピークス構造」というのなら、これらの学校に学ぶべきなのに、なぜ現在の専門学校レベルでしか職業教育をイメージできないのか?富山氏はそもそもこのような歴史的背景すら知らないのではないか。

旧制の専門学校は結局大学昇格の運動を行って大学になっていったわけですが、なぜ戦前の高等職業教育機関は大学となることを目指してしまったのか、そのことの反省がなければ「ツインピークス構造」など成立しないでしょう。

学位については国際的な学位システムとの整合性をよく考える必要があるでしょう。しかし、「学位の国内・国際通用性の観点から「大学体系の中に」位置づける」と言っておきながら、教員資格に博士号について一切問わないというのは矛盾が。。。確かに小保方のような人間でも取れる博士号に何の意味もないのは首肯しますが、博士号を量産しようという文科省の政策(愚策?)との整合性はどうなるのか。。。

「ツインピークス構造」という理念には大賛成ですが、富山氏の具体的レベルの議論の粗雑さと混乱ぶりは、この国における職業教育蔑視と、大学教育や教養に関する明治以来の社会的基盤の脆弱さを如実に反映してしまっているように思えます。このままでは、みんながエリートを目指してしまう近代日本の栄光と悲惨の歴史にあらたな1ページが加わるだけで終わってしまうかもしれない。ノンエリートがノンエリートのまま誇りを持って生きていける社会は遠い。。。


冨山和彦と濱口桂一郎氏の間に差はない、ということは既に明白であり、どちらの議論も、日本における学問・学芸の中心的担い手たる大学の機能を衰退させることにしか貢献しないことは明らかである。

おちゃらけな文章ばかり日ごろ書いている(ように思われるかもしれない)小田嶋隆氏のほうが、大学の意義を遙かに良く理解していると言ってよい。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20141030/273213/
このコラムは味読に値する。

日本の大学はある種の「冠婚葬祭産業」として生き残っていくのかもしれない、と思ったことはあります。18 歳になった我が子に 4 年間のモラトリアムをプレゼントする風習ができあがると。

しかし、「冠婚葬祭」に公費を使うのは疑問ですね。七五三に税金を使ったりはしないわけで。神社への税制上の優遇措置で間接的に公費を使っているとはいえるかもしれませんが。

話は変わりますが、文科省が職業教育を持ち出した思惑は、雇用関係予算を大学の財源としたい、というところですかね。hamachan 先生もブログ記事でそれとなく匂わせていましたが。文教関係費は今後縮小されていくのは間違いないでしょうし、その中でも大学関係予算は削減対象になりやすい。文科省としては特別会計の財源は欲しいでしょう。

雇用関係予算を使って、やるのが冠婚葬祭じゃあ、税金泥棒のそしりは免れないでしょうね。

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