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経営者意識になりすぎたメンバーシップ型労働者を「もっと経営者になれ」と罵る人々

昨日に続いて、イケメン社会学者の筒井淳也さんです。こちらは本人のブログ記事。

http://d.hatena.ne.jp/jtsutsui/20140719/1405754049日本的働き方における「フレキシビリティ」の矛盾

・・・日本的な働き方の特徴の一つに、社内で人員をフレキシブルに配置できる、というものがある。職務内容や勤務地がはっきりと決められていないため、内部労働市場が活発になり、経営者は事業の縮小や新規展開にあわせて人員を柔軟に配置換えすることができる、ということである。1970年代以降の経済成長率の低下に際して欧米諸国では大量失業が生じたのに日本では失業率(特に若年者失業率)がそれほど高まらなかったのは、余剰労働力を吸収する旧セクター(自営)の厚みや女性を非労働力化する家庭の影響があったという事情もあるが、内部労働市場の活用も無視できない。

しかしそれと引き換えに、企業の内部では能力主義(職能資格制度に基づく個別的評価)が浸透し、働く人々にいっそうの「柔軟性」が求められるようになった。つまり、複雑な複数の職務を把握し、周囲と協調して働くことがますます求められるようになった。そこでは具体的職務内容の遂行ではなく「潜在能力」が職務能力評価の対象になるため、「適性」「能力」「意欲」といった抽象的な基準で個人主義的な評定がなされるようになった。一見能力主義と対立するようにみえる「情意考課」も、もとはといえばこういった能力主義化のもとでの柔軟性の要求の延長線上にある評価の仕方である。

いってみれば、社員全体が「経営者的意識」を持つことを要請されてきたのである。このような働く環境において、女性は排除される傾向が強くなる。

端的に書かれているので特に付け加えるべきことはないでしょう。こういう「経営者的意識」をもった労働者のことを、日本社会の日常言語では、法律上は会社への出資者のみを指す言葉を用いて、「社員」と呼んでいるわけであり、逆に言えば自らを「社員」と意識する労働者が法律上そうであるように労務提供と報酬受領の債権契約の一方当事者と意識しないこともまた自然であるわけです。

そしてこういう「社員」であればこそ、

・・・つまるところ、職務配置の柔軟性とは、労働者の働き方の自律性の縮小と引き換えで可能になるものなのである。欧米的・職務給的な働き方は、職務内容が限定されているがゆえに、労働者はそれ以外の点で自律的な働き方をする余地が残されているし、また自分たちを経営者と対立する労働者として認知しているがゆえに連帯・団結することでそういった自由を勝ち取ってきたという側面もある。「全員が経営意識を持っている」ような場合にはそういった労働者としての連帯意識は構築されにくい。各自が経営意識を持ち、利益に敏感で、営業職でなくとも営業感覚を持つことが期待される職場では、「意欲・適性・能力」というあいまいな基準で駆り立てられつつ、働き手は自らを複雑な職務配置のなかに投げ込み続け、労働環境の自律性を放棄しているのである。

という事態になるわけですが、さて。

そういう(共同主観的に)経営者意識になりすぎたメンバーシップ型労働者に対して、奴隷だの身分制だのと罵声を浴びせながら、「もっと自立的になれ」「もっと経営者になれ」と叱咤激励して、それが矛盾していると全然感じていないように見えるある種のヒョーロン家諸氏の精神構造こそ、この世の不思議の極みと言えましょうか。

いやいや、数多くの係員島耕作たちが、あたかも社長島耕作になったかのように思考し、行動せよという価値規範が内面化されていることこそが、良きにつけ悪しきにつけ、メンバーシップ型社会の最大の特徴なんですよ。

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