国家パターナリズムの縮減と企業パターナリズムの膨張
hamachanと一字違いのyamachanブログで、大内伸哉さんの『君の働き方に未来はあるか』(光文社新書)の書評が書かれています。
http://social-udonjin.hatenablog.com/entry/2014/07/06/132622
ここでyamachanさんが違和感を感じているのは、大内さんの使う「パターナリズム」という言葉の使い方であるようです。
ただ、「(労働法の)保護は努力する意欲を引き下げます。」という一文だけはどうしても納得することができない。例えば、最低限の労働条件を確保するための規定である労働基準法が、労働者の努力する意欲を引き下げているようなケースを、私には具体的な問題として想像することができないからである。
この一節のあとに、政府(労働法)から正社員に対する「パターナリズム」についての具体的記述はない。その代わり、企業から正社員に対する「パターナリズム」として、終身雇傭・年功賃金の代償として、正社員の利益が損なわれてきた面があることを強調する。具体的には過労による健康障害や、頻繁な転勤や長時間の残業によるワーク・ライフ・バランスの破壊といったことである。これらの主張は戦後大企業の人事管理の実像を適切にとらえたものであろう。
しかしながら、これらは企業の人事管理の話であり、労働基準法をはじめとする「労働法」とは直接的に関係はない。当然のことだが、労働基準法は最低限の労働条件を定めたものであり、企業によるパターナリズムを規定しているものではない。彼は、労働法と企業の人事管理を同一のものとして意図的に混同している可能性が高い。
この指摘は、大内さんの著書に対する批判として正鵠を得ているだけではなく、近時の雇用労働問題をめぐる議論のかなりの部分についての、とりわけエコノミストサイドからの批判のかなりの部分にも同じように当てはまるように思われます。
労働法は確かに国家のパターナリズムです。
労働基準法第32条なんか、全然健康にも影響がなさそうな1日8時間1週40時間などという異常に少ない労働時間の物理的上限を定めて、それを超えて働かせたら懲役刑まで科するぞと脅しているのですから、もし全国の労働基準監督官たちがこれをそのまま適用してバシバシしばきあげているとすれば、それはまさしく国家のパターナリズムと評されてしかるべきでしょう。
ところがそんなことはほとんど行われていません。じゃあ、どれくらい長時間労働になったらそろそろ国家のパターナリズムが始動し始めるのかというと・・・・・、どこまで行っても動き出さないのですね、これが。36協定を結んで、残業代を払っている限り、国家が実定法でやるぞと宣言しているはずの国家のパターナリズムは動かないのです。
ほとんど動かない国家のパターナリズムが「努力する意欲を引き下げる」というのは、前段階の因果関係の当否が正しいか正しくないにかかわらず議論として正しいものとは言いがたいでしょう。
では何が?という議論の土俵に乗れば、それは第一次的には労基法37条の残業代割増規定だと言うことになるわけですが、経営サイドの本音をよく見れば、それは管理職にならないけど年功制で高給になってしまっている中高年平社員の問題なので(詳しくは拙著『日本の雇用と中高年』参照)、その仕事の価値よりも高い給料を年功制故に払っている企業の人事管理の問題に帰着します。つまり、国家ではなく企業のパターナリズムが自分で生み出している矛盾なのです。
いうまでもなく、日本国の労働法制は企業に最低賃金以上を支払えという最低限の国家パターナリズムは押しつけていますが、それを超えて年功的に昇給させろとか、中高年なんだから女房子供を養えるだけの給料を払えなどという企業パターナリズムを強制するようなことはありません。そんなのは企業が勝手にやっているのです(戦時体制下を除く)。
極限まで収縮した国家パターナリズムの横で、極限まで膨張した企業パターナリズムが自分自身の毒に自家中毒している姿を見て、国家がケシカラン、国家パターナリズムをやめろと叫ぶことで、何事が解決するのか、そういう問題であるわけです。
これと全く同じ問題構造が、これと同じく近時の法政策の焦点になっている解雇「規制」にも当てはまります。
先日のみずほ総研のコンファレンスで申し述べたとおりですが、日本の国家実定法はそもそも、一般的に解雇を規制する法規定を有してすらいません。よくわかっていない人が諸悪の根源と称したがる労働契約法第16条は、そもそも解雇には正当な理由が必要だという正当事由説ですらなく、解雇は一般的にはできるんだけれども、特にひでぇ奴は権利濫用で無効だと言っているだけです。
法形式論的に言えば、実は現在の日本は未だに原則は解雇自由なのです。ただ、例外として「客観的に合理的」とか「社会通念上相当」云々という要件で権利が濫用されたと判断されたら無効になるというだけです。その意味では、少なくとも欧州諸国と比べれば、日本の国家パターナリズムは大変縮減されています。
それなのに、なぜ日本の大企業が正社員を解雇するのが大変困難であるのかといえば、これまた繰り返し説いてきたように、企業自身のパターナリズムによって、職務や勤務地の無限定による雇用保障の極大化を約束してきているからで、、ここでもやはり、企業を悩ませているのは国家パターナリズムなどではなく、極限まで膨張した企業パターナリズムが自分自身の毒に自家中毒している姿であるわけです。
国家パターナリズムであれ、企業パターナリズムであれ、それらに対して肯定的に評価するか、否定的に評価するかは、論者それぞれに様々な立場があり得るところであり、それは賛成反対はあっても正しい正しくないという議論を安易にすべきではありません。
しかし、国家パターナリズムと企業パターナリズムを混同し、極限まで縮減した国家パターナリズムの横で極限まで膨張した企業パターナリズムが自己中毒しているのを解決するために、肝心の企業パターナリズムをほったらかしにして、すでに極限まで縮減されている国家パターナリズムの更なる縮減『のみ』を叫ぶのは、価値判断の方向性如何に関わらず、それ自体として正しい議論とは言いがたいように思われます。
yamachanさんの指摘は、その点を明確に摘示するものといえるでしょう。
そういう議論の仕方の一帰結が、企業パターナリズムによって生み出された高すぎる残業代問題を解決するために、(すでにほとんど縮減している)国家パターナリズムたる労働時間規制の適用除外という手法を使おうとし、しかも、その条件として規制改革会議が提示していた労働時間の物理的上限規制の導入という最低限の国家パターナリズムの導入に対しては、経営サイドの猛烈な反発-いうまでもなくそれは経済界主流派の「長期蓄積能力活用型」を断固として維持するぞという強い信念に基づいているわけですが-によってあえなく実質的に削除されるという事態であるわけです。
極限まで収縮した国家パターナリズムをさらに縮減しようとしつつ、極限まで膨張した企業パターナリズムには一本も指を触れさせたくないという、この奇妙な姿に、両者を混同する議論の行き着く姿が見えるのではないでしょうか。
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いつの頃からか国家支配が会社による支配に変わった。
誰がいつどうやって変えたのか、教えていただけますか?
投稿: Rui | 2014年7月 8日 (火) 22時01分
この記事内における「国家パターナリズム」と「企業パターナリズム」といった区分に関してですが、これらを「パターナリズム」といった単語を使用し、同列に扱うこと自体が不適切ではないでしょうか。
パターナリズムの通常の用語法は、個人の消極的自由に対する強制的制約を含意するのであって、「企業パターナリズム」と称している(少なくとも形式上は)任意の契約関係に基づく行為を、パターナリズムと呼称すること自体が適切ではないと考えます。
仮にこうした主張が正しいとするならば、弁護士に代理業務を依頼することも、医療従事者に治療方針の決定やその実施を委任することも、パターナリズムであることになります。
消極的自由の侵害を伴っていない、合意に基づく関係による行為を、パターナリズムといった単語で表現するのは議論の混乱を招くと思います。
少なくとも、「暴力装置」たる国家の公権力による、拒否権の無い強制的制約を伴う個人へのリーガルパターナリズムと同様に語るのは不適当ではないでしょうか。
主張の趣旨は理解できますが、全く性質の異なる「同等」に扱えない対象を、パターナリズムといった「同一」の単語で扱い論評するのはアンフェアではないかと思います。
国家によるパターナリズムを相対的に矮小化し、社会主義的なイデオロギーを正当化する為にミスリードしているようにも映ります。
「企業パターナリズム」なる用語法を無批判に受け入れた上での論理展開は残念に思います。
投稿: パターナリズムについて | 2022年5月 8日 (日) 17時52分