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2014年5月22日 (木)

「『富岡日記』と『女工哀史』の間」@『労基旬報』5月25日号

『労基旬報』5月25日号に「『富岡日記』と『女工哀史』の間」を寄稿しました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo140525.html

 最近の明るい話題としては、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産に、「富岡製糸場と絹産業遺産群」(群馬県)が登録される見通しとなったことがあります。去る4月26日、文化庁はユネスコの諮問機関が「登録が適当」と勧告したと発表しました。6月15日からカタールのドーハで開かれる世界遺産委員会で登録が決まれば、国内で18件目の世界遺産となります。これを受けて、富岡製糸場に早速観光客が詰めかけているそうです。
 さて、このニュースを受けて、ネット上で有名なブロガーである「ちきりん」氏が、ツイッターで「富岡製糸場って「元祖ブラック企業」じゃん。それが世界遺産になるってことに、ブラック企業撲滅運動系のみなさんは、どんなご意見をお持ちなのかな。やっぱり「絶対反対!」」運動を始めるのかな?」と書き込んだことで、大炎上を引き起こしました。正確に言うと、物事を知っている人々が「富岡製糸場の女工さんはある意味「勝ち組」エリートだったかと(´・ω・`)」「製糸工場の女工≒「野麦峠」「女工哀史」、な理解一発になっちまってる弊害って、マジに大きいとおも(´・ω・`)」等と丁寧に説明しているのに、ちきりん氏は「みなさんが現在、糾弾している企業の職場も、100年後には世界遺産かもしれないわけですよ!?」とか「っていうか、富岡市&製糸場としては全力で「決してブラックではありませんでした!!!」ってことにしたいんだろうと思います。」などと自分の無知ゆえの間違いを認めず、あげくは「間違いを認めたら死ぬ病をお持ちのようで」などとからかわれるに至っています。
 ちきりん氏は匿名のブロガーですが、ネット上の一説によるとキャリア形成コンサルタントの伊賀泰代氏であるという声もあり、その真偽は定かではありませんが。もし人事関係の有名人がこういうトンデモ認識をまき散らしているとすると、いささか問題なしとしないところですので、明治から大正にかけての女子労働に関する推移を教科書的に簡単にまとめておきたいと思います。人事関係者であれば、少なくともこれくらいは常識としてもっておいてもらわなければいけないのですが・・・。

 明治期から大正期にかけて、日本の労働者の過半は繊維工業の女工でした。その出発点に位置するのが、1872年に開業した官営富岡製糸工場です。当時の女工たちは誇り高い士族の子女で、十代半ばの若さながら、その賃金は校長並みで、食事や住居など福利厚生も手厚く、まさにエリート女工でした。その一人であった松代区長の娘横田(和田)英の『富岡日記』には、その誇りがよく出ています。
 やがて日本各地に彼女らを教婦として民間の製糸工場が続々と開かれていきますが、なお女工は良家の子女であり、通勤女工が主で、地域のエリートとして誇りを持って働いていたのです。ところが製糸工業が急激に発展し労働力需要が激増するとともに、1870年代末には女工の出身は主として農村や都市の貧しい平民層に移行し、生家の家計を助けるために口減らしとして労働力を売る出稼ぎ女工が主になりました。
 一方、近代的な紡績工場も幕末から創業が始まり、初期には士族の子女が紋付きを着て工場の門を出入りするような状態でしたが、やはり業種の急拡大とともに農村や都市の貧民層が主たる労働供給源となっていき、それとともに遠方から募集した女工を寄宿舎に収容するのが一般的になっていきました。
 当時の企業にとって最大の問題は女工の募集難でした。そのために悪辣な募集人を使い、おいしいものが食べられる、きれいな着物が着られるなどと言葉巧みに十代の少女を誘惑して工場に連れてくるといったやり方が横行し、時には誘拐という手段も用いられました。その実情は、農商務省の『職工事情』に生々しく描かれています。このような弊害に対処するため、この頃から都道府県レベルで募集人の取締りが行われるようになりました。これは後に国レベルの規制に格上げされます。
 一方、工場の中の労働条件も、富岡時代とはうってかわって長時間深夜労働と低賃金に彩られていきます。高価な機械を使うことから昼夜フル操業が要請され、そのために昼夜交替制の12時間労働で、休憩時間は食事時間15分ずつといった有様でした。女工たちは家計補助のための就労ということで、女工一人の生活を維持する程度の低賃金でしたし、工場や寄宿舎は不衛生で、多くの女工が結核等に感染し、死亡するものも多かったようです。こういう状況に対して女工たちがとったのは逃亡という手段でしたが、これに対しても企業側は、逃走を図ったといった理由で、殴打、監禁、裸体引き回しといった懲罰を加えていました。
 この状況についても上記『職工事情』に詳しく描かれていますが、政府は主としてこの女工の労働条件改善対策として、工場法の制定を図ります。繊維産業界の猛烈な反対の中で立案から30年かかりましたが、同法は1911年に制定され、1916年から施行されました。これは女子と年少者について深夜業を禁止するとともに労働時間を12時間に制限したものです。もっとも、企業側の反対で、施行後15年間は、交替制の場合は深夜業が可能と骨抜きにされました。
 一方、企業側もいつまでもこのような原生的労働関係に安住せず、募集よりも保護・育成に力を注いで、女工の定着を図る施策を講ずるところが出てきます。鐘ヶ淵紡績(鐘紡)をはじめとして1890年代から義務貯金制度が始まりますが、これは逃亡すると没収されるので移動防止策として用いられました。鐘紡は、女工に対する福利厚生の手厚いことで有名です。特に寄宿舎に教育係を置き、国語算数に加え裁縫などを教えました。
 労務管理史上重要なのは、繊維工業では重工業や鉱山と異なり、親方職工による間接管理ではなかったという点です。作業管理も生活管理も企業の直轄で、賃金制度は個人ベースの出来高給です。しかし、上で見たように大部分は使い捨ての労働力であって、企業のメンバーシップがあったわけでもありません。とはいえ、彼女ら主に未婚の女工たちがジョブに基づく労働市場を形成していたとは言えないでしょう。出身家族へのメンバーシップに基づき、家計補助のために就労するというのがその社会的位置であったと思われます。
 鐘紡を先駆者として、大企業は次第に福利厚生や教育訓練を充実していきます。年少の女工が対象であるだけに、これはまさに使用者の温情主義として現れることになります。工場法制定に反対する企業側はこの温情主義を根拠としたのです。鐘紡の武藤山治は、これを「大家族主義」と呼び、1919年のILO総会に出席して、いかに職工を優遇しているかを説明しています。
 なお、有名な『女工哀史』は、東京モスリンの職工だった細井和喜蔵が1925年に書いたもので、職工事情に見られるような原生的労働関係が経験に基づいて描写されているとともに、上記温情主義施設に対する社会主義的立場からの批判も見られます。しかし、この頃にはかつてのような悪辣な募集と逃亡のいたちごっこは影を潜め、特定地域からの固定的な採用と結婚退職までの定着化が進んでいました。また教育内容は花嫁修行化していきます。さらに、この温情主義の流れから、例えば倉敷紡績の大原孫三郎のように、労務管理の科学的研究が始められたことも重要です。 

ちなみに、数年前にも今回のちきりん女史みたいなことを口走って無知を晒しかけた御仁がいましたが、見事なまでの事後処理で対外的にはほとんど無傷で済ませたようです。

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コメント

富岡製糸工場は経営陣が変わりつつ長い間操業していた認識があるのですが、長時間深夜労働と低賃金の労働環境が厳しい時代は無かったのでしょうか?

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