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2014年10月25日 (土)

知的熟練論の功罪

昨日、文化勲章及び文化功労者の発表がありました。世間の関心は青色ダイオードの方ですが、ここではもちろん、この方に注目しています。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG2400D_U4A021C1CR0000/

小池和男(こいけ・かずお)法政大名誉教授。労働経済学や人的資源管理論の第一人者として、幅広い分野での著書、論文を著した。

労働関係者では誰一人知らぬ人のいない小池氏ですが、今年この時期に文化功労者に選ばれたということには、ある種の皮肉を感じる方々も多いのではないでしょうか。いうまでもなく、安倍首相自身が

http://www.nikkei.com/article/DGXLASFS22H1Y_S4A021C1EA1000/首相「年功見直しと賃上げ両立を」 政労使会議 

政府は22日、今秋2回目の「経済の好循環実現に向けた政労使会議」を開いた。安倍晋三首相は「経済の好循環を拡大するには、賃金の水準と体系の両方の議論が必要になる」と述べ、年功序列型の賃金を見直して全体の賃上げも実現するよう訴えた。日立製作所などの経営トップも出席し、政労使で若年層の収入を高める年功賃金の見直し策などを討議した。

と、年功賃金制の見直しに熱を入れているちょうどその時期にということです。

このあたりの消息は、労働関係者には常識ですが、未だにわかっていない人も多いようなので、簡単におさらいしておきますと、

もともと年功賃金制は生活給、つまり生計費のかかる中高年男性の賃金を高くしてその分若い人の賃金を低くするものですが、同一労働同一賃金原則とは矛盾するのでその説明は難しいものでした。

かつて1950年代から1960年代にかけて、政府や経営側が同一労働同一賃金原則に基づく職務給の導入を主張した頃、労働組合側の理屈は、主流派は賃金制度なんか議論せずにただ大幅賃上げだけ言っていれば良いんだ、というもので、反主流派はヨーロッパ型の横断賃率論を掲げていたのです。

ところが、1970年代以降状況はがらりと変わります。年齢とともに賃金が上がっていくのは、決して生計費のためなんかじゃなくって、実際に知的熟練が上がっていくからなんだという経済理論が学界を席巻し、みんなそれで納得するようになってしまったからです。

知的熟練とは、すごく単純化していうと、たまたま今やっている仕事のスキルじゃなく、会社のいろんな仕事を何でもやれるだけの幅広い能力ですね。まさにメンバーシップ型の雇用システムに適合した理論ですし、いろいろと部署を回されながらいろんな仕事を覚えていっている若年期には、実感にどんぴしゃりとくる理論でもあったために、みんなそうだそうだとそっちに奔ってしまい、それまでの賃金制度に関わる議論は放り捨てられてしまったのです。

70年代、80年代には、政府も労働組合も経営側もみんな小池理論の信奉者になり、終身雇用、年功賃金こそが日本の競争力の源泉であるという議論が労働経済学を覆い尽くしていたことはご承知の通りです。

ところが、90年代以降になると、知的熟練でいろんなことができるから高い賃金を支払っているはずの中高年に対して、リストラの嵐が襲うようになります。このあたりについては今年出した『日本の雇用と中高年』で詳しく書きましたので参照願えればと思いますが、一言で言えば、それまで信じているふりをしてきた知的熟練論のぼろが出た時期であったと言えます。

その後さらに二十年が経ち、議論は妙な輻輳を示すようになっています。そもそも年功制は子育て世代の労働者(正確には男性世帯主)の教育費や住宅費も含めた生計費を想定したものであったはずなのに、安倍首相の発言では逆に「子育て世代の支援のために」年功制を見直すという奇妙な話になっていたりするのです。

4月の消費増税後はとりわけ若年層など子育て世帯の負担増が懸念されており、会議で首相は「子育て世代や非正規労働者の処遇改善、労働生産性に見合った賃金体制への移行という大きな方向性は政労使で共通認識を醸成したい」と強調した。

これも、そもそも年功制の源流や、その理屈づけの変遷がちゃんと理解されていないからこういうことになるのでしょう。いずれにしても、今回の授賞を機に、こうした経緯がもう少しきちんと理解されるようになることが期待されます。

以下、拙著から小池和男氏に言及した部分を参考までに引用しておきます。

・・・・しかし知識社会学的にいえば、当時の日本は日本型雇用システムの正統性を論証する理論を必要としていたのであり、日本的内部労働市場論はその需要に応じるものであったのでしょう。実際、その後はむしろ小池和男氏の知的熟練論(たとえば『日本の熟練』有斐閣、1981年)が、内部労働市場論の代表として広く受容されていくことになります。やや皮肉な言い方をすれば、小池理論とは総評が自力では展開できなかった職務給に対する理論的反駁を、経済理論を駆使してスマートにやってのけた(ように見えた)もののように思われます。そして、ここで失われたのは、それまで曲がりなりにも口先では維持されてきた同一労働同一賃金原則でした。そんな「古くさい」代物は誰からも顧みられなくなってしまったのです。

 知的熟練論のロジックを展開した小池和男氏の『日本の雇用システム その普遍性と強み』(東洋経済新報社、1994年)から、職務給を評価できない理由を述べた部分を見てみましょう。

 知的熟練の向上度を示す中核的な指標は、(a)経験のはばと(b)問題処理のノウハウである。このふたつは、ふつうの報酬の方式では促進できない。多くの国の生産職場で最もふつうの報酬方式は、仕事給pay-for jobであろう。職務ごとに基本給をきめる。むつかしい仕事につけば賃金はたかく、やさしい仕事では賃金はひくく、しごく当然とおもわれよう。・・・だが、いずれも知的熟練の形成には役立たない。なぜか。

 知的熟練の第一の特徴、経験のはばの広狭が、仕事給では把握できない。仕事給とは、その時ついている仕事によって基本給がきまる。いまA、Bふたりの労働者が、まったく同じ仕事についているとしよう。しかし、経験のはばは大きくちがい、Aはその職場の他の14の仕事全部を経験し、いつでも欠勤者の代わりもでき、新入りに教えることも、問題処理も上手だとしよう。他方、Bはいまついている仕事しか経験がなく、当然欠勤者の代わりなど一切できない、としよう。それでも仕事給ならA、B両人はまったくおなじ基本給となる。それでは、Aの貢献にたいし、なんら報酬がはらわれない。変化や異常に対処する知的熟練という面倒な技能を、身につけようとするインセンティブがなくなる。

 議論としてはまことに筋が通っているように見えますし、実際白紙の状態で「入社」してジョブローテーションでいろんな仕事を一つ一つ覚えていく途上にある若年期においては、このロジックが当てはまる可能性も結構高かったのであろうと思われます。問題は、生計費がかさんできて年功賃金のありがたさが身にしみるようになる中高年期に至っても、このロジックがそのまま適用できるのか、という点でしょう。本音でそう思っているのか、それとも建前論に過ぎないのか。それは、現実の企業行動によってしか知ることは出来ません。好況期にはそのロジックを信じている振りをしている企業であっても、いざ不況期になれば、「変化や異常に対処する知的熟練という面倒な技能を身につけ」たはずの中高年労働者が真っ先にリストラの矛先になるという事実が、その本音を雄弁に物語っているように思われます。・・・・・

・・・・ ここまで本書で繰り返し述べてきたように、日本型雇用システムとは、スキルの乏しい若者にとって有利である半面、長年働いてきた中高年にとって大変厳しい仕組みです。不況になるたびに中高年をターゲットにしたリストラが繰り返され、いったん離職した中高年の再就職はきわめて困難です。しかしながら、その中高年いじめをもたらしているのは、年齢に基づいて昇進昇格するために中高年ほど人件費がかさんでいってしまう年功序列型処遇制度であり、その中にとどまっている限り、中高年ほど得をしているように見えてしまうのです。

 こうした年齢とともに排出傾向の高まる日本型雇用システムの矛盾は、1960年代から繰り返し繰り返し指摘され続けてきました。にもかかわらず、1970年代後半以降はむしろ、日本型雇用システムを高く評価する議論が労働経済学の主流を占め、それがきちんと現実に向かい合うことを妨げてきたように見えます。小池和男氏は『日本の雇用システム その普遍性と強み』(東洋経済新報社、1994年)で、「しばしば日本の報酬制度は、たんに「年功」、つまり勤続や年齢などと相関が高く、それゆえ「非能力主義的」とされてきた」としつつ、勤続20年を超えてもなお知的熟練は伸び続けるのだと主張し、それを形成するように日本の報酬制度は組み立てられていると述べています。つまり、とても合理的な仕組みなのだ、と。

 実際には、職能給制度を単に年功だけで賃金を決定する仕組みだと考えている人はいないでしょう。それが「能力査定」によって末端の労働者に至るまで微妙に差がつく仕組みであるという点で、欧米の一般労働者向けの賃金制度と異なるということはかなり知られているはずです。問題はむしろ、特定の職務と切り離された全人格的な評価による「職務遂行能力」なるものが、本当に企業にとってそれだけの高い給料を払い続けたくなるような価値を有しているのか、という点にあります。

 小池氏は同書で、ドイツと比べて「日本の方がコストの高い人たちを解雇している」と述べ、次のように非難の言葉を連ねます。

・・・この日独の差は、なにを意味するか。中年者の解雇は、本人にとってその損失がはなはだ大きい。・・・日本はどうやらコストの大きい層を対象にしているようだ。

 そのコスト高を承知で解雇を行えばまだしも、それをまったく知らずに実施しては、失うものが甚だしい。肝心の変化と問題をこなす高い技量の形成を妨げよう。それは、職場で経験をかさね、実際に問題に挑戦して身につける。長期を要する。雇用調整が早すぎると、その長期の見通しを壊してしまいかねない。いったん崩れると、その再建は容易でない。

 欧米よりも合理的な知的熟練を形成するような賃金制度を実施しているはずの日本企業が、肝心の中高年の取扱いになると、それがまったくわかっていない愚か者に変身するというのは、あまり説得力のある議論とはいいかねます。

 正確に言えば、白紙の状態で「入社」してOJTでいろいろな仕事を覚えている時期には、「職務遂行能力」は確かに年々上昇しているけれども、中年期に入ってからは必ずしもそうではない(にもかかわらず、年功的な「能力」評価のために、「職務遂行能力」がなお上がり続けていることになっている)というのが、企業側の本音なのではないでしょうか。その意味では、40歳定年制論というのは、その本音を露骨に表出した議論だったのかも知れません。

 「職務遂行能力」にせよ、小池氏のいう「知的熟練」にせよ、客観的な評価基準があるわけではないので、それが現実に対応しているのかそれとも乖離しているのかは、それが問われるような危機的状況における企業の行動によってしか知ることはできないのです。そして、リストラ時の企業行動は、中高年の「知的熟練」を幻想だと考えていることを明白に示しているように思われます。

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子育て世代がどの世代を指すかによって捉え方が変わると思います。

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