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2014年10月29日 (水)

大坂洋さん on L型大学

かつて本ブログでも何回もコメントしていただいたことのある大坂洋さん@富山大学が、御自分のブログで「L型教員を目指しま」という冷静な文章を書かれています。

http://d.hatena.ne.jp/osakaeco/20141027/p1

冨山氏の悪口いう人が多いが、大学の外や学生の平均的な認識はこんなもんなんじゃないだろうか。要するに人文・社会系の大学の職業的意義は自動車学校以下。

ちょっとだけ、冨山さんに注文。(多分、読まんだろうがこんなブログ)G型教員ダメならL型教員みたいなのあったけども、これは絶対に反対。かつて、教養部が学部の下みたいな意識が、変な教養部改革に結びついて、教養教育をダメにした。L型がG型の下という位置付けでやれば、絶対に多くの教員はついてこないことが予想される。むしろ、君、L型だめなの?仕方ないから役にたたないG型でもやっとけ、くらいの感じで文科省が始めないとダメでしょう。(L型への反発に一部には、かつての学部の下僕のような教養部への扱いを思いださせる部分があるかもしれない。)

それに関連してだけど、まっとうな職業的な意義のある教育にはちゃんとした学問的裏付けが必要となるし、ちゃんとした高度なL型教育ができる教員は研究者であるかどうかは別として、関係分野の学問的動向くらいわかってないといけない。この辺りは本田由紀さんの本を参照のこと。

あと、こっちのほうがより真剣な注文なんですが、大学の職業的な意義のある教育を企業が評価することなしに、L型大学は成功しない。せめて、経済学部で簿記3級とか、ITパスポートとっている学生をTOEIC650点(ささやかすぎますか?)くらいにはみなしてくれないと。さらにいえば、今の職業的意義のない大学の現状であっても3年後期の成績、できれば、4年前期や卒論の準備もしっかりやっていることをしっかり見て企業が内定を出してくれるような下地がないと、L型への移行も難しくなるんじゃなかろうか。運動部やっているほうが、勉強やっているより評価されるようじゃ学生のほうも安心して勉強できない。そのあたりは、冨山さんがぜひ経団連にはたらきかけてもらわなければならない。

いずれにしてもL型の教育実績や教育成果、L型学問をちゃんとやった学生が社会や企業にちゃんと評価されないとうまくいかない。冨山さんの議論には、このあたりの危惧を感じている。

冨山さんが出した例はたしかにちょっと変だけど、逆に文句いっている(特に大学の教員)は職業的素養がないまま、労働市場に放置されている若い人のために何ができるか考えてんだろうか。専門学校化とかいうけど、専門学校以上のことを今の大半の大学は学生に提供できていなんじゃなかろうか。

ただ、大学の教員がこの手の話に気軽に賛成できない理由はよくわかる。自分のことでもあるし。私だって職業的意義のある教育なんてやれていない。この手の話は人文・社会系の教員は自虐なしにはきちんとした議論ができないのだ。それでもその自虐にたえることなしに、大学の状況を放置していれば、ますます、職業的素養がないまま、キャリア形成ができないまま、労働市場に若者が放置される状況がつづくのだ。

ほぼ全面的に同感です。職業的レリバンスのある教育が存立しうるためには、雇用システムの側がそれを重視するようになっていなければ意味がないわけで、この議論はまさにそういう雇用システムを含めた社会システムの転換を論ずる議論であるのに、そんなの今の世の中で受け入れないよ、と言えば反論したつもりになっているアカデミックな方々の水準は残念なものがありました。そういう、もはや維持しがたくなっている今の社会のあり方の上に乗っかって学生の卒業後の職業生活に関わらない教育をすることで生計を立てている人々を若干からかった表現に、異常なほどの反発があったのも、そのあたりの構造が浮かび上がる感じでした。

そこの冷厳な構造が見えている大坂さんは、「自虐」まじりにその姿を描き出すわけですが、多くのアカデミックな方々には、せめてこの程度の「自虐」的な客観的姿勢が欲しかったな、という思いがします。

冨山さんのペーパーのどうしようもないところばかりをあげつらえば、何かその冷厳な構造から目を背けていられるかといえば、もちろんそうではないわけですから。

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コメント

では、企業で文型大卒が一番多く就く職種は、というと国内営業で、絶対に必要な資格・素養というと自動車の運転免許ですから、この取得は多くの企業で祭用条件になっています。
あと思いつくものがありません・・・。
そのため、「やる気」・「根性」・「体力」・「トーク力」・「幅広い人間関係」といった、勉強とはほとんど関係ない評価項目で選考し、学力は高校までの基礎学力が重要ということで、その部分は入試を信用しているわけです。
本音を言いますと、「学校で会計を勉強したので経理が希望です」、「労務管理を専攻したので人事を」、といった社員が増えても、その椅子は非常に限られていますので、困ってしまいますし、けっこう現在でも困っていると思います。

濱口樣

大坂です。大変、ごぶさたしております。

拙い文章をとりあげて下さってありがとうございました。プライベートも含めて「冷静」と褒められたことがないので、ちょっとびっくりしてしまいました。

あの記事で冷静さがあるとすれば、それは森岡孝二さんに教えられたものです。じきに私のブログでも紹介する予定ですが、今、森岡さんも含めて何人かの皆さんと経済学教育に関する本をつくっています。濱口さんの強い影響のもとに、経済学教育の職業的意義の必要を書いた私の文章の入稿のあとに、森岡さんの文章が入稿されました。御本人には意図をうかがっていませんが、私の文章の教育の職業的意義バンザイ的なニュアンスに危惧を感じたのではないかと思います。そういうわけで、職業的意義のある教育と雇用システムの関係についての部分は森岡孝二さんがオリジナルです。

森岡さんに大坂さんによる経済学教育の本ですか。それはぜひ拝見したいですね。
わくわくします。

 文科省の審議会での冨山和彦の資料(もっとも、あの資料に基づいた議論は審議会では行なわれなかったらしいが)の根底にある考えは、「大学の外や学生の平均的な認識はこんなもんなんじゃないだろうか」などというものとは全く異なるのではないか。

 つまり冨山は、学問研究は一部の優秀な連中にだけやらせておけばよい、他の連中はもっと職業訓練に精を出せ、といった、極めてエリート主義的な考えからあのように言っているのではないか。冨山は筑駒を出て東大に進んだ受験エリートであり、特に筑駒は、東大に進学することを希望しないと「お前どうかしたの?」と言われるような狂った世界である。冨山という輩はそういうメンタリティー(そして、自分の頭の良さに対する――もちろん根拠のない――絶対的自信)の持ち主である、と考えておいたほうが正鵠を射ていると思われる。

 ところが、学問というものはそういうものではない。他の様々な事柄と同様、学問も、裾野が広くて初めて頂点が高くなる。だから、その裾野自体を狭めてしまえば、当然頂点は低くなり、つまり日本の学問のレベルは低くならざるをえない。

 大学で専門的な職業教育を増やせとは、このブログのブログ主自身の主張でもあるらしいが、それについてはここでとやかく言うつもりはない。どうぞご勝手に。

>学問も、裾野が広くて初めて頂点が高くなる。

そもそも現状Fラン大学と呼ばれている学校が裾野としての役割を果たしているのかが真剣に問われるべきだろう。

裾野を維持する必要は認めるが、今後介護や医療に莫大な財源が必要となる状況で、学問研究に充てられる予算は減ることはあっても増えることはあるまい。

Fラン大学が職業訓練もできず、学術研究の裾野としての役割も果たしていないならば、それは端的に税金の無駄づかいだ。潜在的な若年失業者の収容施設に過ぎない。

そもそも西欧では職業教育を行う高等教育機関が整備されてきた(ドイツの専門大学など)。だからといって西欧の学問に地盤沈下が起きているとはいえまい。一方で90年代以降大学進学率を2倍にまで増やした日本の学問レベルの低下は著しい。STAP細胞事件はそのことを一般人に露呈させてしまった。単に既存の枠組みの大学を増やしても意味がないのは明らかだ。

むしろ新たな職業教育大学を学問の裾野となるように構想することが必要だ。そのためには職業教育大学においても教養教育が大きな役割を果たすべきだろう。一定の教養がなければ職業人としても使い物になるまい。それは研究大学も同様であって、教養教育の部分をむしろ大学の本体として高く位置づけるべきだ。そうでなければ、改革は成功しまい。

いずれにしても、大学において職業教育を増やす方向性はもはや避けられないものであり、これを日本の学問基盤を強化するチャンスととらえる前向きな対応が求められる。「どうぞご勝手に」などと捨て台詞を吐くのは、日本の学問の未来に対して無責任極まりない態度と思うが如何?

ただ富山氏のG型L型という区分はいたずらに議論を混乱させる嫌いがある。90年代以降の大学改革の失敗からどう立ち直るかという話であって、グローバル化はあまり関係がないだろうし、国際的に働く=エリートというのは短絡的すぎる。むしろ欧米からアジアなどに来て仕事をするような連中は本国にポストを得られない2流、3流の人間が多いように感じる。雇用や教育を論じるにあたってグローバル化云々は話を抽象化させるだけで有害無益だ。この国のシステムをどう立て直すか、地に足ついた議論が必要だ。

最後に、濱口氏の雇用に関する議論は非常に納得がいくし、大きな方向性として同意できる。だが、氏が議論の準拠点とする西欧の雇用システムはその階級構造を前提として機能しているのは否定できまい。そのあたりのことに氏があまり触れないのが気になる。まあ、立場上の問題はあろうが、日本社会が今後階級構造を強めることを想定しての議論なのか、いずれにしても雇用システムをどうするかは社会構造と直結するテーマだろう。


通りすがり | 2014年10月31日 (金) 03時42分

のコメントに対して反論します。たぶん、大学の事情を全くご存じない方からの投稿だろうと思います。

 まず、冨山氏が言っているL型大学は日本の大学の相当数を含む大学だと思われます。したがって、氏の話は「Fラン大学」よりは遙かに広範囲にかかわると考えてよいでしょう。

 そして、言うまでもないことですが、今この議論の文脈で「職業教育大学」を増やせという議論は、文脈上、基本的に冨山氏の議論を支持する議論だと理解されます。冨山氏の議論を支持するような人々は、冨山氏が「教養教育」の重視を説いているかどうかを、よく見極めるべきでしょう。私の認識する限りではもちろん、冨山氏はそんなものを少しも重視していません。ですので、冨山氏の議論を基本的に支持すると理解できるような議論をしている論者が教養教育の重視を説くことは、少なくとも外目には、矛盾しているように見えると言わざるをえません。

 私が一番言いたいのはここから先ですが、では、冨山氏が説いているL型大学に変更されかねない大学にこれまで教員となってきた人々はどういう人々か。相当数は、冨山氏がG型大学に分類しているであろう大学の大学院で学び、要するに研究者として自己形成を遂げてきた人々です。少なくともこれまでは、大学は研究者の集まりだという看板をかかげてきたのですから、これは当然のことです。

 そして、では、冨山氏が言うように、そういう大学を今後L型大学ないし職業教育大学として位置づけるようになったら、大学をめぐる状況はどうなるか。

 従来ならば、G型大学で大学院にまで進んで研究者としての教育を受けてきた人々は、仮にG型大学に就職できなくとも、L型大学に職を得て、学生の教育に従事する一方で研究を続けることが可能でした。私が言っている裾野とはこれのこと、すなわち、L型大学の教員として研究を行なっている人々のことを指します。

 しかし、L型大学ないし職業教育大学が、冨山氏の言うようなものになるならば、従来L型大学に職を得て研究を行なってきたような人材(その多くは、繰り返しますが、G型大学の出身者だと言ってよいでしょう)は、もはや不要となり、職を得られなくなります。つまり、職業としての研究者(学者と言っても同じこと)が大幅に成り立たなくなり、研究者人口が激減することが予想されます。これでも学問の裾野が狭くならないなどと、どうして言えるのでしょうか。

 ここまで考えた上でなお、「これを日本の学問基盤を強化するチャンスととらえる前向きな対応が求められる」などとうそぶくことができる人間がいれば、頭がどうかしていると私は言わざるをえません。

 最後になりますが、冨山氏と濱口氏を同列に並べなかったのは、今回私が述べたようなことについて、濱口氏ならまだしも、考えればわかるのではないか(冨山氏のような東大一直線的な単細胞にはそのような省察は期待できません)と思ったからです。「ご勝手に」と書いたのはそういう意味です。

昔、東大の総長を務めた先生が、とある雑誌に、卒業生に寄付を頼みにいったときの話を寄稿していまして。「大学に何かをしてもらった覚えはない」とけんもほろろの扱いだったとか。政治家、官僚、企業経営者、その多くは名のある大学を卒業している人間であるにもかかわらず、誰も大学の味方をしてくれないのはなぜなのか、大学教員は省みるべきだ、と結ばれていました。

vox_populi殿

私が申し上げるのは(blog主のhamachan先生に対して)僭越ですが、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html
 (大学教育の職業レリバンス)
で、関連した話題を取り上げておられます。
そこでは、
「しかし、日本の人文・社会科学のこれまでの発展を支えてきたのは、実はこうした研究者を養成しない大学なのだ。大学院を終えた若手の研究者の大半は、それら地方国立大や中堅以下の私学に就職してきた。雑務も授業負担もまだ少なかったし、研究者を養成しないまでも、研究を尊重する雰囲気があった。・・・いわば、地方国立大や中堅以下の私学が、次の次代を担う若手研究者の育成場所となってきたのだ。

地方国立大や中堅以下の私学が研究機能を切り捨てて、顧客たる学生へのサービスを高度化させようとするのは、大学の組織的生き残りを目指す経営の論理からいうと、合理的である。・・・だが、その結果、若手の有望な研究者がせっかく就職しても、その後研究する余裕がない。」
という大学教授の意見と、それに対する
「ふざけんじゃねえ。三流私大の学生(の親)はあんたらに優雅に研究していただくために高い学費を納めてるわけじゃねーんだ!」
という評論家の感想が記載されています。

>vox_populi さんの反論へのリプライ

まず最初に、私は大学・大学院の現状について一般の人よりは通じている人間であることは申し上げておきます。私の大学時代の友人にも大学院に進学し研究者となった人間がいますが、彼らが大変きびしい状況に置かれていることをよく承知しています。

Fラン大学は象徴的な事例として出しましたが、職業教育大学への転換をかなりの部分の大学が迫られることも想定しています。研究大学に残れるのは50校もないでしょう。

それから富山氏の具体的な議論のとんちんかんぶりは全く支持していません。ただ彼の問題意識(一部の大学以外は研究でも職業教育でも社会的意義をほとんど果たせていないのではないか)は大きな方向性で間違っていないと思います。世間一般の多くの人も同様の認識と思います。決してエリート主義者の独善とばかりはいえないでしょう。vox_populiさんはアカデミズム界隈の人とお見受けしますが、あなたの見識はかなり世間一般からはずれているということは認識しておくべきです。それは世間が常に正しいと言いたいのではありません。ただ富山氏のような暴論が世間一般の支持を得て大学改革が極端な方向に向かう危険があり、学問や教養を守るためにはアカデミズム側も戦略的な対応を迫られていると考えるべきです。一方的にアカデミズム側の都合を言い立てても相手にはされません。あくまで税金で研究しているのだという意識は持つべきです。国民一般の支持が不可欠なのです。

L型というか、非一流大学が一流大学に職を得られない研究者にポストを確保し、それが学問の裾野を守るのに貢献してきたのは事実です。しかしそれはアカデミズム側の都合にすぎません。あなたはそこで学ぶ学生の立場に立って物を考えたことはないのですか?研究者になるわけでもない大多数の学生にとってそのような大学の意義は何なのか、それが今問われていることなのです。経済が良いときは一時のモラトリアムとして許容もされたでしょう。しかし、もはやそのような時代ではないのです。

既存の大学のシステムを、学問を維持するためにあまり一流でない研究者にも無駄飯を食わせるためということだけで正当化することは、もはやできないと覚悟すべきです。そのような無駄が必要なのだということは理解できます。しかし、学問研究にさける社会的リソースが有限である以上、どこかで限界が来るのであり、今まさにその限界に突き当たっているのです。

そして非一流大学の意義として、広く教養教育を授けることや、学問的裏付けのある職業教育を提示すべきだというのが私の意見です。それは研究者であることの否定にはなりません。むしろ高い水準でそれらのサービスを提供するには、最新の研究動向に通じた研究者である必然性があるということを強く主張すべきなのです。そのためにも教養教育をすべての大学の本体として高く位置づける必要があります。学長は教養部から出すという制度にしてもいいかもしれません。職業教育や研究学部は教養部の付属機関ぐらいの位置づけでもよいでしょう。それは西欧の大学本来の姿に近づけるということかもしれません。

学問研究にさかれる社会的リソースが有限であるということはくれぐれも忘れてはいけません。その有限なリソースを最大限に活用して学問を守り発展させる責務がアカデミズムの側にあるということをよく認識してください。それは大学の自治や学問の自由と表裏一体のものです。

ドイツの専門大学のような西欧の高等職業教育機関のスタッフも研究者が多くを占めているのではないでしょうか。それらの実地調査がなされて、現実的な改革がなされることを願います。

最後に、vox_populiさん、あなたの危機感はよくわかります。しかし自分たちの都合や利益だけを一方的に主張しても得られるものは少ないと知るべきです。あなたの物言いはむしろ世間一般の反発を招き、アカデミズムの利益を損なうだけでしょう。対立する側の主張にも耳を傾け、妥協点を探るべきです。それが戦略的に行動するということです。

大学改革における実り多い議論がなされることを祈ります。

>「ふざけんじゃねえ。三流私大の学生(の親)はあんたらに優雅に研究していただくために高い学費を納めてるわけじゃねーんだ!」
という評論家の感想が記載されています。

ならば、なぜ専門学校ではなく大学などに行かせたの? ということになる。
大学に学費を払うということはガクモンに金を払うことだろう。


ならば、なぜ専門学校ではなく大学などに行かせたの? ということになる。
大学に学費を払うということはガクモンに金を払うことだろう。


といってふんぞり返っていられるほど大学を取り巻く状況は甘くなくなっているという問題でしょう。学問をやる気のない人間は大学でなく専門学校に行けと言ってみんな専門学校に行ってしまったら、多くの大学は潰れ、研究者はポストを失い、日本の知的基盤は崩壊します。それは社会全体にとって好ましいこととは思えません。単に研究者のエゴイズムとばかりも言えないのです。

結局、学問基盤の維持という問題と、研究者にならない大多数の学生の利益との妥協点が職業教育大学ということになるのでしょう。専門学校との違いは教養教育の有無ぐらいになってしまうでしょうね。まあ職業教育大学の制度設計次第では既存の専門学校もそこに取り込むということがありえるでしょうが。職業人になるとしても教養教育の意義はあると思います。既存の専門学校にもかなりいい加減なところがあるようです。職業教育大学の制度に取り込むことでそのレベルアップが図れれば社会的意義はあるでしょう。

> ならば、なぜ専門学校ではなく大学などに行かせたの? ということになる。
> 大学に学費を払うということはガクモンに金を払うことだろう。

と、大学自身が明示しているわけではないわけですけどね。大学生の 8 割は就職志望ですから。就職に有利になるから、という理由で大学に進学しているのは明らかでしょう。

大学はガクモンを行う場であって、職業上メリットのあることは何もしない、というのなら、それはそれで結構ですが。大学はそのことを受験生、およびその保護者に説明し、理解を得るべきでしょう。受験生の「就職で有利になる」という錯誤を利用して学費を得ているのなら、それは不当利得ということになり、返還すべきです。

学校が認可制になっているのは、こうした情報の非対称性を利用した詐欺・錯誤を防ぐためでもあるわけで。大学には説明責任をしっかりと果たさせないとなりませんね。

>大学自身が明示しているわけではない

とは言えない側面があります。学校教育法83条1項において「大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。 」と定義されてしまっているのですね。大学設置が認可制なのは、この大学の目的を果たすにふさわしいか否か審査するためです(現状きちんと審査されているか甚だ疑問ですが)。

問題はこのような大学の法的定義をみたしているとは言えない学校が乱立しているという実態にあります。それに対する対応の一つとして、実態にあわせて大学の定義を拡張し、職業教育大学という枠組みを新たに設けようというのが今回の動きなのだと理解しています。もうひとつのやり方は大学の定義をみたさない学校はすべて専門学校にしてしまえという方向です。しかしこれでは大学側の猛反発をくらうでしょうから、大学という名前だけは残すという現実的な対応をしているのでしょう。大学という名前を残すか否かというだけにすぎないとも言えますが、学位の問題があります。職業教育大学の学位をどうするか、国際的な学位システムとのかねあいもあるでしょうから、難しい調整を迫られるでしょうね。

 まず、
Alberich | 2014年10月31日 (金) 22時44分 について

 Alberichさん、ご指摘ありがとうございます。私自身、当該記事はたぶん書かれた当時に目にしたはずですが、とりあえずお礼を申し上げます(と言う前に、ブログ主が再掲したようですが)。

 ただ、ブログ主はその後、例えば朝日新聞デジタルの2013年9月11日の記事で「大学と就活 専門的な職業教育を増やせ(聞き手・千葉卓朗)」という小文を出しており、それなどを見るとバランスは、やはり見出しのとおり、大学でもっと職業教育をという方向に傾いているようです。ここで直接それを論評しようとは思いませんが、ただ、以下に書くことから、それに対する私の考えは明白だろうと思います。

 次に、
通りすがり | 2014年10月31日 (金) 23時07分 について

このコメントに反論します。本論に入る前に、本論とは関係ありませんが、「通りすがり」というのはインターネット上では「名無しの権兵衛」と同様だと私は理解しており、それをさんづけで呼ぶのは私の感覚に合わないので行ないません。まあ、見たところ、議論の相手とするに値しない方のようであり、今回で私からの返事は終わりにして良さそうなので、その問題で悩む必要もなさそうですが。それにそもそも、このコメント欄は、ブログ主をさしおいたこのような議論をする場としてふさわしいとも思えませんので、その意味からも、私の書き込みは今回限りとするのが良いように思います。

 まず、

>大学改革における実り多い議論がなされることを祈ります

とのことなので申しますが、実り多い議論、言い換えれば建設的な議論とは、どこまでは同意でき、どこからは見解が分かれる、ということがはっきりする議論だと私は理解します。そこで確認したいのですが、従来のやり方は学問の裾野を広くすることに役だっていた、という私の主張には

通りすがり | 2014年10月31日 (金) 23時07分

の投稿者は同意しておられるのでしょうね? 実際、同投稿者は

>L型というか、非一流大学が一流大学に職を得られない研究者にポストを確保し、それが学問の裾野を守るのに貢献してきたのは事実です

と書いているので、この点は同意するほかないはずです。であれば、そのような現状を崩すことは学問の裾野を狭隘化することになる、という私の主張に対して、有効な反論は果たして示されているのでしょうか? これについては、同投稿者はとどのつまり

>しかしそれはアカデミズム側の都合にすぎません。

という反応しか記していないように私には見えます。これはものの言いようであり、「アカデミズム側の都合」と書けば非常に一方の側の勝手な言い分という響きがしますが、これに対して「学問のしからしむるところ」と書けば、そもそも学問とはそういうものである、というふうに読むことが可能です。果たしてどちらの表現のほうが的を射ているか。私は後者だと思います。

 次に、そのすぐあとで同投稿者が書いている

>あなたはそこで学ぶ学生の立場に立って物を考えたことはないのですか?研究者になるわけでもない大多数の学生にとってそのような大学の意義は何なのか、それが今問われていることなのです。

という言い分について。ますこの投稿者は、だから大学では職業教育が行なわれるべきだ、という方向へ話を持っていこうとしているようなので、有効な職業教育について私の考えを述べると、有効な職業教育のあり方は、昔も今もOn the Job Trainingであると言ってよいでしょう。たまたまこのコメント欄には一番最初に人事部OBと自称する方が書いておられるので(たぶん実際にもそうなのだろうと思います)、その方の書いておられることをよく眺めると良いでしょうが、そのコメントの背景には、OJTこそ有効な職業教育だという考え方があることがおわかりになるはずです。

 そしてここで再び、

通りすがり | 2014年10月31日 (金) 23時07分

の投稿者の考えを批判しなければなりません。すなわち、同投稿者は大学で行なう職業教育が有効たりうるという考えを持っているようですが、それは具体的にはどういう教育内容なのでしょうか。例の冨山和彦とやらが言った、実務教育ならぬ実技教育のことなのでしょうか。それとも何か別の職業教育なのでしょうか。人事部OB氏のコメントを読めば、そういう教育を受けてそれに見合った職を学生が求めるのはむしろ困る、という企業側の言い分がよくわかるはずです。

 さらに言えば、

通りすがり | 2014年10月31日 (金) 23時07分

の投稿者は、職業教育大学では教養教育も行なわれるべきだ、と言っていますが、職業教育に力を入れればその分教養教育は減らざるをえません。このあたり、この投稿者の言っていることが支離滅裂であることを、投稿者自身はきちんと理解しているのでしょうか。さらに言えば、「学問的裏付けのある職業教育」とは具体的にはどういうことでしょうか。ぜひ具体的に議論を展開してもらいたいものです。まず到底できないだろうと私は思いますが。

 大学で職業教育を推進するのでなければ今の社会のニーズに合わない、という反論が予想されるので、それについて一言付け加えておきますが、新卒の学生にいきなり即戦力となる職業人たることを求めるような企業は、ろくな企業ではありません。そのような企業は、いわゆるブラック企業である可能性が高いのではないか、と私は思います。なぜかと言うに、職業生活を少しでもやったことのある人間ならわかるはずですが、高々22、23歳の学生が入社してその会社で行なう仕事は、もしそれが一応確立された分野での仕事であるなら、その会社のベテラン社員によって当の学生が生まれる前から営まれている、そういう仕事だからです。また、確立されていない分野の仕事が問題となっているのなら、そういう分野の即戦力とはどういうものか、まして新卒の学生に見当などつくはずがありません。どちらにしても、当の仕事の場でないところで職業教育を行なうなど、所詮絵に描いた餅にすぎないのです。

 ならば大学の使命は何か。私自身は、大学の使命は、昔も今も、世にある万般の知識及びそれら知識を使って解かれるべき問題(言うまでもなく、問題の中には解けているものもあれば、未解決なものもあります)を提示し、それによって学生を知的に刺激・啓発することにある、と思っています。そのような刺激・啓発を与える教育を、なぜ、職業人になる前の若い学生に行なう意味があるのか。このあたりはたぶん、教育心理学のような分野で大いに研究が行なわれているに相違ありませんが、人間の知的発達の度合いは年齢によって異なっており、大学生の時分はたぶん、人間が最も知的発達を遂げることができる時期なのではないかと思われます。だからこそ、そういう時期に、いろいろな分野の知識のシャワーを浴びる必要があるのです。このことを社会が理解していないことは実に嘆かわしいし、もちろん、社会が理解していないということについては、大学がこのことの重要性をうまく伝えることができていないという責めを相当程度負うべきでしょう。ですが、物事はそういうふうになっているのであり、その時期に知的発達を充分に遂げることができないと、その人はその後の人生で相当、その不足に由来する負の影響を背負いこむことになるのではないかと私は思います(お節介な言い方であることは重々承知していますが)。その一例が、とりもなおさず安倍首相でしょう。大学教育をまともに受けてこなかった人間が首相のような重責につくとどういうことになるか、その悪しき実例を我々は日々見せつけられているわけです。

 結局、

通りすがり | 2014年10月31日 (金) 23時07分

の投稿者は、単に大学や学問のことをわかっていないだけでなく、職業人として仕事をするということについてもよくわかっていなかったようです。議論の相手とするに値しない、と上で述べた所以です。

vox_populiさんへの再リプライ

どうやらあなたは相手の言い分を理解せず、自分の都合のよいように曲解して批判することしかできない人間のようです。「議論の相手とするに値しない」という言葉はそっくりあなたにお返ししておきましょう。このリプライもまともに読まれないでしょうが、一応反論を加えておきます。

まず学問の裾野を狭隘化するという批判ですが、そもそも少子化という客観的条件をどう考えているのでしょうか。現在の大学システムでは少子化によってジリ貧になるのは目に見えています。そのために職業教育機能を充実させて社会人の学び直しのニーズを取り込んだり、教養教育を強化して、リタイアした高齢世代に教養を深める機会を提供するなどして大学の規模を維持しようというのが今回の大学改革の目的の一つと理解しています。放っておけば大学がどんどん潰れていくのは自明のことだと思いますが、学問の裾野の維持を重視するvox_populiさんはこの点をどうお考えなのでしょう。

次に職業教育について。職業教育に力をいれれば教養教育が減らざるを得ない、私の主張は支離滅裂と論難していますが、私の理解では、従来「教養教育+研究教育」だったのを、職業教育大学では「教養教育+職業教育」に転換することになると思います。これまで研究教育をやっていた分を(果たしてまともに研究教育を出来ていた大学がどれだけあるのか疑問ですが)、職業教育に置き換えるということです。むしろ教養教育にじっくり時間を割いて職業人の基礎を作る可能性すら開けると思います。

職業教育の内容について。OJTが有効な職業教育であることは間違いないでしょう。しかし、近年そのOJTを満足にこなせない若手社員が増えているというのが現場の認識でしょう。「社会人基礎力」などという言葉が提案されていますが、私に言わせれば、基礎的教養の不足にすぎません。職業教育においては、教養教育の下地に加えて、当該職業分野の基礎的な知識や物の考え方、卒業後数十年に渡る職業生活で自分を磨くための基本を教えるべきでしょう。決して富山氏の議論にあるような小手先のことを教えて終わりにしてはいけません。職業教育の考え方については、STAP細胞事件でプチブレイク?した芦田宏直氏が論客です。氏のブログの記事などを読んでみてはいかがでしょうか。コメント欄に書き込めば強烈な返答が返ってくることでしょう。

それから、多くの若者はそもそも悠長に社内教育を受けてOJTで一人前になるという職業生活は期待できない、というのが今後の日本社会の現実です。日本型雇用システムは消滅しないまでも、そのメンバーを狭く限定していくことになるでしょう(といってもその最盛期にあっても全労働者の半分すら覆ったことはないでしょうが)。ほとんどの労働者は満足なOJTの機会も与えられず、自分で自分の職業能力を磨いていかなければなりません。近年流行の言葉でいえば、自らキャリアマネジメントを行うことを迫られるということです。あなたの考える労働は今はもう失われつつあるものです。あるいはそもそもそのような雇用環境を期待できない若者までもが大学に入るほど大学が肥大化したため、対応を迫られているとも言えるでしょう。もちろん即戦力など大学の職業教育でも身につけることはできません。しかし、多くの若者はブラック企業まではいかないまでも、あなたのいう「ろくな企業ではない」ところで働いていかなければならないのが現実なのです。そういう若者たちに出来る限りのことをしてやるのが大人の責任というものでしょう。(無論雇用環境をよくするための政策的努力は必要です。しかし限界がある。)あなたの労働・雇用に関する認識は決定的に古く、現実離れしています。このブログの読者とも思えません。あなたの言っていることはまるで「パンがなければケーキを食べればいいのに」というセリフのようです。

学問的裏付けのある職業教育を具体的に議論できないというのはどういうことでしょう。多くの理系では普通に行われていることです。文系でも教育学では教育方法論や教室運営の教育がなされています。社会福祉学は職業教育そのものです。これらに学問的裏付けがないというのでしょうか。法学や、ちょっと怪しいですが経済学も職業教育的側面はもっています。たしかに人文学や、理系でも理学系は一般社会での職業教育的意義が乏しいでしょう。これらの研究者は教養教育のスタッフとしてその充実に貢献すべきです。

もちろん新しい職業が生まれれば、それに応じた職業教育が提供されるべきでしょう。近年ビッグデータの活用という観点から、データサイエンティストという新しい職業が脚光を浴びています。統計学という立派な学問的裏付けをもっている職業です。大学や学問にできることはまだまだたくさんあります。

あなたは職業教育大学そのものに懐疑的なようですが、それではドイツの専門大学をはじめヨーロッパの高等職業教育機関をどう考えているのでしょう。絵に描いた餅とでも思っているのでしょうか。以下のHPではドイツの専門大学とそれに関する寺澤幸恭氏の論文が紹介されています。
http://d.hatena.ne.jp/next49/20141026/p2
私の議論を貶めて難癖をつけるだけの不毛な反論をする暇があったらこちらのHPで勉強したほうがましでしょう。

あなたが言う大学の使命には賛成します(ちなみにあなたの期待するものは教育心理学ではなく教育哲学にあるでしょう。教育心理学はあなたの考えるようなものではありませんよ)。しかし現在700以上ある日本の大学でその使命を果たしている大学がどれだけあるのでしょうか。そのことが今問題になっていることなのです。そして職業教育の中で「知的に刺激・啓発すること」こそが多くの学生にとってはむしろ有効なのだというのが私の意見です。社会一般の意見も同様でしょう。

あなたは安部首相や富山氏(そして私?)など特定の個人にこだわって攻撃する癖があるようです。しかし大学における職業教育の強化という方向がもはや避けられぬ社会的趨勢である以上、その大きな動きに如何に対応するかに注力すべきでしょう。下らぬ個人攻撃をしている暇などありません。

いま進められている大学改革は今後数十年の日本社会の在り方を左右するものになるでしょう。あなたも、自分の無知と無教養と品性の下劣さと読解能力のなさと上滑りした学問への思いを満天下にさらすだけの下らぬ反論を書く暇があったら、この大きな動きの中で自分に何ができるかもっと自問自答してください。

最後に、濱口さんには思わぬ形でブログをお騒がせしたことをお詫びいたします。

通りすがり | 2014年11月 8日 (土) 05時28分

の議論に反論します。

 このコメント欄へのコメントはブログ主の気に入らなければ載らないという問題があるので、議論の場としては適当ではないと私はかねがね思っていますが、私の議論にケチをつけてきたのは上記の投稿者の側ですので、反論権を行使することにします。

 まず、上記投稿者は

>少子化という客観的条件をどう考えているのでしょうか。現在の大学システムでは少子化によってジリ貧になるのは目に見えています。そのために職業教育機能を充実させて社会人の学び直しのニーズを取り込んだり、教養教育を強化して、リタイアした高齢世代に教養を深める機会を提供するなどして大学の規模を維持しようというのが今回の大学改革の目的の一つと理解しています。

などと言っていますが、ここで言われている「今回の大学改革」とは具体的に何を指すのでしょうか。大学改革と一口に言ってもいろいろあります。大学のガバナンス改革もありますし、冨山氏が言っている話は(関連がなくはないとはいえ)それとは一応別の話です。そして言っておきますが、私は当初から冨山氏の議論を起点にしてコメントを書いてきました。「リタイアした高齢世代に教養を深める機会を提供する」などということが「今回の大学改革」とやらに関連するのなら、その「今回の大学改革」は私の議論には関係ありません。建設的な議論をする意図があるのなら、嚙み合う議論をするべきではないでしょうか。そのような意図があるかどうかを、上記引用部分は疑わせるに充分だと言えます。

 次に、上記投稿者の

>職業教育に力をいれれば教養教育が減らざるを得ない、私の主張は支離滅裂と論難していますが、私の理解では、従来「教養教育+研究教育」だったのを、職業教育大学では「教養教育+職業教育」に転換することになると思います。これまで研究教育をやっていた分を(果たしてまともに研究教育を出来ていた大学がどれだけあるのか疑問ですが)、職業教育に置き換えるということです。

という書き込みについて。ここでは理系と文系を分ける必要がありそうですが、まず理系について見ると、同じ投稿者はあとのほうで

>学問的裏付けのある職業教育を具体的に議論できないというのはどういうことでしょう。多くの理系では普通に行われていることです。

とも書いています。この2つの書き込みは矛盾しているように私には見えますが、どうでしょうか。つまり、現に理系では「学問的裏付けのある職業教育」が「普通に行われている」、というのが投稿者の主張であるなら、少なくとも理系に関しては、「従来「教養教育+研究教育」だったのを、・・・「教養教育+職業教育」に転換する」必要はないことになります。つまり、理系の従来の教育は「教養教育+研究教育」だ、というこの投稿者の主張は自らの主張によって論駁されていることになります。投稿者本人が矛盾に気づいていないと思いますので、以上、丁寧に書いてさしあげました。

 これに対して文系については、「従来「教養教育+研究教育」だった」という投稿者の認識は現実に即していないと私は思います。確かに卒業論文の執筆は一応「研究教育」と呼べなくもないかもしれませんが、学生の卒業論文の内容を「研究」だと称する学者(すなわち教育者)がいれば、同僚から笑われるのがオチでしょう。

 つまり、現実に即した認識を言えば、少なくとも文系については、基本的に今の(すなわち従来の)教育は、ほぼすべて教養教育だと言って良いものだと思われます。であれば、少なくとも文系については、職業教育が割り込んでくれば教養教育の割合は当然下がります。「職業教育に力を入れればその分教養教育は減らざるをえない」と私が言うのは全く理の当然です。

 ついでに言えば、濱口氏が職業教育の充実の必要性を問題にする場合に念頭に置いているのは、たぶん文系のはずです(もちろん実際には、大学で勉強したことが職業人として役に立たない、そういう職業に就く理系の学生にも、濱口氏の議論は当てはまるのですが)。ですから、職業教育と教養教育のトレードオフは「少なくとも」文系について当てはまる、と私が書いたからと言って、私は議論の戦線を縮小しているわけではありません。

 次に、

>OJTが有効な職業教育であることは間違いないでしょう。しかし、近年そのOJTを満足にこなせない若手社員が増えているというのが現場の認識でしょう

との書き込みについて。たぶん、この投稿者が言っているOJTなるものは、私が考えているOJTと異なっているから、こういうわけのわからない話が出てくるのでしょう。私が言っているOJTとは、自分が働く当の会社で、その会社で働くために必要な仕事を、当の仕事をやりながら実地に学ぶ、そのことです。これをやらなければ会社は回りません。私の言っている意味でのOJTがこなせないのなら、その人はその会社では使い物にならないということでしょう。それに本来、企業は、新入社員を採用するまでには相当の手間をかけるはずです。であれば、手間をかけて採用した人間が使い物にならないという場合に困るのは、採用された側だけでなく、採用した側も困るはずです。であれば、当の企業がきちんとOJTをやらないはずがありません。

 但し、いわゆるブラック企業がそうでないということは私も知っています。大量に採用して、新入社員にできもしないことをいきなりやらせて、どんどん中退者が出て行って、最後に残った奴で良しとするという、そういう企業は、確かに最近は増えて来たのでしょう。しかし、これに対する対策は、大学で職業教育を増やすなどといったことではありえません。ブラック企業は社会悪であり、撲滅されねばなりません。職業教育云々などとは全く異なったアプローチで、ブラック企業をめぐる問題に対しては対処がなされるべきです。今野晴貴氏がブラック企業を問題にしているのは、まさに社会問題としてではなかったでしょうか。大学の問題に矮小化されるべきでは決してありません。

>あなたの労働・雇用に関する認識は決定的に古く、現実離れしています。

 私の認識を批判するのは結構ですが、むしろ、現実が良いのかどうかという視点こそがこの場合重要だと私は考えます。現実がおかしいのです。そして、おかしな現実は改められねばなりません。

 次に、

>学問的裏付けのある職業教育を具体的に議論できないというのはどういうことでしょう。・・・文系でも教育学では教育方法論や教室運営の教育がなされています。

という書き込みについて。いわゆる「職業教育の充実の必要性」論においては、まさに、ここで書かれている「教育方法論や教室運営の教育」だけは問題になっていないはずです(投稿者は自分で確認するべきでしょう)。なぜなら、ここで書かれているのは教職課程に関することだからです。教職課程が職業教育であることは周知の事実であり、私も含めて誰も、それをどうこうしろなどとは言っていません。

 ついでに言っておくと、

>法学や、ちょっと怪しいですが経済学も職業教育的側面はもっています。

については、法学が職業教育たるためには、法学部を卒業したら弁護士の資格が得られるとか、弁護士事務所で働く資格が得られるとかいったことが本来必要であり、そうなっていない日本の法学教育を職業教育と言うのには少々無理があります。ご存じないでしょうから言っておくと、世界の中には、法学部を出ると弁護士の資格(或いは、その助手といったものかもしれませんが、ともあれそういう「資格」)が得られるという国が現にあるのです。

 これに対して経済学については、言うべきことはいくらもありますが、今の世の中を悪くしているのは経済学だと言っても過言ではないくらいで、あれが職業教育だなどとはとんでもない話だと個人的には言いたいところです。ただ、これはここでの議論には関係ないのでこれ以上申しません。経済学が職業教育たりえているのは、経済学部を出て経済研究所的なところに就職したケースに限られると言ってよいでしょう(但し、そういう連中が社会のために善を為しているかどうかは別の話で、私個人の考えによれば極めて疑わしいところです)。

 次に、

>あなたは職業教育大学そのものに懐疑的なようですが、それではドイツの専門大学をはじめヨーロッパの高等職業教育機関をどう考えているのでしょう。絵に描いた餅とでも思っているのでしょうか。

との書き込みについて。欧米を盲目的に礼賛するのはそろそろやめにしたほうが良いでしょう。高等職業教育機関なるものはドイツだけでなくヨーロッパの他の国にもあります。ただ、これは当の投稿者自身が書いていたことではなかったかと思いますが、

>西欧の雇用システムはその階級構造を前提として機能している

のであり、そしてまさに、この種の高等職業教育機関はそういう階級構造(ないしは階級差)を存続させるのに役だつシステムだと私は考えています。そういうものを日本に導入するべきか。私はそれに賛成できません。

 次に、やや総論的になりますが、

>大学における職業教育の強化という方向がもはや避けられぬ社会的趨勢である以上、その大きな動きに如何に対応するかに注力すべきでしょう。

との書き込みについて。私はこのような発想は好みません。大きな動きだろうがそうでなかろうが、正しからざる社会的趨勢なるものに何も抗わず、それにひたすら適応するよう努力するなどということが、人間として生きる正しい生き方だとは私は思いません。この点は価値観の問題なのかもしれず、これ以上議論しても無駄でしょうが。


 実質的な反論は以上でだいたい尽きていると思います。最後に申しますが、「通りすがり」さん、私はあなたについて

>自分の無知と無教養と品性の下劣さと読解能力のなさと上滑りした学問への思いを満天下にさらす

などといった、人格を侮辱するような表現を書いてはおりません。よくご覧いただければおわかりのように、私は貴殿の無理解だけを問題にしてきました。見もしない相手について、その人格を云々するようなことをお書きになるのは、今後はやめたほうが良いと衷心からご忠告申し上げておきます。まだお若い方だろうと思いますので。

vox_populiさんの反論への第三リプライ

vox_populiさんは随分富山氏にこだわりますが、そこが議論のすれちがいの始まりでしょうね。富山氏の議論を起点としているとおっしゃいますが、そもそもこのブログ記事自体は富山氏の議論を受けた大坂先生の「L型教員を目指します。」という記事を受けてのものです。そこでは地方国立大学教員としての実感から富山氏の問題提起を是としつつ、その具体的議論に注文をつけておられます。議論の起点とすべきはここでしょう。大坂先生は富山氏の問題意識を世間一般と変わらないものと受け止めておられますが、あなたは富山氏のエリート主義的志向を批判しておられる。しかし富山氏の具体的議論などは論ずるに値しないものです。そして大学改革の実際は大坂先生の言う世間一般の問題意識を基盤として進んでいくでしょう。建設的な議論というなら、そこを土俵にすべきでしょう。あなたがどうしても富山氏を批判したいというなら、それには付き合いかねます。非建設的議論の極みです。学問基盤の維持という観点からは富山氏の議論などではなく、世間一般の大学の現状への問題意識を起点にすべきです。

大学における職業教育について。まずあなたは理系において学問的裏付けのある職業教育が普通に行われているという私の議論と、「教養教育+研究教育」から「教養教育+職業教育」への転換という話との矛盾を指摘しておられますが、そもそもこれは学問的裏付けのある職業教育などありえないというあなたの批判を反駁するものです。そこの部分を等閑視してこのような批判をするのは揚げ足とりというのではないでしょうか。それから、「教養教育+研究教育」から「教養教育+職業教育」への転換というのは制度レベルでの転換、つまり研究教育という建前で理系では実態としては職業教育が行われていたのを、実態に合わせて制度枠組みを転換しようという話です。

しかし議論の本丸はあなたの言うように文系の話でしょう。文系においてはほとんどの大学で研究教育など建前で実態は教養教育でしかないというのはその通りです。しかし多くの大学では教養教育としての水準もクリアしてない低レベルの教育しかなされていない現実があり、今般の大学改革もこのような現実を踏まえてのものでしょう。その原因をはっきり言ってしまえば、大学の肥大化によって大学レベルの教養教育についてこれない学力層の若者までが大学に入ってきているということです。これについて、そのような人間は大学に来るなということで済ませるのあれば、多くの大学が潰れ、学問基盤は崩壊します。かといって低レベルの教育しかなされていない実態を学問基盤を維持するために放置しておくというのは不誠実であり、国民の支持を失い大学への予算が削減されてやはり学問基盤は崩壊します。そもそもあなたは大学の現状を放置しておいてもよいという立場なのでしょうか。少子化という客観的条件のもとでは、どう転ぼうと既存の大学システムは行き詰まり、学問基盤が崩壊するのは目に見えています。富山氏に執着したり私の議論の揚げ足とりをする暇があったら、このような現状に対してどうすべきか議論するのが建設的というものでしょう。

このような大学の現状に対し、多くの大学の制度的枠組みを「教養教育+職業教育」というものに転換するのは合理的なことだと思います。実態としてまともな教養教育すらなされていない大学については、職業教育を通じて若者に知的刺激を与えるほうが有効だと考えます。もちろんそのような知的刺激を与えるに足りる職業教育を施さねばなりませんが。あなたは結局教養教育の割合が減少するではないかと鬼の首をとったように論難するでしょうが、量的に減少しても質的に維持できれば問題はないでしょう。そもそも教養教育もまともになされない多くの大学の現状からは好転と評価すべきです。あなたは多くの大学がもはや大学と呼ぶに値しない現状について終始無視を決め込んでいますが、このような大学をどうするかこそ議論のポイントでしょう。もちろんそのような大学で奮闘している教員は多数おられることでしょう。職業教育大学の枠組みはそのような教員をバックアップするようなものでなければなりません。

次にOJTについて。あなたの考えているOJTは私の考えているものと同じです。ここで私が問題にしているのは「企業は、新入社員を採用するまでには相当の手間をかけるはずです。であれば、手間をかけて採用した人間が使い物にならないという場合に困るのは、採用された側だけでなく、採用した側も困るはずです。であれば、当の企業がきちんとOJTをやらないはずがありません。」というあなたの前提そのものです。このような企業の在り方は日本型雇用システムに準拠したものですが、濱口さんがさんざん議論されてきたように、このシステムは高度成長期に形成されたものであり、もはや合理性を失ったものです(というより肥大化しすぎて機能不全を起こした側面の方が強いと思いますが)。先のリプライでも述べたように、このシステムの下で働く労働者は消滅しないまでも相当限定されていくことでしょう。手間をかけて採用してきちんとOJTによって育ててもらえる労働者はごく一部になるでしょう(というか昔から全労働者の中でも一部にすぎませんでした)。これからは、ブラック企業ではない、ごく普通の企業でも大部分の労働者は大卒であれ使い捨ての存在になるしかありません。「大量に採用して、新入社員にできもしないことをいきなりやらせて、どんどん中退者が出て行って、最後に残った奴で良しとする」ということはしないとしても、仕事がなくなれば解雇されるだけの労働者が大多数をしめるようになるでしょう(というか既になりつつある)。そのような労働者に企業は育成コストを負担したりはしません。これは社会悪というものではなく、単なるマクロ的な経済環境の変動にすぎません。高度成長が終わり、慢性的な労働力過剰に陥ったために使用者側の立場が強まったというだけのことです。ちなみにアベノミクスによって労働力の需給ギャップは消滅したと報道されていますが、これは飲食・建設などの単純労働への需要が増えただけのことです。税金というコストをかけた大卒者にふさわしい職が増えたわけではないでしょう。若者によりよい雇用機会を与えるためには財政を通じて仕事を作り出すしかありませんが、そのためには財源調達が必要です。現在問題となっている消費増税をはじめ、資産課税の強化、法人税の課税ベースの拡大などを実行していかなくてはなりません。しかしこれらの課税強化は中間層の税負担を高め(そもそも従来低すぎたのですが)、生産性の低い中小企業を淘汰していくことでしょう。これはあなたの考えるようなOJTでじっくり人が育つ職場を激減させていきます。しかし、このような方向に動かなければ、慢性的な需要不足を(完全には無理でも)解消して経済を回復させることはできず、日本は破滅するだけです。調達された財源によって生み出される職は保育や(あなたも将来お世話になるであろう)医療や介護など対人社会サービスが主なものとなります。そしてそのような職に合わせた職業教育を多くの大学が担うことを要請されるようになるでしょう。このような来るべき社会経済上の大変動に合わせて大学が変わることが求められているというべきです。決して問題を大学教育に矮小化しているわけではないのです。(濱口さんのいう「りふれは」は実はこのような社会経済上の大変動を恐れ、なんとか従来の構造を維持したいと考えているのではないでしょうか)

肥大化した大学で学ぶ多くの学生はあなたの考えるような職業生活を送ることはできません。あなたは富山氏のエリート主義を批判しますが、今となってはあなたの考える大学や労働の在り方こそ一部のエリートにしか許されない特権的なものになりつつあるのです。(富山氏がそれをG型L型と区分するのはいささか的外れだと思いますが)

法学を職業教育として受ける学生の数はごくかぎられたものになるでしょう。あなたのいう「法学部を出ると弁護士の資格(或いは、その助手といったものかもしれませんが、ともあれそういう「資格」)が得られるという国が現にある」のは知っていますが、そのような国ではそもそも階級構造を前提として法学教育を受けることのできる人間そのものが限られています。あなたは階級構造に敵意を持っているようですが、そのあなたが階級構造を前提とする法学教育のシステムを肯定するのは自己撞着でしょう。

経済学の職業教育的意義が結構微妙なのは同感です。理論経済学が「職業教育たりえているのは、経済学部を出て経済研究所的なところに就職したケース」にほぼ限られるのはその通りでしょう。経営学も役に立つのはごく限られた層でしょう。一般的に役立つのは簿記会計くらいでしょうか。しかし、教養教育としての経済学は重要です。国民一般の経済リテラシーを高めなければ、あなたのいう{連中」にだまされるばかりでしょう。経済学者の多くは教養教育に貢献すべきです。

ヨーロッパの高等職業教育機関は、職業教育大学が絵に描いた餅でないことをいうために持ち出した話です。欧米礼賛などしていませんよ。議論を曲解してはいけません。ただ、アメリカはともかく、ヨーロッパは学ぶべき点がたくさんあると思います。

さて、議論はいよいよ終着点にたどり着きました。ここまであなたとあまり生産的でない議論をしてきたのはここまで来るためでした。あなたに途中で撤退されては困るので、議論に引っ張りこむために侮辱的な言辞を弄した点は謝ります。(「単に大学や学問のことをわかっていないだけでなく、職業人として仕事をするということについてもよくわかっていなかった」というあなたの言葉も十分侮辱的だと思いますが)

なんの話かといえば、今後の日本の社会構造の問題です。あなたは西欧の職業教育機関を階級構造の補完要素として考えているようですが、もし日本が階級構造を強めていくのであれば、教育システムによってその流れに抵抗するのは無理というものでしょう。教育は社会経済の従属変数にすぎず、その逆ではないからです(教育学者は教育を独立変数と考えたいでしょうが)。先ほど述べたように、日本が今後財政規模を拡大し(そもそも先進国中際立って小さいのが現在の日本の財政です)、本格的な福祉国家を目指す過程で、中小零細企業の多くは淘汰され、階級構造が強まることは避けられないかもしれません。しかし、経済が回復し、(公的サービスの給付を含めて)全体の生活水準が高まるのであれば、私はそれを肯定します。逆に財政を拡大させず現状のままであれば、経済が回復しないまま格差は拡大し、多くの国民が貧困に置かれた状態で階級構造が強まるだけでしょう。いずれにしても、多くの人々が大学を出て、あなたが考えるような労働環境でエリートを夢見れるような古き良き日本はもう帰ってこないと考えるべきです。

職業教育大学は日本が本格的な福祉国家を目指す上で、欠かせない役割を果たすことになるでしょう。私が避けられない社会的趨勢といったのはこのようなことです。私はそれを好ましいことと考えます。

そのような流れの中で学問基盤を維持するためにどうすべきかを考える必要があります。単にこの流れに背を向けるだけでは富山氏のような人物のいいようにされるだけでしょう。

あなたの理想を堅持しようとする姿勢には共感するものがあります。敬意さえ感じます。しかし理想に固執して妥協を拒めば、何もかも失うことになりかねません。それは無責任な態度です。あなたは目前の敵である私を攻撃するのに夢中になって、実のところ真の敵である富山氏を利していることを自覚すべきです。普通の人があなたの議論を読めば、むしろ富山氏の暴論の方を支持しかねません。あなたがいくらお説教しても無意味です。

大学における職業教育の強化という問題の本質は大学の理念といった問題なのではなく、実のところ日本が既存の構造から変化しつつあるという事態を反映しているということです。富山氏のG型L型という区分はそのことを露骨に示したために多くの反発を買ったのでしょう。しかし興味深いのは年配の人が強い拒否反応を示すのに対し、若い人には肯定的な反応が結構見られることです。おそらく年配の人には一億総中流の幻想へのノスタルジーが強いのに対し、若い人ほど現実を直視しているからでしょう。

あなたと私の議論はもはや尽きたといっていいでしょう。所詮は抽象論です。あとは職業教育訓練の専門家に委ねるほかありません。具体的な制度設計が学問基盤の維持に配慮されたものになることを祈ります。

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