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2014年10月 4日 (土)

レトリックとしてもそこまで言うたら嘘やろ

話の主眼がそこにはないのは承知の上で、それ故話を盛り上げるために盛った言い方をしていることを差し引いたとしても、それにしてもそこまで言うたら嘘やろ。

http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20141002/p1 (流れた研究会用のメモ)

結局バブル崩壊以降、労働プロパーの研究者の大半は、左右を問わず伝統的日本型雇用への回帰を呼びかける以上のことができない。

こういう嘘を言わんとリフレの宣伝がでけへんのやったらやめた方がええ。

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コメント

いえ先生、私割と本気でこういってます。ただ補足を少しばかり。
まずこれは純粋に客観的な事実判断を表明しているというより、評価的な発言でして、それが「大半」とか「以上のこと」といったフレーズに込められているのですが、その辺がきちんと若手いただけなかったのはこちらの未熟かとも思います。
まず「大半」というのはあいまいな表現で科学的ではないのはたしかです。常識的に言えば5割超えてないと「大半」とは言い難いでしょう。で、おまえ実際に5割超えてると思うんかい、と言われればちょっとたじろぎます。たぶん6割超えてるかなとは思いますが確証してませんし、3~4割の可能性も否定はできません。ただ3~4割としてもその3~4割はいわば中核的なもので、残りの6~7割がそれに対抗する塊になっているとは思えません。その辺はバラバラでしょう。
「以上の」というのは「それよりましな」という含意を込めています。私は、煽られて変な試行錯誤をして混乱するくらいなら、伝統的なやり方を保守する方が無難でずっとましな選択だと思っていますので、雇用システム改革に関する限り、保守主義を支持します。いわゆる「成果主義」の内実を検討する中村圭介先生らのお仕事もこういうものかと勝手に解釈しております。この辺「ジョブ型正社員」等々の前向きの提言も試みておられる先生には失礼かもしれませんが。
ただまあ、がっかり感があることは認めますが(個人的には野村正実先生の『雇用不安』を読んだとき「こういうしかないよな」的なトホホ感を我慢できませんでした。)
ただミクロな雇用システム改革では下手な工夫を打つより保守主義がいいとしても、マクロにおいてはもっと能動的な政策提言があってしかるべきと思います。しかしその辺では、少なくとも大物筋ではドーア先生やhamachan先生ほどマクロ拡張政策にコミットしている方はそれほど多くないという印象を受けます。橘木先生とか、明確に成長悲観論ですよね? 要するに何でみんな「シュトルムタールを読み返せ」とおっしゃらないのか?
(付言ですが私シュトルムタールの著書のことは熊沢誠先生の御著書から知りました。)
まあこの辺、私どもより若い世代の上西充子さんや熊沢透君、吉田誠君、金子良事君などの意見も聞きたいところではあります。

とりあえず、「大半」がレトリックであるとご本人が書いていただけたので、所期の目的は完了です。

その上で若干の余計なコメント。私は保守主義者ではありませんが、軽佻浮薄な「カイカク」論に対して多くのまともな方々が外見上保守主義的な対応をするのは共感しますし、私自身もそのような対応をすることはあります。しかし、莫迦の相手のフェーズを別にすれば、きちんとしたミクロ改革論を展開される方が多いのもまた事実だと思います。

問題は、そのレベルのことと、マクロ経済政策でどのような対応をするかとは直接論理的関係はないにもかかわらず、あたかもそれが繋がっているかのような書き方をされた点であって、それこそリフレ派からは崇められている竹中平蔵氏が、、まさに軽佻浮薄な「カイカク」論の典型的存在であること自体が、その証左でしょう。

竹中氏に限らず、いわゆる「リフレ派」と称される(あるいは少なくとも崇められている)エコノミストの(もちろん「大半」ではないにせよ)かなりの部分が、上記雇用システムの改革に関わる論点において、真摯な「改革」論であるどころか、池田信夫や城繁幸と選ぶところのない、絶望的なまでに軽佻浮薄な「カイカク」論でしかないことは、稲葉さんともあろう方であれば重々承知のことと思いますが、その「ねじれ」自体を、一人のリフレ派論客として、どのように背負われる覚悟があるのか、ということも、この問いの一環として問われることはご認識いただきたいところでもあります。

まだそんな年寄りでもないんですから、若い世代に任せる、はなしですよ。

先生、それは筋悪の反批判ですよ。
「労働プロパーの研究者はマクロ問題について何をしとんねん」という私の妄言に「いや、これこれの立派な仕事がある(今こう書いてて思いついたのは日銀出身の黒田祥子・山本勲コンビの『デフレ下の賃金変動』ですな。あと脇田成さんもじっくり続けてる)」と反駁していただかないと。
これでは「お前らもたいがい下種やろ」で終わっていて労働プロパー研究の弁護になってない。
まあ飯田泰之君なんかは雇用流動化について変な期待をしてるなあとは思いますが、田中秀臣氏なんかは「そんなのは下らん」と否定的ですし、「リフレ派」で雇用システムについての一致した見解はないかな、と思います。

私マクロ問題を除けば労働プロパーの研究者の皆さんは頑張ってらっしゃると思いますよ。ただなんかなあ、労働法プロパーはピンときません。先生は面白いけど、本流じゃないですよね?
それこそ「派遣法」以降、そして「偽装請負」等々が社会問題となる中、それこそ実務の方から労働法理論の根本的革新というか見直しへの要請があるのに、それに応えきれていないというか……。

ちょっと話の筋が逆転しているように思えるのですが。

これではまるで、リフレ派が裁判官よろしく鎮座して、労働研究者が被告よろしく、いかに自分がリフレに認識があるかを切々と訴えなければならないみたいですね。

逆ではないですか。

なぜ労働研究者、社会政策研究者が、本来の西欧型の配置構造からすればシンパシーを感じるはずの金融政策に対して敵対心を抱いてしまうのかを、当のリフレ派の側がきちんと反省して、そうじゃないんだと被告席から切々と訴えるべき立場にあると思いますが。

私なんぞは一時、いやいやトンデモなあいつらは「りふれは」であって、本来の「リフレ派」とは違うんだなどと言葉尻レベルの「弁護」をしてみたりもしましたが、被告席にいるという認識の欠如した人々から下司な罵声を浴びせられて、もうとっくにやる気をなくしています。正直、勝手にしたら?という気持ちしかありません。

どうもそこのところがひっくり返ってままで、リンク先のような罵声を投げつけているだけでは、竹中平蔵や八田達夫や高橋洋一よりも浜矩子にシンパを感じる人々に、ただの一言も伝わらないと思いますよ。

労働研究者はほっとくとマクロ問題に関心を持つわけではありません。関心の回路を誰がどういう風につけていくかが戦略的に重要です。そこをまともな労働社会研究者が逃げ出すようなのばっかり並べておいて、自分が裁判官気取りになるのは、いささか筋違いです。

そうやって、潜在的な味方のはずの人々をしっしっと追いやっておいて、味方がいないからと、現代日本で考えられる最低最悪の「お味方」をずらずら並べて、ますます人が寄ってこないように寄ってこないようにしているとしか思えません。

妄言多謝。


(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-66be.html(リフレがトッププライオリティなんて人は存在し得ない)

論理的にはその通り。

ただ、問題はそもそも現実の社会的存在として本当に「リフレ政策の実現がトッププライオリティ」であるような人が、この現実社会において存在するのか?ということです。

敢えて言えばそんな奇怪な人間は(後に述べるように、それすらも現実にはそうではないはずですが)大学でマクロ経済学を担当している教授くらいしかあり得ないと思われます。

それ以外の、現実社会でそれぞれの社会的役割を担っている人々は、その自らの社会的役割自体を平然と否定するような議論とワンセットで持ち出されたら、リフレ政策はセカンドプライオリティになるはずです。自分の社会的任務を否定する人々と和やかに手をつなげるだけのトッププライオリティをリフレ政策に与えられる人はたぶん存在しない。

いや実のところ、大学でマクロ経済学を教えている人だって、「大学でマクロ経済学なんて学生にとってクソの役にも立たないものを教えるのは全くの無駄だから、全部お釈迦にしよう」という主張をする人と、無邪気にリフレ政策で共闘はできないはずでしょう。もしできるというのなら、是非やってみてください。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-274a.html(ニセ経済学の見分け方)

そういう意味では、つまり「りふれ【も】合わせ技でやった方がいい」という考え方も含めるのであれば、わたしも「リフレ派」です。

しかし、リフレがトッププライオリティでないような奴は許さないなどと言われたら、マクロ経済だけで頭の中がいっぱいになっている奇矯な人以外はみんな排除されるでしょう。

「汝りふれ以外を神とすべからず」という妬む神様にはつきあいきれないのが、この世で生きる普通の人間たちの生きざまであるわけで。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-ad20.html(「国が負担する」とは「国民全体がその費用を出し合う」ということ)

まことに、この単純な真理から目をそらしたがる人々の多さには驚かされます。

おそらく、最大限同情的に解釈したとして、今のリフレ派の議論に何らかの正当性があるとしたら、今現時点で増税することが「景気」という(国民全体の福祉に関わる)公共財を毀損する恐れがあるからやらない方がよい、という趣旨なのでしょう。そこには確かに一理あります。

しかし、その一理が人を説得できる場合があるとするなら、それはまったく同様に地域経済を支えるさまざまな公共施設や公共サービスもまったく同様に公共財であり、それはまさに国民全体がお金を出し合って支えなければならないということを明確に言明する場合だけでしょう。つまり、「景気」という公共財だけが全員で負担すべき公共財であり、それ以外のいかなるものの公共性を認めないというような思想ではないことが必要です。

残念ながら、いわゆるリフレ派の人々の行動様式を見る限り、大震災が起こる前からひたすらみんなの税金で支える公共性を目の仇にして減税ばかりを唱える(あたかもアメリカの共和党のさらに急進派であるティーパーティの如き)人々とばかり極めて親密な関係を創ってきているように見えます(もちろん、すべてとはいいませんが)。

そういう公共性一般を敵視しながらなぜか「景気」についてだけは公共性を強調する人々は、多分、今現在の増税を経済理論に基づいて否定するという顔の裏側では、いかなる状況になろうがイデオロギーに基づいて増税を否定するという本音が息づいているのでしょう。


http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-bfa2.html(りふれはの本音)

もちろん、全てのリフレ派がこういう発想だと思っているわけではありませんが、少なくともこういう風に、「脱デフレしろ早く」という言葉が、「正社員と同じような仕事をするパート労働者の待遇を差別しろ」というたぐいの言葉とともに語られることが多いということが、そして、まっとうなリフレ派と自称する人々が、「リフレ政策以外はさまざまだから」という万能の言葉を振りかざしてこういうリフレとある種の思想との結合に対して何にもいわないことが、労働社会政策についてもトッププライオリティだと考える人々の心の中に、リフレ派に対するぬぐいがたい不信感を、少しずつ少しずつ、しかし確実に培養しているということを、もう少し真剣に考えた方がいいと思いますよ。

この手の思想結合が世の中にばらまかれればばらまかれるほど、そしてそれに対してそういう結合に賛成しないリフレ派の声がまったく聞こえなければ聞こえないほど、あなた方はリフレ派の敵を作っているのです。

ま、それでいいとお考えならなにをかいわんやですがね。


「なぜ労働研究者、社会政策研究者が、本来の西欧型の配置構造からすればシンパシーを感じるはずの金融政策に対して敵対心を抱いてしまうのか」

いや先生、失礼ですがこれまた筋悪ですよ。いろんなレベルでダメです。

竹中平蔵や高橋洋一が嫌なら、松尾匡を読みロナルド・ドーアを読みクルーグマンを読めばいいだけの話です。人格や政治的立場と研究を切り離して評価するのが研究者や政策プロモーターのあるべきスタンスでしょう。「あいつらに取られて悔しい」のであれば「あいつらから取り返す」べきなのであって「あいつらがいってるんだからたとえ正しかろうと丸ごと否定してやる、のってやるもんか」なんていい大人のとる立場じゃないでしょう。そんなのは党利党略であって、公益のためにはなりません。

そもそもどうして研究者や知識人の体面や立場を慮ってあげなければならないのでしょうか? いやもちろん、説得のためにはそうした方がよいことはわかりますし、私もあちこちお話を持ち掛ける際には結構配慮してますよ。しかしそういうことは、第三者も見ている公の場でいうべきことじゃないですよ。こんな第三者も見てる場所でそんな風におっしゃると「そうか今時の日本の左派知識人とかプロレイバーの研究者は、公益よりも自分のメンツが大事なケツの狭い奴らか」って誤解されてしまうじゃないですか。

体面やメンツを慮ってあげなければいけない対象がいるとしたら、それこそ選挙民公衆であって、左派であれ右派であれ知識人や研究者ではない――と建て前的には申しておきます。

むろんいろいろおっしゃりたいことはわからぬでもないのです。ことに近代社会の条件の下では、人格的に立派で高潔で度量が広いこと、が必ずしもその政治家・政策担当者の政治的力量や政策的見識の指標とはならない。しかしながら近代民主主義の条件下では、選挙民公衆は、政策的な専門知識を十分に持てるはずがないので、結局人格的信頼が究極的なところで効いてこざるを得ない、それに鑑みるとリフレ派は到底(略)と。

いやいや、「体面やメンツを慮って」もごもごしているのは、リフレを売り込まなければならない側でしょう。

何か勘違いをされているようですが、私は労働経済アカデミズムにも社会政策アカデミズムにもその他その辺には属していない一匹狼ですし、リフレ派の中核部隊から口を極めて罵倒されている身ですから、誰かに対する挙証責任もなければ、守るべき体面も面子もありはしません。

むしろ稲葉さんなんか両方に属しているのだから、真っ先に誤解を解く先頭に立つべき人でしょう。挙証責任を勝手に転換しないでください。

高橋洋一なんかの「金融緩和を攻撃する労働学者より、日銀法改正で雇用確保をいうオレのほうがよっぽど労働学者みたい」などという愚劣なツイートを喜んでRTしている姿が、何よりも雄弁に何事かを語り、そして誰かを追いやっているわけです。

労働プロパーに金融緩和を攻撃しているのなんてほとんどいない。大部分は関心が乏しいだけ。それは上に書いたとおりまったく当たり前のこと。労働学者がリフレをトッププライオリティに考えるはずがない。

出てくるリフレ派が余りにも(労働から見れば)極悪非道のことばかり口走る手合いだから、反リフレ派の経済屋に上っ面だけなびいているみたいに見えるだけでしょう。

その指摘を『筋悪』と言われるのならそれで結構です。リフレ派軍団の悪役レスラーの弁護になるような筋を通さねばならない義理は、私にはないです。


専門分化と相まって、マクロな事柄に関心を持つのは難しくなっているというのが大勢でしょう。この点は私も濱口先生の最後の部分、どう回路をつけるか、ということに極まるだろうと思います。稲葉さんが分かりやすい国家論を書かれれば、問題は解決するんじゃないでしょうか。

先生落ち着いてください。

言うまでもないことですが、私は先生の体面やメンツなど慮るなどという失礼なまねはしていませんよ。
先生はリフレ派であれ誰であれ誰かに体面やメンツなど慮っていただく必要なんかないじゃないですか。(というのが一番のよいしょでおべんちゃらではないかとギャラリーは思うかもしれませんがね。)

リフレ派の弁護をしてくれなどと言ってるわけでもないですよ。

リフレ派なんぞとは関係なしに、金融緩和に関心の乏しい労働プロパーの啓蒙をしていただければありがたいというだけのことですよ。

それとも、労働プロパーの研究者がかたくななのは、もっぱらな市場原理主義的リフレ派の言動が無礼なせいである、とおっしゃるのでしょうか? そんな馬鹿な。それこそ、労働プロパーの研究者を愚弄した話ではないでしょうか。
先生のように「あんな奴らは最低の下種で許しがたい」と思ってらっしゃっても「金融緩和は雇用にとって重要だ」と理解し力説されている方がおられるということ自体、その反証ではないですか? 

ところで先生、「私は労働経済アカデミズムにも社会政策アカデミズムにもその他その辺には属していない一匹狼です」というのはいただけませんね。先生ご自身のおつもりはどうあれ、第三者からは先生は十分、その両方の、極めてアクティブな部分、に見えているはずです。
むしろ私としては「稲葉さんなんか両方に属している」と言われて「そんな双方に対して失礼なことを」と狼狽してしまいますが、これも学界インサイダー以外の第三者から見ればそう見えてしまいかねないことは承知していますから、お叱りは承っておきます。

https://twitter.com/mashimo_8890/status/519071922449965056

濱口先生にほぼ同意だが、今後こういう「どうでもいい」ことにエネルギーをつかうべきでないだろう。

と言われてしまうと、気力が一気に萎えます。

まあ、今週末の社会政策学会での報告までには元気を取り戻しておきます。

岩波新書でも本を出している大瀧雅之氏(東大社研教授)は
マクロ経済学を専攻していると思うが、口を極めてリフレ派を批判している。

稲葉氏も、出世作の1つ「経済学という教養」では、大瀧雅之氏の理論を紹介していたが、大瀧氏が激しいリフレ派批判に転じてからは、シカトしている。
労働プロパーを揶揄する暇があったら、これだけの碩学の批判をどう考えているのか、ぜひ見解を開陳してほしいものだ。


稲葉氏の今回のスタイルに示唆されるように、りふれ派は、学問的に真摯じゃないというのが最大の問題じゃないだろうか?
政治的思惑(仲間を求める)が先行している。

どうみても「歴史学」とは思えないアジテーター倉山満氏などを持ち上げる田中秀臣氏などをみると、りふれ派もここまで堕ちたかと悲しくなる。

yuusuさま

残念ながら私には大滝先生の反リフレ論についてはこちらに引用の浅田先生の書評以上のことは申せません。

http://abc60w.blog16.fc2.com/blog-entry-658.html

そういうふうに、答えやすい自分の土俵のことしかいわず、問われている肝心のことをスルーしているから、来るべき人々が逃げていくって、何回いったら・・・。

今日この瞬間も、リフレ派の方々は個人攻撃に忙しいようですね。

いや先生、この場合はどう見ても大瀧先生の方が変です。先生のご批判とはわけが違います。
小野先生がリフレ派の政策論をご自分のモデルの含意にもかかわらず批判されるのは、当否はともあれ理解できます(リフレが可能なほどの金融緩和は理論的にはともかく実際には不可能、という判断――反証されてるような気もしますが)。しかし大瀧先生がなぜ浅田先生が批判されるような変な言説を展開され、あまつさえ「日本はデフレじゃない、問題は生産性低下だ」とおっしゃるのか、何とも分かりません。

だから、そういう話が「答えやすい自分の土俵」なの。

「落ち着いてください」という割りに、ちゃんと読まれてないようですが、稲葉さんのお友達の言動が、トッププライオリティにははなからなるはずもないけれど、二の次三の次くらいの優先課題にはなるマクロ経済政策において、わざわざ「リフレ派ってやばそうだから、近寄らない方がいいんじゃね」と思わせ、追いやっているという事態については、確かにお立場上答えにくいことは重々承知してますが、それをスルーして大滝理論がどうとかこうとか、経済学屋さん以外にはどうでもいいことしか言わないから、ますます見ている人の心が冷えていくんですよ。

今日もだいぶ心が冷えました。

朝日新聞が出している、「ジャーナリズム」10月号に、りふれ派を批判する大瀧雅之氏の論稿が掲載された。

http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=16362

たいへんわかりやくす、ケインズについての解釈もさまざまな
立場があることがわかる。

稲葉氏が権威づけに使う石橋湛山を、稲葉氏とは違った意味で参照していることも、皮肉を感じる。

これが「学問」というものではないだろうか。


というわけで、いくら稲葉さんが一生懸命私に向けて論じ立てても、肝心の「おともだち」が、政策の中身などとは関係のない暗い悪意に燃えて(私を経由して)教育社会学者や社会政策学者に対する毒々しいうんこを投げ続けてくださるのですから、いかんともしようがないのですよ。

かくもリフレ派に対する反感をかき立てる技にかけては超絶的な腕前を持つ人々がネット上で大活躍し続けているのですから、私ごときの出る幕はとうに消え失せていると判断しております。

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