伊藤光利・宮本太郎編『民主党政権の挑戦と挫折』
伊藤光利・宮本太郎編『民主党政権の挑戦と挫折 その経験から何を学ぶか』(日本経済評論社)をお送りいただきました。ありがとうございます。
http://www.nikkeihyo.co.jp/books/view/2339
かつての自民党一党優位性を覆し少なからぬ国民の支持を得たにもかかわらず、民主党はなぜ失敗したのか。構造・理念・政策・言説・主体・戦略の相互作用の視覚から検証。
本ブログの関心からすると、特に第2章の「民主党政権下における雇用・福祉レジーム転換の模索」(三浦まり・宮本太郎)と、第5章の「民主党政権下における連合」(三浦まり)が興味深いです。
民主党へのシンパシーの残る文章をやや辛口に言い換えれば、 民主党の政策は雇用福祉レジーム転換を含意するものであったにもかかわらず、肝心の民主党の政治家たちにそういう意識があまりなかったために、あらぬ方向に迷走したあげく失敗に終わったということでしょうか。
それをアカデミズム的なユーフェミズムに載せると、同章「おわりに」の次の文章になります。
民主党は「コンクリートから人へ」のスローガンの下、「レジーム転換」の入り口には辿り着いていたが、それが本格的なレジーム転換へとつながらなかったのは、一つには「人」にこめられた内容を十分に膨らますことができなかったことがある。旧来のレジームは男性雇用の分配を通じた生活保障を実現してきたものであったが、それとは異なる新しい形とは、男女が安心して働くことのできる条件を整備することであるはずである。しかし、民主党の雇用政策や労働条件に関する関心は弱く、新しい働き方を公共政策によって支えることがアジェンダとして認識されることはなかった。結果的に、個人への支援は静態的な給付に偏り、再分配政策としては多少の改善が見られたものの、「レジーム転換」までには至らなかった。
もう一つの理由は、「官僚主導から政治主導へ」という目標が利益媒介のシステムの構築とリンクしていなかったことである。政治主導を狭く政官関係の中で捉えた時、マクロ・レベルでの政策リンケージを可能にする戦略部署を作り得なかったことは痛手であったが、それ以上に深刻な問題は、民主党という政党がどのように利益集約を担うのかに関する見通しもまた実践も伴っていなかったことである。政治主導という概念は、政官関係だけではなく、政官民関係として捉える必要があるが、民主党の政治主導には多様な「民」の利益や意見をどのように集約し代表していくのかに関する構想は含まれていなかった。
このように考えると、民主党が政策空間に持ち込んだ新しい政策アイディアが必ずしも社会的支持を得られなかったのは、民主党が政官関係ばかりに照準を合わせ、政官民関係として政治主導を捉えようとしなかったことが原因である。
この、政治主導を政官関係ばかりで考えるということの、戯画的なまでの帰結が、厚生労働省というまさに政官民関係の結節点において、大向こうを意識して役人を叩くことばかりに専念する軽薄な「政治主導」を生み出したのでしょう。その辺の消息は、このもっぱら政策という視点に着目するアカデミックな書物ではほとんど触れられていませんが。
ちなみに、私自身も民主党政権ができたときと、かなりガタが来たときに、労働政策に着目して書いたり喋ったりしたことがあります。今読み返してみても、あんまり物事を外していないように思っています。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/minshu.htm(「労働政策:民主党政権の課題」『現代の理論』21号)
1 労働政策評価の基軸となるべき認識枠組み
2 子ども手当と教育費補助
3 3層の雇用セーフティネット
4 最低賃金と均等待遇原則
5 非正規労働者の待遇改善
6 いのちと生活のための労働時間政策
7 年齢差別と新規学卒一括採用システム
8 重要なのは恣意的な解雇やいじめの規制9 労働政策決定システムと三者構成原則
最後に、民主党政権の最大の目玉として打ち出されている「政治主導」について、一点釘を刺しておきたい。政権構想では「官邸機能を強化し、総理直属の「国家戦略局」を設置し、官民の優秀な人材を結集して、新時代の国家ビジョンを創り、政治主導で予算の骨格を策定する」としている。これは、小泉内閣における経済財政諮問会議の位置づけに似ている。
政治主導自体はいい。しかしながら、小泉内閣の経済財政諮問会議や規制改革会議が、労働者の利益に関わる問題を労働者の代表を排除した形で一方的に推し進め、そのことが強い批判を浴びたことを忘れるべきではない。総選挙で圧倒的多数を得たことがすべてを正当化するのであれば、小泉政権の労働排除政策を批判することはできない。この理は民主党政権といえどもまったく同じである。
労働者に関わる政策は、使用者と労働者の代表が関与する形で決定されなければならない。これは国際労働機構(ILO)の掲げる大原則である。政官業の癒着を排除せよということと、世界標準たる政労使三者構成原則を否定することとはまったく別のことだ。政治主導というのであれば、その意思決定の中枢に労使の代表をきちんと参加させることが必要である。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/sekai1008.html(座談会 民主党政権の社会保障政策をどう見るか(宮本太郎・白波瀬佐和子・濱口桂一郎)(『世界』2010年8月号) )
濱口 新政権は、過去の政権から大きく変わったと言いたがるものです。たとえば、明治政府は、江戸時代は真っ暗で、明治になって明るくなったと言うけれど、よく見ると、かなりの部分は前の時代と連続しています。自公政権の末期には、労働政策にしても社会保障政策にしても、ある意味で福祉国家を目指そうという方向性が出てきていました。例えば派遣法の改正についても麻生政権時代に既に規制を強化する改正案が出ていましたし、最低賃金についても、安倍政権の成長力底上げ戦略円卓会議で、それまで低く抑えられてきた最低賃金の水準を官邸主導で大幅に引き上げていこうという動きが出ていた。
むろん、一方で自公政権には、規制緩和など、さまざまな公的サービスに対して否定的な傾向がありました。ただしその点でいえば、民主党にも事業仕分けに見られるように、公的なサービスによって国民の生活を引き上げていくことに対して否定的な感覚がかなり強くある。民主党政権の左手が一生懸命新しい福祉国家を目指して充実させようとする一方で、右手の方はむしろそれを削減しようという傾向がある、という意味で、二重の意味で前政権との連続性があるのではないか。
もうひとつ、民主党がマニフェストで打ち出し、実現させようとした政策をどう評価するかという評価基準の問題です。目指すべき社会のイメージがまずあって、その全体的な社会モデルを実現するための一つの手段、部品として個々の政策が位置づけられ、その政策を実行しようとしているのかは非常に疑問です。全体像があれば、いろいろな問題や抵抗が起きたときに、その目的を達成するためにどのように修正していくかという議論も柔軟にできると思うのですが、全体像がないまま個々の政策がバラバラに絶対視されているのではないか。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/seikatsuzadankai.html(座談会 好循環社会のゆくえ――新成長戦略と民主党のアイロニー 『生活経済政策』2010年10月号)
濱口 それとからむのが「現状認識」とは何かという問題だと思います。雑誌『世界』での座談会でも申し上げたのですが、歴史の転換期には「前の時代は真っ暗で、新しい時代は明るい」と言いたがるし、「社会はすべて変わった」と言いたがるものです。でも、幕末政府にいた勝海舟や川路聖謨のように、その「真っ暗」とされた時代にも非常に開明的ですぐれた人がいて、次の時代を先取りする政策も打たれていた。逆に明治政府にも訳の分かっていない人間もいて、変なことも結構やっている。
それが歴史の転換期の実態だとすれば、民主党政権にも同じことが言えると思います。間宮先生が指摘されたように、民主党の新成長戦略は確かに自公政権末期の与謝野さんの下で進められた政策とよく似ています。でも、これはある意味、当たり前のことです。なぜなら、少なくとも雇用・人材の分野について言えば、それがまさに正しい方向であったからです。・・・
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