産業競争力会議雇用・人材・教育WG
本日、わたくしが川崎市麻生区方面で3題話をしている時に、日本の中枢では「教育・人材改革と雇用制度改革の一体的推進」というテーマで標記ワーキンググループが開かれていたようです。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/wg/koyou/dai1/gijisidai.pdf
そこには、こういう方々が出席して話をされていたようです。
資料1:金丸主査提出資料
資料2:厚生労働省提出資料
資料3:文部科学省提出資料
資料4:柴田励司氏提出資料
資料5:海老原嗣生氏提出資料
資料6:佐藤博樹教授提出資料
資料7:大久保幸夫氏提出資料
参考資料1:12月1日濱口桂一郎氏ヒアリング概要
参考資料2:濱口桂一郎氏12月1日提出資料
このうち、海老原さんの資料は、一昨日紹介した『HRmics』20号の特集記事そのものです。たいへんよくまとまっていますので、雑誌の方は「後で読む」の方も、こちらは「今読む」で目を通してみてください。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/wg/koyou/dai1/siryou5.pdf
さて、下の方に誰かさんの名前もありますね。この人、月曜日に呼ばれて何か喋っていたようで、それを事務局の人がまとめたものもアップされています。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/wg/koyou/dai1/sankou1.pdf
(大学教育について)
○ 日本のいわゆる普通のサラリーマンの世界、典型的には文科系の法学部や経済学部を卒業して入社する世界は、ほかの国々と比べると、学校教育課程において特定のジョブのスキルを身につけるという度合いが最も少なく、入ってからそれを身につける度合いが最も高い。
○ 企業の側からすれば、学校教育で特定のジョブの特定のスキルを身につけるのではなく、(成績等)素材が良く、かつ、会社に入ってからどんな仕事でも教えればこなしていける真っ新な良い人材であることが最も望まれてきた。20年ほど前までは、このような仕組みであるが故に欧米のような若者雇用問題がなく、非常にすばらしい仕組みと褒め称えられてきた。
○ しかし、90年代半ば以降、正社員の枠が収縮してきた結果、そこからこぼれ落ちた若者は、学校で何のスキルも身につけておらず、アルバイト等で働いていたとしてもスキルを身につけていると社会的にみなされず、2000年代に入って、年長フリーターや就職氷河期世代という形で問題になってきた。
○ 企業から見ると、就職の段階でどの会社からも良いと言われなかった若者は、素材としてクエスチョンマークがつき、その後でどんなスキルを身につけたとしてもなかなか採用しない。うまく回っているときは非の打ちどころのなかった日本の仕組みも、1つおかしくなると、(欧米の若者雇用対策を真似して)部分的に良い政策をやろうと思っても、欧米のような意味では効かない。そこから近年、教育課程そのものをもう少し職業志向的なものしていこうという議論が出てきており、方向性としてはより欧米に近い仕組みにしていこうということだろう。
○ 一方で、職業スキルを身につけることを目的としない、つまり役に立たない教育をすることに意味があるという歴史を前提に大学教育が成り立ち、学術を教える先生が多く職についている。大学教育を変えるとなれば、このような大学の先生の食い扶持にも影響してくる。(新卒一括採用について)
○ 日本は、先進国の中で、例外的に若年失業率が大変低い。何のスキルもない若者が、むしろそれ故に企業にどんどん採用してもらえるというありがたい仕組みで、これをわざわざ捨てなければならない積極的な理由があるかというと難しい。
○ 一方で、会社に入る前からの大くくりの方向づけは、ある程度あったほうがよい。例えば、日本の中でジョブ型の労働市場が存在している医療の世界では、学校教育で相当程度の知識とスキルを身につけ、かつ、仕事を始めてからもそれを前提に積み重ね、数年たつと少しずつ一人前になってくる。このように繋ぎ目をうまくセッティングする仕組みを常に考えながら、どのような職業分野にいくかについては、ある程度前倒しにしていくことを考える必要があるのではないか。(ただ、医療の世界は国家が国家資格で規制しているためにこのような仕組みになっており、そこの仕組みをどうするかという点は難しい。)(高校教育について)
○ 60年代から70年代初め頃まで、日本政府は職業高校をたくさん作ろうという政策をとっていた時期があるが、先行きのないようなコースに自分たちあるいは自分の子を無理やり送り込むような、無慈悲な教育政策はけしからんという大きな紛争になったことがあり、いわば国民の抵抗によってひっくり返ってしまった。このような声に背中を押される形で、どんどん普通科が新設されていったという経緯がある。
○ その結果、末端の普通科が一番悲惨な状態になっている。偏差値が同程度の職業高校と普通科高校を見ると、職業学校は地元の中小企業等に結構就職できているが、普通科高校では就職もほとんどできず、進学もできない。かなりの人がフリーターになったり、どこへ行ったかわからないような形で彷徨いだしたりしているという報告がなされている。子供たちのためだと思って、職業科に行かせないという選択が、結果として、このような形になっている。
○ かつて高校レベルで生じていた事態が、最近、大学でも起こりつつあるのかもしれない。(中高年の労働移動について)
○ 中高年の雇用問題については、この20年近くで、正面から、問題として認識されるようになり、最近になって、様々な問題が現実に起きている。
○ 「年功制」は、結婚して子供ができると生活費がかかるため、それに応じ賃金を上げていくという出発点だったのが、ある時期から、職務遂行能力が上がっているから賃金が上がっていくという説明になった。
○ しかし、日本の職能的資格制度における職務遂行能力は少なくとも会社の外に出ると全く説明がつかない。もし、職務遂行能力が上がっているのであれば、中高年の人を追い出し部屋に入れる必要はない。そこには、建前と本音のずれがあり、このずれが、景気が悪い時期に露呈したのだろう。
○ 社内向けの職能資格では、外に出たときに、その人の能力を証明することができず、かつ、その人がスキルをどれだけ持っているかということを指し示すようなものさしがどこにもない状況において、労働移動を無理に流動化しようとすれば、あちこちに悲鳴が起こるのは当然である。そういう意味で、雇用維持型から労働移動支援型へというスローガンだけが先行するのは大変まずい。
この人は何がどれくらいできるのかということをきちんと会社の内外で本当に証明できるような仕組みをどうやってつくっていくか、そこを集中的に考えていく必要がある。(能力評価システムについて)
○ 会社外とのつながりを持った形で、社内における能力評価の仕組みをつくることが考えられる。社外とのつながりを持たせるようなオフィシャルな仕組みは、現在のところ存在しておらず、近似すると言えるのは、いわゆる人材ビジネスである。彼らは、そのままでは社内にしか通用しない履歴書を深掘りし、企業の外の人に対し「この人はこういう仕事がこれだけできる人だ」と翻訳する仕事をしている。人材ビジネスのように、外に向けてどのように語ればいいか分かっている人の手を借りて社内的な仕組みを作るというのが1つの考え方ではないか。
○ また、そのためには、現在のキャリアコンサルタントより一段上の翻訳ができる人たちをどう養成していくかという点が、政策課題になっていくのではないか。(その他①:女性を取り巻く雇用環境について)
○ 世界経済フォーラムが発表した女性の社会進出度に係る指数は、どんどん下がっており、正面から日本の雇用のあり方、雇用システムの問題に取り組まなければならない。
○ 欧米はジョブに人をつけるという考え方であり、その中に存在する男女格差を解消するため、同一ジョブ同一賃金を前提として、「女性をどんどんこれまで男性が占めていたジョブに就けていかなければいけない」と、ポジティブアクションを進めてきた。一方、そのような考え方・仕組みになっていない日本では、無理やり男女平等をやろうとした結果、ジョブの平等ができないが故に「コースの平等」を作った。
○ 「コースの平等」とは、それまで男性正社員が通ってくるのが当然だと思われてきたコースに女性も入れるという考え方で、それに乗った人は総合職、乗らない人は一般職と呼ばれている。しかし、コースに乗った総合職の女性には、専業主婦、パートの主婦のような、家庭を支える存在がおらず、仕事も家庭もこなさなければならない、大変つらい状況になっている。
○ ワーク・ライフ・バランスという議論が出てきたのはここ十数年であり、男性の働き方云々という話になったのは数年前に過ぎない。今は確かにあらゆる人がワーク・ライフ・バランスと言っているが、男性は全然実行していないというのが実態だろう。例えば、育児休業取得率について、よく「女性は90何%、男性はまだ数%」というが、女性は1年近く取得しているのに対し、男性の取得期間は数日から1週間であり、より大きな落差がある。
○ また、90年代後半頃から、企業において一般職から非正規への切り替えが行われ、女性の労働力の非正規化が進んだにもかかわらず、当時、それほど問題意識を持たれなかった。一方で、男性の非正規雇用が増加して初めて非正規労働者の問題が取り上げられ始めた所に、相当大きなジェンダーバイアスがあるのではないか。(その他②:働き方改革について)
○ 労働時間をもっと自由にするという言い方をすると、できる人が短くやるのではなく、長くやればできる人がますます必死にやる方向にドライブがかかってしまうということが起こってきたのではないか。
長時間労働をなくすためには、上限規制で物理的に断固として働かせず、それで実績を出せなければ低い評価をする必要がある。これは、日本の社会の底流にある努力価値説を踏みにじるような価値観を日本人が受け入れられるかという話で、例えば子供を5時にピックアップしなければいけないような制約のある人への間接的な差別をやめようとすると、能率が悪くて時間内にできない人間はそこで時間切れ、アウトにしてしまうという血も涙もないことをしないといけなくなるだろう。こういう言い方をすると反発も大変出てくると思うが、はっきり言うことで問題の所在がクリアになる面があると思う。
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コメント
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『HRmics』20号の特集記事および海老原氏のプレゼン資料、興味深く拝見しました。
やはり問題の本丸は文系ホワイトカラーであることを再確認しました。
ただ、問題の本質は文系ホワイトカラーの中身の多様性のように感じます。エリートからノンエリートまで、仕事の中身も多種にわたります。これらをひとくくりにして大卒文系の問題として論じることにまず限界があるでしょう。経営人材たりうるエリートの文系ホワイトカラーに必要な素養は何かといえば、大学レベルの幅広い教養ということになると思います。あとは実務で身につけてゆけばよいわけで、大学に行くのは一部のエリートだけという時代であれば、何の問題もなかったわけです。大学が肥大化して、猫も杓子も行くようになったために問題が生じたというのが実相でしょう。HRmicsの特集記事を見た感じでも、ヨーロッパも同様の問題に直面しているようです。
むしろ問い直すべきは、ノンエリートの文系ホワイトカラーは今後どれだけ必要なのかという問題かもしれません。IT化が進むなかで、事務系ホワイトカラーが今後どれだけ必要なのか。現在最大の勢力を誇るであろう営業職は、今後果たしてどれだけ必要なのか。野村証券が営業の在り方を変えて、顧客の資産運用に注力する方向を明確に打ち出しました。従来の回転売買の否定ですが、どぶ板営業型の古いタイプの営業マンは居場所をなくしていくでしょう。証券業界に限らず、気合いと根性頼みの営業は廃れていくのではないでしょうか。企業組織の在り方が変化していく中で、ノンエリートのホワイトカラーが今後どうなっていくかという議論が欲しいものです。
エリートのエクステンション教育というのも、中身にいろいろ議論がありうるでしょう。欧米のビジネススクールの教育内容は大したものではない、日本の大企業の社内教育と大して変わらないという意見もあるようです。この方面でも欧米の実態を詳しくみなければ、欧米幻想に踊らされた、クローバル人材云々という中身のない議論に振り回されるだけでしょう。
海老原氏のプレゼン資料で引っかかったのは、アメリカのエリート大学の学生数と早慶の学生数の比較の部分です。日本の大学は学部で教養教育に加え、専門教育も行いますが、アメリカの大学は学部では教養教育が主であって、専門教育は大学院で行うと聞きます。この違いを無視して日米の大学を比較したゆえの議論の混乱がよく見られますが、海老原氏の議論にも同じ瑕疵があるのではないかと危惧します。アメリカの大学で学部段階で行うのはリベラルアーツ教育が中心と思いますが、これをエリートのエクステンション教育のようにとらえるのは問題があるのではないでしょうか。
HRmicsの特集記事で、何人かにインタビューがなされていますが、この人たちの階層的位置づけが不明瞭なのが気になりました。労働者階級ではないが、インテリのミドルクラスでもない。カードル扱いの人もいましたが、年収からいってエリートとは言い難いでしょう。広くいって中間層といえるのでしょうが、日本の階層構造とヨーロッパのそれが異なる以上、単純な比較はできないでしょう。もう少し階層、階級構造との連関で労働社会全体の在り方からヨーロッパの職業教育を議論する必要があるように感じましたが、それは研究者に期待すべき問題でしょうね。
HRmicsや海老原氏のプレゼン資料へのイチャモンをここに書くのは筋違いかもしれませんが、思ったことをつらつらと書いてしまいました。失礼しました。
投稿: 通りすがり | 2014年12月 6日 (土) 00時59分