「みんながエリートを夢見る」(大学版)はとっくに終焉しているのに
ニュースポストセブンにオバタカズユキさんがこういう記事を書かれています。
http://www.news-postseven.com/archives/20141004_279882.html (グローバル大学事業 このままなら格差社会を助長しかねない)
文部科学省が発表した大学中退者の実態とスーパーグローバル大学の選定結果を取り上げて、最後にこう語ります。
立て続けに流れた2つの大学ニュース。それぞれ別個の話題だが、私には「格差」がさらに拡大する流れとしてセットで見えてしまうのだ。スーパーなんちゃらの余裕があるなら、貸与型ではなく給付型奨学金制度を作れ、保護者の所得と連動させた授業料免除制度を作れ、と言ったら野暮だろうか。少なくとも、5年ぶりとかじゃなくて、大学中退者の実体調査ぐらい毎年きちんとサクサクやれ、と言わせてもらってもいいのではないだろうか。
問題意識はよくわかるのですが、それを「格差」という言葉で語ってしまうことでかえって解決すべき問題の本質から遠ざかってしまうのではないかという気がします。
問題は、一方にスーパーグローバルな大学や学生がいて、一方にローカルな大学や学生がいることではない。むしろ、どう考えても半径数キロ以内しか知らないような大学が学部名だけグローバルとかつけているアイロニーに露呈しているような、大学といえばみんな同じ「学術の中心」という現実と乖離したイデオロギーが、こういう矛盾を生み出しているのではないかと問うてみる必要があるのではないでしょうか。
なぜ、同世代人口の半分以上が進学する、もはや普通の職業人として生きていくための基礎資格的な性格を有するようになった大学という教育訓練機関が、にもかかわらず学校教育法上の「学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させる」機関だという位置づけのままに、今やかなり高額の授業料等を払わなければならず、しかも常勤の研究職に就かなければ高利の奨学金を返し続けなければならないという状況にあるのか、という問いと裏腹の関係にあります。
専修学校や、なんと専門職大学院までが、その授業料を雇用保険の金で面倒見てもらえるような仕組みができてきているにもかかわらず、大学は職業教育機関なんかではないから、貧しくて中退する人が出ても仕方がないということになっているのか、そういう問いと裏腹の関係にあります。
まことに残念ながら、アカデミアな方々の目にはそういう問題意識はほとんどなさそうです。
話を少し広げると、これは今まで卒業後に「入社」していく先であった日本型システムの企業社会のロジックと相似形であることがわかります。そう、海老原嗣生さんとの対談で語った「みんながエリートを夢見る社会」です。係員島耕作がみんな社長島耕作になれると信じて(信じたふりをして)無限定に働く世界。
その大学版としての「みんながエリートを夢見る」(ふりをしている)空中楼閣が崩れだしているのであれば、そこで学ぶ貧しい学生たちの将来の職業人生をどうするかということが最優先で考えられるべき課題でしょう。
アカデミアな方々の危機感というのは、全然逆の方向に向いているようですが。
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コメント
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アカデミアの方々は学生の心配を口にしながら本音は自分の
立場の心配ですね。
大学で職業教育というと物凄い反対する方も多いですが
この現実をどう見るんですかね?
投稿: 名無し | 2014年10月 5日 (日) 05時43分
「大学は就職予備校ではない」という常套句があります。もともとは、「大学は単に職を得るだけの場ではなく、各界の指導者となるにふさわしい教養を身につける場であるべき」という意味合いだったと思うのですよね。J.S. ミル著『大学教育について』(岩波文庫)にそうした一節があったと思います。本が手元にないのでうろ覚えですが。
しかし、現代の大学の多くは、「単に職を得るだけの場」ですらなくなりつつあるわけでして。そうなると、「大学は就職予備校ではない」のではなく「就職予備校以下の存在」というのが正しいですね。
投稿: IG | 2014年10月 5日 (日) 19時09分