渡辺治・岡田知弘・後藤道夫・二宮厚美『〈大国〉への執念 安倍政権と日本の危機』
渡辺治・岡田知弘・後藤道夫・二宮厚美『〈大国〉への執念 安倍政権と日本の危機』(大月書店)をお送り頂きました。ありがとうございます。
http://www.otsukishoten.co.jp/book/b182477.html
改憲~軍事大国化と新自由主義改革の再起動という課題を自覚的に遂行する安倍政権の現段階を構造的に分析。対抗への道筋を示す。
第1章 安倍政権とは何か?(渡辺 治)
第2章 「富国強兵」型構造改革の矛盾と対抗(岡田知弘)
第3章 安倍政権の社会保障改革と労働改革──皆保険体制の解体と労働移動強制(後藤道夫)
第4章 安倍政権が走るグローバル競争国家化路線の国民的帰結(二宮厚美)
という執筆分担で、わたくしとの関係では第3章の後藤さんの書かれた部分がいくつか重要な論点を提起しています。
ここではそのうちとりわけ、
3 安倍労働改革──日本型雇用の最終的解体と経営独裁
の節で述べられている限定正社員批判、というよりむしろ「無限定正社員」概念批判を取り上げたいと思います。
後藤さんはここで、ある種の批判者の如く、そもそも法律上正社員と雖も無限定じゃない、なんていう批判だけで済ませてはいません。そんなことはみんなわかっているわけです。にもかかわらず、現実の正社員が無限定的になっているという現実をどう説明するのか。
本書で後藤さんは、メンバーシップ契約そのものとそれをある程度前提とした経営独裁という概念を区別し、それを時間軸の上で次のように位置づけようとします。
・・・日本型雇用の雇用契約が「メンバーシップ型」の実質を持つようになったのは、おそらく1960年代であろう。製造大企業のブルーカラー採用でも職種別採用が後景に退き、一般的な学力テストを行って新卒一括採用が普通になった。就職でなくて就社といわれる状況への転換である。
とはいえ、これは、職務、勤務地、労働時間についての会社の無制約な命令権を意味してはいなかった。不払い残業が当然の「仕事が終わるまでが労働時間」という違法状況が広範に見られるようになったのは1980年代である。また、異動、出向、転属についての本人事情の考慮の要求、労働組合との事前協議の要求は、60年代、70年代には特別なことではなかった。そうした領域での「経営独裁」状況が成立してくるのは70年代中葉以降である。
したがって、「無限定」には、二つの意味あるいは段階を考えなければならない。現在の働き方の「無限定」問題の一側面は「メンバーシップ契約」であり、他の側面は「経営独裁」あるいは労働側の無力である。もっといえば、日本型雇用における長期雇用慣行も無視する、使い捨ての「無限定労働」(ブラック企業)が広がった段階はさらに区別すべきなのであろう。現状の「無限定正社員」を無批判に参照基準とすることは、メンバーシップ契約をカテゴライズすることではなく、実は、経営独裁を正常な状態と宣言しているだけのことである。
この歴史認識は、おおむね正しいと思います。ただ、若干のコメントをいえば、その「経営独裁」以前のメンバーシップ契約とは、企業別組合による終身雇用男性正社員の利益擁護をその一部として組み込んだものであって、そこに戻ればいいというものでもないわけです。また、この二つは独立した軸なのかというと、後藤さん自身も認めるように
「メンバーシップ契約」が「経営独裁」に対する労働側の抵抗力をそぎやすい、という事情は、労働組合運動論にとって極めて大きな意味を持つが、この二つが直接の論理的関係にないことは明白である。
という裏返しの表現にも表れています。
たとえば、労働時間の無制限性についても、ある時期までは女性は法律によって時間外規制や深夜業禁止が課せられ、もっぱら男性の時間外労働が時間外手当の権利と交錯しながら、36協定が確かに労使交渉の手段として活用されていたわけで、喉から手が出るほど時間外手当を欲しい気持ちを抱えつつ、36協定を結んでやらないぞ、さあどうだと交渉するという男たちの世界が確かにあったわけです。
このあたりをきちんと分析するためには、一つには後藤さんの指摘する集団的労使関係の絡み方、もう一つはそのジェンダー的性格という少なくとも二つの軸が必要になるでしょう。
その他の論点についてもいくつか重要な指摘がなされていますが、ここではこれだけにとどめておきます。
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今更ですが面白い‼是非対談して深めて下さい。
そして出来れば是非、現代日本の労働と労働組合、そして集団的労使関係についても話し合って下さい。
投稿: 高橋良平 | 2016年5月12日 (木) 20時14分