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2014年11月

2014年11月29日 (土)

日本労働弁護団の労働時間法制試案?

弁護士ドットコムによりますと、日本労働弁護団が昨日、「あるべき労働時間法制の骨格」と題する試案を発表したそうですが、

http://www.bengo4.com/topics/2355/ (「労働者を1日12時間以上働かせてはいけない」労働弁護団が「過労死防止」試案発表)

労働弁護団のサイトに行ってみると、それらしき気配はなく、

http://roudou-bengodan.org/

原則としてマスコミ等の不確実な情報ではなく、原資料に基づいてコメントする、という本ブログのスタンスからすると、今の段階であれこれコメントするのは控えておきたいところではありますが、まあしかし、中身が中身ですので、一応心覚え的にメモしておきます。

その2つとは、(1)「総労働時間」の上限を定めることと、(2)勤務が終わったあと次の勤務までの間に、しっかり休める時間を確保する「勤務間インターバル」の規制を作ることだ。

・・・具体的な数字としては、時間外労働を含めた労働時間全体の上限を1日あたり10時間、週あたり48時間とする。労働協約による延長を認めるが、それでも1日12時間、週55時間を限界とする。さらに時間外労働は、年間220時間までとしている。

・・・もう一つ、労働弁護団が打ち出した規制案が「勤務間インターバル」だ。これは「勤務を始めてから24時間以内に、連続11時間以上の休息時間を与えなければならない」というルールだ。

私が物理的労働時間規制こそが重要だと言い出した頃は、世の中はどっちの側も残業代しか関心がない状態でしたが、次第にこういう流れになってきているのだな、と感じます。

(追記)

ちなみに、日弁連(日本弁護士連合会)の方は、この期に及んで未だに「「労働時間の長さと賃金のリンクを切り離した『新たな労働時間制度』を創設する」ことには反対である」などと訳のわからない世迷い言を言っているみたいですね。

http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2014/opinion_141121.pdf

誰が書いているのかわかりませんが、もう少し日本の労働法制を踏まえて書いていただければと思います。一応日本の弁護士の代表機関なんですから。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-d971.html日弁連会長声明のどうしようもなさ

本日、日弁連が「「日本再興戦略」改訂2014の雇用規制緩和に反対する会長声明」を発表してますけど、読んでそのあまりのレベルの低さに涙が出てきました。

労働法制をわかっていない産業競争力会議がいうならまだいい。労働法制をわかっていないマスコミがいうならまだいい。

でも、法律家の右代表のはずの日弁連会長の声明がこのレベルですか・・・。

これは、本日のみずほ総研のコンファレンスをお聴きになっていた方にとっては、そこで私が喋ったことの繰り返しになりますし、本ブログ何回も繰り返してきたことでもありますが、何が法規制において問題とすべき事柄であり、何がそうではないかという問題の仕分けが、根本的にねじけているという、産業競争力会議はじめとするそして多くのマスコミ報道に共通する欠点が、なんの修正すらもなくこの会長声明にそのまま露呈しているという点にこそ、今日の日本の最大の問題があるのでしょう。

・・・

いうまでもなく、日本国の法律制度において、「労働時間と賃金とを切り離し、実際に働いた時間と関係なく成果に応じた賃金のみを支払えばよいとする制度」は何ら禁止されていません。そういう賃金制度が良いかどうかは労使が決めれば良いことであり、導入して失敗しようがどうしようが、それをとやかくいう法規制はどこにもありません。

午後2時に出勤してきて、2時間だけ働いて4時にはさっさと帰っちゃう人に成果を上げたからといって50万円払って、9時から6時まで8時間フルに働いた人にあんまり成果が上がっていないからと30万しか払わないのも、法律上全く合法です。法定労働時間内というたった一つの条件のもとで。

日本国の実定法上、それ以上働かせたら違法であって、懲役刑すら規定されているような悪いことを、それでもあえてやらせるというような例外的な状況では、そうでない状況が出てきます。時間外労働時間に比例した時間外割増賃金を支払わなければならなくなります。ただし、何回も強調しますが、それはいかなる意味でも、特定の賃金制度が良いとか悪いとか、許すとか許さないとかいうような話とは関係がありません。本来悪いはずの時間外労働をあえてやらせることに対する罰金として課されているお金が、あたかも時間に比例した賃金を払えと命じているように勝手に見えるだけです。そんな賃金イデオロギーは、労働基準法のどこにも存在しません。もしあるというのなら、なぜ法定労働時間の枠内であればそれが全く自由に許されているのか説明が付かないでしょう。

こういう労働法の基本をわきまえていればすぐわかるようなことが、産業競争力会議やマスコミの人々に全然理解されないのは、そもそも日本国の実定法が法定労働時間を超えて働かせることを懲役刑まで用意して禁止しているということが、現実の労働社会では空想科学小説以上の幻想か妄想と思われているからでしょう。そう、そこにこの問題のコアがあるのです。

こういうことを一生懸命説明してきている立場からすると、労働法制の基本を全くわきまえない人々と全く同じ認識に立脚しているように見えるこの会長声明は、情けないの一言に尽きます。

日本の労働時間法制の最大の問題はどこにあると思っているのか、「このような制度が立法化されれば、適用対象者においては長時間労働を抑制する法律上の歯止めがなくなり」って、そもそも今の日本に「長時間労働を抑制する法律上の歯止め」があると思っているのでしょうか。残業代はそれ自体はいかなる意味でも「長時間労働を抑制する法律上の歯止め」ではありません。休日手当を払わせている現在において「休日を取らずに働くことを命じることも許される」という状況にないというのでしょうか。一種の間接強制であるとはいえるでしょうが、あたかもそれだけがあるべき労働時間規制であり、それさえあれば長時間労働は存在し得ないかのようなこの言い方には、今過労死防止促進法が成立することの意味が全く抜け落ちているように思えます。

こうやって、現行法上も(法定労働時間の枠内である限り)何ら違法でもなく全く自由にやれる「労働時間と賃金とを切り離し、実際に働いた時間と関係なく成果に応じた賃金のみを支払えばよいとする制度」を、あたかも現行法で禁止されているかのごとく間違って描き出し、それを解禁するためと称して、本来論理的にはなんの関係もない労働時間規制の問題に持ち込むという、産業競争力会議の誤った議論の土俵に、何ら批判もないまま、そのまますっぽりと収まって、ただ価値判断の方向性だけを逆向きにしただけの薄っぺらな批判を展開するのが、日本の法律家の代表の責務なのか、悲しくなります。

こうやって、日弁連会長の立派なお墨付きを得て、ますますよくわかっていないマスコミの議論は、「労働時間と賃金とを切り離し、実際に働いた時間と関係なく成果に応じた賃金のみを支払えばよいとする制度」を認めるべきか否かなどという虚構の議論にはまり込んでいくわけです。一番大事なことをどこかに置き忘れながら・・・。

2014年11月28日 (金)

塩見孝也『革命バカ一代 駐車場日記』

Kakumeibaka_1 これはたまたま本屋で見つけて買いました。塩見孝也『革命バカ一代 駐車場日記 たかが駐車場、されど駐車場』(鹿砦社)

http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&seq=000384

全国のシルバー世代、全共闘世代に送る熱いメッセージ

元赤軍派議長、あの伝説の男が帰ってきた。 それも革命的シルバー労働者として! 誇り高き 駐車場管理人として!

いま 新たなステージに立っている。――これはその中間報告の書である。

この名前にご記憶がある方はどれくらいおられるでしょうか。かつて共産主義者同盟赤軍派の議長として活躍し、20年あまり獄中で過ごして出所したあと、2008年から清瀬市シルバー人材センターで人生で始めて労働を体験し・・・というあたりまでは、本ブログで何回か紹介してきましたね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-d14f.html (赤軍派議長@シルバー人材センター)

ちょっと前の産経に載った記事で、「さらば革命的世代」という連載ものの「日本のレーニンが知った労働」という記事が、大変興味をそそられました。

http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080703/trd0807032211019-n1.htm

>かつて「日本のレーニン」と呼ばれた男は、東京都清瀬市の市営駐車場で汗を流していた。昭和40年代半ば、「世界同時革命」を掲げて武装闘争路線を指揮し、破防法違反罪などで19年9カ月の獄中生活を送った元赤軍派議長、塩見孝也さん(67)。昨年末から市のシルバー人材センターに登録し、月9日ほど派遣先の駐車場で働いている。

 「この年になって、ようやく労働の意義を実感している。39歳のひとり息子も『親父がまともな仕事をするのは初めてだ』と喜んでいます」

 それまでの生計は「カンパや講演料に頼ってきた」というが、あえて働き始めたのは昨秋、心臓を患ったのがきっかけだった。「もっと自活能力を付けたい。地に足のついた生活をしながら革命を追求したい」と思ったという。

うーむ、左翼運動に半世紀をつぎ込んで、今になって「ようやく労働の意義を実感」ですかね。いままでは地に足のついていない革命運動だった、と。

>塩見さんが働く駐車場は駅近くのショッピングセンターに隣接し、休日は約1000台が利用する。時給は1000円だったが、4月から「副々班長」の役職手当で50円上がった。

 「役職に就くのは労働者を管理する側に回ることであり、刑務所でも班長への就任は断固拒否したが、ここでは仕方がない」と主張する一方、「働くとは、すばらしいことだ。社民党や共産党の幹部も理論だけでなく実践したらいい」と、自身の「初めての労働」をうれしそうに語る。

>塩見さんは「要するに、僕のこれまでの生涯は、民衆に奉仕するというより、民衆に寄生してきたのです。奉仕されるばかりで、自前の職業的労働すらしてこなかった。これは情けないことで、よく生きてこられたなとも思う。だからこそ、自己労働を幾ばくかでもやり、本物の革命家になりたいと思うわけです」。

今頃そういうことを言われても・・・。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-c523.html (『総括せよ!さらば、革命的世代』)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/70-ec65.html (70歳まで働く!@東洋経済)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/10/post-8ee1.html (老いてますます・・・?)

その67歳にしてはじめて労働を体験した塩見さんが、その職場で労働者としての権利に目覚め、清瀬市シルバー人材センターと就労先クレア駐車場を経営する清瀬都市開発公社を相手どって、休憩時間をめぐって団体交渉をつきつけ、さらに反合理化闘争に突き進んでいく姿を描いています。

1部 駐車場労働〈事始め〉

第1章 駐車場労働を始めた由縁について

第2章 労働の真実とは? 

第3章 労働の只中で去来してくる我がやるせなき想念 

第4章 〈永久革命家〉としての退路を断った僕の駐車場労働

2部 駐車場労働《本番》記

第5章 駐車場労働《本番》記

第6章 改めてシルバー労働とシルバー運動を問う

3部 反合理化――僕の闘争記

第7章 許すまじ、二六年度合理化案

第8章 日本テレビ「ダンダリン 労働基準監督官」に鼓舞された

終章 職場、地域での生活・経済・福祉闘争を政治闘争と結合し“社会政治闘争”を闘おう

しかし人生の大部分を革命運動に打ち込んできた塩見さんが70代になって人生ではじめて取り組んだのが「労働運動」であったというのは、いろいろとものを考えさせます。

第38回規制改革会議(濱口発言部分)

去る11月10日に開かれた第38回規制改革会議の議事録が内閣府HPにアップされていますので、そのうちわたくしの発言に関係する部分をこちらに紹介しておきます。

http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kaigi/meeting/2013/committee3/141110/gijiroku1110.pdf

○濱口統括研究員 濱口でございます。

 本日は規制改革会議の本会議にお呼びをいただき、私の意見を申し述べる機会をいただきまして、ありがとうございます。

 今まで3回ほど雇用ワーキンググループにはお呼びいただいて、お話をしてきたことがございますが、今日はもう少し総論的にいただいた多様な働き方を実現する規制改革ということで、10分ほどお時間をいただいてお話ししたいと思います。

 実はいただいたテーマは「多様な働き方を実現する規制改革について」なのですが、これを見ますと、あたかも規制があって、その規制が多様な働き方を阻害しているかのような前提に立ったタイトルでございますが、私はそもそもそれが間違っていると思っています。マスコミに出てくる世の評論家は、雇用分野においても他の分野と同じように、国家による法規制によってがんじがらめに縛られているかのようなイメージで語りがちですが、それは全く間違いであります。

 例えば、日本の労働基準法。本来は1日8時間、週40時間を超えて働かせてはならないという厳格な規制ですが、しかし、現実には36協定によって法律上、無制限の残業や休日出勤が可能であります。これは世界的に見て恐らく異例なまでの規制緩和状態であります。

 例えば、ヨーロッパは残業を含めて週48時間が原則ですし、例外的にも1日11時間の休息時間が必須になっております。

 一方、この労働基準法はあくまでもそれを超えて働かせてはならないと言っているだけで、それより少なく自由に働くことを全く禁止はしておりません。企業はそれより短い働き方、働かせ方は十分可能なのにそうしないのは、あえて言えば、企業がやれることをやらないだけであります。そういう意味では、ここで問題なのは規制(レギュレーション)ではなくて、慣行、これはフランス語でレギュラシオンと言うらしいのですが、その方がむしろ問題であると言うべきだろうと思います。

 ワーク・ライフ・バランスというときに、例えば夜中の2時まで働いて、ワーク・ライフ・バランスが実現したと言うのであれば別ですが、もっと短く、あるいは自由に働けることが大事であれば、そのために必要なのは規制改革ではなくて、慣行改革こそが必要なはずであります。そこを混同して労働基準法の規制を緩和すればワーク・ライフ・バランスが取れるとか、仕事と育児の両立ができるというようなことを言うのは、私は端的に嘘であると思っています。

 念のため申し上げますと、残業代というものは、これはあくまで単位は円ですので賃金規制です。賃金規制については確かに法定労働時間を超えると、時間にリンクした賃金の支払いが義務付けられております。そこを問題にすること自体、私は別におかしなことではないと思いますが、しかし、法定時間内は、支払い方は自由です。例えば、子供を保育所に預けてから午前11時に出社して、午後2時までの間に仕事をさっさと終わらせて退社した方に、成果を上げているからというので、例えば月50万払う。朝8時から5時までフルに働いたけれども、成果を上げていないからあなたは月20万だよ。少なくとも日本の労働法には、これを禁止するような規定は全くございません。それをしていないというのは、単に企業の慣行であるに過ぎないと思っております。

 これを踏まえて、今、岩田会長がお話された女性の問題に引き付けてお話を申し上げます。いわゆる日本型雇用システムと言われるもの、これも六法全書のどこにもそんなやり方をしろとは書いていません。まさに法規制ではなくて慣行でございますが、この下では、少なくとも男性正社員は全て仕事の中身も時間も空間も無限定な、私の言葉で言うとメンバーシップ型の働き方がデフォルトルールになっています。

 デフォルトというのは、どういうことかというと、例えば、私が一般職で働きたいと言ったら、男のくせに一般職なんて何だと叱られるわけであります。しかし、このデフォルトのモデルは、少なくとも専業主婦か、せいぜいパートで働く主婦が家事、育児を行うことを前提としております。そのデフォルトのモデルを女性にそのまま適用すると、これが総合職になるわけですが、そうすると彼女らにも主婦が必要になります。その主婦は誰がやるかというと、親だったり、姑だったり、あるいはメイドだったり、しかし、いずれにしてもこれが普遍的に存在するということは、恐らくあり得ないでしょう。

 そういう中で伝統的に女性に割り当てられてきたのはどういうモデルかというと、仕事も時間も場所も限定的なだけではなく、仕事の中身自体も補助的な働き方。これがいわゆる一般職モデルであります。むしろ、恐らく90年代末からは、これが非正規に徐々に代替してきたと言えるのではないかと思います。

 ようやくごく最近になって、仕事内容自体は決して補助的ではなく、むしろ基幹的、専門的な仕事でありながら、こういった仕事の中身とか時間や空間が限定的な働き方、限定正社員と言われる、あるいはジョブ型正社員と私は呼んでおりますが、そういったものが論じられるようになってまいりましたが、なお今までの伝統的なデフォルトルールというものが非常に強いために、執拗な反対論がございます。この無限定正社員がデフォルトであるがゆえに、このタイトルにある多様な働き方というものが、社会的に見て落ちこぼれ扱いされてしまいます。

 過去20年間、働き方の多様化というのは繰り返し論じられてきましたが、私から見ると、それは全て片面的多様化であると言えます。片面的というのはどういうことかと言うと、職務も時間も空間も無限定な就労義務と、それを前提とする長期の雇用保障、年功的な処遇に特徴付けられる、メンバーシップ型の正社員モデルを当然のデフォルトとし、そこから、義務もこれだけ少ない、それゆえ保障もこれだけ少ないというように、削る方向にのみ多様化を考えてきたということです。したがって、このデフォルトモデルが正しいものだという立場からしますと、多様化というのはすべて下方への逸脱というふうに見られがちであります。

 したがって、例えば、限定正社員とかジョブ型正社員というと、すぐに解雇しやすいジョブ型正社員反対というふうな反対論が必ず吹き出してくる。これは、吹き出す反対論がおかしいと言っているだけでは駄目なのであって、そもそも無限定な働き方をデフォルトとする考え方をみんなが共有しているからそうなるわけであります。

 しかし、日本以外の社会においては、基本的に職務も時間も空間も限定されている無期労働者、私が言うジョブ型の正社員がデフォルトモデルであって、多様化というのはそこから両方に向けて多様化していくというのが、働き方の多様化であるわけであります。そうすると、そのジョブ型の働き方のデフォルトモデルから上の方に逸脱するモデルというのも、下の方に逸脱するモデルもあるだろう。ところが、日本では一番端の一番無限定なモデルがデフォルトモデルとなりますので、そこから外れるのは全て下方への逸脱と見られてしまう。つまり落ちこぼれ視されてしまうということであります。

 最初に申し上げたように問題は規制より慣行にあるわけですが、この無限定のモデルがなぜ確立してきたか。労働時間のように、そもそも法律で規制があるにもかかわらず、それを労使が一緒になって空洞化させてきたというのもありますし、あるいは配転のように、法律がそれを前提にしているわけではないけれども、現実にそれが当たり前に行われているということで、現実を容認するような判例法理が積み重ねられてきたということで確立をしてきたわけであります。

 少なくとも六法全書に書いてある労働法規制(レギュレーション)というのは、こういった無限定モデルを全く強制はしておりません。むしろ労働時間に見られるように本来の原則は逆のはずでございます。しかし、日本の労働社会の慣行(レギュラシオン)というのは何も言わなければ、つまりわざわざ限定だよと言わなければ、デフォルトでこの無限定モデルが適用されてしまって、それができません、嫌です、と言うと下方への逸脱が要求されてしまう。そうすると無限定モデルについてこられない多くの女性たちは、限定正社員から非正規労働者に至る様々な片面的な多様化というものを余儀なくされることになります。

 繰り返しになりますが、規制(レギュレーション)ではなく慣行(レギュラシオン)こそが問題であるとすると、その慣行改革に必要なものは、既に空洞化している規制のさらなる緩和などではなく、むしろ空洞化している規制を実質的に強化することが場合によっては必要になろうと思います。

 例えば、労働者のデフォルトモデルは限定正社員で、そこから無限定な働き方を希望する者は、そこから上方に逸脱するというふうにルールを決めるということも実はあり得るわけです。むしろ欧米社会はそれがごく普通の在り方であります。

 残念ながら、現在までは規制改革をとなえる方々も、それに猛烈に反対する方々も、いずれもこれには猛反対であります。いずれもこのデフォルトモデルである無限定モデルというものを前提に考えているということで、ここに慣行(レギュラシオン)の根強さというものが表れているのではないかと思います。

 その意味では、いただいたタイトルは「多様な働き方を実現する規制改革について」というものでありますが、むしろ必要なのは慣行改革であり、そして、その慣行(レギュラシオン)改革は、いまだその緒にすら就いていないのではないかというのが私の申し上げたいことでございます。

 以上です。

 

○大崎委員 ありがとうございます。

 濱口先生に御意見を伺いたいと思うのですが、私は先ほど先生のおっしゃった、今、規制の文字面そのものは非常に既に緩和されていて、そちらを余り動かしても慣行が変わっていかないのではないかという御指摘は、誠に共感するところがありまして、とりわけデフォルト状態というものが、非常にある意味、労働者側から見れば制限がほとんどないような状態になっているので、逸脱するのは下へしかいかないというのが全くそのとおりだと思うのです。

 ただ、変えるのが非常に難しいなという気がいたしまして、先ほどちょっとおっしゃった限定正社員をデフォルトにするみたいなことを、ある意味、無理やり制度化するとすれば、例えば、雇用契約においては勤務地等々、職種等々を明記しなければいけないということにして、例えば、配置転換等々を会社が自由に行う場合は特約を結べ、みたいな制度を作るというのが一つの考え方としてあると思うのですけれども、これはこれでそういう特約をくっつけた契約の方を言わば事実上のデフォルトにしてしまう慣行が生まれて、結局、同じになってしまうような気もするのです。

 恐らく会社としては、そういう会社側の自由度の高い特約を結んだ人の方に給与をたくさん払う、あるいは昇進のときに優遇するという人事政策を必ず採ると思われるので、なかなかこれも制度で縛ったからといって、ジョブ型正社員がデフォルトになるというのが非常に難しいなという気がするのです。

 また、労働者側からも本来の自分の働き方、自分の仕事に合った働き方よりは、社会的に上とみなされている働き方を望むという傾向が相当あると思っていまして、長くなって恐縮ですが、1個だけ私自身の経験から申し上げたいと思うのですが、私の勤務先は、実はほぼ入社4年目以降の全社員に裁量労働制を適用しているという、日本企業では非常に珍しい会社なのですが、裁量労働制を導入しようとして検討したときに、私は、実はそのとき従業員組合の執行部にいたのですが、当時、執行部としては結構抵抗を持つ人もいたので、詳しい職務分析をして、本来、裁量労働に最も適合的な職場から先に導入していくというやり方を採ったらどうかということを考えたのですが、結局、起きたことは、それをやられると裁量労働が入っていないところは言わば2級社員というか、要するにノンエリートだというふうに位置付けられてしまうといって、現場の支部が実は反対して、結局、全員で移るのだったらいいということになってしまったのです。それで結果として、ほぼ全員が裁量労働という状況が生まれていて、それはそれでそれなりにうまく回っているのですが、なかなか何が上で何が下かという社会的な思い込みを変えることが難しい中で、どうしたらこのレギュラシオン改革というものが少しでも動き出すのか。その点について何かアイデアがあれば、是非、御教示いただきたいと思います。

 すみません、長くなって恐縮です。

○濱口統括研究員 正にそういうふうな反応をいただくことが1つの目的でございます。つまり、こういうことを言わないと、何か六法全書にこうしろと書いてあると思い込んでいるような評論家とかコンサルタントの方々がいっぱいいらして、マスコミでも活躍しています。それは、まずそうではないということを言うだけでも疲れてしまいますので、まず出発点として、それは規制ではなく慣行である、ということを認識していただく。慣行ですから変えるのは大変難しいです。難しくて、しかも慣行ですから法律上はどちらも可能であるということには変わりはないとすると、結局、多くの方々の意識が変わらない限りはなかなか変わらないというのは、事実であります。

 ただ、あえてここで申し上げているのは、全体の分量はすぐにはそれほど変わらないかもしれないけれども、どちらがデフォルトかというルールを変えるというのは、それなりの意味があるかもしれない。そして、とりわけそのことの意味が一番大きいのは恐らく女性との関係でしょう。

 ここ1年、2年ほどジョブ型正社員とか限定正社員ということを申し上げてきている最大の理由は、時間や空間が限定されている働き方というのは2流、3流であるという意識を変えていくことにあります。先ほど私も上とか下とかという言い方をしたのですが、そうではなくて横に並んでいる。時間や空間はは限定されているけれども、仕事の中身自体は基幹的、専門的な働き方である。それをデフォルトと考えるという一つの意識改革の出発点になり得るかなという意味で申し上げております。

 もう一点、申し上げますと、皆様が忘れていらっしゃるのは、この無限定モデルを労働者に強制しているある仕組みがあります。それは何かというと、就業規則です。どの会社の就業規則にも、「必要に応じ配置転換を命ずることがある」とか、「必要に応じ残業や休日出勤を命ずることがある」と当然のように書いてあります。つまり、そうするとそれは少なくとも我が社においてはそれがデフォルトである。それに従えないような奴は、2流、3流であるということを言わば暗黙のメッセージとして送っていることになります。そういう意味で言うと、ミクロ的にはまずは就業規則の上でどちらをデフォルトにするかというのは、一つの考え方かなと思います。

 これすら現実には、そう簡単な話ではないのかもしれませんが、そういうところにこういった無限定さというものの一つの土台があるということを申し上げたいと思います。

 

○佐々木委員 岩田さん、今日はどうもありがとうございます。また、濱口先生もどうもありがとうございます。

 お2人がおっしゃっていただいたことは、全てそうそうと思いながらお聞きしました。

 この労働の問題に関しましては、ほとんどが法律ではなくて企業が、CEOが変えようと思えば変えられることだと私も思っているのですが、規制改革会議なので、私たちはそこをどういうふうな規制をどういうふうに変化させれば、その企業が動きやすくなるのか、あるいは動くきっかけ、あるいは動かなければいけないと思うのかというところを探っているというのが、一番実は難しい点でございます。

 例えば、女性の取締役を1人というのも実はとても簡単で、私も経済広報誌などに書くのですが、そんなことは簡単で、どこにも法律の規制はないわけだから、来年度から女性の取締役を1人増やすよとCEOが言えば、来年から全部の会社が増えるのですというふうに申し上げております。

 ジョブ型とか今の働き方の多様性に関しましても、ずっとこれは雇用のワーキングでも私も発言してきましたが、全ての多様性が下に見えてしまうということは本当に大きな課題で、これを何とかしていかなければならないと思っています。

 では、本当に法律上、規制改革会議としては何をしたらいいのかということで、課題と考え方はお2人と私どもも一致しているかと思っております。何をしたらいいと思われますか。

 私は、例えば雇用均等法ができたときに、女性であるということを理由に給料を変えてはいけないとか、その頃は面接というか説明会でさえ女性の名前で応募すれば、説明会の日程も教えてもらえなかったという時代があったわけですが、今はさすがにそういうことはなく、オリエンテーションも行かれる。履歴書も受け取ってくれる。しかしながら、知らないうちに総合職と一般職という違う名前になって男性と女性が分かれている。

 私は一つのアイデアとして、入口のところで総合職、一般職というふうに決めてはならないというような、男と女だけではなくて、将来、出張するのか転勤するのかということを入口で決めて、いきなり入口から給料が変わったりするというのもルール違反だとしてしまうのが、まずは一つの方法なのではないかとさえ思ったりするのですが、何かこの時点で規制改革会議として、つまり規制の面でこんなアイデアはどうだろうというものがあれば教えていただきたいと思います。

○濱口統括研究員 先ほども申し上げたのですが、ここまで緩和し過ぎた規制を強化するというのは一つのやり方だろうと思います。ただ、それはあくまでもデフォルトはこちらだということであって、一切の逸脱を許さないとなると、これは本当に多様性のない社会になってしまいます。ただ、デフォルトはこれであるというものを改めてきちんと定め、、そのデフォルトから逸脱するためには相当の手続が必要ということにすると、これは正に規制強化でありますが、かなりの意識改革にはなるでしょう。

 それから、これはもう一段ぐらいワンクッションある話なのですが、なかなか企業が今までのデフォルトから抜けられない大きな理由は、メンバーシップ型の正社員モデルというのは非常に長期の仕組みであります。新卒で入ってから定年退職するまで、若い頃はたくさん働くけれども、それほど給料は高くない。だんだん年齢が高まるにつれて、はるかに高い給料をもらうというのがルールになっています。これを個別契約で見ると、後になってそれを変えるというのは契約違反だという話になってしまいます。

 実は先ほど企業がやろうと思えば幾らでもできると申し上げたのですが、それがなかなかやりにくいのは、そういう長期の暗黙の契約に対する違反になってしまうという問題があるからです。そうすると、そこはやや乱暴な言い方になりますが、集団的なルール変更でやるしかないだろう。つまり若い人も、年を取った人も、あるいは男性も女性も、正規も非正規もみんな含めた中で、みんなで働き方と報酬の在り方というものを考えて、何をデフォルトにするかを決めていく。その中で損をする人も得をする人もいるだろうが、全体としての利益を図っていく。これはやや専門的な言い方をしますと、集団的労使関係システムを使った個別の労働条件の不利益変更をどう考えていくかという話になるのですが、そこが一つの突破口なのかなと思っております。

 ただ、これも恐らく鶴座長は頭の中で考えておられるのでしょうけれども、なかなか難しいのでまだ手がついていないのかなと思います。とりあえず、今、規制ということで考えるとすると、規制改革委員会とか、あるいはかつての名前の規制緩和委員会という名前からすると一見逆に見えるかもしれませんが、むしろある側面において規制を強化する。これがデフォルトであるということをきちんと定めていくというのが、一つのやり方ではないかと思っています。

 

○金丸委員 岩田さん、濱口さん、どうもありがとうございました。

 私も今度、産業競争力会議で雇用の主査を担当することになりまして、今までですと気楽な発言ができていたのですが、今日はまだなり立てほやほやなので規制改革会議のヒラ委員として聞いてほしいのですが、今日、濱口先生のお話を聞いていて思ったのは、例えば、私どもの会社というのは多少地域に拠点もあるのですけれども、ほぼ限定正社員というものがデフォルトなんだなと思って聞いていたのです。私は無限定の正社員がデフォルトな企業のイメージというのは、先生はどんなふうに思っていらっしゃるのでしょうか。

 私は一部の大企業、かなり歴史のある大企業がそんな気がしているのですけれども、中小企業というのは、例えば田舎にあると本社は同じような、例えば私は鹿児島ですけれども、鹿児島に本社があって、多少地域にあるかもしれませんけれども、仕事は鹿児島県内で閉じている可能性が高いので、だから雇用関係の問題というのは、私は本当に一部の大企業の問題と、中小企業であるとかその他の企業の問題がかなり違うのではないかと思っているのが一つ。

 それから、企業の成長のステージと言いますか、それにも大きく影響があるのではないかと思って今日お伺いしていました。と言いますのは、私は会社を2人でつくって、経営者と従業員という関係も2人はないわけですから、一心同体でやってきて、それが5人、10人、100人になってきて、200人ぐらいのときに私は店頭公開したのですけれども、200人ぐらいだと全員名前も顔も知っていますし、それから、人材の流動性と言いますか、私が例えば経営者として、君は配置転換だからどこかで何かやってくれと言って、その人が気に食わなければみんな新しい企業群の社員というのは、みんな新しい企業群というのはマーケットニーズがあるから新しく成長しているので、そうすると、その人たちというのは何か不当な業務命令であるとか配置転換があると、みんな辞めてしまうので、無限定何とか社員って、例えば契約書を結ぼうと思ったこともなければ、人も成長をサポートしてもらえる人材の獲得も相当苦労しましたし、そして女性も男性と区別なく入社してもらいましたので、世間は女子大生が就職難のときというのは当社みたいなところにずっと並んで、そういう方々が御参画いただいて今日があるのですけれども、そうすると新しい企業群の中で私は限定正社員という方がみんなデフォルトなのではないかと、私の多くのIT業界の新しい企業群の仲間たちはそんなふうに思うのですが、先生の方の分析でそういうものが大別できるのかどうかというのをお伺いしたい。

○濱口統括研究員 幾つかの議論のレベルがあるのですが、まず規範という意味で言うと、日本社会において何があるべき姿か、正しいかという意味で言うと、これは昔から二重構造論で繰り返し言われていることですが、大企業のモデルが正しい、あるべき姿で、我々は中小・零細だからなかなかそれはできないけれども、例えば、賃金カーブも到底なかなかそんな大企業みたいに急速に上がっていかないけれども、だけれども、それは上がる方が正しいので、うちは零細だからなかなか上がらないけれども、それはいつかは、明日は大企業になろうみたいな、そういう意味での規範性が非常に強いということがあります。これは意識としての規範性です。

 次に判例法理という意味で言うと、どうしても弁護士費用を払って何年も裁判できるのは大企業の正社員たちですので、彼らの実態を踏まえた形で判例が積み重なってきます。現実には中小零細企業を見ると、判例とは全然似ても似つかないような実態というのは山のようにございますが、しかし、政府の審議会などの場で、労働はいかにあるべきか、ということを議論すると、どうしてもそういう大企業正社員モデルでもって、それを基盤として議論されてしまうということがございます。

 そういう意味で、意識的あるいは判例法理的な意味での規範性というものが厳然とある以上、それをデフォルトとする考え方が個々の中小企業にも影響を及ぼしております。具体的には、普通、多くの日本の中小企業は世間で出回っている就業規則のひな形をほぼそのまま使っております。そのひな形には大体、「必要があれば配置転換を命ずることがある」とか、「必要があれば残業や休日出勤を命ずることがある」と必ず書いてあります。わざわざそこを消しておりません。ということは、現実には配置転換を命ずることはなくても、あるべき姿としてはそういうふうに書いてあるわけです。つまり中小企業であっても、就業規則という形をとったデフォルトモデルは、大企業モデルになっているということがあろうかと思います。

 一方で、そういう議論をするとともに、現実の特に中小・零細企業は必ずしもそうではないんだよという話もしていかなければならないと思いますし、雇用ワーキングでも一度そういう話をさせていただいたこともございます。ただ、どうしても規制改革とかこういうことを議論する際には、規制そのものが頭の中のイメージでは大企業正社員型のモデルあるいは大企業正社員を前提とした女性の働き方のモデルあるいは非正規のモデルということになってしまいますので、やはり形としてはそこから議論をしていく必要があるわけです。もちろん、今、言われたことは非常に重要なことでもありますので、そこは両にらみの形で議論をしていく必要があろうと思っております。

 

○大田議長代理 今日はありがとうございます。

 濱口先生に伺いたいのですが、派遣のように全く新しい形の雇用が出てきた場合、これをどう考えればいいのか。

 制度としては、常用、正社員をデフォルトと位置付けて、その職を奪わないように、飽くまでも一時的、臨時的に派遣を位置付けるという体系になっているのですけれども、今のお話から行くと、こういう全く新しい考え、働き方に対して規制としてはどう位置付けて、どう考えていけばいいのか。今、派遣法が出ていますので、考え方でよろしいのですけれども、伺えればと思います。

○濱口統括研究員 時間の関係もございますので、ごく端的に申し上げますが、現在の派遣法の発想は、今から30年前、正にこういった男性正社員モデルというのが一番正しいと言われていた時代に、そういう男性正社員モデルを代替しないようにということで、あえて言うと女性がやっている仕事とか一部の専門的な仕事だけを派遣でやらせるという形になりました。それがその後の規制緩和で、若い男性の派遣労働者も、特に製造業なんかで出てくると、問題視されるようになりました。女性が派遣社員になっている頃は問題だと言わなかった人たちが、若い男性の派遣労働者が出てくるとけしからん、これは格差社会だと言い出したわけで、非常にジェンダーバイアスのかかった話であると思っております。

 その上でどう考えているかと言えば、やはり派遣という働き方の中でいかに処遇を改善し、そして雇用を安定させていくかということが重要なポイントだろうと思います。世界的に見ても派遣労働者の働き方そのものをいかに改善していくかというのが、労働政策としての正しい方向であろうと思っています。

 

○長谷川委員 濱口先生にお伺いしますけれども、非常に端的に聴きますが、規制強化と言ったときに、例えば、大田先生のおっしゃったことに多少関連があるのですけれども、今、普通、マスコミの世界なんかで例えば正社員は○で派遣は×だというすごく単純な理解があるのだけれども、例えば、会社は無限定の正社員、ジョブ型の正社員、派遣、パートはこれぐらい必ず雇わなければいけないというような方向の規制強化というのはあり得るのか。

 つまり働く側が、ある会社に入ったときに、あるとき私は正社員でありたいけれども、ジョブ型正社員にもなるし、派遣にもなるし、もしかしたらパートでもいいんだ。こういうことも選択肢を用意するという意味では理屈の上では、もしかしたらあり得るのかもしれないと一瞬思ったのですけれども、先生の言う規制強化というときの具体的なイメージはどのようなものなのでしょうか。

○濱口統括研究員 端的に申し上げて、私の考えている労働規制強化というのは、世界共通の労働規制の強化です。労働時間が長過ぎるのはまずいから短くしろとか、最低賃金以下はいけないとか、これは世界中共通の規制であります。それに対して、ある種の規制強化論というのは、日本的な男性正社員の働き方が正しいから、これを守るべきである、と主張するものです。しかし実はそういう法規制はごくわずかです。ほとんどございません。

 例えば、パートを規制するとか、有期を規制するという法律はほとんどございません。最近ようやく規制が設けられましたが、それでもパートや有期についてはヨーロッパに比べてはるかに緩い規制しかございません。なぜか派遣だけ異常に厳しいのですが、恐らくここは先ほど申し上げた派遣法ができたときの日本の特殊な状況を反映していると思われます。

 私が先ほど来、繰り返し申し上げているのは、日本が他の国々と比べて大変既に緩くなっている、緩和されてしまっている部分、あるいは他の国々であれば当然のようにそんなに緩くはないというところについて、きちんともう少しタガを締め直したらいかがでしょうかということであります。

 ややもするとマスコミや評論家の方々は、労働規制と言うと日本的な男性正社員型の働き方を強制するという形で議論される方が大変多いので、もしそういうふうに誤解されるとすると、それは大変私の心とは違うものでございます。むしろ世界共通の労働者であれば、当然守られるべきところが、日本型正社員がデフォルトとなっているために、日本の場合には大変緩んでいるというのが特色であるというのが私の申し上げたいことでございます。

 

2014年11月27日 (木)

野村正實『学歴主義と労働社会』

184828 野村正實さんより『学歴主義と労働社会』(ミネルヴァ書房)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.minervashobo.co.jp/book/b184828.html

畢生の大著『日本的雇用慣行』から7年、久しぶりの野村さんの本は、学歴社会がメインテーマ、自営業がサブテーマです。

しかし、開設当初の本ブログをお読みいただいていた方々には、そこで時々紹介していた、若き高専時代の野村さんの回想記が基調低音になっている本だと言った方が良いかもしれません。

近代における学校制度の整備によって、学校教育は労働社会の前提条件となった。労働研究において重要なテーマでありながら、これまで取り残されてきた「学校と労働社会」の関係は、いかなるものか。「初期高専生」としての著者自らの経験に照らすとともに、丹念に文献を精査しつつ学歴社会成立の淵源をたどり、産業構造および就業構造の変化がどのように「学校」とそれを取り巻く社会を変えたのかを問う。

[ここがポイント]

◎ これまで取り残されてきた労働研究からみた「学歴」「学校」の実証分析。

◎ 「初期高専生」としての自身の経験も織り交ぜ、学歴社会の成立の淵源を検証する。

本書における高専(高等専門学校)は、未だ学歴主義になっていなかった最後の世代の中の優秀な層であった著者らを美しい言葉で呼び込みながら、社会に出たら学歴主義の中で大卒未満の存在にしてしまった怨みの対象であるのですが、それはちょうど日本社会が全国的に学歴主義に飲み込まれていく最後の時代でもあったわけですね。

野村さんは高専の設立経緯を批判的に書かれているのですが、50年代から60年代初期にかけての時期、政府や経済界がそろって職務給や職務型労働市場の形成を訴えていたこと、通俗道徳的な「手に職」思想を、ドイツ型の職業資格社会にしていこうという志向があったことは確かなので、このまさに野村さんの世代が高専に進学した時期に、そうならなかったこと、つまり職業的意義なき学校歴主義が国民一般に広がっていったことは、当時の国民の選択であったとしか言いようがないのでしょう。

序 章 本書の課題と主張

 1 「労働問題研究」における学校理解

 2 「学校から職業へ」の研究

 3 学歴主義研究、学歴社会論

 4 本書の主張

 5 「学歴主義」「学歴社会」の定義

第1章 学歴社会成立にかんする通念

 1 中村正直訳『西国立志編』

 2 福沢諭吉『学問のすゝめ』の主張

 3 近世社会と明治社会

 4 学歴主義の異常な高まり?

 5 立身出世論と学歴主義論との融合

 6 小 括

補論1 「労働市場」という用語

 1 「労働市場」という用語の歴史

 2 「労働」という言葉

第2章 学歴社会は「昭和初期」に成立したのか

    ――天野郁夫編『学歴主義の社会史』への初期高専生としての批判

 1 天野郁夫編『学歴主義の社会史』への関心

 2 天野編[1991]の内容

 3 丹波篠山と遠州横須賀の類似点

 4 私の中学生時代

 5 進学先の決定

 6 沼津高専での学生生活と中退

 7 高専中退後

 8 郡部における学歴社会の成立と未成立

 9 学校の類型

 10 初期高専生の意義

 11 初期高専生と通俗道徳

 12 小 括

第3章 学歴主義の局地的成立(男性)と特定的成立(女性)

 1 男女別の学歴主義

 2 「文官試験試補及見習規則」とその背景

 3 「文官任用令」

 4 「文官試験試補及見習規則」と「文官任用令」の意義

 5 民間大会社における学歴と身分

 6 女性官吏

 7 男性学歴主義の局地的成立

 8 女性学歴主義の特定的成立

補論2 近代初期の学校制度

 1 男女別学の原則

 2 男子の学校

 3 女子の学校制度

補論3 逓信省の「雇」

 1 『逓信省年報』における呼称

 2 推測できるいくつかのこと

第4章 文官高等試験と女性

 1 秦[1983]の主張の論拠

 2 試験規則の変遷

 3 中学校と高等女学校

 4 「専門学校入学者検定」(専検)

 5 文官高等試験予備試験の受験資格

   ――1905年改正と1909年改正の意味

 6 戦前の法律における性差別

 7 1918年「高等試験令」 

 8 女性の高等官への任用を否定する論理

 9 小 括

第5章 自営業の衰退がもたらしたもの

 1 自営業への注目

 2 都市雑業層論

 3 隅谷三喜男による「都市雑業層」概念の提起

 4 二重構造論

 5 自営業の理解

 6 二重構造と経済発展

 7 自営業の衰退と学歴主義

補論4 菅山真次『「就社」社会の誕生』の検討

 1 菅山[2011]の内容

 2 全体にかかわるコメント

 3 第4章における菅山の主張

 4 おわりに

第6章 資格制度と学歴主義

 1 近代ドイツ=「資格社会」論

 2 日本における職業資格

 3 下方に展開しなかった日本の資格

 4 技能検定=技能士

 5 「資格社会」論からみる日本

本書のコア部分である高専時代の自叙伝的書評を紹介したエントリ:

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_8684.html (野村正實先生の自叙伝的書評)

野村正實先生のHPに、超特大級の書評、400字詰めで100枚という長大な書評が掲載されました。書評されているのは天野郁夫さんの「学歴主義の社会史」ですが、この書評の読みどころは何よりも、天野著書で描かれた丹波篠山との対比として、遠州横須賀の少年時代を描いた自叙伝的部分にあります。

本田由紀先生のいう「教育の職業的レリバンス」がいつの時代にどのように失われていったかを、細かい襞に分け入るように描き出した素晴らしい(書評という形をとった)文章だと思います。ちなみに、この中で、

>丹波篠山にかんするプロジェクト・メンバーは、天野郁夫を代表者として、吉田文、志水宏吉、広田照幸、濱名篤、越智康詞、園田英弘、森重雄、沖津由紀であった。これだけのすぐれたメンバーを集めながら、なぜ理解を誤ってしまったのであろうか。

というのがいささか皮肉になっています。

経済同友会の労働政策提言

昨日、経済同友会が「「攻め」の労働政策へ5つの大転換を—労働政策の見直しに関する提言—」という提言を発表しました。

http://www.doyukai.or.jp/policyproposals/articles/2014/141126a.html

興味深いのはその名前です。

改革推進プラットフォーム
産業構造改革PT
委員長 冨山 和彦
(経営共創基盤 代表取締役CEO)

あの「L型大学」の冨山さんが委員長を務めるPTの提言なんですね。

というだけで毛嫌いする人が出てきそうですが、いやいやあまりにもまっとうなことを、経営者が言いたがらないようなまっとうなことをちゃんと言っています。

http://www.doyukai.or.jp/policyproposals/articles/2014/pdf/141126a.pdf

提言1:最低賃金引き上げのための最低賃金決定要素の見直し

これまでの労働政策では、最低賃金の引き上げは、日本から生産拠点を流出させ、産業の空洞化を起こすものとして消極的な評価を受けてきた。また、経済学的には最低賃金の引き上げは失業を生み出すという立場が主流であった。・・・

しかし、対面サービスを基本とするサービス産業においては、製造業のような空洞化リスクは小さく、構造的人手不足と相まって、より高い生産性の企業を基準とした最低賃金上昇を行っても、需要不足失業・構造的失業が発生する可能性は低い。むしろ最低賃金の上昇に耐えられない低賃金事業者の廃業や事業売却を通じて、高い賃金を支払っている(≒労働生産性の高い)企業への事業と雇用の集約化を進める効果の方が期待できる。・・・

他方、今や日本の労働者の大半は非組合員(労働組織率は約17%)であり、その多くはサービス産業and/or 中小企業で働いている。すなわち労働条件の交渉力と情報力において典型的な非対称が存在する労働市場環境におかれている。本来、最低賃金制度を含む様々な労働規制は、この非対称性を克服することをも目的としており、わが国においては、ここで産業構造と労働力需給の実態を踏まえ、生産性と賃金向上を企図した賢い規制、スマートレギュレーションを導入することは極めて重要になっている。

・・・この際、医療・福祉などの官製市場では、賃金体系の見直しを後押しするために、公定価格や補助金なども、より労働生産性と賃金水準の高い事業者を支援する方針へと変更するべきである。

へっぴり腰の労働組合よりよほどストレートに最低賃金引き上げというスマートレギュレーションの必要性を訴えていますね。

提言2:サービス産業における労働基準監督の強化

・・・しかし、今や失業懸念は大きな問題ではなくなっている上に、雇用の大半を吸収している非製造業、中でも対面型サービス産業は労働集約的な産業が多く、従業員を酷使してコストを下げるインセンティブが働きやすい。また、産業特性上、事業所が多拠点化するため、出先で起きている労働状況を把握しにくい。これらの要因が相まって、従業員が使い捨てされたり、パワハラやセクハラが放置されたりするおそれを拭いきれない。また、サービス産業は非正規雇用が多い上に、技能レベルも低い労働者が多く、正社員と言っても名ばかりで安定的な雇用とはいえない場合が少なくない。加えて、このセクターは中小企業が多く、組合組織も存在しない場合が大半であり、交渉力、情報力の両面において弱い立場の労働者が多い。

こうした状況を勘案すると、サービス産業においてこそ、厳格な労働基準監督を行う必要性はより高まっている。

したがって、労働基準監督10の定期監督は、サービス産業への比重を高めるべきである。現状では、申告監督の事件割合はサービス産業の方が多いにも関わらず、定期監督にける製造業への実施割合は高く、実態に即していない。また、申告監督をより充実させるためには、労働基準監督署等に対する通報制度の周知徹底や機能強化を図ることが不可欠である。さらに、従来以上に企業規模や経営状況に関係なく、公平に違反行為の労働基準監督にあたるべきである。・・・

このあと弁護士や社労士など民間に監督行政を委託すべきという議論が展開されていき、そこは議論のあるところでしょう。

提言3:雇用流動性の高いサービス産業における人財育成の充実と労働者保護

・・・今や雇用の大部分を占めるサービス産業における政策課題は、これ以上、雇用の流動性を高めることではなく、流動性が高いことを前提に、職業能力開発を充実させることと、ジョブ型正規雇用への就労促進で雇用の安定化を図ること、そして企業間移動に際して労働者の経済的な実質利益を守ることである。

この方策としては、中等教育(特に高校)、高等教育(大学と高等専門学校)及び専門学校のあり方を見直すことが不可欠である。今までの教育では、現代の社会や企業の求める人財の育成に貢献できていない。とりわけサービス産業や地域経済の活性化に資する人財需要には応えられていない。そこで、これまでの方針を大きく転換して、サービス産業に特化した高等専門学校を作るなど、中等・高等教育においてもサービス産業を中心にした職業能力開発を積極的に実施していくべきである。

これがL型大学論につながっていくわけですが、その前提となる認識がどういうものであるかを、論じる人はちゃんと理解するべきでしょう。

提言4:労働条件規制の企業規模による格差の解消

これまでの労働政策は、大企業における日本的雇用慣行を前提に策定されていたため、中小企業の事務対応能力の低さ、経済的負担能力の低さなどを理由に、企業規模に配慮するべきとの主張がなされ、中小企業に寛容な制度が是とされてきた。・・・

しかし、繰り返し述べてきたように、今後の労働政策は、グローバル経済圏の大企業で働く労働者の保護よりも、ローカル経済圏の中小企業において安定的で高賃金の雇用を生み出すことにより重心を置くべきである。

加えて既述の通り、ローカル経済圏の中小企業にあっては、労働集約的であるために、従業員を酷使するインセンティブが働き、かつ労働組合などによる牽制も働きにくい。したがって、現実問題として、労働者保護の要請は中小企業の方が強い場合が多い。

ここまではっきりと中小企業優遇(という名の中小企業労働者冷遇)をやめるべきといいきっている人はあまりいないのでしょう

提言5:行政庁における労働政策の位置づけの見直し

本来、厚生労働省設置法においては、「国民生活の保障及び向上」だけでなく、「経済の発展に寄与」することも目的とされている。厚生労働省は、今こそ設置法の趣旨に立ち返り、経済戦略官庁として、労働市場からの規律付けによって企業の生産性を向上、ひいては持続的な経済成長を実現させることを考えるべきである。

とかく、経済の発展に寄与するためには、労働規制なんてやめとけといいがちなある種の人々と違って、労働規制を厳格にやることこそが生産性向上、経済発展につながるんだと言っているわけです。

繰り返しますが、「L型大学」に脊髄反射している人々は自分が何に反発しており、即ち何を(無意識裡に)擁護しているのかを、改めて意識化した方がいいと思われます。

女子と婦人と女性@『労基旬報』11/25号

『労基旬報』11月25日号に、「女子と婦人と女性」を寄稿しました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo141125.html

慌ただしく「女性の職業生活における活躍の推進に関する法律案」(「女性活躍推進法案」)が国会に提出されたのを機に、そもそも「女性」を日本の労働法制ではどのように呼んできたのかを振り返ってみましょう。どちらかというと、トリビア的な話題です。
 最近でこそ、どの法律でも「女性」で統一されていますが、昔の法律は「女子」や「婦人」という言い方がされていました。いずれも英語に訳したら「women」となるはずですが、日本語の文脈ではそう単純な言葉でもありません。womenの対になる言葉はmanですが、女子や婦人の場合、必ずしもそうではないのです。
 というと、「女子」と対になるのは「男子」に決まっているだろう、と異論があるかも知れません。確かに、学校教育の世界では、女子児童と対になるのは男子児童ですし、女子生徒と対になるのは男子生徒ですから、まさに男女ペアの言葉です。しかし、労働法の世界ではそうではありません。
 日本の労働法の先駆け的存在である1911年の工場法では、「女子」は「年少者」と並んで、保護されるべき職工の類型と位置づけられていました。
 
第三条 工業主ハ十五才未満ノ者及女子ヲシテ一日ニ付十二時間ヲ超エテ就業セシムルコトヲ得ス
第四条 工業主ハ十五才未満ノ者及女子ヲシテ午後十時ヨリ午前四時ニ至ル間ニ於テ就業セシムルコトヲ得ス
 
 つまり、男子職工という概念はないのです。成人男子はただの形容詞のつかない職工であり、女子と年少者は特別に保護されるべき存在でした。
 この考え方は,戦後制定された労働基準法でもほとんど変わっていません。
 
第六十一条 使用者は、満十八歳以上の女子については、第三十六条の協定による場合においても、一日について二時間、一週間について六時間、一年について百五十時間を超えて時間外労働をさせ、又は休日に労働をさせてはならない。
第六十二条 使用者は、満十八歳に満たない者又は女子を、午後十時から午前五時までの間において、使用してはならない。
 
 年少者が時間外労働禁止であるのに対して女子は上限設定というところに差は付けていますが、成人男子がただの形容詞のつかない労働者であるのに対して、女子と年少者が特別に保護されるべき存在である点においては何の変わりもありません。少なくともこれらの規定が置かれている労働基準法第六章「女子及び年少者」においては、女子は男子とではなく、年少者と対になる言葉です。
 ところが一方で、労働基準法第四条には、女子を男子と対にした規定が置かれていました。
 
第四条 使用者は、労働者が女子であることを理由として、賃金について、男子と差別的取扱をしてはならない。
 
 これが、ILO憲章の男女同一価値労働同一賃金原則をもとにしながらも、労務法制審議会において年功賃金制や生活給との矛盾を指摘されて単なる男女同一賃金規定になったものであることは、今までも何回か紹介してきましたが、それにしてもこの条項においてだけは、女子が男子と対になって賃金におけるその均等待遇を要求しているという意味で、後の男女均等法を先取りする規定であったと言ってもいいでしょう。
 さて、労働基準法が制定されるのと相前後して労働省が設置され、そこに「婦人少年局」が置かれました。この「婦人」という言葉は、戦前から言論や運動の中で女性の社会的地位を表す言葉として用いられてきた歴史があり、「婦人の地位向上」を所掌事務とする局の名前に、年少者と並んで保護の対象というイメージの付着した「女子」ではさまにならなかったのでしょう
 
第七条 婦人少年局においては、左の事務を掌る。
一 婦人及び年少労働者に特殊の労働条件及び保護に関する事項
二 児童の使用禁止に関する事項
三 家族労働問題及び家事使用人に関する事項
四 その他婦人及び年少者に特殊の労働問題に関する事項
五 労働者の家族問題に関する事項但し、法律に基づいて他省の所管に属せしめられたものを除く。
六 婦人の地位向上その他婦人問題の調査及び連絡調整に関する事項但し、婦人問題の連絡調整については、他省が法律に基づいてその所管に属せしめられた事務を行うことを妨げるものではない。
 
 設立当初の婦人少年局長は戦前社会主義者、女権主義者として活躍してきた山川菊栄、その下の婦人労働課長は女性工場監督官として現場で活躍してきた谷野せつでした。
 こうして行政機関の名称としての「婦人」は、その後政策の名称としても「働く婦人の家」とか「婦人の就業意識を高める運動」などという形で使われていきますが、それが法律の名前に顔を出したのは1972年の勤労婦人福祉法でした。
 この法律は「勤労婦人」を対象にした法律ですが、では勤労婦人と対になる言葉は何でしょうか。勤労男性、ではありませんね、もちろん。勤労婦人の対義語は家庭婦人です。ちょうど1970年にできた勤労青少年福祉法の「勤労青少年」の対義語が勤労成人ではなくて在学青少年であるのと同じです。そもそもこの法律を審議した婦人の就業に関する懇話会では、「婦人の就業は助長すべきか」という問いに対してあれこれ論じていたくらいです。成人男性が働くのは当たり前だが、成人女性については就業自体が政策上の論点になるような時代背景が、この言葉の裏側に感じられます。
 実際、同法はその基本理念において、次のように述べていました。
 
第二条 勤労婦人は、次代をになう者の生育について重大な役割を有するとともに、経済及び社会の発展に寄与する者であることにかんがみ、勤労婦人が職業生活と家庭生活との調和を図り、及び母性を尊重されつつしかも性別により差別されることなくその能力を有効に発揮して充実した職業生活を営むことができるように配慮されるものとする。
第三条 勤労婦人は、勤労に従事する者としての自覚をもち、みずからすすんで、その能力を開発し、これを職業生活において発揮するように努めなければならない。
 
 男性労働者は育児に重大な役割を果たさず、仕事と家庭の両立を図らなくてもよく、勤労者としての自覚を云々されることもない、という、まことにこの時代の差別意識の漂う法規定ではありました。
 この勤労婦人福祉法がもとになって1985年に男女雇用機会均等法(いわゆる努力義務法)ができます。しかし、このときの法律の正式名称は「雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等女子労働者の福祉の増進に関する法律」でした。基本的理念も「勤労婦人」が「女子労働者」になっただけで、依然として育児や家庭責任は女子労働者向けで、労働に従事する責任を求められるのも女子労働者だけであったのです。この時期は(婦人局という行政機関名を別にすれば)法律上の用語が「女子」という言葉でかなり統一された時期ですが、そこには主として努力義務として男子との均等待遇を求める規定と、育児休業や再雇用措置など「勤労婦人」を受け継いだ女子向けの福祉規定、そして労働基準法に残った女子保護規定という三種類が混じり合った状態でした。
 こうした「男子」や「家庭婦人」や「年少者」の対義語が一体となった「女子」の労働法が純粋に「男性」に対する「女性」の均等待遇を求める法律になったのは、1997年改正でした。「女子」が「女性」となり、題名からも「福祉」の尻尾がとれ、基本的理念も単純明快になりました。
 
第二条 この法律においては、女性労働者が性別により差別されることなく、かつ、母性を尊重されつつ充実した職業生活を営むことができるようにすることをその基本的理念とする。
 
 これが2006年改正では、もはや「女性」のための法律ですらなくなり、文字通り男女労働者に対する均等待遇を求める法律になっています。
 
第二条  この法律においては、労働者が性別により差別されることなく、また、女性労働者にあつては母性を尊重されつつ、充実した職業生活を営むことができるようにすることをその基本的理念とする。
 
 ちなみに最近、成人女性が自分たちを「女子」と呼ぶことが流行しているようですが、労働法制における言葉の推移を知っている者からすると、なかなかに興味深い現象です。

2014年11月26日 (水)

なぜ日本では女性が活躍できないのか?

WEB労政時報のHRWatcherに「なぜ日本では女性が活躍できないのか?」を寄稿しました。

http://www.rosei.jp/readers-taiken/hr/article.php?entry_no=317

 突然の解散総選挙で、肝いりで提出された女性活躍推進法も成立せず仕舞いになるようです。そこで改めて、何で今ごろ女性の活躍を法律で推進しなければならない状態なのかを考えておきたいと思います。
 確かに、2013年12月に世界経済フォーラムが発表した「ジェンダーギャップ指数2013」では、136カ国中105位でした。この10年間ですら、2006年に115カ国中79位だったのが、どんどん順位を下げていき、2010年には134カ国中94位、2013年には136カ国中105位にまで落ちているのです。ここには何か、法律の条文には現れていない、女性の活躍を阻害する要因が日本の社会に働いているに違いありません。それを一言でいえば日本型雇用システムの特殊性にあります。

 欧米の「ジョブ型社会」では、企業とはまず「職」の束であり、その「職」に相応しい技能を有する人を欠員補充で採用する「就職」が行われます。・・・・・・

最近、女性関係の文章が多くなったな、と。そのうちまとまった形になるかも知れません。

2014年11月25日 (火)

松尾匡『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』

9784569821375 松尾匡さんより近著『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』(PHP新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-82137-5

シノドスで連載されていた論考をまとめたものですが、まとめて一気に読むと、あらためて松尾節の響きが五臓六腑に染み渡る感がありますね。

本書のコアは、まえがきの最後にわざわざ太字で書かれている「リスク・決定・責任の一致が必要」ということであり、そうなっていないが故に失敗した例として繰り出されるのは、かつてのソ連型社会主義体制・・・だけでなく、原子力発電所も、日本型株式会社の無責任体制、金融自由化で好き放題やった連中、そして橋下徹路線等々。

版元の解説に

世界の経済史を紐解き、リスクを負わない政府・国家がいかに破綻への道を歩んだのかを検証。あるべき経済政策を提言する論考。

とか、

公共事業や福祉のバラマキは巨額の財政赤字を生み出したと言われ、それに代わる新自由主義政策もグローバル資本主義の犠牲者を増やし続けている。

とあることについて、著者の松尾さん自身が御自分のサイトで誤解を招きそうだなと懸念しています。

この本人による解説が簡にして要を得ているので、参考になります。

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay__141124.html

(追記)

山下ゆさんが本書に関してこうつぶやいていますが、

https://twitter.com/yamashitayu/status/536181564653072384

あと、松尾匡『ケインズの逆襲、ハイエクの慧眼』の中に、小野善康、大瀧雅之、齊藤誠を日本三大ケイジアンがいずれも「インフレ目標政策に否定的」と書かれている部分があるんだけど、そのあたりについての、この3人の誰かと松尾氏の対談が読みたいですね。

小野さんや大瀧さんの本は読んでとてもスリリングだったので、このリクエストは私からも!

(参考)

本ブログにおける松尾匡さん関連エントリ

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_2040.html(松尾匡さんの「市民派リベラルのどこが越えられるべきか 」)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_9944.html (松尾匡さんの右翼左翼論)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/06/post_bd6d.html(松尾匡「はだかの王様の経済学」)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-be58.html(松尾匡『不況は人災です』)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-7471.html(松尾匡さんの人格と田中秀臣氏の人格)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-62b1.html(松尾匡『図解雑学マルクス経済学』)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-4298.html(「ショートカット」としての「人類史に対する責任」@松尾匡)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-b671.html (松尾匡センセーの引っかけ問題に引っかかる人々)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-efe7.html (松尾匡『新しい左翼入門』)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-5d20.html(松尾匡さんの絶妙社会主義論)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-26a5.html(松尾匡さんが、TPPの俗論を斬る!)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-bfae.html (つか、それこそが金融左翼なんだが・・・)

山崎憲『「働くこと」を問い直す』

S1516 JILPTの山崎憲さんから手渡しで『「働くこと」を問い直す』(岩波新書)をいただきました。ありがとうございます。

http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn1411/sin_k800.html

タイトルはなんだか哲学思想系な感じですが、いやいやそういう本にはなっていません。出版社の意図がどこにあったのかはわかりませんが、もしそういう労働の哲学的考察みたいな本だったら、つまんない本になっていたでしょう。でも、本書は、そんなんじゃなくって、日本の職場の働き方、働かせ方を問い直そうとする本であり、何より昨今珍しい労使関係のありようそのものを正面から取り組んでいる本です。

実は、同じ岩波新書から5年前に『新しい労働社会』を出したとき、労使関係を取り上げた第4章の必要性について編集者から疑問を呈されたことでもわかるように、今日労働問題が結構注目され、労働問題を取り上げた本が続々と出されるといえども、労使関係ってのは依然としてあんまり人気がない領域だと、少なくとも出版業界の人々には思われているのですね。その中で、本の中身は労使関係真っ向勝負という本をよくぞ出したな、というのが、ちょっとひねた私の第一の感想。

叙述はやや散漫な感じもありますが、本筋はアメリカはアメリカなりのやり方で労使関係を構築し、日本は日本なりのやり方で労使関係を構築してきた、ところが日本のやり方が賞賛された80年代に、その日本のやり方をアメリカに移植しようとしたそのことが、アメリカ型労使関係を破壊し、つまりアメリカの労使関係を破壊し、それが再び日本に影響を与え、日本の労使関係も破壊しつつある、というストーリーですね。

戦前にさかのぼるそれぞれの労使関係システムの展開の歴史のあれやこれやのエピソードも、ある年齢層以上にとっては常識的なところもありますが、今の若い人々にとっては貴重なメッセージになるでしょう。

一点だけ、小姑的なチェック入れを。31ページの「電機産業を中心とする労働組合」は電産型賃金体系の話ですから、多分「電気産業」のミスタイプだと思いますが、この電気産業ってのは松永安左衛門が9分割する前の日本発送電ですから、むしろ誤解のないように「電力産業」と書いた方が良いと思います。

はじめに 

第一話 「働くこと」の意味 

1 なぜ働くのか ―社会の中心にあった「労働」

2 生きていくために必要なもの

第二話 日本的労使関係システムの成立 

1 力のせめぎ合いが社会をつくる ―労使関係

2 「成功」とその代償 ―日本の経済成長

第三話 転機 ―日本企業の海外進出 

1 世界にキャッチアップした1980年代

2 日本に追いつけ

第四話 日本の「働かせ方」が壊したもの 

1 国境を越えた労使関係システムのパラドックス

2 浮かび上がる矛盾

第五話 「働くこと」のゆくえ ―生活を支えるしくみづくりへ 

1 交渉力を取りもどす

2 労働と生活をつなぐ ―コミュニティ・オーガナイジングに学ぶ

3 日本でなにができるか

あとがき

2014年11月24日 (月)

AKB握手会は年少者にふさわしい業務か?

こういうネタはPOSSEの坂倉さんに任せた方が良いのかもしれませんが、世の中にはこういう行為に出て、こういう訴訟を起こす人もいる、ということを考えると、そもそもこの握手会なるイベント自体、年少者にとって有害業務になり得るものなのではないかという疑問も湧いてきます。

この裁判の原告本人のブログに、当該裁判の判決文が全文掲載されているので、裁判所の判断部分を(固有名詞を除き)そのまま載せておきますが、以前のいきなり刃物を振り回すという物理的攻撃リスクもさることながら、こういう性的言動にさらされるリスクも、年少者保護という観点から改めて考える必要がありそうです。

この裁判がこういう行為をした側が自らのサービス購入者としての権利を主張する形で、言い換えればAKB48側が当該サービスを提供すべき債務を負っていると主張する形で提起されているということ自体が、この握手会そのものが年少者労働基準規則第8条に言うところの「特殊の遊興的接客業における業務」に類するものであることを問わず語りに示しているようにも思われないではありません。

http://onicchan.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-b2fa.html

第3 当裁判所の判断

1 請求1について

(1)被告キングレコードは,AKB48のCDを販売するに当たり,これに握手券を付属させ,握手会を開催していること,握手券付きCDを購入する場合,購入希望者は,握手をするメンバーを一人選択し,握手会の日時等を指定することが必要であり,その選択ができた場合にのみ購入することができること,握手券には,上記握手会の指定日時等及びメンバーの氏名が表示されており,上記握手券の所持者が指定された握手会において上記メンバーと握手をするためには,上記握手券を提示する必要があること,被告キングレコードは, 自社のウェブサイト上で,握手会においてメンバーと握手することが不可能となる事態が発生しても責任を負わない旨を表示しているところ,指定された握手会における握手ができない事態となった場合は,振替握手会を開催したり,握手券付きCDの購入代金を返金したりすることによって対応していることは,当事者間に争いがない。

そして,上記CDを購入する者にとっては,握手券の入手に大きな関心を有しており,被告キングレコードも,これを認識して販売をしていることは明らかであること,他方において,握手という行為は,握手を行う者の自由意思に基づいて行われるものであって,握手会に参加するメンバーが個人の個々な事情によってこれを行うことができないこともあることから,被告キングレコードがメンバーに握手会における握手を強制することはできないことや,被告キングレコードが,握手会の主催者として,握手会の参加者に対し,一般に,握手会を安全かつ円滑に運営し,事故等を防止すべき義務を負っていると考えられることなどの事情に前記事実関係を併せ考慮すると,被告キングレコードは,握手券付きCDの売買契約に付随する合意として,同CDの購入者(ないしは握手券の所持者)に対し,指定された握手会において握手券の提示があった場合には,握手を拒絶する正当な理由がない限り,当該握手券に表示されたメンバーと上記購入者(ないし所持者)が握手をする機会を確保する義務を負うと解するのが相当である。

(2)他方,前記前提事実のとおり,被告AKSは,AKB48のマネジメントを行う会社であることから,AKB48のメンバーがイベントヘ参加するに際しては,当該イベントの主催者に対し,AKB48のメンバーが参加することに関して,同イベントの運営に協力すべき義務を負っていると解されるものの,前記のとおり,握手会は,被告キングレコードが主催する,AKB48のメンバーと握手をすることができるイベントであり, しかも,握手券は,被告キングレコードが販売するCDに付属しているものであるから,被告AKSと握手券付きCDの購入者との間に,契約上の債権債務関係が生じる余地はない。したがって,被告AKSは,握手券付きCDの購入者に対し,契約上の債務不履行責任を負わないというほかはない(もっとも,握手券付きCDの販売に当たっては,被告AKSがAKB48のメンバーを握手会に参加させることが当然に予定されているというべきであるから,被告AKSが,握手を拒絶する正当な理由がないのにもかかわらず,あえてメンバーを握手会に参加させなかったり,握手を拒絶させたりした場合には,握手券の所持者に対して不法行為責任を負うこともあると解されるところ,原告は,被告AKSの不法行為責任として,同被告に対して慰謝料請求権を有するとも主張するので,以下においては,本法行為責任も併せて判断する。)。

(3)そこで,上記被告らにおいて,Iとの握手を拒絶する正当な理由があったか否かについて検討する。

ア 被告キングレコードは,握手会の主催者であることから,握手会仝体を管理し,握手会を安全かつ円滑に運営すべき立場にあり,来場者及びイベントに参加するAKB48のメンバーら等に対し,その安全を保護し, トラブル等を回避すべき義務を負っており,また,被告AKSは,AKB48をマネジメントする立場にあり,AKB48のメンバーらの安全を保護すべき義務を負っているものと解される。

イ 原告が,平成23年11月から平成25年11月22日までの間に,ほぼ毎日のように合計約640通のI宛のファンレターを出していたこと,Iに宛てたファンレターの中で「伊達娘とエッチしたいなあ」等の性的な表現(なお,「伊達娘」は,原告が用いていたIの呼称である。)を用いたり,Iの母親に対し,その育て方に対する疑間を投げかける表現をしたりしたことがあったこと,インターネット上において,Iに対し,マスターベーションをすると宣言したことがあったこと,本件握手の際,原告がIに対して結婚してほしい旨を告げたところ,Iが「ホントそういうのやめてください。迷惑なんで・・・。」と言ったこと,本件握手の後,Iが泣き出したことは当事者間に争いがないところ, これらの各事実によれば,原告は,義務教育を修了していない中学生であるIに対し,性的な表現を用い,また,結婚を申し込むなどした上,親の教育方針に疑間を呈するなどの言動を示しているのであって,これらの言動は,社会通念上,未だ精神が発達途上にある者に対する言動として適切さを欠いたものというべきである。

そして,上記のような対応を受けたIにおいて,ファンからアイドルとしての自分に対して向けられたアプローチであることを考慮したとしても,相応の不安や危険を感じるものであることが想定されるところであって,前記のような「ホントそういうのやめてください。迷惑なんで・・・。」というIの発言や,その後にIが泣き崩れたことも併せると,これを目撃した被告AKS及び被告キングレコードの担当者らが,Iが原告に対して迷惑な感情を有していると受け取り,Iを原告から引き離し,その後の原告との握手を拒否すべきであると考えることにも相応の理由があるというべきである。

ウ 以上によれば,被告キングレコードにおいて握手券に係る契約上の債務を履行しないこと,被告AKSにおいて原告がIと握手をすることを拒否することについて,いずれも正当な理由があるというべきである。

その他,原告が被告AKS及び被告キングレコードに握手券に係る義務違反があるなどと主張する点は,いずれも,上記正当な理由があるとの判断を左右するに足りるものではなく,採用することができない。

2 請求2について

原告は,本件において,被告AKS及び被告キングレコードに対し,同被告らが販売する「握手券付きCD」を選択購入することができる地位を有することの確認を求めるが,そもそも購入の対象となる「握手券付きCD」を具体的に特定していない上,被告AKS及び被告キングレコードに対し,上記のような地位を有することの根拠となる法的権利ないし利益を具体的に主張していないから,上記訴えは,請求の特定を欠き,不適法であるというべきである。

3 請求3について

原告は,被告AKS及び被告グーグルに対し,本件サービスを含む「Google+」と称するサービスの利用契約に基づき,原告が,同サービスにおいて,一般利用者が閲覧することができる内容と同一の内容を閲覧することができる地位を有することの確認を求めるが,本件サービスの利用契約の相手方が米国法人グーグルであることは原告も自認するところであって,被告AKS及び被告グーグルは,いずれも本件サービスの利用契約の主体とはいえず,その他この点に関する原告の主張は採用し得ないことが明らかである。

4 請求4について

(1)前記握手券に関し,被告AKS及び被告キングレコードにおいて,原告に対し,Iとの握手を拒否する正当な理由があり, したがって,かかる握手の拒否が不法行為に該当しないことは,前記1のとおりである。また,その他,上記2及び3のとおり,請求2及び請求3に関連する原告の主張に関し,被告らに不法行為に該当する事実は認められない。

(2)そこで,その他の原告の主張について検討する。

ア ファンレターの取得について

前記の事実関係等からすれば,被告AKSは,AKB48のマネジメントの一環として,AKB48のメンバーに対するファンレターに不適切な記載があるか,危険物が封入されていることがないか等を確認すべき立場にあることが明らかであり,また,被告AKSが, 自社のウェブサイト上で,「ファンレター・プレゼントに関してのご案内」を公開し,メンバーにファンレターを出す者に対し,「ファンレターは運営側で検閲した後,メンバーに渡す」旨告知していること(甲9)は当事者間に争いがないところ,これらの事実からすれば,被告AKSが,ファンレターの送付先である被告AKSの事務局に宛てて送付されたファンレターを開封し,内容を確認することは,ファンレターの送付者においても認識し,了解しているものというべきである。

そうすると,被告AKSが,AKB48のメンバーに対して送られたファンレターを受領し,その内容を確認していたこと自体に,原告との関係で,何らの違法性がないことは明らかである。

そして,証拠(甲9)によれば,被告AKSの公開する上記案内においては,「受取できない品物につきましては,お客様へ連絡確認ののち,返却もしくは処分致します」と記載されていることが認められるものの,一般に,ファンレターは,送付したファンに対してそのまま返却されることは想定されておらず,前記のとおり,本件においては,原告からほぼ毎日のように送付されるファンレターが相当な通数に達しており,その内容にはIに読ませることが不適切な内容も含まれていたという事情も存在したのであるから,原告において,ファンレターがIに渡っているものと信じて送付し続けていたものであったとしても,被告AKSが,原告に対して,Iにファンレターを渡しているか否かを告げることなく,また,原告に対する連絡確認をすることなく,上記ファンレターを処分した行為をもって直ちに原告に対する不法行為を構成することはないというべきである。

イ 本件各書き込みについて

原告は,被告AKSの「関係者」による書き込みであると主張するのみで,被告AKSが不法行為責任を負う法的根拠について明らかにしていない上,証拠(甲2)によれば,「Unknown Producers」 の名で,書き込みがされていることが認められるものの,上記書き込みの内容を見ても,そもそも,原告に関するものであるか明らかではないし,原告が主張する事実によっても,上記書き込みをした者が,被告AKSの従業員等以外には考えられないとまではいえない。

よって,本件各書き込みが被告AKSによる不法行為であるとする原告の主張は,採用することができない。

ウ 景品表示法4条1項及び独占禁止法19条違反について

原告は,被告キングレコードの握手券付きCDの販売行為が景品表示法4条1項及び独占禁止法19条に違反すると主張するが,そもそも,原告の主張する同被告の行為は,独占禁止法19条に該当するものといえないことは明らかであるし,また,被告キングレコードは,前記のとおり,握手券付きCDの販売に際し,握手会における握手をすることが不可能となる事態が発生しても責任を負わない旨を公表している上,正当な理由がある場合には握手を拒否することもできるのであって,上記CDの購入者に対し,必ずAKB48のメンバーと握手をすることができるという錯誤に陥らせているものとはいえないことも明らかである。したがって,原告の上記主張は,採用することができない。

エ 本件措置について

原告は,被告AKS及び被告グーグルから不当に本件措置を受けていると主張するが,同被告らは,前記のとおり,本件サービスの契約主体ではなく,本件サービスの契約主体として,何らかの責任を負うことはない。

また,原告の指摘する事実を考慮しても,被告AKS及び被告グーグルが,不法行為が成立する程度に本件サービスに関与していると推認することはできないから,同被告らに不法行為が成立するとする原告の主張は,いずれも採用することができない

なお,以上の説示に照らし,原告の主張する被告AKS及び被告グーグルの各行為が個人情報保護法の各規定,民法90条に該当するものということができないことも明らかである。

(3)以上によれば,被告らは,原告に対して不法行為責任を負わないというべきである。

5 よって,本件訴えのうち,請求2に係る訴えは不適法であるから却下し,請求1,請求3及び請求4はいずれも理由がないから棄却することとして,主文のとおり判決する。

(追記)

後日譚:

https://this.kiji.is/463525927471367265?c=39546741839462401

アイドルグループ「AKB48」元メンバーの女優岩田華怜さん(20)につきまとったとして、ストーカー規制法違反の罪に問われた無職大西秀宜被告(43)に、東京地裁は31日、懲役4月、保護観察付き執行猶予3年(求刑懲役4月)の判決を言い渡した。  中島真一郎裁判官は、警察による再三の警告を無視し、長年にわたってつきまといを繰り返したと指摘。「タレントとしてのファンサービスを好意の表れだと一方的に思い込んだ。再犯が強く懸念される」と述べた。身柄が長期間拘束されていることなどを考慮し、猶予判決とした。

労働問題研究会・経済分析研究会講演概要

去る9月27日に現代の理論社会フォーラムにお呼びいただき、労働問題研究会・経済分析研究会で行った講演の概要がアップされていましたので、こちらでもご紹介。

http://keizaiken.sakura.ne.jp/index.php?key=jof5ymekw-51#_51日本型雇用に未来はあるか!?

Dsc043082 9月27日に現代の労働問題研究会と共催で研究会を開催した。経済分析研究会としては14回目となる。講師は日本労働政策研究・研修機構主席統括研究員の濱口桂一郎氏で、演題は「日本型雇用に未来はあるか?!」。濱口氏はEUの雇用問題に詳しく、長年EUとの比較の中で日本の雇用のあり方を研究してきたが、今回の講演ではメンバーシップ型である日本型雇用は、社会の変化の中で大きく揺らいでいる。特に年功制は崩れていくだろうと語った。

 濱口氏の話は、日本で企業に採用されるということは、社員になることで、仕事の中味は入ってから決める。したがって、整理解雇する時も社内に他の仕事を探す努力をしたうえでやるのだが、そうなると解雇された人は社内にあてがう仕事が何もないくらいダメな人というレッテルが貼られるというジレンマがある。

 ヨーロッパは対照的で、企業と個人はジョブでつながっているので、解雇も仕事がなくなったからというのが、正当な理由となる。個人の能力と関係がないので労使協議に乗りやすい。

 日本型雇用は、戦時中にできたとみているが、固執したのは労働側だ。政府や経済界は、戦後ジョブ型への転換を打ち出したが、70年代後半以降は日本型に回帰した。90年代以降は、なし崩し的な議論が多くなったと濱口氏は見ている。特に産業競争力会議や規制改革会議などでは、賃金が相対的に高い中高年をパフォーマンスが悪いと言って解雇するための口実としてジョブ型を取り上げているだけと厳しく批判した。ただ、限定社員については、ジョブ型ということで労働者にとってもメリットの要素もあるので、もう少し考えた対応が求められると語った。

 質疑の中では、ブラック企業の問題や非正規雇用、女性労働、限定社員などが取り上げられた。濱口氏は、日本型とジョブ型はどちらが優位かという話ではない。問題は日本型が時代状況に合わなくなってきていることで、年功制は変わらざるを得ないという見方を示した。

 濱口氏の話は、これまである意味では絶対視してきた日本型雇用の問題を整理する上で意味が大きいと思う。ヨーロッパのジョブ型との対比や歴史的なとらえ返しも説得力があった。戦時中の国家と企業の関係の中でメンバーシップ型が作られたこと、その最大の担い手が企業内労働組合であったことなどである。たぶん適合的というか収まりが良かったのだろう。

 日本型雇用のカテゴリーは、男性正社員である。質疑の中でもあったが、女性は結婚退職が前提だ。また、日本型雇用が成立する前提として正社員と別の非正規雇用の労働者がいる。不況による人員整理や産業構造の転換による解雇は、まず非正規の雇い止めから始まる。70年代も80年代もこれでやってきたのだが、2000年代になると非正規雇用があまりに増えたことで、リーマン・ショックでは社会から「派遣切り」という形で批判を受けた。今や少数派となった正社員の雇用を維持する日本型雇用にきしみが生じていることは事実なのだろう。

 濱口氏は、あまり強調しなかったが、著書などを読むと、ジョブ型をうまく活用することが必要と言っている。限定社員はそのひとつなのだろう。労働組合が企業内の正社員だけで組織されていることが、ひとつの限界になっているのかもしれない。いずれにしても濱口氏の問題提起を受け止めて議論を活発化させる必要があると感じた。(事務局 蜂谷 隆)

2014年11月22日 (土)

第9回医療の質・安全学会学術集会

本日、幕張メッセの国際会議場で開かれた第9回医療の質・安全学会学術集会に出てきました。

http://www2.convention.co.jp/jsqsh9/program/pdf/program_day1.pdf

13:10~15:10 シンポジウム2 座長:井部 俊子(聖路加国際大学)

日本の医療者の超過勤務を考える

1 日本の労働法と超過勤務

○濱口 桂一郎(労働政策研究・研修機構)

2 医師が健康に働ける職場を

○保坂 隆(聖路加国際病院精神腫瘍科)

3 薬剤師がSMILEで働ける職場を!!

○古川 裕之(山口大学大学院医学系研究科)

4 看護職の超過勤務を考える -看護師たちの「気遣い」と残業-

○奥 裕美、井部 俊子(聖路加国際大学)

5 疲労と医療安全―WHO患者安全カリキュラムガイド多職種版2011に学ぶ

○相馬 孝博(公益財団法人 日本心臓血圧研究振興会附属榊原記念病院)

このうち、奥さんが発表された中で、ドイツ、フランス、イギリスなど欧州の看護師たちの働き方が語られ、時間外労働が原則なく、緊急に超過勤務しても後日時間で補償するという姿は、日本と非常に異なるものでした。

2014年11月20日 (木)

坂野潤治『〈階級〉の日本近代史』

9784062585897_obi_l 本日は、大阪で労働政策フォーラムが開かれ、労使それぞれの弁護士の皆さんと一緒に、わたくしもパネリストとして、改正労働契約法について議論してきました。

帰りの電車の中で読んでいたのが、坂野潤治『〈階級〉の日本近代史』です。

近代日本史が専門の坂野さんは、とりわけ近年、現代政治の姿に大きな危機感を感じて、繰り返しメッセージ性の高い歴史書を送り続けていますが、本書もその一冊です。

本ブログでも結構繰り返し紹介してきていますので、わかっているよ、という方も多いでしょうが、やはり繰り返し語られるべきメッセージだと思います。

http://bookclub.kodansha.co.jp/product?code=258589&_ga=1.50056038.1129985248.1416490298

武士の革命としての明治維新。農村地主の運動としての自由民権運動。男子普通選挙制を生んだ大正の都市中間層……。しかし、社会的格差の是正は、自由主義体制下ではなく、日中戦争後の総力戦体制下で進んだというジレンマをどうとらえればよいのか。

「階級」という観点から、明治維新から日中戦争勃発前夜までの七〇年の歴史を、日本近代史の碩学が描き出す。

折しも安倍首相が明日解散総選挙を宣言するという今、昨日の政労使会議で、またしても経営側に賃金引き上げを求めたというニュースが流れる今だからこそ、次の一節が身にしみる思いがする人が少なくないのではないでしょうか。

・・・一般の労働者が望むのは、雇用の安定と賃金の引き上げである。彼らにとって労働組合は、この二つを実現するための手段に過ぎない。しかし、当時の労働運動の指導者にとっては、一般の労働者の二つの期待を果たすためには、まず政府に労働組合法を制定させることが必要であった。

一見したところでは何の矛盾もない労働者と労働運動者の立場は、ある状況では正反対の立場に転ずる。労働組合法の制定に肯定的な内閣が、その健全財政主義から不況を悪化させ、失業者を増大させる場合がそれである。

同じことを反対側から見れば、労働組合法の制定に否定的な内閣が、積極財政によって不景気を克服して失業者を減少させる場合がそれである。

前者の場合には、組合指導者は内閣に好意的でも、一般の労働者はそれに批判的になり、後者の場合には組合指導者は内閣に批判的でも労働者全体はそれに好意的になる。・・・

この言葉が身に沁みない人は、労働者の権利に関心がないか、労働者の生活に関心がないか、その両方の人でしょう。

・・・筆者が机上で考えれば、労働組合に好意的なリベラルな政党が『積極財政』を採用すれば、普通選挙制という政治改革が、都市中間層と労働者の増大という社会変動を吸収できたと思われる。しかし、当時はもとより、2014年の今日でも、リベラル政党はいつも『小さな政府』を目指す。戦前の憲政会=民政党然り、戦後の日本社会党=民主党また然りである。反対に保守政党は、戦前の政友会から戦後の自民党に至るまで、これまた一貫して『積極財政』の名の下に『大きな政府』を目指してきた。

この100年近く変わらないアイロニー・・・。

総同盟が「政友会は常に社会政策を無視することにおいて特色がある」と敵視していた政友会が、1932年の選挙で掲げたスローガンがこれです。

景気が好きか、不景気が好きか。

働きたいか、失業したいか。

生活の安定を望むか、不安定を望むか。

産業の振興か、産業の破滅か。

減税をとるか、増税をとるか。

自主的外交か、屈従外交か。

嗚呼、80年前のアベノミクス!

・・・「平和と自由」だけを尊重し、「格差」に目を向けない場合の最悪の結果は1937~1945年の『8年戦争』である。・・・45年には見渡すばかりの焼け野原と敗戦が待っていた。

しかし、もちろん、坂野さんはそれが必然だったと言いたいのではありません。1937年に生まれ、戦争末期防空頭巾をかぶって空襲から避難した経験を語る坂野さんは、焼け野原にならないで平等を実現する歴史のイフがあったはずだと語るのです。

2014年11月19日 (水)

中野雅至『ニッポンの規制と雇用』

9784334038298中野雅至さんから『ニッポンの規制と雇用』(光文社新書)をお送りいただきました。

http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334038298

我が国の場合、企業に対する規制には大らかだ。食品の安全衛生のように厳しいものも存在するが、社会的規制の多くは罰則が軽く、企業が規制や罰則の厳しさから悲鳴を上げているという話はほとんど聞かない。
どうして、政府は企業にこんなに弱いんだろうか?
昨今、ブラック企業が話題になっているが、「ブラック企業を規制しろ」といった国民的デモが起こるわけでもない。
私は平成2年に旧労働省に入省して14年間勤めたが、この14年間の体験はそのまま、私の政府に対する企業観を形作っている。その特徴を一言で言うと、「政府は何かと企業には気を遣う」ということだ。

率直に言って、雇用に関する記述は、ごく典型的なものですが、それと規制に対する日本人の態度の複雑微妙な関係を摘出したあたりが、なかなか出色です。私と違い、旧厚生系の仕事、生活衛生関係を担当した経験が、効いているのでしょうか。・・・

序   章――「内部労働市場システム」こそ日本の構造
第一章 内部労働市場システム
第二章 日本人の規制に対する奇妙な感覚
第三章 日本の規制はなぜ緩いのか?
第四章 内部労働市場システムは、どのように変化したのか?
第五章 経済的規制と自助努力
第六章 変わらない社会的規制
第七章 景気対策としての規制緩和
第八章 私達は武器で自分を守れるのか?
おわりに――ブラック企業から身を守るために

2014年11月17日 (月)

高コスト中高年社員は生き残れるか@『文藝春秋オピニオン2015年の論点100』

Bunshun『文藝春秋オピニオン2015年の論点100』が届きました。

http://www.bunshun.co.jp/mag/extra/ronten/index.htm

リンク先には一部の記事のタイトルしか乗っていませんが、「6 会社と働き方」に、わたくしの「高コスト中高年社員は生き残れるか」も載っています。

ちなみに、この章には他に、

36 超人手不足の元凶は働き手を大切にしない日本企業   今野晴貴

37 ホワイトカラー残業の規制改革で生産性はもっと上がる 八代尚宏

38 「ズレたおじさん」との付き合い方 古市憲寿

39 高コスト中高年社員は生き残れるか 濱口桂一郎

40 働かないオジサンに「道草休暇」を 楠木新

といった文章が並んでいます。


『会社で起きている事の7割は法律違反』

Asahi朝日新聞「働く人の法律相談」弁護士チーム『会社で起きている事の7割は法律違反』(朝日新書)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16458

上司から連日罵詈雑言を浴びせられ、いくら残業しても収入は増えない……毎日泣いているサラリーマンの職場の悩みに、弁護士が懇切丁寧、しかも簡潔に回答。「上司から連日の罵詈雑言。パワハラだと訴えたら『業務指導』と言い返された」「お酒の席で上司にからんでしまった……。罰せられる?」「セクハラの加害者に訴えられたらどうしたらいいの?」「たばこ臭を理由に異動要求できる?」「有期雇用から正社員になれないの?」「派遣契約、途中で切られたら?」「『追い出し部屋』に入れられた……」「『地域限定社員に』と言われたら?」「10時間労働なのに、残業代なし?」「喫茶店で企画を考えたら『さぼり』?」「ネットに仕事のグチ、許される?」などなど。会社の言いなりにならないための方策、ヒント満載。働く人間なら一度は頭によぎるモヤモヤを解決します。

ご存じ朝日新聞夕刊に連載されている「働く人の法律相談」をまとめた本です。佐々木亮さんをはじめとする労働側弁護士が一つ一つのトピックをあまり詳しくならない程度にさらりと解説している本なので、通勤電車の中で読んで知的武装するのにちょうど手頃でしょう。


2014年11月16日 (日)

「『雇用維持型』から『労働移動支援型』への転換」@損保労連『GENKI』10月号

112損保労連『GENKI』10月号に「『雇用維持型』から『労働移動支援型』への転換」を寄稿しました。

 第2次安倍政権が誕生して以来、雇用労働政策では矢継ぎ早にさまざまな政策が打ち出されています。本コラムではそのうち解雇や労働時間など労働条件規制に関する問題を主に取り上げてきましたが、もう一つの柱として「『雇用維持型』から『労働移動支援型』への転換」があります。これは雇用助成金や教育訓練給付といったソフトな政策手段を用いるものなので、労働規制に関わる問題ほど注目を集めていませんが、政策思想としてはむしろ現政権の考え方がかなりくっきりと表れている分野ということもできます。また、抵抗が少ない分、既にかなりの政策が実施に移されてきています。

 昨年(2013年)6月に取りまとめられた『日本再興戦略』では、「雇用制度改革・人財力の強化」の冒頭に「行き過ぎた雇用維持型から労働移動支援型への政策転換(失業なき労働移動の実現)」を置き、雇用調整助成金(2012年度実績額約1,134億円)から労働移動支援助成金(2012年度実績額約2.4億円)に大胆に資金をシフトさせ、2015年度までに予算規模を逆転させるとか、学び直しの支援のために雇用保険制度を見直すこと、さらにはハローワークの求人・求職情報を民間人材ビジネス等に提供することや民間人材ビジネスのさらなる活用が謳われていました。

 これらは既に2014年度予算の中に盛り込まれ、既にどんどん実施に移されています。たとえば、雇用調整助成金は545億円に半減する一方、労働移動支援助成金は301億円と一気に二桁上がっています。去る9月に示された2015年度予算要求では、雇用調整助成金はさらに258億円に縮小し、労働移動支援助成金は363億円に膨らんで、まさに約束通り「逆転」しています。そんな多額の予算を組んで、いきなりそれだけの数の転職者が出てくるのかいささか心配になりますが、おそらくそれを側面から促進する役割を民間人材ビジネスに期待しているのでしょう。そのために2014年4月には職業安定局に民間人材サービス推進室が設置されています。

 ハローワークの求人情報については既に2014年9月から民間人材ビジネスへの提供が始まっています。無料で紹介を受けるつもりでいた求人企業が、有料職業紹介事業者から連絡を受けて手数料を要求されたという事態も考えられますが、まだ問題は少ないということでしょう。これに対し、求職者情報はまさにプライベートな個人情報そのものなので、厚生労働省も慎重に今年の5月から6月にかけて「ハローワークの求職情報の提供に関する検討会」(座長:鎌田耕一)を開催し、その取りまとめに基づいて、現在労働政策審議会職業安定分科会で審議が行われています。工程表によると2015年度から実施する予定のようです。

 学び直し支援は教育訓練給付の拡充という形で行われ、2014年10月から「専門実践教育訓練」という名前で実施されています。この給付は、「受講者が支払った教育訓練経費のうち、40%を支給(年間上限32万円)。更に、受講修了日から一年以内に資格取得等し、被保険者として雇用された又は雇用されている等の場合には20%を追加支給(合計60%、年間上限48万円)。給付期間は原則2年(資格の取得につながる場合は最大3年)」と、大変手厚いので、対象となる講座がどのようなものであるかは極めて重大です。指定基準では「業務独占資格・名称独占資格の取得を訓練目標とする養成施設の課程」、「専門学校の職業実践専門課程」、「専門職大学院」の3つが挙げられています。

 最初のものは「○○師」「○○士」といった職業資格の取得を目指すコースなのでよくわかりますが、2番目と3番目は専門学校と大学院の授業料を雇用保険財政でまかなってあげるような制度になっています。これらが入っているのは、ここ数年来の政府の政策として、高等教育レベルでの職業教育機関を確立していこうという方向が打ち出されているからです。

 この点で最近興味深い政策の動きがありました。官邸に設置された教育再生実行会議が、2014年7月に「今後の学制等の在り方について」という第5次提言を出し、その中で、「実践的な職業教育を行う高等教育機関を制度化する」とされているのです。曰く:「社会・経済の変化に伴う人材需要に即応した質の高い職業人を育成するとともに、専門高校卒業者の進学機会や社会人の学び直しの機会の拡大に資するため、国は、実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関を制度化する。これにより、学校教育において多様なキャリア形成を図ることができるようにし、高等教育における職業教育の体系を確立する。具体化に当たっては、社会人の学び直しの需要や産業界の人材需要、所要の財源の確保等を勘案して検討する。」今後、この「職業大学」が現実化していくと、そこでの「学び直し」についても手厚い教育訓練給付の対象として盛り込まれていくことになる可能性があります。

この最後のトピックは、最近L型大学という歪んだ形で議論が燃え上がった高等教育レベルの職業教育機関としての職業大学の問題と密接に繋がっています。

職業教育機関に学ぶ学生に対しては、卒業後当該職業に就職することを条件としてその教育費を公費援助することを正当化することができます。

それに対して、もし大学が純粋にアカデミックな学問のための機関であるならば、そこで学ぶ学生への財政援助は彼らが卒業後アカデミックなポストに就けば返す必要がないけれども、そうでないなら単なる趣味のための消費財だったことになるので、貸した金に利子つけて返してもらおうと言うことになるのも、財政の論理からすればそれなりに筋が通っているということになるでしょう。

2014年11月15日 (土)

過ちをすぐに反省できる飯田泰之氏の立派さ

いろいろと話題を呼んでいますが、結論から言えば、自分の過ちをすぐに反省できる飯田泰之氏の人格的な立派さを評価すべき事案だと思います。

http://matome.naver.jp/odai/2141592978842275501

https://twitter.com/iida_yasuyuki/status/533414111275532289

これは完全に俺の不注意です.エンタメ的な話題だったため,迂闊な軽口になってしまいました.陳謝いたします.そしてさらっとたしなめてくれた一茂さんに心から感謝したい

https://twitter.com/iida_yasuyuki/status/533418427625385984

痛感しております.twitterでも何度かやらかしてますが,どうも軽め・エンタメ的な話を慣れ親しんだ相手と話すとつい軽口から問題発言になってしまう.これをキャラや芸にするのは俺は出来ない質ですしほんともっと慎重になりたい。。。

必ずしも「軽め・エンタメ的な話」ではなくても、自分がよくわかっていない分野について語るときにはトンデモが飛び出しがちなようです。

ただ、本ブログで取り上げたこのスウェーデンの解雇規制のトピックについても、ご本人がすぐに間違いを訂正したことからわかるように、すぐに反省できるフットワークの軽さは変わりはありません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-f890.html (一犬虚ニ吠ユレバ万犬實ニ傳ウ)

それはそれとして、飯田泰之氏のインタビューを見ていて仰天しました。池田信夫氏の既に暴露されたでたらめを、そのまま信じ込んで、得々と語っていたからです。

>-飯田さんのご提案では、経済成長とBI導入の代わりに、雇用に関する規制は基本的に撤廃ということですよね。ちなみに、これはどの国がモデルとされているのでしょうか。

モデルではなくて理論ですよ。強いていえば、一番極端な例はスウェーデンでしょう。スウェーデンは解雇に関して公的な規制が極めて少ない。税金は途方もなく高いですが、その代わり保証は充実。その一方で規制はゆるゆるです。完全な「employment at will」。会社が雇いたい人だけ雇いというシステムです。・・・・・・

-スウェーデンも雇用保護法で解雇の規制はあると思いますし、・・・

僕は全然そうは思いません。法的な規制の強化に合理的な根拠を見いだせないですから。・・・

もちろん、スウェーデン人がこれを見たら激怒するでしょうが、なによりも、この飯田泰之氏という(リフレ派の星というふれこみの)経済学者が、社会科学という経験科学に携わっているという自覚がかけらもなく、自分が語っていることが事実であるかどうかを確認してみるという、経験科学者であれば最低限のモラルも忘れて、こともあろうにでたらめを振りまくことで有名な池田信夫氏の妄言を、一字一句そのまま盲信し、こういうでたらめを再生産しているという点に、日本の社会科学者の劣化ぶりが見てとれて、ただただ嘆息が漏れるばかりです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-6bab.html (池田信夫氏の熱烈ファンによる3法則の実証 スウェーデンの解雇法制編)

>池田信夫

>

「いいやアメリカのシステムじゃないんですよ。それは。例えばね、これは僕の言っているのに一番似ているのはスウェーデンなんですよ。スウェーデンてのは基本的に解雇自由なんです。ね、いつでも首切れるんです、正社員が。その代わりスウェーデンはやめた労働者に対しては再訓練のそのー、システムは非常に行き届いている訳ですよ。だからスウェーデンの労働者は全然、そのー失業を恐れない訳ですよ。」

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-26ec.html (これがスウェーデンの解雇規制法です)

>純然たる事実問題について、その主張の誤りを指摘されても、事実問題には一切口をつぐんだまま、誹謗と中傷を投げ散らかして唯我独尊に酔いしれるという御仁に何を言っても詮無いことですが、事実問題に何らかの関心をお持ちであろう読者の皆様のために、スウェーデンの解雇規制法のスウェーデン政府による英訳を引用しておきます。

http://www.regeringen.se/content/1/c6/07/65/36/9b9ee182.pdf (Employment Protection Act (1982:80))

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-ffc2.html (スウェーデンの労働法制は全部ここで読めます)

>さて、某一知半解無知蒙昧氏の「北欧は解雇自由」とかいう馬鹿げた虚言はともかく、解雇規制に限らず北欧の労働法制はどうなっているのか興味を持たれた方もいるかもしれません。

このうち、スウェーデンの労働法制については、スウェーデン政府のサイトに英訳がすべて掲載されています。

まあ、しかし、こうやって何回もそのつどでたらめを叩き潰しても、そもそも社会科学を事実に立脚した経験科学だと心得ず、口先三寸でイデオロギーを振り回す奇術のたぐいと心得る劣悪な連中には、蛙の面に百万回ションベンひっかけたほどにも感じないのでしょう。

今回の飯田泰之氏のインタビューを読んで、「一犬虚ニ吠ユレバ万犬實ニ傳ウ」という故事成語を思い出した人は、おそらくわたくし一人ではないでしょうね。

(追記)

飯田泰之さんが、事実関係について「完全に誤解してました」と言われています。

http://d.hatena.ne.jp/Yasuyuki-Iida/20100916#p1

>これについてはお恥ずかしい限りで,僕の完全な無知のせい.スウェーデンは金銭解雇ルール(ちなみに僕はいろんなとこで解雇ルールの金銭化は主張しています)があること&整理解雇の定義が広いことから「Employment at will」と口が滑りました.完全に言いすぎです.該当部分は読み飛ばして下さい.今後は間違っても「解雇自由」というニュアンスが強調される話はしないようにします.

飯田さんの率直な姿勢に心から敬意を表したいと思います。また、間違いを指摘されても相手の属性批判を繰り返す池田信夫氏になぞらえるような失礼な言い方をしたことについて、心からお詫び申し上げます。

また、後半の引用の仕方が誤解を招くようなものであったことも、引用のルールを踏み外しており、謝罪いたします。

本来ならば本エントリを書き換えるべきところですが、既に多くの方々が読みに来られ、ブックマークも付いていますので、上記文章はそのままとし、「追記」としてここに明記しておきます。

なお、飯田さんの

>ただし,解雇のルールが明確化で,決裂時の金銭解雇ルールが示されていることは人を雇う際の不確実性を減じてくれるのは確かでしょう.

>法律の字面ではなく「実際に解雇できるか」という面でスウェーデンのフルタイム労働者の解雇規制は日本の正社員への解雇規制よりもかなりゆるいとみなせるのではないでしょうか.

といわれる点については、わたくしもまさにそう考えており、その趣旨は本ブログ上でも書いております。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-26ec.html (コメント欄)

>解雇自由ということと、解雇されてもあんまり辛くない社会であるということは別だということでしょう。

スウェーデンは上述のようにいかなる意味でも解雇自由ではありませんが、「不当解雇だ!」といって争う機会費用と、さっさと会社を辞めて手厚い失業保険をもらいながら、たっぷりと時間をかけて職業訓練を受けて好条件で再就職していくことを比較考量して、後者を選ぶ人が多いということでしょう。それはそれで社会の選択肢が多いということで結構なことです。

それを、不当であろうが不道徳であろうが解雇は自由という概念である「解雇自由」と呼ぶことに問題があるのだと思います。

もう一つ、これはあまり指摘されない点ですが、スウェーデンにせよ、デンマークにせよ、これは私のいたベルギーも同じですが、いわゆるゲント方式の失業保険で、失業保険は労働組合が運営し、労働組合を通じて支給されるという仕組みです。失業しても労働組合のメンバーシップはそのままで、社会から排除されたという風にならないというのは、実は結構大きいのではないかと思います。労働組合員というメンバーシップは継続していて、たまたま就労している会社から「もう要らない」といわれたら、さっさと別の会社に「配転」するだけという感じなのかなあ、と。

これこそ、まさに一知半解氏が目の敵にしていた「ギルドとしての労働組合」そのものですが、そういうギルド的な仕組みこそが、解雇が辛くない社会のインフラになっているのではないかと思います。日本の労働組合は、いかなる意味でもそういうギルド的な性格を有していないがゆえに、日本社会における「解雇」というのはとても辛いものになってしまうという面があるのでしょう。

2014年11月14日 (金)

『若者と労働』Kindle版発売

Chuko昨年8月の『若者と労働』(中公新書ラクレ)がKindle版でも発売されました。

http://www.amazon.co.jp/ebook/dp/B00PCJS0GA/ref=tmm_kin_swatch_0?_encoding=UTF8&sr=1-1&qid=1374211355

紙バージョンだと950円のものが電子版だと750円です。

(追記)

読書メーターに新たな書評も載っています。「Tsukasa Mizuno」さんです。

http://bookmeter.com/cmt/42705315

面白いです。日本では、「なぜ毎年4月に新卒を定期採用するのか?」「なぜ定期的に異動があるのか?」「なぜ能力は変わっていないのに定期昇給があるのか?」などに対して、日本独特の雇用制度の歴史と仕組みについて、わかりやすく書かれており、非常に頭が整理されました。そして、この制度が現環境とマッチせず、若者の効用問題に発展していることもよく理解できました。ただし、それに対する解決策も示されていますが、効果があるかは「?」と感じます。そもそも容易に解決できる問題ではないことの裏返しだと思います。

OECDの職業大学論

Oecdskill昨日(11月13日)、OECDが「Skills beyond School - The OECD Review of Postsecondary Vocational Education and Training」(『学校を超えた技能-中等教育後の職業教育訓練のOECDレビュー』)を発表しました。

http://www.oecd.org/edu/innovation-education/skillsbeyondschool.htm

最近、G型大学L型大学という粗雑な議論のために、おかしな偏見を持っている方が多いように見受けられる高等教育レベルの職業教育訓練という先進国共通の重要課題について、まっとうな議論というのはこういうのを素材にしてきちんとやるものであるといういい教材になるテキストですので、ここで紹介しておきます。

Higher level vocational education and training (VET) programmes are facing rapid change and intensifying challenges. What type of training is needed to meet the needs of changing economies? How should the programmes be funded? How should they be linked to academic and university programmes? How can employers and unions be engaged? This report synthesises the findings of the series of  country reports done on skills beyond school.

高等レベルの職業教育訓練課程は急速な変化と加速する課題に直面している。変化する経済の必要にどんなタイプの訓練が求められるのか?いかにその課程はまかなわれるべきか?アカデミックや大学課程といかにリンクされるべきか?使用者や組合はどう関わるべきか?・・・

目次は以下の通りですが、

  • Chapter 1. The hidden world of professional education and training
  • Chapter 2. Enhancing the profile of professional education and training
  • Chapter 3. Three key elements of high-quality post-secondary programmes
  • Chapter 4. Transparency in learning outcomes
  • Chapter 5. Clearer pathways for learners
  • Chapter 6. Key characteristics of effective vocational systems

OECDの職業教育訓練関係の報告書を紹介するときはいつもそうなんですが、こういう重要な政策課題のレビューに、我が大日本国は入っていないんですな、これが。

Full country policy reviews are being conducted in Austria, Denmark, Egypt, Germany, Israel, Kazakhstan, Korea, the Netherlands, South Africa, Switzerland, the United Kingdom (England), and the United States

日本国政府が、日本人が、いかにこの領域に関心が欠如しているかを世界中に知らしめているわけですが、それなるがゆえに、例のG型大学L型大学騒ぎのときのネット議論のレベルの低さでもあるわけなんでしょう。

上記リンク先から報告書が全文ダウンロードして読めますので、馬鹿騒ぎ以上の議論に触れたい方々は、是非どうぞ。

2014年11月13日 (木)

勤務間インターバル規制の意義と課題@『東京都社会保険労務士会会報』2014年11月号

『東京都社会保険労務士会会報』2014年11月号に「勤務間インターバル規制の意義と課題」を寄稿しました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/tokyosr1411.html

 いままで労働時間規制をめぐる問題といえばほとんど残業代(正確には時間外・休日手当)の問題であった。7年前第一次安倍内閣時に提起されたホワイトカラーエグゼンプションが残業代ゼロ法案と批判されて潰えたことはまだ記憶に生々しいし、今また第二次安倍内閣下で議論されている「時間ではなく成果で評価される制度」なるものも、現行法でも法定労働時間内であればいくらでも実施可能である以上、もっぱら法定時間外労働への報酬が時間外労働時間に比例することの問題であり、要するに残業代問題である。
しかし、今回の議論には今までなかった新たな政策提起が含まれている。それは残業代というお金の話とは切り離した、物理的労働時間の上限規制という問題であり、とりわけ休息時間規制の導入という問題である。後者は世上「勤務間インターバル規制」と呼ばれることが多い。本稿では、この制度の源流であるEUの労働時間指令の内容を説明するとともに、日本における文脈を考察し、一部業種で先進的に導入された事例を概観した上で、今後の動向を展望したい。・・・

人手不足の状態を保つことこそ人手不足対策

平家さんの「労働、社会問題」ブログが、「人手不足対策の空騒ぎ」というエントリを書かれています。

http://takamasa.at.webry.info/201411/article_2.html

人手不足の代表とされる外食産業と建設業について、極めて辛辣な表現で安易な人手不足対策論を叩きます。

外食産業の雇用はかなり急速に拡大しているので、絶対的な供給不足というわけではなさそうだ。この産業で不足しているのは、低賃金労働者だ。・・・・・これを人手不足と呼ぶべきだろうか?このような労働条件でも簡単に人が集まるというのは、深刻な仕事不足だったからだ。現状は、仕事不足が解消してきたととらえるのが正確ではないか?景気が回復すれば、このような現象が起こるのが当たり前で、国民の負担で対策などを打つ必要はない。

だからこそ、今まで我が世の春を謳歌していた某外食大手が、大量閉店に追い込まれたりしているわけで、国民の幸福水準の向上という観点からは望ましいことでしょう。ついでに言えば、ようやく長きにわたった仕事不足状態を人手不足状態に変えたのが(政権そのものの政治姿勢には人によって色々議論があるにしても)アベノミクスであることだけは間違いないわけで、その反省なしにアホノミクスとかいってうれしがっているようでは、なかなか先行きは遠いと思いますね。

建設産業での人手不足は性格が違う。こちらはそれなりの賃金が支払われる熟練労働者が不足しているのだ。原因は簡単で、長期にわたる不況のせいで人材養成が行われて来なかったところに、突然需要が増えたということに尽きる。もう少し需要を安定させておけば、これほどの不足にはなっていなかっただろう。それぞれの職場で人材養成は始っている。仕事をすること自体が人材の養成なのだから。訓練校を作ったり、人手を節約するような技術の開発も進んでいる。仕事ができたて人手不足になったから人材養成が進むのだ。需要を安定させ、人手不足の状態を保つことこそ人手不足対策なのだ。打ち上げ花火のような緊急対策、即効性のある施策はとる必要がない。

こちらはある意味、過去10年以上にわたる公共事業縮小政策に労働力が(血を流しながら)適応してきたその帰結が今日ただいまの人手不足という面もありますね。

いずれにせよ、「人手不足の状態を保つことこそ人手不足対策」というのは至言です。

『そろそろ「社会運動」の話をしよう』

184971仁平典宏さんから田中優子+法政大学社会学部「社会を変えるための実践論」講座 編著『そろそろ「社会運動」の話をしよう』(明石書店)をお送りいただきました。いつもありがとうございます。

http://www.akashi.co.jp/book/b184971.html

「社会を変える」ことなんかより自分の生活や周りとの人間関係にしか興味がなかった――そんな私が、問題に当事者として直面したとき、いかにそれを社会や世界の問題として捉え、解決に向け行動できるようになるのか? そのノウハウを詰め込んだ法政大学人気の講義、待望の書籍化。

この本は、法政大学社会学部のキャリア支援科目として2011年度から行われている「社会を変えるための実践論」講座の中身を本にしたもので、冒頭の「ブラックバイトと労働運動」を仁平さんが書かれています。

仁平さんと言えば、『POSSE』のちょっっとあれな社会学入門が話題ですが、この講義では、自らの学生時代の「「社会を変える」とか言っている奴が苦手だった」頃を振り返り、それと対極的な現代の若者岩井君がバイト先の不払い残業に疑問を感じて、ユニオンに加入して運動する姿を描き、昔の自分に向けて「運動を楽しんでいいんだよ」と語りかけるというストーリーになってます。

第1章 ブラックバイトと労働運動――「僕」と「彼」の交差点[仁平典宏]
 「社会を変える」とか言っている奴が苦手だった
 労働組合? なにそれおいしいの?
 非正規雇用と「新しい労働組合」
 「ブラックバイト」で働く大学生
 半径3メートルから〈社会〉へ
 「ランチ880円」の思い出
 楽しんでよい

その中で、労働組合とユニオン、ブラック企業とブラックバイト、などについてさりげに解説していって一コマ分。多分テーマが学生たちにとって「ひと事」じゃない「自分事」であるだけに、食いつきが良かったのでしょうね。

権利とか人権とかいう言葉を、まずは「自分事」として捉えるところからしか、物事は動き出さないという話は、このブログでもなんかいも繰り返した気がしますが。


連合総研『賃金のあり方に関する論点整理』

Rials連合総研のブックレット『賃金のあり方に関する論点整理』がアップされました。

http://rengo-soken.or.jp/report_db/file/1415756743_a.pdf

長期雇用慣行や年功型賃金などに支えられた「日本的」雇用システムについて、その見直しや再評価の動きが繰り返される一方で、「男性稼ぎ手モデル」も見直しを迫られており、片稼ぎであっても、共働きであっても、誰もが安心して働き続けられる社会をつくるということが求められています。また、主たる生計維持者でありながら非正規雇用労働者として働く者や、いわゆるワーキングプアが増えていることから、社会全体としての労働条件の底上げも新たな課題となっています。これらの課題を考えるうえで重要な視点は、正社員と非正規雇用労働者を別々に考えるのではなく、どのような雇用形態であっても適用されるトータルとしての働き方や処遇のあり方をどのように考えていくかということです。
連合総研では、以上の問題意識から、2013年10月より「雇用・賃金の中長期的なあり方に関する研究委員会」を立ち上げ、正社員と非正規雇用労働者を含めたトータルとしての働き方や処遇のあり方を模索することとしました。

というわけで、彼らは「めざすべき賃金」の在り方として、

誰もが、一定水準の仕事スキルに達することができ、社会的な生活を送ることができる賃金水準へ到達すること

を提示します。

とはいえ、この一見単純そうな言葉が、日本型雇用システムの中ではなかなかに難しい問題をいっぱい抱えます。

「一定水準の仕事スキル」ってなあに?

産業横断的に労働協約等でこの仕事のこのスキルレベルはいくらと決められる社会と違い、初任給に毎年の査定付き昇給で上がっていく賃金が指し示すものは一体何なのか?「知的熟練」?

「社会的な生活を送ることができる」ってなあに?

旧来のような女房子供を食わせられる賃金という家父長的観念を振り回すこともできなければ、自分一人だけを食わせられる賃金ではいうまでもなく社会の再生産は不可能。

ここでは「「親1人・子1人モデル」(共稼ぎなら子2人の養育が可能)を目安というなかなかに穏当な考えを提示していますが、話はそこでは終わらないはず。

なんにせよ、これは中間報告なので、今後どういう方向に議論が進んでいくのか、注目しつつ見守りたいと思います。

2014年11月12日 (水)

『文藝春秋オピニオン2015年の論点100』

51gfdw1gtl__aa160__2http://www.bunshun.co.jp/mag/extra/ronten/index.htm


Evidence-Based Debate on Dismissal Regulation

JILPTの英語版サイトに、私の「Evidence-Based Debate on Dismissal Regulation」がアップされました。

http://www.jil.go.jp/english/researcheye/bn/RE001.htm

中身は労働局あっせん事案の分析結果の解説ですが、日本の雇用終了について英文で簡単に説明する際に使えるかも知れません。

Between FY2009 and FY2011, the Department  of Industrial Relations of the Japan Institute for Labour Policy  and Training (JILPT) conducted “Analysis on  the Content of Cases Processed in Individual Labour Disputes” as a project  research. Specifically, cases of conciliation brought to Prefectural Labour  Bureaus on individual labour disputes related to dismissal, bullying, and  others were analyzed in detail and compiled in a report. One motivation for  starting this research was my intellectual curiosity, wanting to know the  content of unpublished conciliation cases. However, another important driving  factor was a following statement in the “Three-Year Program for Promoting  Regulatory Reform (2nd revision)” decided by the Cabinet in March 2009: “As it  is one of the regulatory mechanisms surrounding Japan’s labour market,  dismissal regulation will be analyzed as far as possible using methods that can  withstand scholarly scrutiny, referring to empirical research, economic theory  and others. The results will be fully disclosed to the public and reflected in  the approach to dismissal regulation.” In response to this, the Labour  Standards Bureau of the Ministry of Health, Labour and Welfare requested JILPT to  conduct empirical research on the role played by dismissal regulation in the  real world, “without bias towards economic theory but rooted in actual  realities.” As a result, we started this research.・・・・・・

・・・・・・・Although some of the contents of  individual cases are very interesting, they are not mentioned here due to lack  of space. Readers are invited to take a look at our reports mentioned above,  which should certainly convey the real picture of Japanese workplaces,  completely different from what is imagined from judicial precedents in the casebook.

2014年11月11日 (火)

そもそも多様な働き方を阻害しているのは「規制」なのか?@規制改革会議

昨日、規制改革会議(本会議)にお呼びいただき、「多様な働き方を実現する規制改革について」お話をしてきました。

http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kaigi/meeting/2013/committee3/141110/agenda.html

このトピックについては、21世紀職業財団の岩田喜美枝会長とわたくしがヒアリング対象です。

私の資料は、

http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kaigi/meeting/2013/committee3/141110/item1-2.pdf

にアップされています。

冒頭、規制改革会議という場で、「そもそも多様な働き方を阻害しているのは「規制」なのか?」と問いかけるところから話を始めております。

1 そもそも多様な働き方を阻害しているのは「規制」なのか?

・世の評論家は、雇用分野も他分野と同様、国家による法規制によってがんがらじめに縛られているかの如きイメージで語りたがる。しかし、それはまったく間違い。
・たとえば、日本の労働基準法は、本来、1日8時間、1週40時間を超えて働かせることを禁止する厳格な法規制。しかし、36協定によって法律上は無制限の残業・休日出勤が可能。世界的に見て異例なまでの規制緩和状態。(欧州は残業含めて1週48時間が原則、例外でも1日11時間の休息時間が必須)
・一方、労働基準法は1日8時間、1週40時間より少なく自由に働くことをまったく禁止していない。企業がその気になればいくらでもやれる。そうならないのは、企業がやれることをやらないだけ。規制(レギュレーション)ではなく、慣行(レギュラシオン)が問題。
・ワークライフバランスのために必要なのは、もっと長く働けることなのか?もっと短く働けることなのか?前者であれば規制改革が必要、後者であれば慣行改革こそが必要。
・そこを混同して、労働基準法の規制を緩和すればワークライフバランスがとれ、仕事と育児の両立が可能になるなどというから嘘になる。
(念のため:残業代という賃金規制は別の話)

2 無限定正社員モデルの中の女性の選択肢

・日本型雇用システム(=慣行、≠法規制)において、男性正社員はすべて仕事も時間も場所も無限定なメンバーシップ型がデフォルト。(ex「男のくせに一般職なんて許せない!」)
・このデフォルトモデルは、専業主婦かせいぜいパート主婦が家事育児を担うことを前提。
・このデフォルトモデル(総合職)を女性が遂行するためには、彼女にも「主婦」が必要。親?姑?メード?いずれにせよ、普遍的にはあり得ない。
・伝統的モデルで女性に割り当てられてきたのは、仕事、時間、場所が限定的なだけでなく、仕事内容自体も補助的な働き方(一般職モデル)。これが後に非正規化。
・ようやく、仕事内容は補助的ではなく基幹的、専門的である限定正社員(ジョブ型正社員)が論じられるようになった。しかしなお執拗な反対論。

3 デフォルトが無限定正社員だから、「多様な働き方」はすべて落ちこぼれ視される

・過去20年間、「働き方の多様化」論は繰り返し論じられてきたが、それらはすべて片面的多様化論。
・職務、時間、空間無限定の就労義務とそれを前提とする長期雇用保障・年功的処遇に特徴付けられるメンバーシップ型正社員モデルを当然のデフォルトモデルとし、そこから義務を削り、保障を削る方向にのみ「多様化」。
・それゆえ、その「多様化」はすべて「正しい、本来あるべき姿」からの下方への逸脱という目で見られがち。(ex「解雇しやすいジョブ型正社員反対!」)
・しかし、日本以外の社会では、職務、時間、空間限定の無期労働者がデフォルトモデルであって、「多様化」は両方の方向(これらがより無限定の方向にも、期間も限定の方向にも)でありうる。
・日本以外の社会では「異例」(上方への逸脱)である無限定モデルが日本ではデフォルトとなっているため、日本以外の社会での「通常」が「落ちこぼれ」視される。
・残念ながら、これまでの規制改革論も、無限定モデルをデフォルトとする点では反対論者と何ら変わらない。従って、「落ちこぼれ」論をもたらすのは当然。

4 多様な働き方を実現する「慣行」改革は未だその緒にすら就いていない

・無限定モデルは、(労働時間のように)法に規定されている規制を空洞化することによって、あるいは(配転のように)現実を容認する判例法理を積み重ねることで確立してきた。
・日本国の労働法規制(レギュレーション)は、無限定モデルをまったく強制していないどころか、本来の原則はむしろ逆のはず。
・しかし、日本労働社会の慣行(レギュラシオン)は、何もいわなければ無限定モデルをデフォルトで適用し、それがいやなら下方への逸脱を要求する。
・無限定モデルについてこれない多数の女性は、限定正社員から非正規労働者に至るさまざまな「片面的」多様化を余儀なくされる。
・再度、規制(レギュレーション)ではなく、慣行(レギュラシオン)が問題。
・慣行改革に必要なのは、既に空洞化している規制のさらなる緩和ではなく、その実質的強化。
・たとえば、労働者のデフォルトモデルは限定正社員とし、無限定な働き方を希望する者がそこから上方に逸脱するモデル。
・しかし、現在は規制改革論者も反対論者も皆揃ってこれには猛反対。「慣行」の根強さ。
・慣行(レギュラシオン)改革は未だその緒にすら就いていない。

色々とご質問も頂きましたが、議事録はそのうちアップされると思います。

ドイヨル&ゴフ『必要の理論』

183255L. ドイヨル・I. ゴフ著、馬嶋裕・山森亮監訳『必要の理論』(勁草書房)をお送りいただきました。ありがとうございます。日頃読んでいる文章よりも相当に抽象度が高く、頭の違う部分を使わないと読んでいくのが難しい本です。

http://www.keisoshobo.co.jp/book/b183255.html

政府が個人の幸福追求を支援するために講じる手段には様々なものがあるが、それらはどんな理由によって決まるのか。自立と依存を対立するものとしてとらえるのでなく、何が人の「必要」なのかという観点から、様々な政策を位置づけ直さなくてはならない。「必要」について包括的に理論化し、福祉研究分野で高い評価を受けた一書。

左の表紙の上にあるように、原題は「ア・セオリ・オブ・ヒューマン・ニード」。そう、福祉の世界でよく使われる「ニード(ズ)」ってものを、理論的にとことん掘り下げていった本です。
まず第Ⅰ部の第1章「誰が人間の必要を必要としているのか?」という皮肉なタイトルの章で、いろんな政治的立場からの「必要」論を概観し、

  第1章 誰が人間の必要を必要としているのか?
    1.1 正統派経済学:必要とは選好である
    1.2 新しい右翼:必要は危険である
    1.3 マルクス主義:必要は歴史的である
    1.4 文化帝国主義批判:必要は集団固有のものである
    1.5 根源的民主主義:必要は言説的である
    1.6 現象学的議論:必要は社会的に構築されたものである

次の第2章「人間の必要の不可避性」で、それらを批判していきます。

  第2章 人間の必要の不可避性
    2.1 正統派経済学:評価の循環性
    2.2 新しい右翼:結局のところ普遍性
    2.3 マルクス主義:決定論という冷笑的な眼差し
    2.4 文化帝国主義批判:抑圧の客観性
    2.5 根源的民主主義:集団の道徳のロマン化
    2.6 現象学的議論:社会的実在の反撃

この部分だけでも、読んでいくとわくわくします。本当の意味での「わくわく」感ですね。

本体の議論はこのように展開していきます。

第Ⅱ部 人間の必要の理論
  第4章 身体的健康と自律:諸個人の基本的必要
    4.1 人間の行為と相互行為の前提条件としての必要
    4.2 基本的必要としての生存/身体的健康
    4.3 基本的必要としての自律
    4.4 必要充足の比較における諸問題

  第5章 基本的必要充足の社会的前提条件
    5.1 個人の自律の社会的側面
    5.2 四つの社会的前提条件

  第6章 人間解放と必要充足への権利
    6.1 義務、権利、道徳的相互性
    6.2 特殊な責務と必要充足の最適化
    6.3 相対主義と人間解放への見通し
    6.4 補論:敵の必要充足への権利

  第7章 理論における必要充足最適化
    7.1 ハーバマスと合理的コミュニケーション
    7.2 ロールズ、正義そして最適な必要充足
    7.3 ロールズの修正
    7.4 ロールズ批判
    7.5 国際主義、エコロジー、未来世代

一言でいえば、福祉国家の哲学的基礎付けというべき本ですが、その射程はかなり長いものがあります。

労働法を哲学的に再構成しようなんて考える人はあんまりいないかも知れませんが、そういう奇特な人にとっては、まず真っ先に読むべき本であることは間違いありません。

佐藤博樹・矢島洋子『介護離職から社員を守る』

Kaigo佐藤博樹・矢島洋子『介護離職から社員を守る』(労働調査会)をお送りいただきました。

もしかして、奥付の著者紹介に「中央大学大学院戦略経営研究科教授」と書かれた最初の本でしょうか。

団塊の世代が75歳以上に到達する2025年。
働き盛りの団塊ジュニア層が親の介護に直面することが予想されます。それは、介護との両立により、中核的人材の離職につながる恐れがあるということ――しかも、介護は育児と違ってある日突然降りかかってくるもの。
そこで、仕事と介護の両立を企業がどうやって支援していくべきかを、事前の情報提供や制度の見直し、柔軟な働き方という視点から解説した充実の1冊!

というのが版元の紹介文ですが、「あとがき」の最後のところにこういう熱いメッセージが書かれています。

・・・困難な状況で介護と向き合っている方や介護のために離職した方を前にしたときに、「仕事と介護の両立は可能だ」と主張することは、「あなたの選択は間違っている」と言っているようで、非常に心苦しいことも確かである。自分の意思で親の介護を担いたいという人も居り、人それぞれの生き方は尊重されるべきある。しかし、子育てと同様、現状では、本人の意思のみではなく、「親族の誰か、特に女性が介護に専念すべき」という社会的な「固定的役割分担意識」などのために離職に追い込まれている人も少なくない。だからこそ、あえて、「介護で仕事を辞めるべきではない」というメッセージを本書では強調している。こうした認識を社会全体で共有し、両立できない理由を述べ立てるのではなく、「仕事と介護の両立」のための取組を、本人、企業、社会のあらゆるレベルでスタートさせることが必要と考える。


2014年11月10日 (月)

「G型大学、L型大学」論の炎上を受け、議論していくべきこと

WEB労政時報のHR Watcherに、本日「「G型大学、L型大学」論の炎上を受け、議論していくべきこと」を書きました。

http://www.rosei.jp/readers-taiken/hr/article.php?entry_no=312

先月末、ネット上で「G型大学、L型大学」をめぐる話題が飛び交いました。その発信源はどうもわたくしのブログ記事だったようで、1200件を超えるツイートが付きました。といっても、それは単に政府のある会議の資料を紹介するだけのものでした。その会議とは、文部科学省に設置された「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」という長ったらしい名前の会議で、10月7日に開かれたその第1回会議に委員の冨山和彦氏から提出された資料「我が国の産業構造と労働市場のパラダイムシフトから見る高等教育機関の今後の方向性 今回の議論に際し通底的に持つべき問題意識について」が話題のネタとなったのです。・・・

ややもするとおかしな方向に向かいがちなこの議論をまともなものにしていく上で、職業教育訓練をちゃんと論じてきた人々の責任は大きいものがあります。

「りふれは」稲葉振一郎氏に擁護の余地はあるか?

先日の本ブログエントリ

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-9c68.html (やっぱりこいつらは「りふれは」)

及びこれへの反応を受けて書いた

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-7e36.html (「ワシの年金」バカが福祉を殺す)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-97a1.html (ステークホルダー民主主義とクローニー資本主義)

に対して、労務屋さんがかなり長いコメントを書かれているのですが、一番重要な点において、いささかこじつけ気味の言葉で稲葉振一郎氏を擁護しようとしておられて、かえって事態を悪くする危惧すら感じられました。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20141110#p2 (「りふれは」の話)

労務屋さんは、駒崎氏に対する罵倒はけしからんとしつつ、クローニー資本主義呼ばわりは罵倒ではないというやや珍奇な解釈を提示されます。

・・・これは定義次第という部分も大きいのでしょうが、ここでの文脈から考えれば「クローニーキャピタリズム」とは「他人の負担を含む増税を財源に自らの利益・関心事に関係する支出が増えることは好ましいという考え方」を指しているのではないかと思います。だとすれば「子ども子育て支援の財源が消費税に紐づいているため、増税に賛成」という駒崎さんのツイートを「クローニーキャピタリズム」と表現することもそれほど不自然な話ではありません。要するに一握りの市場原理主義者を除けば世の中はクローニーキャピタリスト(?)だらけなのであって、ただその優先順位が違うだけなのではないでしょうか。・・・

寡聞にして、一握りの市場原理主義者を除けば世の中はクローニーキャピタリストだらけなのであり、ということはすなわちクローニー資本主義というのはいかなる意味でも侮辱語などではなく、世の人々にとってごくごく当たり前のことを当たり前に叙述しただけの価値中立的ないし正価値的な言葉であるというような用語法を、わたくしは知りません。

・・・結局は政治的に優先順位をつけざるを得ないわけですが、このような多数の・多様なクローニーキャピタリスト(?)たちの努力を通じて社会が進歩してきたのではないかとの思いは禁じえません。ということで、私はhamachan先生に較べると相当程度クローニーキャピタリズムに価値を見出しているという点に少し違いがあるように思われます。

ここで語られている政治的スタンスにおいては、わたくしは労務屋さんと全く一致するのですが、それをクローニー資本主義という名で褒め言葉として使っているような実例は世界中にただの一つも見いだすことはできないように思われます。わたくしはかかる利害関係者が明示的に利害をぶつけ合いながらその間の妥協によって政策決定を行っていく有り様を「ステークホルダー民主主義」という名前で呼んでおり、称揚する立場にありますが、それを既に予め極悪非道のインプリケーションがべっとりと塗りたくられたクローニー資本主義などという用語で表現しようなどと考えたことはありません。

上記「ステークホルダー民主主義とクローニー資本主義」というエントリで書いたのは、まさに侮辱語以外ではあり得ないクローニー資本主義という言葉で稲葉氏が描こうとした対象物は、侮辱語ではないステークホルダー民主主義という言葉で形容されるべきものであるということでありました。もし、労務屋さんが言うように、稲葉氏自身が侮辱語としてクローニー資本主義という言葉を使ったのでないのであれば、上記エントリは全くその存立基盤自体が崩壊することになります。

しかし、そのためには、世間一般である程度の頻度でクローニー資本主義という言葉が価値中立的ないし正価値的に使われている有力な実例を示す必要がありますし、さらに、稲葉氏自身が世間通常の侮辱的意味ではなくかかる価値中立的ないし正価値的な用法で用いたということを証明する必要があります。

稲葉氏の当該ツイートがまさに侮蔑的に駒崎氏にこの言葉を発した田中秀臣氏との共感をあらわにしながらなされたという状況は、その証明をほとんど不可能とするものと思われます。

稲葉氏は通常侮辱的インプリケーションを有さない(池田信夫氏は悪口としてこの言葉を使っている数少ない実例ですが(下記注参照))ステークホルダー民主主義という言葉ではなく、あえて見た人が通常侮辱的に感じると思われるクローニー資本主義という言葉を用いたのですから、それをみんなそうなんだから問題じゃないんだというような文脈で用いたと主張するのはきわめて困難な難題を抱え込んだことになるのではないでしょうか。

いずれにしても、労務屋さんがなぜここまで稲葉氏を擁護しなければならないと感じられたのかはよくわかりませんが、事態の推移を素直に見れば、稲葉振一郎氏は田中秀臣氏とまったく同様の「りふれは」としての本性を露わにしたと解するのが、もっとも事実に近いように思われます。

この解釈が自然であることは、これまで稲葉氏にはかなりの親近感を感じていたらしいRyoさんのこのつぶやきにも示されています。

https://twitter.com/knrjp/status/531524365624430592

しかし、ネットリフレ派のコアだけでなく、稲葉氏や、彼らのフォロワーまで駒崎氏を非難するのをみて、心底リフレ派に幻滅しましたよ。私自身が罵倒されたことを抜きにしても、です。

大変素直な反応であると感じられます。

(注)

上述のように通常価値中立的ないし正価値的なインプリケーションをもって用いられる『ステークホルダー民主主義』という言葉を、自らの特異なイデオロギーに基づいて、侮蔑的な意味合いで使った数少ない実例が、3法則こと池田信夫氏です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-a68e.html (ステークホルダー民主主義とは無責任なポピュリズムの反対)

こういう奇怪な実例も世の中にはあるので、クローニー資本主義を褒め言葉として用いる人が絶対にいないと断言することは困難ではありますが。

(追記)

上記エントリは、基本的に、クローニー資本主義という言葉をステークホルダー民主主義と同義と解する労務屋さんのエントリをそのまま前提としてもっぱらその価値判断レベルにおいてのみ論を進めましたが、本エントリにトラックバックを送られた「ニュースの社会科学的な裏側」のこのエントリが適切に指摘しているように、その意味内容においても大きな違いがあると言うべきことに間違いありません。

http://www.anlyznews.com/2014/11/blog-post_10.html (クローニー・キャピタリズムと言う用語は適切に使いましょう)

・・・しかし態度云々以前に、この縁故資本主義と言う言葉はもっと慎重に扱う必要がある。ある団体の代表者が、ある政策の支持や不支持を表明しても、全くクローニー・キャピタリズムにならないから。

もともとはアジア危機で注目された用語なのだが、主に政府権力者と企業の結託を批判する目的で使われてきた。フィリピンのマルコス政権が華人系企業を優遇していた事や、インドネシアのスハルト大統領の息子が大企業の重役になっていたりした事をイメージすればいい。また、上場企業などにおいて、企業統治が不透明で創業者家族の影響力が強く、外部投資家が企業経営から疎外されたり*1、縁故が無いと商談や就職や出世ができない事も入る。そう整理された単語でもないが、縁故が理由で組織の目的と合致しない行動や人事が観察されれば、クローニー・キャピタリズムと批判できる。

子育て支援が拡充されれば、駒崎氏のNPO団体の活動にプラスなのは間違い無い。しかし、代表する団体の目的と照らし合わせて、特定の政策に関して支持や不支持を表明するのは、自然な行為だ。関税や補助金の撤廃に反対する生産者団体を見て、縁故資本主義だと批判する人はいないであろう*2。元財務官僚やその家族が駒崎氏のNPO団体に多数在籍していて、それが理由で駒崎氏のNPO団体に有利な政府政策が取られれば話は別であろうが、そんな事があるのであろうか?

このクローニー資本主義という言葉を最も適切に使うべき対象は、Ryoさんが適切に指摘しておられます。

https://twitter.com/knrjp/status/531821394141540353

クローニーという言葉は、身内には甘く他には厳しいリフレ派にこそふさわしい。

2014年11月 9日 (日)

『中央公論』12月号が雇用激変特集

2878_issue_img 明日発売の『中央公論』12月号が、「人口減少が突きつける 雇用激変」を特集しているようです。

http://www.chuokoron.jp/newest_issue/index.html

働き手は救われるのか─厚生労働大臣インタビュー 安倍政権が目指す雇用改革のゆくえ 塩崎恭久

連合会長インタビュー 改革の優先順位が間違っている 古賀伸明

労働者不足が経済を制約し始めている 小峰隆夫

「限定正社員」から日本人の働き方を変える 鶴光太郎

日本的雇用システムが女性の活躍を阻む理由 山口一男

40〜50代社員を待つ厳しい現実 高木朋代

ルポ●相次ぐ「正社員化」の実態 岡田章裕

人事担当者覆面座談会 人事部は〝働かないオジサン〟をこう見ている 司会 溝上憲文

学者枠は小峰さん、鶴さん、山口さん、高木さんという順当な面子になったようですね。

最後の溝上さん司会の人事担当者覆面座談会は興味をそそられますね。どこまで本音の言葉が噴出しているか・・・。怖いもの見たさで読む中高年サラリーマンが一杯いそうです。

明日は朝一番で買って読みましょう。

看護師と保育士の賃金格差

Dio 連合総研の『DIO』298号をお送りいただきました。今月号は、「人口減少下の地域とくらし―変わる福祉サービス」という特集で、

http://rengo-soken.or.jp/dio/pdf/dio298.pdf

人口減少・高齢化と地域ケアの課題  沼尾 波子

人口減少社会における地域と保育サービス  大石 亜希子

高齢者、生活困窮者などと居住福祉  岡本 祥浩

そのうち大石さんの論文には、興味深い図が載っています。

保育士と看護師の賃金格差を都道府県別に見たものですが、

Oishi

福島を除いて看護師はすべて時給1500-2000円、京都を除いて保育士はすべて時給1000-1500円の範囲に含まれてますね。

京都だけ逆転しているのはなぜなのか興味がそそれられますが、それはともかく、大石さんはこう語ります。

図2は、女性の一般労働者について、看護師と保育士の時間あたり所定内賃金を都道府県別に比較したものである。同じように資格を必要とする職種であっても、保育士は相対的に低賃金であることが分かる。さらに、保育士の時間あたり所定内賃金を、各都道府県の最低賃金に対する比でとらえてみると、東京・千葉・神奈川など保育士不足が顕著な都県であっても、保育士の時間あたり賃金は最低賃金の1.5倍程度に過ぎないことが分かる。保育士としての責任の重さや労働時間の長さを考えあわせれば、他の就業機会が豊富な都市部で保育士が不足するのは当然ともいえる。

EU集団的労使関係システムの課題

昨日、立正大学で開かれた日本EU学会第35回研究大会の共通論題報告「EU集団的労使関係システムの課題」のレジュメ兼配付資料です。先月岡山大学で開かれた社会政策学会で報告したものとほとんど同じです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/eugakkai.html

かなり大部なので、見出しだけこちらに並べておきます。

Ⅰ 労使立法システムの形成と展開

Ⅱ 労使立法システムの諸問題

Ⅲ フレクシキュリティの逆説-EU統合が掘り崩す北欧型フレクシキュリティの基盤

Ⅳ フレクシキュリティの逆説-ドイツ型フレクシキュリティが掘り崩す南欧の労使関係

Ⅴ 多国籍企業協約の立法化に向けて

ステークホルダー民主主義とクローニー資本主義

駒崎さんをめぐる騒ぎで、も一つ重要な一言ツイートがこれ。

https://twitter.com/bn2islander/status/531262293359603713

縁故資本主義と仰っている方々とは、つまりステークホルダー型民主主義に反発している方々なのではないか、と言う主張でした

ステークホルダー民主主義を否定する人々のロジックについては、5年前に出した『新しい労働社会』の第4章で、こう述べました。

131039145988913400963 5 ステークホルダー民主主義の確立

三者構成原則への攻撃

 いささか皮肉なことに、日本で解雇の自由を唱える論者は、デンマークのようにマクロな労使関係を中心に国の政治を運営していくことに共感するどころか、労働者の利害を代表する労働組合を労働立法などの政策決定過程から排除することに大変熱心なようです。

 これを見事に示したのが、2007年5月に内閣府の規制改革会議労働タスクフォースが公表した「脱格差と活力をもたらす労働市場へ-労働法制の抜本的見直しを」と題する意見書でした。福井秀夫氏が中心となって執筆した同文書は、内容的にも解雇規制、派遣労働、最低賃金など労働法のほとんど全領域にわたって徹底した規制緩和を唱道するものでしたが、特に注目すべきは労働政策の立案の在り方として確立している三者構成原則(労働政策の意思決定において政労使の三者が参画すべきというILOの原則)に対して本質的な疑義を提起した点です。以下そのまま引用しましょう。

「現在の労働政策審議会は、政策決定の要の審議会であるにもかかわらず意見分布の固定化という弊害を持っている。労使代表は、決定権限を持たずに、その背後にある組織のメッセンジャーであることもないわけではなく、その場合には、同審議会の機能は、団体交渉にも及ばない。しかも、主として正社員を中心に組織化された労働組合の意見が、必ずしも、フリーター、派遣労働者等非正規労働者の再チャレンジの観点に立っている訳ではない。特定の利害関係は特定の行動をもたらすことに照らすと、使用者側委員、労働側委員といった利害団体の代表が調整を行う現行の政策決定の在り方を改め、利害当事者から広く、意見を聞きつつも、フェアな政策決定機関にその政策決定を委ねるべきである。」

 ここには位相の異なる二つの指摘が含まれています。一つは、原理的に利害関係者が調整を行う政策決定のあり方自体を否定し、(おそらくは福井氏自身のような?)法と経済学をわきまえた学識者の主導によって政策決定がなされるべきであるという次元です。もう一つは利害関係者による政策決定自体の正当性はとりあえず認めたとしても、現実の政策決定過程において労働者の利害代表者として登場する労働組合が、現実には正社員のみの利害を代表する者でしかなく、非正規労働者の利害を適切に代表し得ていないのではないかという次元です。この二つの次元をきちんと峻別して議論しなければ、問題設定が混乱するばかりで、意味のある議論にはなり得ないでしょう。

 後者については、本書が全体として論じてきたように、労働組合のみならず労働政策に関わる者すべてが真剣に取り組むべき課題です。派遣労働法制にせよ、有期労働法制にせよ、その形態で働く労働者の利害を組織的に代表し得ていない労働組合が利害関係者として立法に参加する資格があるのか?という問いに答えることなく、現実の三者構成のあり方をそのまま擁護することは困難になると考えるべきでしょう。ここまで述べてきたように、まさにこの点を改革して、正社員と非正規労働者を包括する公正な労働者代表組織として企業別組合を再構築することが、現実に可能な唯一の道であるように思われます。

 一方、そもそも利害代表者による政策決定自体の正統性を否定した前者の次元については、労働政策の基本原則に関わる問題ですので、歴史的経緯や国際的な動向にも目を配りつつ、突っ込んで考えてみたいと思います。

・・・・・・・

 このように見てくると、規制改革会議の意見書に典型的な利害関係者の関与を排除する考え方と三者構成原則の対立の背後には、民主主義をどのように捉えるかという政治哲学上の対立が潜んでいることが浮かび上がってきます。

 前者において無意識のうちに前提されているのは純粋な代表民主制原理、すなわち国民の代表たる議員は社会の中の特定の利害の代表者であってはならず、その一般利益のみを代表する者でなければならないという考え方でしょう。それをもっとも純粋に表現したものがフランス革命時に制定された1791年のル・シャプリエ法です。同法はあらゆる職業における同業組合の結成を刑罰をもって禁止しました。団結の禁止とは、個人たる市民が国家を形成し、その間にいかなる中間集団をも認めないという思想です。

 それに対してEC条約やEU諸国のさまざまな制度には、社会の中に特定の利害関係が存在することを前提に、その利害調整を通じて政治的意思決定を行うべきという思考法が明確に示されています。歴史社会学的には、これは中世に由来するコーポラティズムの伝統を受け継ぐものです。この考え方が、中世的なギルドや身分制議会の伝統が革命によって断ち切られることなく段階的に現代的な利益組織に移行してきた神聖ローマ帝国系の諸国に強く見られるのは不思議ではありません。コリン・クラウチはその著書の中で、中世の伝統と社会民主主義が結合して20世紀のコーポラティズムを生み出したと説明しています。

 大衆社会においては、個人たる市民が中間集団抜きにマクロな国家政策の選択を迫られると、ややもするとわかりやすく威勢のよい議論になびきがちです。1990年代以来の構造改革への熱狂は、そういうポピュリズムの危険性を浮き彫りにしてきたのではないでしょうか。社会システムが動揺して国民の不安が高まってくると、一見具体的な利害関係から超然としているように見える空虚なポピュリズムが人気を集めがちになります。これに対して利害関係者がその代表を通じて政策の決定に関与していくことこそが、暴走しがちなポピュリズムに対する防波堤になりうるでしょう。重要なのは具体的な利害です。利害関係を抜きにした観念的抽象的な「熟議」は、ポピュリズムを防ぐどころか、かえってイデオロギーの空中戦を招くだけでしょう。

 利害関係者のことをステークホルダーといいます。近年「会社は誰のものか?」という議論が盛んですが、「会社は株主のものだ。だから経営者は株主の利益のみを優先すべきだ」という株主(シェアホルダー)資本主義に対して、「会社は株主、労働者、取引先、顧客などさまざまな利害関係者の利害を調整しつつ経営されるべきだ」というステークホルダー資本主義の考え方が提起されています。そのステークホルダーの発想をマクロ政治に応用すると、さまざまな利害関係者の代表が参加して、その利益と不利益を明示して堂々と交渉を行い、その政治的妥協として公共的な意思を決定するというステークホルダー民主主義のモデルが得られます。利害関係者が政策決定の主体となる以上、ここでは妥協は不可避であり、むしろ義務となります。妥協しないことは無責任という悪徳なのです。労働問題に関しては、労働者代表が使用者代表とともに政策決定過程にきちんと関与し、労使がお互いに適度に譲り合って妥協にいたり、政策を決定していくことが重要です。

 現在、厚生労働省の労働政策審議会がその機能を担う機関として位置づけられていますが、政府の中枢には三者構成原則が組み込まれているわけではありません。そのため、経済財政諮問会議や規制改革会議が政府全体の方針を決定したあとで、それを実行するだけという状況が一般化し、労働側が不満を募らせるという事態になったのです。これに対し、経済財政諮問会議や規制改革会議を廃止せよという意見が政治家から出されていますが、むしろこういったマクロな政策決定の場に利害関係者の代表を送り出すことによってステークホルダー民主主義を確立していく方向こそが目指されるべきではないでしょうか。

 たとえば、現在経済財政諮問会議には民間議員として経済界の代表二人と経済学者二人のみが参加していますが、これはステークホルダーの均衡という観点からは大変いびつです。これに加えて、労働者代表と消費者代表を一人づつ参加させ、その間の真剣な議論を通じて日本の社会経済政策を立案していくことが考えられます。それは、選挙で勝利したという政治家のカリスマに依存して、特定の学識者のみが政策立案に関与するといった「哲人政治」に比べて、民主主義的正統性を有するだけでなく、ポピュリズムに走る恐れがないという点でもより望ましいものであるように思われます。

利害関係に基づいて政治を行うことを忌避する心性の根っこにあるのは、業種も職種もなく、個性も何もないのっぺりしたただ消費するだけの記号化された経済人こそを理想の人間像とする発想なのでしょう。上の福井秀夫氏の論調には明確にそれが見て取れますが、ある種の「りふれは」にも共通する感性なのかもしれません。

そういう具体的な利害を(自分のことは棚に上げて表面上)毛嫌いする心性が、一見具体的な利害関係から超然としているように見える空虚なポピュリズムの培養土となるという法則は、まさにその「りふれは」が「維新」大好きな人々と深く交錯しているという現実によってこの上なく実証されているようにも見えます。

ついでにいえば、そういう「一見具体的な利害関係から超然としているように見える空虚なポピュリズム」を振りかざす人々が、実は一番、クローニー資本主義とすら言えないような低レベルのお仲間意識むき出しの「身びいき」「情実」を平然とやりまくるという厳然たる事実についても、多くの心ある人々はもう嫌というくらい繰り返し目の当たりにしてきているはずですよね。

「ワシの年金」バカが福祉を殺す

駒崎さんをめぐる騒ぎについて、一番本質を突いているのが、黒川滋さんのこのツイートの最後の言葉。

https://twitter.com/kurokawashigeru/status/531253562521550850

7日の駒崎弘樹さんのツィートにまとわりついていた連中、ひどいな。

https://twitter.com/kurokawashigeru/status/531253888825847808

この国ではどんな福祉サービスを整えることよりも、実質的な社会的弱者を救済することよりも、ただ消費税を上げないことに限り弱者のためになる、という消極的・見殺しの思想が蔓延しているのだろうか。

https://twitter.com/kurokawashigeru/status/531254316187672577

消費税を上げるべきではないという人たちの主張が、証明不可能な枝葉末節に振り回されすぎていて、帳尻、必要性、時期とタイミングという大事な話に行かない。

https://twitter.com/kurokawashigeru/status/531254759198441473

介護労働者の離職を避けるため、保育労働者を確保するため、看護師が早死にしないため、障がい者を持った家庭が東京都にしか住めない状態を改善するため、教育水準を上げるため、失業者を食べさせて再就職させるため、みんな公的なお金がいる。財源なくて何もしなくてよいというのがわからん。

https://twitter.com/kurokawashigeru/status/531255580313153536

消費税増税分を財務省が刈り込み過ぎて、社会保障に回す分が子育てと国民健康保険の若干の負担軽減だけに留まっている実態と、さらにそれとは全く別に介護保険の刈り込みと複雑化などが加わり、税金挙げても良くならないじゃないか、と推進派の国民の間にも消費税増税への信頼感が無くなっている。

https://twitter.com/kurokawashigeru/status/531256399930466305

刈り込まれた原因は、社会保障と言えば年金にばっかり関心を払う、多くの人の議論のやり方だったと思う。何度もここには書きましたが、年金は賦課方式なので、財政の入りと出のひもつけを長期に追跡できません。その中で年金のためと言えば、わけのわからないことになるのです。

この問題をめぐるミスコミュニケーションのひとつの大きな理由は、一方は社会保障という言葉で、税金を原資にまかなわなければならない様々な現場の福祉を考えているのに対し、他方は年金のような国民が拠出している社会保険を想定しているということもあるように思います。

いや、駒崎さんをクローニー呼ばわりする下司下郎は、まさに税金を原資にするしかない福祉を目の敵にしているわけですが、そういうのをおいといて、マスコミや政治家といった「世間」感覚の人々の場合、福祉といえばまずなにより年金という素朴な感覚と、しかし年金の金はワシが若い頃払った金じゃという私保険感覚が、(本来矛盾するはずなのに)頭の中でべたりとくっついて、増税は我々の福祉のためという北欧諸国ではごく当たり前の感覚が広まるのを阻害しているように思われます。

「ワシの年金」感覚の弊害については、かつて本ブログでも書きましたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-f716.html (年金世代の大いなる勘違い)

先日スウェーデンで開かれた国際社会政策学会で報告してきた呉学殊さんと話していて、「たった5%の消費税を上げるのに猛反対するのが人気を博するような日本はもう終わりかも」という話から、その理由として考えた話ですが、ちょうど「dongfang99の日記」というブログで書かれていた「年長世代の「小さな政府」志向」ともつながる話なので、簡単に。

http://d.hatena.ne.jp/dongfang99/20100725

>近年支持が高い政治家や政党に共通しているのは、ラディカルな「小さな政府」路線であることである。

>そしてさらに気になるのは、どうも年金生活に入っているような、本質的にラディカルな改革を好まないはずの年長世代のほうが、こうした政治手法への支持がより高いらしいことである*1。年金・医療への関心の高さから言って、この世代が本当の意味での「小さな政府」を望んでいるとはとても思えないのだが、なぜそうなってしまうのか・・・

これは確かにわたしも感じていることです。ただ、理由付けは異論があります。官僚への期待値も政治的疎外感も、逆方向に向かう蓋然性の方が高いはずです。

では、お前の考える理由は何か?

彼らが「年金生活」に入っていることそれ自体が最大の理由ではないか、と思うのです。

ただし、これは社会保障がちゃんと分かっている人には理解しにくいでしょう。

公的年金とは今現在の現役世代が稼いだ金を国家権力を通じて高齢世代に再分配しているのだということがちゃんと分かっていれば、年金をもらっている側がそういう発想になることはあり得ないはずだと、普通思うわけです。

でも、年金世代はそう思っていないんです。この金は、俺たちが若い頃に預けた金じゃ、預けた金を返してもらっとるんじゃから、現役世代に感謝するいわれなんぞないわい、と、まあ、そういう風に思っているんです。

自分が今受け取っている年金を社会保障だと思っていないんです。

まるで民間銀行に預けた金を受け取っているかのように思っているんです。

だから、年金生活しながら、平然と「小さな政府」万歳とか言っていられるんでしょう。

自分の生計がもっぱら「大きな政府」のおかげで成り立っているなんて、これっぽっちも思っていないので、「近ごろの若い連中」にお金を渡すような「大きな政府」は無駄じゃ無駄じゃ、と思うわけですね。

社会保障学者たちは、始末に負えないインチキ経済学者の相手をする以上に、こういう国民の迷信をなんとかする必要がありますよ。

労働教育より先に年金教育が必要というのが、本日のオチでしたか。

その感覚が回り回って、現場の福祉を殺す逆機能を果たしているというアイロニーにも、もう少し多くの人が意識を持って欲しいところです。

2014年11月 8日 (土)

いわゆる左派と呼ばれる人達によく見られる感情的な意見を極力排し

131039145988913400963 5年前の拙著『新しい労働社会 雇用システムの再構築へ』(岩波新書)に対し、読書メーターで久しぶりに書評がつきました。「Hisashi Nakadani」さんです。

http://bookmeter.com/cmt/42517933

いわゆる左派と呼ばれる人達によく見られる感情的な意見を極力排し、(非正規も含めた)労使双方が納得の行く労働社会のあり方について検討した良書。学術書的な記述が多く少々敷居が高い感もありますが、昨今の労働問題を巡るニュースを見て「あれ?何かおかしくない?」と思っている人にはぜひ読んでほしい一冊です。個人的には、ホワイトカラーエグゼンプションの下りに考えさせられました。労働者側も「残業代は貰って当然」という感覚を改めないといけないかもしれませんね…。

まさに、わたくしが意を尽くした点を的確に指摘していただいております。

今現在労働法制をめぐって激しい論議がされている分野について、ほぼ現在でもそのまま答えになり得る議論を展開しているはずです。

「昭和時代」@読売新聞

本日の読売新聞に「昭和時代」という連載記事が載っていて、第34回の今日のテーマは「2.1ゼネスト中止」です。

ネット上には載っていませんが、第31面全部を充てて、労働組合法成立からメーデー復活、産別と総同盟の結成、不逞の輩発言、「一歩退却二歩前進後退」、そして公務員のスト禁止へという疾風怒濤の時代を描き出しています。

その記事の左下の角に、「視点」として、わたくしのコメントが載っています。

「労働政策や労働運動の歴史を振り返る時、1930年代半ばから50年代までを連続的に見たい。

 戦前から内務省社会局は労使関係の法整備に熱意があった。このため、戦後ただちに労働組合法が成立した。また、戦時中に労使で組織した『産業報国会』を母体として、戦後に企業別労働組合が一斉に生まれた。無論、戦中の労働政策には戦争遂行に役立てる意図があったのに対し、戦後は日本民主化の一環であるから目的は異なる。しかし、労働法制の議論や労働者組織の実体が受け継がれている点は見落とせない所だろう。

 GHQは当初、労働運動自体には直接干渉しないという態度だったが、2・1ストを契機として急進的な労働運動を抑制する方向に転じる。

 また、49年の労働組合法改正でGHQは、従業員の多数を代表する組合のみに団体交渉権を認めるといった、米国型の明快な労使関係を導入しようとしたものの、占領方針が揺れたためにうまくいかなかった。これが後の日本の労使関係にも影響している」

先日静岡大学で行われた日本労働法学会の大会テーマともつながる話ですね。

ヘイトスピーチ対策というのなら人権擁護法案を出し直したら?(ほぼ再掲)

なんだか、民主党と維新の党がヘイトスピーチ規制法案を出すそうですが、

http://www.sankei.com/politics/news/141105/plt1411050055-n1.html

 民主党は5日、維新の党との政策責任者による定例協議で、ヘイトスピーチ(憎悪表現)と呼ばれる人種差別的な街宣活動の規制に向けてまとめた法案の骨子案を説明した。両党は法案の共同提出を視野に協議を加速する方針で一致した。

 民主党案は、ヘイトスピーチを想定し「人種等を理由とする不当な行為」を禁止。ただ、罰則は設けない。実態を調査する審議会を内閣府に設置し、首相に意見、勧告できるとした。国や地方自治体には差別防止策の実施を求める。

会期末に向けてどうせ審議されない野党法案を出すくらいなら、かつて小泉内閣時に自民党と公明党の政権が国会に出した法案を、一字一句変えずにそのまま出した方が、よっぽど気が利いていると思いますけどね。

というようなことを、8月にも書いていたので、以下その時のエントリを再掲。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/08/post-bbe2.html (ヘイトスピーチ対策というのなら人権擁護法案を出し直したら)

自民党がヘイトスピーチ問題でプロジェクトチームを設置するそうですが、

http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS21H18_R20C14A8PP8000/

自民党は21日、人種や民族などの憎しみをあおるヘイトスピーチ(憎悪表現)への対策を協議するため、政務調査会にプロジェクトチームを設置すると発表した。座長には平沢勝栄衆院議員が就き、月内に初会合を開く予定だ。安倍晋三首相はヘイトスピーチを巡り「日本の誇りを傷つけるもので、対処しなければならない」との認識を示していた。

そもそも、小泉内閣時代に、ヘイトスピーチだけでなく雇用におけるを含む差別・嫌がらせ全般について、また人種・民族だけでなく信条、性別、社会的身分、門地、障害、疾病又は性的指向と広く対象にした人権擁護法案をちゃんと出していたのですから、それをそのまま出し直せば十分通用するのではないかと思いますが。

http://www.shugiin.go.jp/Internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g15405056.htm

 (目的)

第一条 この法律は、人権の侵害により発生し、又は発生するおそれのある被害の適正かつ迅速な救済又はその実効的な予防並びに人権尊重の理念を普及させ、及びそれに関する理解を深めるための啓発に関する措置を講ずることにより、人権の擁護に関する施策を総合的に推進し、もって、人権が尊重される社会の実現に寄与することを目的とする。

 (定義)

第二条 この法律において「人権侵害」とは、不当な差別、虐待その他の人権を侵害する行為をいう。

2 この法律において「社会的身分」とは、出生により決定される社会的な地位をいう。

3 この法律において「障害」とは、長期にわたり日常生活又は社会生活が相当な制限を受ける程度の身体障害、知的障害又は精神障害をいう。

4 この法律において「疾病」とは、その発症により長期にわたり日常生活又は社会生活が相当な制限を受ける状態となる感染症その他の疾患をいう。

5 この法律において「人種等」とは、人種、民族、信条、性別、社会的身分、門地、障害、疾病又は性的指向をいう。

 (人権侵害等の禁止)

第三条 何人も、他人に対し、次に掲げる行為その他の人権侵害をしてはならない。

 一 次に掲げる不当な差別的取扱い

  イ 国又は地方公共団体の職員その他法令により公務に従事する者としての立場において人種等を理由としてする不当な差別的取扱い

  ロ 業として対価を得て物品、不動産、権利又は役務を提供する者としての立場において人種等を理由としてする不当な差別的取扱い

  ハ 事業主としての立場において労働者の採用又は労働条件その他労働関係に関する事項について人種等を理由としてする不当な差別的取扱い(雇用の分野における男女の均等な機会及び待遇の確保等に関する法律(昭和四十七年法律第百十三号)第八条第二項に規定する定めに基づく不当な差別的取扱い及び同条第三項に規定する理由に基づく解雇を含む。)

 二 次に掲げる不当な差別的言動等

  イ 特定の者に対し、その者の有する人種等の属性を理由としてする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動

  ロ 特定の者に対し、職務上の地位を利用し、その者の意に反してする性的な言動

 三 特定の者に対して有する優越的な立場においてその者に対してする虐待

2 何人も、次に掲げる行為をしてはならない。

 一 人種等の共通の属性を有する不特定多数の者に対して当該属性を理由として前項第一号に規定する不当な差別的取扱いをすることを助長し、又は誘発する目的で、当該不特定多数の者が当該属性を有することを容易に識別することを可能とする情報を文

 二 人種等の共通の属性を有する不特定多数の者に対して当該属性を理由として前項第一号に規定する不当な差別的取扱いをする意思を広告、掲示その他これらに類する方法で公然と表示する行為

2014年11月 7日 (金)

日本EU学会第35回研究大会

明日11月8日、立正大学で開かれる日本EU学会第35回研究大会で、報告をします。

http://eusa-japan.org/download/2014%20Annual%20Conference.pdf

共通論題「EUの連帯」において、「EU集団的労使関係システムの課題」というタイトルで報告をします。

Eugakkai

(追記)

ということで、報告してきました。

本日の報告は、先月岡山大学で開かれた社会政策学会の共通論題で報告した中身とほぼ同じなので、社会政策学会誌に載せる関係上、日本EU学会誌には掲載いたしませんのでご了承願います。

やっぱりこいつらは「りふれは」

人々の福祉を真摯に考えている人々に対し、丁寧に説明しようとするのではなく、あそこまで平然と罵声を浴びせることができるその心性を見るにつけ、こいつらはやっぱり「りふれは」という蔑称で呼ぶべき連中だという印象を再確認。

社会保障や福祉をそこらの低劣なクローニーキャピタリズム呼ばわりできる心性ってのは、本当にもうどうしようもないな。斬ることすら刀汚しって奴だ。

「あなた方の気持ちは全く同感だけれども、その目的を達するためにこそ今ここではこうなんだ」の一言を語る人が一人も出てこない惨状。

所詮そういう輩だったってこと。

労働者の職務に応じた待遇の確保等のための施策の推進に関する法律案

民主党と維新の党が同一労働同一賃金法案を提出したというので、早速その現物を見てみましょう。

http://www.dpj.or.jp/download/17427.pdf(要綱)

http://www.dpj.or.jp/download/17428.pdf(法案)

なんとそのタイトルは「労働者の職務に応じた待遇の確保等のための施策の推進に関する法律案」です。つまり、「職務に応じた待遇」というのですから職務給にしろという法律ですね。属人的な年功賃金は維持できないはずですが、そこまで判って提出しておられるのかどうか、大変興味深いところです。

一 目的

この法律は、近年、雇用形態が多様化する中で、雇用形態により労働者の待遇や雇用の安定性について格差が存在し、それが社会における格差の固定化につながることが懸念されていることに鑑み、それらの状況を是正するため、労働者の職務に応じた待遇の確保等のための施策に関し、基本理念を定め、国の責務等を明らかにするとともに、労働者の雇用形態による職務及び待遇の相違の実態、雇用形態の転換の状況等に関する調査研究等について定めることにより、労働者の職務に応じた待遇の確保等のための施策を重点的に推進し、もって労働者がその雇用形態にかかわらず充実した職業生活を営むことができる社会の実現に資することを目的とすること。

個々の条文を見ていくと、なんだかいろんな思惑が絡み合ってできたもののようですが、とりあえずは、

四 法制上の措置等

政府は、労働者の職務に応じた待遇の確保等のための施策を実施するため、必要な法制上、財政上又は税制上の措置その他の措置を講ずるものとすること。

ということのようです。

2014年11月 6日 (木)

第9回医療の質・安全学会学術集会

11月22日(土)に、幕張メッセで開かれる「第9回医療の質・安全学会学術集会」の中のシンポジウム「日本の医療者の超過勤務を考える」で、「日本の労働法と超過勤務」という講演をいたします。

http://www2.convention.co.jp/jsqsh9/program/pdf/program_day1.pdf

13:10~15:10 シンポジウム2 座長:井部 俊子(聖路加国際大学)
日本の医療者の超過勤務を考える

1 日本の労働法と超過勤務
○濱口 桂一郎(労働政策研究・研修機構)

2 医師が健康に働ける職場を
○保坂 隆(聖路加国際病院精神腫瘍科)

3 薬剤師がSMILEで働ける職場を!!
○古川 裕之(山口大学大学院医学系研究科)

4 看護職の超過勤務を考える -看護師たちの「気遣い」と残業-
○奥 裕美、井部 俊子(聖路加国際大学)

5 疲労と医療安全―WHO患者安全カリキュラムガイド多職種版2011に学ぶ
○相馬 孝博(公益財団法人 日本心臓血圧研究振興会附属榊原記念病院)

ちなみにこの学術集会全体は22日から24日まで3日連続で開かれるようです。

http://www2.convention.co.jp/jsqsh9/

いきなり元ネタを披露しちゃって大丈夫なのかしらん

Chuko 松本利浩さんの特定社会保険労務士ドットコムに、拙著『若者と労働』の書評がアップされていますが、

http://www.tokutei-sr.com/blog/2014/11/post-219.php

その中でこんな心配をしていただいているのですが、

今回は、「ジョブ型」と「メンバーシップ型」という対比の元となった田中博英氏の著作を紹介することからスタート。いきなり元ネタを披露しちゃって大丈夫なのかしらんと心配になりましたが、まだまだアイディアは豊富にあるぞという著者の自信の表れなのでしょう。

いやいや、そもそもジョブ型、メンバーシップ型というのは、その今風の言葉は私が作りはしたものの、その概念自体は昔から多くの方々が繰り返し論じてきたものであって、どこぞの3法則氏みたいに、俺様が10年前に書いているぞなどとふんぞり返ったりしたら笑いものになるような由緒ある二項対立概念ですからね。

田中博秀氏にしても、私の労働行政における先輩でもあり、引用しやすいからそうしただけで、別に彼の発明した概念というわけでもありません。

正直言うと、他の人があまり言わない私の独自ネタは労働時間でも派遣でも労使関係でも結構あると自分では思っているんですが、そこよりも、概念自体は全然目新しくもないジョブ型、メンバーシップ型の方が常に私の議論の代表みたいに評価され続けることは、若干微妙というか、複雑な気もしないわけではありません。

実は、『若者と労働』の冒頭でほとんど全面的に田中博秀氏の本を引用しまくったのは、そこは私の主たる議論というよりもそこに行く前の議論の前提なんだよね、と言うつもりもあったのです。

そして、日本型雇用システムが変容していく1990年代以降の記述の部分は、自分も当事者として生きてきた時代なので、冷静に読むのは難しかった。「夢見るフリーター」という言葉は、自分にとっても思い当たる部分があるので、耳の痛いものでした(…で、今はこうして資格で生き延びているわけです)。

このあたりは、世代によって、どの年代で同時代として生きたかが少しずつ違い、それが本書の受け止め方にも少しずつ微妙な差を作り出すことになるのでしょう。

2014年11月 4日 (火)

吉田大樹『パパの働き方が社会を変える!』

1386160x240吉田大樹『パパの働き方が社会を変える!』(労働調査会)をお送りいただきました。

http://www.chosakai.co.jp/publications/12113/

日本の社会は、依然働き過ぎといわれています。長い時間仕事に従事することが、成果になるとは限らないのは周知の事実です。そんな働き方をしながらパパになっても、子どもの寝顔しか見ることができない…。

そこで、本書は、長時間労働をはじめとした働き方の見直しについて、実践することに抵抗を感じているパパ、そして会社、社会に向けて、その第一歩を踏み出すための提言を収録しました。どうすれば、パパたちが笑顔で働くことができるようになるのか、小さなアクションを起こすためのヒントが満載。内閣府子ども・子育て会議委員である労働・子育てジャーナリストである吉田大樹氏の書き下ろしです。

中身は、

はじめに

第1章 働き過ぎるパパたち

第2章 パパが健康で働くには

第3章 ワーク・ライフ・バランス私論

第4章 「働くこと」の意味とは

第5章 パパになる前の思い、そしてパパになってからの思い

第6章 パパに知ってほしい「子ども・子育て支援新制度」

最終章 パパが明日からできること~社会を変えるための提言~

繰り返し言われながらなかなか進まない男性の働き方改革が、自らの経験を踏まえて語られています。

『月刊連合』11月号でも、『ミッキーマウスのストライキ!』

201411_cover_l_2『月刊連合』11月号は、特集は「連合結成25周年」で、昔懐かしい方々が登場していますが、

http://www.jtuc-rengo.or.jp/shuppan/teiki/gekkanrengo/backnumber/new.html

結成25年 語り継ぐ 連合運動の原点

■OB座談会/労働戦線統一前史[秘話]を語る

藁科満治 連合顧問、元連合会長代行
菅井義夫 元UIゼンセン同盟副会長
前川忠夫 元連合副会長
園木久治 元情報労連委員長
初岡昌一郎 ソーシャル・アジア研究会代表
[進行]
高木郁朗 日本女子大学名誉教授

ここでは、断固として篠田教授の「労働文化耕論」。

前号で熱狂的に取り上げた『ミッキーマウスのストライキ!』を、さらに今月号でも連載の紙数をすべて使って熱っぽく語っています。

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訳者の久美薫さんも、ここまで一生懸命読んでかつ紹介してくれる学者がいて、訳者冥利に尽きるのではないでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-cfbe.html


TOKYO FMのTIMELINEでL型大学論

本日午後7時から、ラジオのTOKYO FMの「TIMRLINE」という番組で、L型大学について議論されるということで、

http://www.tfm.co.jp/timeline/index.php?itemid=87833&catid=1165&catid=1165 (「L型大学」構想が投げかけた大学のあり方)

文科省が今月7日に実施した、「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」。

委員の一人である冨山和彦さん(株式会社経営共創基盤 代表取締役CEO)の会議資料を文科省がウェブで公開しており、それによると、グローバル(G) の世界とローカル(L)の世界に大学をわけ、「日本の大学を専修学校や専門学校などと、まとめて職業訓練校化させるための検討が行われていた」ことが発覚。この地方の大学を職業訓練校化する「L型大学」が波紋を広げました。

文科省の有識者会議で検討され、ネットで議論となったこの構想をきっかけに、大学のあり方をあらためて考えます。

わたくしも出演して喋る予定ですので、ご関心のある方はどうぞ。

(追記)

と言うことで、出演して参りました。

ホストの岸博幸さんが冨山和彦さんの親友と言うことで、話はそこから始まりましたが、まあだいたい言うべきことは語ったかな、と。

2014年11月 2日 (日)

読書サイトにおける拙著書評いくつか

ネット上には書評サイトがいくつかありますが、拙著がいくつかそれらの上で書評されていましたので、ご紹介。

その中でもとりわけこの「ランビアン」さんによるブクレコ上の書評は、大変詳細かつ深く分け入って拙著『日本の雇用と労働法』(日経文庫)を読み込み、現下の労働問題に引きつけて論じていただいている、すばらしい書評です。

http://bookrepo.com/book_report/show/372757二十四時間戦えますか?

112483 日本人、ことに男性の長時間労働があらためて問題となっている。解消が進まない待機児童の存在と並び、女性の社会進出を妨げる要因として、その解消が強く叫ばれているのである。

これが重大な問題であることに異論はないが、私が違和感を覚えるのは、一部のフェミニストによる主張、すなわち長時間労働が解消しないのは「男は職場、女は家庭」という性別役割分業意識のせいだという言説である。

仮にこの主張が正しいとするなら、日本の男たちが明日からでも心を入れ替えて、超過勤務をせず定時に退社するよう努めれば、諸般の問題はすべて解決ということになってしまう。

そんなバカなことがあるはずがない。日本の男性がみな仕事中毒だなどというのは真っ赤な嘘で、私のように残業が大嫌い(読書時間が減るから当然だ)な男も多いはずである。その私ですら、在京時には日々深夜どころか朝方までという長時間勤務に耐えねばならなかったのである。

男女を問わず、日本の企業で正社員として働いたことのある人ならわかるはずだ。そこではいわゆる付き合い残業でさえ、否応なく引き受けねばならない業務の一環なのである。それは総合職の女性たちにとっても同じことであって、現に私の職場でも、女性がほぼ男性同様に残業をこなしている。

だが、なぜ日本でだけ一向に超過勤務縮減が進まないのか。終身雇用制は理由にならない。終身雇用であろうがあるまいが、自分の仕事を片付ければ帰宅して構わないはずではないか。冒頭に述べた怪しげな見解も含めて様々な分析がなされているが、案外見落とされているのが根本の部分、すなわち企業と労働者との間で締結される労働契約のあり方だ。

実は、日本の労働契約は世界に類を見ない異様な代物なのだが、その事実を知っているサラリーマンは案外少ないように思われるのである。

日本以外の先進国においては、労働契約とはすなわちジョブ契約である。これこれの仕事をするから、これこれの給与を支払うという、きわめて具体的な取り決めが契約上で行われる。各人がなすべき業務の範囲は明確に決められており、それ以外の仕事をする必要はなく、やったところで評価もされない。

そして、企業の業績不振や事業分野からの撤退によってやるべき仕事がなくなれば、その業務に従事していた社員は解雇される。当の社員は特定の範囲のジョブとセットになっているのだから、しごく当然の話である。

対する日本でも、むろん各自の仕事の範囲は一応決まってはいる。だが、それは労働契約で規定されているのではなく、使用者の命令によっているにすぎない。つまり契約上日本の労働者は、その企業の中のすべての種類の業務に従事する義務があり、会社にはそれを要求する権利があるのだ。

だから日本では、各自がそれぞれの仕事をやっているのではなく、いわば社員全員で一つの仕事をやっているのである。同僚の多忙は他人事ではなく、付き合い残業という奇怪な現象が発生し、業務の繁忙期における相互応援が当然視されるのはこのためだ。

一方、その代償として、企業側には各社員をギリギリまで解雇しない努力が求められる。ジョブがないから社員も不要、というわけにはいかないのだ。ある工場を閉鎖したり、ある分野から撤退しても、別の工場や新たな分野への配置転換によって、企業は社員に新たな仕事を与える義務がある。

翻って労働者の側も、望まない仕事や遠隔地への転勤を甘受せねばならないことになる。勢い各人が辿るキャリアパスは多様となり、結果として特定分野のスペシャリストよりも、多様な分野への適応力を備えたゼネラリストが重んじられる傾向が生まれてくる。

要するに、日本の労働契約とは、社員が従事すべき業務とその対価を取り決めるジョブ契約ではなく、単に彼がその会社のメンバーに加わることを確認するにすぎない「メンバーシップ契約」なのである。新卒一括の採用方式も、特定のジョブの担い手を探すというより、その会社共同体に相応しい新メンバーを選定するための「通過儀礼」だと考えればわかりやすい。

かかる特異な労働契約のあり方から、長期労働慣行、年功賃金制度、企業別労働組合という、日本の労働法制における〝三種の神器〟が発生してくる。

しかし、社員全体で一つの仕事を、というメンバーシップ契約の建前を文字通りに適用した日には、とてもではないが各社員の身がもたないから、これをあたかもジョブ契約であるかのごとく運営していくための実務上のルールが必要となり、それが労働裁判において確立してきた判例法理ということになる。

以上、見てのとおり、日本の労働法制は現実と建前、契約と法と慣行とが絡み合った、複雑怪奇というほかない内容を有しているのだが、本書『日本の雇用と労働法』は、その構造と実態を簡明に解き明かしてくれる好著である。

著者の濱口桂一郎は、労働法制の実務に精通した元厚生労働官僚であり、現在大きな課題となっている雇用制度改革にも活発な提言を行っている注目の論客だ。

濱口は上述した日本の労働法制の構造を解説するにとどまらず、このユニークな制度が形成されてきた歴史的経緯も詳説しており、現下の労働問題に関心を持つ人ならば、最低限読んでおくべき基本書として推奨したい。

殊に現代日本人が知っておくべきは、この日本型雇用システムが確立するに際して、先の戦争が大きな役割を果たしたという事実である。国家総動員体制の中で、従業員の事実上の解雇禁止や年功賃金が企業に強制され、戦後の労働運動がこれを引き継いだ。

当時の日本国民の経済的平等への強烈な志向が戦争の遠因になったことは、坂野潤治や井上寿一ら政治史家も指摘している。終戦後に日本の高度成長のエンジンとなったのは、雇用制度の安定と戦中・戦後に味わった貧困への恐怖という、戦争の置き土産だったのかもしれない。

ここまでお読みいただければわかるとおり、実は日本人の長時間労働問題を解決するのは難しくないのである。ただ日本型の雇用制度を欧米流のジョブ型に変えさえすればいいのだ。そうすれば付き合い残業も転勤もなくなり、「社畜」問題も雲散霧消するだろう。

恐らく、多くの経営者や政治家がこうした欧米型労働システムへの転換を考えているはずである。新自由主義政党である日本維新の会はもちろんだが、日立による年功賃金見直しを安倍首相が好意的に評価してみせたことも、かかる潮流の強さを示しているといえる。

この転換が実現すれば、時短により家族とのゆとりのある生活が実現する反面、自社の業績が悪化すれば職を失うことになり、少数のエリートを除くほとんどの労働者が昇進や昇給と無縁になる結果、賃金水準は大幅に低下するだろう。

これは共働きの事実上の強制化によって対処するほかないだろうから、女性も絶対に仕事を止められない時代がやってくるが、働きたいという女性がこれだけ多いのだから、大きな問題とはなるまい。いずれにせよ、こうしたシステムの転換が日本の社会や文化にいかなる影響を与えるかをこれ以上推測することは、私の乏しい知的能力を超えている。

その他、読書メーターでは「Maho」さんによる『日本の雇用と中高年』の書評と、

http://bookmeter.com/cmt/42289903

26184472_1 日本はバブル崩壊までずっと年功序列型の雇用形態が叫ばれていると思っていたため、1960年代にジョブ型に移行しようとする動きがあったことを知って驚きました。また、管理職への昇進の仕方も日本は欧米からすると独特なのだろうなと感じました。年齢が上がって子育てや教育にお金がかかるようになったら社会全体で支えられるようになればいいなと感じました。例えば児童手当の他に、就学援助の拡大や住宅購入費や家賃の補助などもあればと思います。

「みい」さんによる『若者と労働』の書評がアップされています。

http://bookmeter.com/cmt/42415911

Chuko 日本の雇用システムはメンバーシップ型。非正規雇用者の不安定さ、正規労働者の働きすぎ、いろいろな問題を解決する方法として、ジョブ型正社員という働きかたの提案。なるほど。現実に即して、より働きやすく生活しやすく会社にとってもメリットを、ってことね。

2014年11月 1日 (土)

同一労働同一賃金とは

民主党と維新の党が同一労働同一賃金推進法案を共同で提出するというニュースが流れてきたので、

http://www.sankei.com/politics/news/141029/plt1410290032-n1.html

民主党と維新の党は29日、政策責任者による定例協議を国会内で開き、維新の党がまとめた「同一労働・同一賃金」推進法案や、政府の「地方創生」関連2法案の対案を共同で国会に提出する方針で一致した。両党は安倍政権への対決姿勢を強めており、後半国会に向け、閣僚の疑惑追及だけでなく政策論議でも共闘を加速させる考えだ。

「同一労働・同一賃金」推進法案は、非正規労働者が正社員と同じ仕事をすれば待遇や賃金を同じとする内容。他の野党にも協力を求める。提出時期は、民主党が成立阻止を掲げる労働者派遣法改正案の審議状況を見ながら判断する。

改めてこの問題について真面目に考える上で必要な歴史的な経緯や近年の動向をまとめておきます。

一番詳しいのは『季刊労働法』に書いたこれですが、

http://homepage3.nifty.com/hamachan/equalpay.html「同一(価値)労働同一賃金の法政策」『季刊労働法』第230号「労働法の立法学」シリーズ第23回

もう少し簡略化したこちらの方が読みやすいと思います。海老原嗣生さんの雑誌『HRmics』に書いたものです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/hrmics13.html「同一労働同一賃金はどいつの台詞だ?」『HPmics』8月1日号

はじめに

 非正規労働問題の一つの焦点が均等待遇であることはいうまでもありません。そしてその際にキーワードとして用いられることが多いのが「同一労働同一賃金」ないし「同一価値労働同一賃金」の原則です。なんといっても、政府自ら2010年6月の「新成長戦略」の中で、「「ディーセント・ワーク(人間らしい働きがいのある仕事)」の実現に向けて、「同一価値労働同一賃金」に向けた均等・均衡待遇の推進・・・に取り組む」と言ってますし、与野党問わず選挙マニフェストでは「同一労働同一賃金」を訴えています。

 今日では、同一(価値)労働同一賃金を主張し、正社員と非正規労働者の均等待遇を主張するのが労働側で、それに消極的なのが経営側というのが一般的な常識でしょう。実際、連合が2010年にまとめた「働くことを軸とする安心社会」では、「男性正社員中心の旧弊を改め、女性社員や非正規労働者を含めて、法律や労働協約による最低賃金規制の強化を基盤として、同一価値の仕事には同一水準の賃金を支払い、処遇全般にわたっても、均等・均衡待遇を実現していかなければならない。」と主張しています。これに対し、日本経団連は2011年度版「経営労働政策委員会報告」において、「わが国では産業横断的な職務給概念は確立しておらず」、「賃金のあり方は各国の歴史、労使慣行などによっても異なる」と、欧米型同一労働同一賃金の発想を退け、「わが国の「同一価値労働同一賃金」の考え方は、「将来的な人材活用の要素も考慮して、企業に同一の付加価値をもたらすことが期待できる労働(中長期的に判断されるもの)であれば、同じ処遇とする」と捉えるべき」と述べ、むしろ日本型職能給の考え方の堅持を主張しています。どちらに賛同するかはともかく、この労使配置状況自体に違和感を感じる向きはあまりないと思われます。

 ところが、今から半世紀前の日本では、労使の主張はまったく逆転していたのです。経営側が職務給による同一労働同一賃金の実現を声高に主張し、労働側はあれこれと理屈をこねてそれを嫌がっていたのです。ホント?ホントですよ。それをこれから見ていきましょう。

1 軍部から労組へ:戦中戦後を貫く生活給思想

 戦後日本で一般化した生活給思想の最初の提唱者は呉海軍工廠の伍堂卓雄です。1922年でした。労働者の思想悪化(=共産主義化)を防ぐ観点から、若い頃は高給を与える必要はなく、家族を養う壮年期以降に高給を払うべしと唱えたのです。この発想が戦時体制下において、皇国の産業戦士の生活を保障するという観点から、勅令や行政指導などによって企業に強制されていきました。日本の企業に生活給が普及したのはこの時期です。

 敗戦によりそれらの法令がなくなったので、賃金制度も元に戻るかと思いきや、そうはなりませんでした。今度はそれを支えたのは、急進的な労働運動だったのです。1946年の有名な電産型賃金体系は、本人の年齢と扶養家族数に応じて生活保障給を定める典型的な年功賃金制度でした。当時、GHQの労働諮問委員会や世界労連(国際自由労連が脱退する以前の西側中心の国際労働運動)は、そういう賃金制度を痛烈に批判していたのですが、日本の労働組合は断乎として同一労働同一賃金原則を拒否したのです。1947年に制定された労働基準法が当初案の「同一価値労働同一賃金」ではなく「男女同一賃金」にしたのも、労働側が「いはゆる生活賃金、生活をし得る程度の賃金を与へるといふ考へ方と、男女同一価値労働に対する同一賃金といふ観念とには矛盾がある」と指摘したためです。

2 経営側の主張する同一労働同一賃金原則

 これに対し、1950年代以降力を回復してきた経営側は、労働側の賃上げ要求に対して、構造論としての賃金制度改革論、すなわち職務給への移行の論陣を張っていきます。とりわけ1955年に当時の日経連が総力を挙げて刊行した『職務給の研究』という大著は、「賃金の本質は労働の対価たるところにあり、同一職務労働であれば、担当者の学歴、年齢等の如何に拘わらず同一の給与が支払われるべきであり、同一労働同一賃金の原則によって貫かれるべきものである」と高らかに宣言しています。また1962年の「賃金管理近代化の基本方向」という文書は、職務基準の原則、年齢別格差縮小の原則、社会的標準化の原則を提示し、「10年から20年の期間ではなく、目前緊急の課題」として職務給に移行することを打ち出しています。

 当時の賃金格差問題は主として大企業と中小零細企業の格差が論じられていましたが、日経連は「大企業における終身雇用制という封鎖的な雇用体系と、その中で形成されてゆく年功序列的な賃金体系」が規模別賃金格差の背景であり、これを解決するには「職務価値に応じた合理的な賃金体系」が重要であると主張していました。信じられないかも知れませんが、当時の日経連は日本社会近代化論の最尖兵だったのです。

3 労働側のリラクタントな姿勢

 これに対して労働側は、口先では同一労働同一賃金を唱えながら、実際には生活給をできるだけ維持したいという姿勢でした。この点で興味深いのが、1949年にマルクス経済学者の宮川實が唱えた「同一労働力同一賃金説」です。彼によれば、マルクス経済学では労働力の価値とは労働力が作り出す価値ではなく、労働力を再生産するために必要な労働の価値なのだから、賃金は労働の質と量に応じて支払われるべきというのは間違いであって、労働力の再生産費によって決まるべきであると唱えました。だとすれば単身の若者の賃金が低く、妻子のある中高年の賃金が高いのは経済学にまったく正当ということになります。さすがに労働組合が正面からこの理屈を掲げたことはないようですが、本音としてはかなり共有されていたのではないかと思われます。

 実際の組合の運動論では、賃金闘争はもっぱら「大幅賃上げ要求」一本槍で、労働者内部に対立をもたらすおそれのある賃金制度の問題は慎重に避けられていたようです。総評の1962年運動方針では、「職務給は同一労働同一賃金を実現するものだという宣伝によって労働者を巻き込もうとする。しかし、それは格差をちじめるだけで労働者の要求とはまったく違う」「われわれが要求しているのは、単に年功なり、男女なりの賃金格差が縮小すればよいということではなく、年配者、男子の賃金を引き上げながら、青年なり婦人なり、臨時工なりの賃金をいっそう大きく引き上げて短縮する。言い換えれば、同一労働同一賃金は賃金引き上げの原則であって、単なる配分の原則ではない」と、苦肉の表現をしています。

4 政府の積極姿勢

 では政府はどういう立場だったのでしょうか。これまた大変意外の念を抱かれるかも知れませんが、1960年の国民所得倍増計画を始めとして、当時の政府の政策文書は口を揃えて「賃金、雇用の企業別封鎖性を超えて、同一労働同一賃金原則の浸透、労働移動の円滑化」を唱道していました。特に1963年の「人的能力に関する経済審議会答申」は、「今後の賃金制度の方向」として「職務給のもとで職務評価によって公平に職務間の賃率の差を定めることができるとともに、個個の職務においては同一労働同一賃金の原則が貫かれる」と述べ、さらに「本来、本工、臨時工という身分差に基づく雇用条件の差は認められるべきではなく、将来職務要件に基づく人事が徹底すれば、同一職務における身分差は消滅するであろう」と、非正規労働問題の解決も展望に入れていました。

 労働行政においても、1965年の雇用審議会答申が「近代的労働市場の形成」を看板に掲げ、職業能力と職種を中心とする労働市場を形成することによって労働力の流動性を高めるとともに、「年功序列型の雇用賃金の改善」を示していますし、1970年の婦人少年局長通達はなんと「パートタイマーは労働時間以外の点においてはフルタイムの労働者と何ら異なるものではない」(婦発第5号)と述べていたのです。1967年に政府がILOの「同一価値労働についての男女労働者に対する同一報酬に関する条約」(第100号)を批准したのも、こういう時代精神を抜きにしては理解しにくいでしょう。

5 そして誰も言わなくなった・・・

 こういう60年代までの動きからすると、日本でも職務給が一般化し、同一労働同一賃金原則が確立する方向に動いていっても不思議でなかったように見えますが、あに図らんや事態は全く逆の方向に進んでいったのです。それを一言でいえば、仕事に着目する職務給からヒトに着目する職能給への移行です。これをリードしたのも、理屈もなく反対していた総評ではなく、職務給を推進していたはずの日経連でした。1969年に取りまとめられた『能力主義管理』は、「われわれの先達の確立した年功制を高く評価する」と明言していわゆる職能資格制度を唱道し、明確にそれまでの職務中心主義を捨てました。

 そして、大変興味深いのは、これを契機にしてこれ以後賃金制度の問題が労使間でもはや議論にならなくなってしまったということです。口先では同一労働同一賃金を唱えながら、本音では年功制を維持したいと考えていた労働組合側にとって、日経連の転換は好都合なものだったのでしょう。政府も石油ショックで遂に態度を転換し、内部労働市場中心の雇用維持政策を追求するようになります。

 これに対応するのが、労働経済学における内部労働市場理論の興隆であり、その結果、賃金制度について1930年代から1960年代半ばまで議論は盛んに行われたにもかかわらず、その後の20余年間は議論が途絶してしまいました。当時の最先端にあった小池和男の理論とは、総評が自力では展開できなかった職務給の理論的反駁を経済理論を駆使してスマートにやってのけた(ように見えた)のです。そして、ここで失われたのは、それまで曲がりなりにも口先では維持されてきた同一労働同一賃金原則でした。そんな「古くさい」代物は誰からも顧みられなくなってしまったのです。

6 「均衡」ってなあに?

 同一労働同一賃金原則が政策課題として復活するのは、パートタイム労働をめぐる議論のなかからですが、その道行きはなめらかではありませんでした。1970年の通達ではパートは身分ではないと言っていた労働行政も、1984年の労働基準法研究会報告では、採用基準や採用手続の違いからパート労働者を異なる身分として扱う日本的雇用慣行を所与の前提とする発想にどっぷりつかっていました。

 そうした中で1992年に成立したパート労働法には、国会修正で「その就業実態、通常の労働者との均衡等を考慮して」という一句が盛り込まれました。盛り込まれたのはいいのですが、この「均衡」がどういう意味であるのか、何をどうやれば均衡に扱ったことになるのか、どこにも答はなくなっていたのです。こうして、労働行政は何回も研究会を繰り返し、2003年に大臣指針、2007年に法改正と、10年、15年かけて「均衡」ってなあに?という問いに対する答を探し求めてきました。

 なぜ答を探し求めなければならなかったかといえば、かつて1960年代までであれば政府も経営側も当然のような顔をして提示したであろうはずの同一労働同一賃金原則が、今さら恥ずかしく表に出せない代物になってしまっていたからでしょう。

7 不合理な相違の禁止←いまここ

 昨年末から今年にかけて、非正規関係の立法提案に動きがありました。今年3月に国会に提出された有期労働契約関係の労働契約法改正案では、「労働条件の相違は、労働者の業務の内容及び当該業務に伴う責任の程度、当該職務の内容及び配置の変更の範囲その他の事情を考慮して、不合理と認められるものであってはならない」という規定を設けようとしていますし、パート法について審議している労政審の部会に提示された報告案には、「職務の内容、人材活用の仕組み、その他の事情を考慮して不合理な相違が認められないとする法制を採ることが適当」と述べています。こういう不合理な相違の禁止が現段階の法制のイメージのようです。

 これらの法案や提案が今後どうなるかは分かりませんが、労使のぎりぎりの妥協としてこういう苦肉の表現をせざるを得ないというところに、かつて主唱していた職務給型同一労働同一賃金原則とはかけ離れてしまった日本の経営側の立場がよく窺われます。しかし考えてみれば、労働側だってずっと日本型職能給の世界に生きてきたわけですし、そもそもかつては経営側や政府の職務給攻勢に対して必死で防衛していた立場であるわけで、自分たちの賃金制度をどうするつもりで「同一労働同一賃金」などという本当は大変なはずのことを軽々と主張しているのだろう、という疑問も湧いてきます。

 もしかしたら、連合にとって同一労働同一賃金原則というのは、女性とかパートとか非正規といった特別な人たちについて論じるときにのみ持ち出される非常用設備であって、自分たちの日常の賃金制度に直接関わるものとは意識されていないのかも知れません。

8  同一労働同一賃金はどいつの台詞だ?

 改めてこの数十年の歴史を振り返ってみると、「攻守ところを変え」という言葉が思い浮かびます。1950年代から60年代には経営側や政府が同一労働同一賃金原則を声高に主張し、労働側は正面から反論しにくいものだからいろんな屁理屈をこねていたのに、そんな問題が意識されなくなった時代を間に挟んで、1990年代から2000年代には労働側が(どこまで本気であるかはともかく)同一労働同一賃金原則を声高に叫び、経営側は「同一価値労働かどうかは中長期に判断するのだ」などと苦肉の反論をしています。

 同一労働同一賃金という字面それ自体はまことにもっともな原則であるがゆえに、反論する側が屁理屈になる傾向があるわけですが、そもそも声高に主張している方が(かつての経営側にしても現在の労働側にしても)どこまで本気で言っているのかいささか疑問なしとしないというところも、かつてと現在の共通点かも知れません。

 なんにせよ、こういう経緯を眺めてくると、「同一労働同一賃金はどいつの台詞だ?」といいたくなりますね。どいつもこいつも本気じゃないのに・・・。

紆余曲折の結果、現時点で「同一価値労働同一賃金原則」をまともに導入することに対する明示的な最大の抵抗勢力は、かつてそれを主唱していたはずの経営者側であり、経営側がダメというものには政府もなかなかうんと言えないという皮肉な状況になっていると言うことですね。

それを維新の党と民主党というコンビで法案を出すというあたりに、今日の日本の政治状況の複雑怪奇さが現れていると言うこともできるかもしれません。

大学教育の職業レリバンス(再掲)

水曜日のエントリ

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/on-l-e5f1.html (大坂洋さん on L型大学)

のコメント欄に、「Alberich」さんが本ブログの8年以上も前のエントリを一部引用していただいています。

せっかくですし、改めて読み返してみると、今回の一連の騒ぎで提示された論点が、すでにこのときにだいたい出ていることがわかる貴重な資料でもありますので、読者の皆様の参考のために、ここに再掲しておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html (大学教育の職業レリバンス)

4月の11,17,25日に、平家さんとの間でやり取りした大学教育の職業レリバンスの話題ですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html

その後、稲葉先生のブログ経由で、東大教育学部の広田先生がこの問題に関連する大変興味深いエッセイを書いておられることを知りました。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060513#p2

内容の簡単な要約は以下にあります。

http://d.hatena.ne.jp/merubook/20060502/p2

特に面白いのは次の一節です。

「しかし、日本の人文・社会科学のこれまでの発展を支えてきたのは、実はこうした研究者を養成しない大学なのだ。大学院を終えた若手の研究者の大半は、それら地方国立大や中堅以下の私学に就職してきた。雑務も授業負担もまだ少なかったし、研究者を養成しないまでも、研究を尊重する雰囲気があった。・・・いわば、地方国立大や中堅以下の私学が、次の次代を担う若手研究者の育成場所となってきたのだ。

地方国立大や中堅以下の私学が研究機能を切り捨てて、顧客たる学生へのサービスを高度化させようとするのは、大学の組織的生き残りを目指す経営の論理からいうと、合理的である。・・・だが、その結果、若手の有望な研究者がせっかく就職しても、その後研究する余裕がない。」云々

この一節に対しては、山形浩生さんが

http://cruel.org/other/rumors.html#item2006050101

で、いかにも実務家インテリとしての感想を漏らされています。「ふざけんじゃねえ。三流私大の学生(の親)はあんたらに優雅に研究していただくために高い学費を納めてるわけじゃねーんだ!」というのは、おそらくかなり多くの人々の共感を呼ぶ罵声でしょう。「悪い意味での朝日体質」とは必ずしも思いませんが。というか、保守系人文屋も同じだと思うので。

ただ、これはそういって済ませられるだけの問題でもないだろうとも思います。稲葉先生が的確に指摘されているように、これは「研究者・高等教育担当者の労働市場の問題」なのであり、そういう観点からのアプローチが必要なはずです。

私には、まずもって「人文・社会系」と対象を大くくりにすることが問題を混乱させているように思われます。その中には、大学で教えられる教育内容が、大学教授となること以外には職業レリバンスがほとんどないような領域もあれば、企業や役所に就職してからの実務に多かれ少なかれ職業レリバンスが存在する領域もあるからです。

前者の典型は哲学でしょう。大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。

これは一見残酷なシステムに見えますが、ほかにどういうやりようがありうるのか、と考えれば、ある意味でやむを得ないシステムだろうなあ、と思うわけです。上で引いた広田先生の文章に見られる、自分の教え子(東大を出て下流大学に就職した研究者)に対する過剰なまでの同情と、その彼らに教えられている研究者なんぞになりえようはずのない学生に対する見事なまでの同情の欠如は、この辺の感覚を非常に良く浮かび上がらせているように思います。

ところが、この議論がそのまま広田先生とそのお弟子さんたちに適用できるのかというと、ちょっと待ってくれという点があります。彼らは教育学部なんですよね。教育学部っていうのは、社会的位置づけがある意味で180度違う分野です。

もともと、大学の教育学部というのは、ただ一つを除いて、戦前の師範学校、高等師範学校の後継者です。つまり、学校の先生という職業人を養成する職業教育機関であって、しかも最近はかなり揺らいできているようですが、教育学部卒業と(大学以外の)教師たる職業の対応性は、医学部や薬学部並みに高かったわけで、実は人文・社会系と一括してはいけないくらい職業レリバンスの例外的に高い領域であったわけです。

ただ一つの例外というのが、広田先生がおられる東大の教育学部で、ここだけはフツーのガッコのセンセなんかじゃなく、教育学というアカデミックな学問を研究するところでした。そこを出た若い研究者の卵が、ガッコのセンセを養成する職業訓練校に就職して、肝心の訓練指導をおろそかにして自分の研究ばかりしていたんではやっぱりますいんでなかろうか、という感じもします。

実は、こういう研究者養成システムと実務家養成システムを有機的に組み合わせたシステムというのは、理科系ではむしろ一般的ですし、法学部なんかはかなりいい加減ですが、そういう面もあったと言えないことはありません。ロースクールはそれを極度に強調した形ですが、逆に狭い意味でのローヤー養成に偏りすぎて、医療でいうパラメディカルに相当するようなパラリーガルの養成が抜け落ちてしまっている印象もありますが。

いずれにせよ、このスタイルのメリットは、上で見たような可哀想な下流大学の哲学科の学生のような、ただ研究者になる人間に搾取されるためにのみ存在する被搾取階級を前提としなくてもいいという点です。東大教育学部の学生は、教育学者になるために勉強する。そして地方大学や中堅以下の私大に就職する。そこで彼らに教えられる学生は、大学以外の学校の先生になる。どちらも職業レリバンスがいっぱい。実に美しい。

もちろん、このシステムは、研究の論理と職業訓練の論理という容易に融合しがたいものをくっつけているわけですから、その接点ではいろいろと矛盾が生じるのは当たり前です。訓練を受ける側からすれば、そんな寝言みたいな話ではなく、もっと就職してから役に立つことを教えてくれという要求が出やすいし、研究者の卵からは上で広田先生が書かれているような苦情がでやすいでしょう。

しかし、マクロ社会的なコストを考えれば、そういうコンフリクトを生み出しながらも、そういう仕組みの方がよりヒューマンなものではないだろうか、と思うわけです。

では、人文・社会系で一番多くの人口を誇る経済系の学部は一体どっちなんだろう、というのが次の問題ですが、とりあえず今日はここまで。

<追記>

読み返してみると、やや広田先生とそのお弟子さんたちに揶揄的に見えるような表現になっている感があり、若干の追記をしておきたいと思います。

実は、広田先生とそのお弟子さんたちの業績に『職業と選抜の歴史社会学-国鉄と社会諸階層』(世織書房)というのがあり、国鉄に焦点を当てて、近代日本のノンエリートの青少年たちの学歴と職業の姿を鮮烈に描き出した傑作です。こういうノンエリートへの暖かいまなざしに満ちた業績を生み出すためには、上で引用したようなノンエリートへの同情なき研究エゴイズムが充たされなければならないのか、というところが、この問題の一番難しいところなのだろうな、と思うわけです。

http://www.bk1.co.jp/product/2495103

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