「Et alors」(それがどうしたの?)
大内伸哉さんの「アモーレと労働法」で、拙著『日本の雇用と中高年』について詳しく評していただいています。
http://souchi.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-c268.html
冒頭の苦情については最後でお答えするとして、本書に対する大内さんの評は、本エントリのタイトルにもつけたこの言葉に集約されるのでしょう。
前作の『若者と労働』も,今回の『日本の雇用と中高年』も,資料的な内容が多くて,それはそれで勉強になりますし,政策形成過程は,おそらく行政の方にとっても,また経済界や労働組合の人にとっても重要でしょうし,歴史を知ることの重要性も否定しませんが,なんとなく,「Et alors」(それがどうしたの?)という感じにもなります(隠し子の存在についてジャーナリストから質問されたときの,フランスの当時のミッテラン大統領の返事)。もちろん,そういう歴史や資料的なことに関心がある人が多いので,こういう新書が出されたのでしょうから,社会的には有益なものなのでしょう。おそらく個人の主張を書いた私の新書よりは,ずっと社会的価値が高いと評価されるのでしょう。
実を言うと、この文を読むと、「歴史を知ることの重要性も否定しませんが」という表現の裏に、「とはいえ、本当は歴史なんて二の次、三の次なんだけどね」という気持ちが感じられます。で、それは、まっとうな労働法学者としてはまことに当たり前だろうと思います。法学部やロースクールで、まっとうな法解釈学の訓練をきちんと受けた方々が、そういう感覚になるのは当然であって、歴史なんぞに興味を持って首を突っ込むのは、趣味人の手すさびにすぎないでしょう。
実は同じ感覚を、まっとうな労働経済学者の方々の言葉の端々にも感じることがあります。まっとうな理論経済学の訓練をきちんと受けた方であればあるほど、やはり歴史なんかは趣味人の手すさび視するようになるのは自然なことだと思います。
ただ、私はそういうまともな法学者、まともな経済学者の非歴史的かつ形式論理的な言語体系における記号処理だけで、労働という複雑な人間活動に対する政策提言が出てくることに対して、いささか違和感というか「それだけじゃないでしょう」感を持っていて、そのあたりをできるだけ歴史叙述から浮かび上がらせるような本を書きたいというのが、本書も含む様々な本や文章を著してきていることの背景にある意図なのです。
実を言うと、それをちゃんとやるべき学問体系というのはちゃんとあって、社会政策という学問分野は本来そういうものだったんじゃないの?というのが、以前金子良事さんとの間でやりとりしたことでもあるわけですが、金子さんからは、そういうことも含めて全部法律学でやってくれ、と突き放されており、行き所がなくって、ひとりぼっちでとぼとぼ歩いているところなんですがね。
大内さんにとって、現在の政策を論じる上で重要性などないと感じておられるであろう、高度成長期から低成長期に至る時期の労働市場をめぐる政策や学問的議論の推移こそが、私にとっては今日の労働政策を考えるに当たってもまず念頭に置かれ、それを思考の基準線とすべき根本であるというあたりに、個々具体の政策論における共通点や相違点を超えて、両者の思考形態の違いなのかもしれないという気がします。
私が大内さんに言及する際には、なまじ個々具体の政策論では結構共通するところもあったりするので(たとえば最近の話題では、残業代規制を緩和するホワイトカラーエグゼンプションに対しては積極的であることなど)、かえってその結論がもたらされる根っこの認識が価値基準はこれだけ違うんだよ、ということを必要以上に強調する傾向が強く出すぎるのかもしれません。
大内さんのエントリの冒頭で、
ただ,私の言ったことに,「根本的誤解」とかいう大人げのないタイトルをつけて,そして私に言わせると的を射ていない批判をされており(反論はこのブログでしています),気持ちのよいものではありません。最近,私の名前をググる機会があり,そうすると,この濱口コメントのタイトルが上位に出ていました(いつからなのでしょうか)。驚きましたし,なんだか嫌な気分になりました。内容の批判は自由で,むしろ有り難いのですが,タイトルには気をつけてもらいたいです。
と、私に対する苦情が書かれているのも、表面的な政策の結論がよく似ているからといって、大内さんと同じ認識、同じ価値判断に立ってそう論じているんではないんですよ、ということを言いたいという意図が、大内さんの議論に対する否定的なラベルを貼るという適切でないやり方になってしまったことの結果だとすれば、まことに反省すべきことです。相違点を明確にするという意図が裏目に出てしまい、かえって不快感を与えてしまったことに対しては、心からお詫びし、もっともっと丁寧に説明するように努めなければならないと痛感した次第です。
(追記)
せっかくなので、私が歴史の推移こそが労働政策を考えるαでありωであるという考え方を全面的に展開している連載を改めて紹介しておきます。
海老原嗣生さんに依頼されて、季刊の『HRmics』誌に13号から連載している「雇用問題は先祖返り」は、まさに労働政策の各分野ごとに、政策の方向性が「先祖返り」している状況と、にもかかわらず肝心のそのアクターたちが自分たちがかつて大先輩たちがやっていたことを繰り返していることに全然気がついていないという皮肉な状況を描き出そうとしたものです。
各記事と、その小見出しを並べると、私が何を重要だと思っているかが浮かび上がってくると思います。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/hrmics13.html(「同一労働同一賃金はどいつの台詞だ?」 )
はじめに
1 軍部から労組へ:戦中戦後を貫く生活給思想
2 経営側の主張する同一労働同一賃金原則
3 労働側のリラクタントな姿勢
4 政府の積極姿勢
5 そして誰も言わなくなった・・・
6 「均衡」ってなあに?
7 不合理な相違の禁止←いまここ
8 同一労働同一賃金はどいつの台詞だ?
この有為転変から浮かび上がってくる何とも言えない皮肉こそがこの問題の本質であると考えるか、それとも「Et alors」(それがどうしたの?)と感じるか、その違いは結論における近さでは隠せないほど大きいものがあると思います。
http://homepage3.nifty.com/hamachan/hrmics14.html(「職業能力、職種を中心とする労働市場をめざして・・・」 )
はじめに
1 日本型20世紀システムの「偏倚」
2 「近代主義」の時代
3 企業主義の時代
4 市場主義の時代
5 そして再び「職業能力、職種を中心とする労働市場をめざして・・・」?
http://homepage3.nifty.com/hamachan/hrmics15.html(「『近代的』労使関係はどこにいったのか?」 )
はじめに
1 「近代的」労使関係のジョブ型モデル
2 「近代的」労使関係の非マルクス型モデル
3 「近代的」労使関係の協力型モデル
4 「近代的」労使関係の完成が「近代主義の時代」を終わらせた
http://homepage3.nifty.com/hamachan/hrmics16.html(「『技能検定』から半世紀ぶりの『キャリア段位』」 )
はじめに
1 技能検定制度の創設
2 近代主義の時代
3 企業主義の時代
4 ジョブ・カード制度
5 日本版NVQ(キャリア段位制度)の構想
http://homepage3.nifty.com/hamachan/hrmics17.html(「『雇用維持型』から『労働移動支援型』への転換というデジャビュ」 )
はじめに
1 職業転換給付金の時代
2 雇用調整助成金の時代
3 「失業なき労働移動」の登場
4 労働移動支援へ
5 雇用調整助成金の復活
6 そして再び「労働移動支援型」へ
http://homepage3.nifty.com/hamachan/hrmics18.html(「年齢差別禁止の有為転変」 )
はじめに
1 ジョブ型を目指した時代の中高年対策
2 年齢差別禁止法への試み
3 中高年リストラと整理解雇の年齢基準
4 90年代リストラの標的は再び中高年
5 年齢差別問題の提起
6 2001年雇用対策法改正による努力義務
7 政治主導による年齢制限禁止立法
今のところ刊行されているのはここまでですが、次号(19号)には「物理的労働時間規制の復活?」を寄稿する予定です。
はじめに
1 工場法から労働基準法へ
2 労働時間規制の空洞化
3 「時短」から弾力化へ
4 過労死・過労自殺問題
5 実労働時間規制の導入へ?
6 過労死等防止基本法案
そう、私のものの発想の根っこは、まず歴史を振り返り、じいさまのやってたことを知らない孫に、じいさまのやってたこと、考えてたことを語るところから始まるのです。
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» 経済学における歴史の重要性 [ニュースの社会科学的な裏側]
労働問題の専門家の濱口桂一郎氏の「日本の雇用と中高年」を大内伸哉氏が批判していて、濱口氏が返事を書いている。大内氏の批判は、濱口氏の著作は歴史や資料に力点が置かれており、それから導き出されるメッセージが弱いと言うもののようだ。ジョブ型契約にしなくても配置転換による中高年追い出しは権利濫用だから無効と言う議論は置いておいて、経済学に関して濱口氏のちょっとした誤解を解いてみたい。まともな経済学者はそれなり歴史を気にしているから、「歴史なんかは趣味人の手すさび」とは考えていないと思う。... [続きを読む]
社会政策は社会政策でやはり同じ課題を抱えていると思います。そのことをずっと訴えて来たのは玉井金五さんでした。他にも分かっている人は多いけれども、声をあげて先頭に立って来たかどうかということでは玉井さんがいるのみです。学問的な内容は別に、そういう姿勢は誰よりも貴重であると思います。
それと前の議論のときの内容では、労働法社会学というべき、そういう分野をエスタブリッシュすることが関連領域からも待望される(というか、私が待望しているんですが)という趣旨でした。
社会福祉のように資格試験にしてしまったところはなんで歴史が衰退したか説明しやすいですが、それ以外は理由が分かりませんね。労働も社会政策もみんな歴史離れですね。ただ、近代経済学をやっている人たちは数も多いので、意外と話せる人は多い印象です。なにぶん、歴史をやったことがないので、(歴史研究者とコンタクトを取ることを含めて)どうつきあって行けばよいのか分からないのが実情ではないでしょうか。
投稿: 金子良事 | 2014年6月 8日 (日) 14時30分
どうも、見つかっちゃいました。
労働研究における歴史の欠落化の趨勢は、私はとても深刻だと思っています。
それは単に歴史をやる人が減ってしまったというようなことにではなく、歴史をやること自体に対するきわめて低い評価、もっというと、そんな莫迦なことやってて何の意味があるのかという目線の一般化、瀰漫という現象が、とても強く感じられるからです。これ、これ以上いうといささか引っかかるのでこれくらいにしときますが。
投稿: hamachan | 2014年6月 8日 (日) 16時21分
>歴史を知ることの重要性も否定しませんが,なんとなく,「Et alors」(それがどうしたの?)という感じにもなります(隠し子の存在についてジャーナリストから質問されたときの,フランスの当時のミッテラン大統領の返事)。
ちなみにフランスとカトリック教会の相克を谷川稔『十字架と三色旗』等で知るわたくしとしては、このミッテランの発言にだって、“歴史的”意味深長さを(ちょっとだけ)感じてしまうものですが…。
投稿: 原口 | 2014年6月 8日 (日) 21時42分
法律学者というのは、制度の変遷や歴史、判例の動向に丁寧に配慮して解釈学を提示する「賢慮」(ユーリス・プルーデンス)の学問かと思ってきた。
が、最近は、最高学府の東大の先生が、「法と経済学」とかで、ミクロ理論がしっかりしている経済理論・モデルに幻惑されて、「賢慮」というモデル化できない、しかし法律学の本質的なもの、を捨て去り、「立法論」を振り回すさまは、みていて憂慮にたえないところと思わざるを得ない。
投稿: yunusu2011 | 2014年6月 9日 (月) 05時47分