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「職」なき「雇用維持」政策のアイロニー

『労基旬報』9月25日号に「「職」なき「雇用維持」政策のアイロニー」を寄稿しました。

 日本の労働社会は、EU諸国の労働社会とはその構成原理が異なります。日本の労働社会の主流は、雇用関係が「職(job)」ではなく、「社員であること(membership)」に立脚しているのです。日本語で被用者を表す「社員」という言葉それ自体が「member of company」という意味です。会社は単なる営利組織ではなく一種の共同体的性格を有しています。雇用契約は原則として職務の限定のない「空白の石版」であり、企業の命令に従ってさまざまな部署に配置転換され、そこでさまざまな「職」を遂行することが労働者の義務と見なされています。このような社会では、教育から労働への移行は、「就職(job placement)」ではなく「入社(inclusion into membership)」です。

 この反面として、企業からたまたま命じられた「職」が景気変動や産業構造転換等によって消滅しまたは縮小したからといって、そのことが直ちに解雇の正当な理由とはなりません。企業内に配置することができる他の「職」がある限り解雇が正当とされる可能性は少なくなります。このような社会では、経済的理由による解雇は「失職(job displacement)」としてではなく「社員であることからの排除(exclusion from membership)」として受け取られることになります。日本語における「リストラ」という言葉が有する独特のニュアンスは、それが「職」に立脚した継続的な債権債務関係の解消というにとどまらず、共同体的な関係からの排除であり、メンバーシップの剥奪という性格を有していることに基づくのです。

 もちろん日本も市場経済であり、景気変動があり、また産業構造の転換によっても、個々の「職」に対する労働需要は変動します。しかし、雇用関係が「職」に基づいていないので、ある「職」の喪失は必ずしも雇用関係の終了の理由になりません。企業内に他に就くことが可能な「職」があれば配置転換により雇用関係を維持することがルールです。これは、日本の裁判所の判例法理においても、整理解雇法理の中に取り入れられている。所謂整理解雇4要件は、それだけ見れば欧州各国と比べて特段異例なものではありません。しかし、解雇回避の努力義務の中に含まれる企業内の他の「職」への配置転換の範囲が、雇用契約の条項や職業資格等によって限定されることがほとんどなく、やや極端にいえばどんな「職」であれ企業内に雇用を維持しうる可能性がある限り、解雇回避の努力義務を果たしていないと判断される可能性が高い点に特殊性があります。

 このような雇用慣行や、それに基づく判例法理、雇用政策は、「失職」(前述の通り、日本においては「社員であることからの排除」として現れる。)の社会的苦痛を減らすという意味では一定の意義があります。

 しかし逆に言えば、経済的理由からやむを得ず行われる解雇が、雇用契約で定められた特定の「職」の客観的な消滅・縮小に基づくものであるという意味において、自己の責任によるものではない「失職」としてではなく、企業内に彼/彼女が遂行しうるいかなる「職」も存在しないゆえの「会社からの排除」として、社会的スティグマを付与されてしまうことをも意味します。この場合、剰員整理解雇が労働者個人の能力不足による解雇として現れるのであり、その「能力不足」とは、特定の「職」の遂行能力ではなく、企業内の提供可能ないかなる「職」をも遂行しうる能力がなかったことを意味してしまうため、その社会的スティグマは極めて大きなものとなるのです。
 一方で、日本の裁判所が確立してきた整理解雇法理は、解雇回避努力義務に大きな力点があるのと対照的に、解雇対象者の選定についてはEU諸国のような明確な基準がありません。むしろ、中高年者を優先的に解雇することについても許容する傾向があります。

 このことがさらに剰員整理解雇への抑制効果として働き、大企業になればなるほど、雇用を縮小せざるを得ない場合でも、できるだけ解雇という形をとらないで、希望退職募集を通じて剰員整理しようとします。それは、「整理解雇」されたことが社会的に示す「能力不足」のスティグマがあまりにも大きいため、それを回避するための行動です。

 1970年代後半以降、日本の雇用政策は雇用調整助成金による雇用維持を最重要課題として運営されてきました。そのこと自体は必ずしも問題とは言えません。「失職」による苦痛を最小限に抑制することは社会政策として当然です。しかし、「職」に基づかない社会における雇用維持優先政策は、「社員であること」を維持するために「職」を軽視する傾向を生みがちです。

 日本的な「職」なき「雇用維持」政策は、助成金の援助によって企業が頑張れるぎりぎりまで失業を出さないという点においては、欧米諸国に比べて失業率を低水準にとどめる効果があり、雇用政策として有効であることは確かです。しかしながら逆に、企業がもはや我慢しきれずに不幸にして失業してしまった場合には、景気が回復しても簡単に復職することは困難となります。

 欧米では不況のため「職」が少なくなって「失職」したのであれば、景気回復で「職」が増えれば「復職」することは可能です。少なくとも当該「職」に技能のない若い労働者よりも有利です。欧米では多くの国で、いわゆるセニョリティ・ルールとして、勤続年数の短い者から順番に整理解雇されることとともに、解雇された者が再雇用される場合にもその逆順、すなわち勤続年数の長い者から順番に再雇用されるとのルールが確立しています。しかし日本では企業の中にあてがうべきいかなる「職」もなくなるところまで頑張ったあげくの失業ですから、失業者であること自体が「どの「職」もできない」というスティグマとなり、再就職が極めて困難となります。このため、失業率自体は比較的低水準であるにもかかわらず、1年を超える長期失業率はかなり高くなってしまうのです。 

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コメント

結局、日本人にとっての「会社」はあくまでも「お家」であり、単なる働く場所ではなく、「生きる場所」になってしまっている、こういう構造があって、そこから逃れることができない事情があるわけですね。

しかし、「お家」の場合不始末を仕出かした家臣はお家から追放されたりしますが、会社の場合には、「社員」に何の落ち度がなくともリストラされたりするので、ある意味「お家」よりも過酷なのかもしれません。

また、「お家」の枠組みから外れてしまった者は、文字通り「生きる場所」が無くなってしまうということも問題ですし。

例えば、秋葉原事件の犯人の犯行の動機の一つが、「派遣切り」によって「生きる場所を奪われたこと」に対する「復讐」という意味もあったかもですし。

日本の雇用を考えるということは、こういう事柄も含めて、日本人の生き方、あるいは生きる場所のありかをどう確保するかに繋がってくるのだと思います。

投稿: 我無駄無 | 2014年9月23日 (火) 14時31分

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