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2014年4月22日 (火)

残業代ゼロ糾弾路線の復活?

本日の朝日朝刊の1面トップは

http://www.asahi.com/articles/ASG4P5142G4PULFA00Y.html(「残業代ゼロ」一般社員も 産業競争力会議が提言へ)

でしたし、たぶん明日の朝刊に載るであろう今夜アップされた記事が

http://www.asahi.com/articles/ASG4P5142G4PULFA00Y.html(「残業代ゼロ」一般社員も 産業競争力会議が提言へ)

ですから、これはもう、労働時間問題は働き過ぎでも過労死でもなく、ひたすら残業代ゼロという銭金路線で行くと決めたということでしょうか

なんだか脱力感で新しく何かを書く気力もわかないので、以前書いたものを引っ張り出しておきます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/johororenjikan.html

(「労働時間規制は何のためにあるのか」 『情報労連REPORT』2008年12月号)

 そもそも労働時間はなぜ規制されるのだろうか。ここ数年来労働基準法改正案に加え、ホワイトカラー・エグゼンプションや名ばかり管理職という形で労働時間規制の問題が話題になることが多いが、政治家やマスコミ人に限らず、労使や行政関係者までが、もっぱら時間外割増賃金をどうするかということにしか関心がないように見える。まるで労働時間規制とは長時間労働に対して割賃という形で報酬を与えることが目的であるかのようである。

 一方で、過労死や過労自殺は一向に減る気配を見せず、特に若い正社員層における異常な長時間労働は、非正規労働者の増加と軌を一にしてますます加速している。労働経済白書によれば、25~44歳の男性で週60時間以上働く人の割合は2割以上に達している。週60時間とは5日で割れば1日12時間である。これは、1911年に日本で初めて工場法により労働時間規制がされたときの1日の上限時間に当たる。

 工場法はいうまでもなく、『女工哀史』に見られるような凄惨な労働実態を改善するために制定された。当時、長時間労働で健康を害し結核に罹患する女工が多かったという。労働時間規制は何よりも彼女らの健康を守るために安全衛生規制として設けられたのである。

 ところが、終戦直後に労働基準法が制定されるとき、1日8時間という規制は健康確保ではなく余暇の確保のためのものとされ、それゆえ36協定で無制限に労働時間を延長できることになってしまった。労働側が余暇よりも割賃による収入を選好するのであれば、それをとどめる仕組みはない。実際、戦後労働運動の歴史の中で、36協定を締結せず残業をさせないのは組合差別であるという訴えが労働委員会や裁判所で認められてきたという事実は、労働側が労働時間規制をどのように見ていたかを雄弁に物語っている。

 もっとも、制定時の労働基準法は女子年少者については時間外労働の絶対上限を設定し、工場法の思想を保っていた。これが男女雇用機会均等に反するというそれ自体は正しい批判によって、1985年改正、1997年改正により撤廃されることにより、女性労働者も男性と同様、無制限の長時間労働の可能性にさらされることになった。健康のための労働時間規制という発想は日本の法制からほとんど失われてしまったのである。

 こうした法制の展開が、労働の現場で長時間労働が蔓延し、過労死や過労自殺が社会問題になりつつあった時期に進められたという点に、皮肉なものを感じざるを得ない。その後労災補償行政や安全衛生行政は、過労死認定基準の2001年改正や労働安全衛生法の2004年改正など、長時間労働を安全衛生リスクととらえ、その防止を目的とする政策方向に舵を切ってきた。ところが、肝心の労働時間行政とそれを取り巻く関係者たちの意識はまったく変わらなかったのである。

 それを象徴的に示したのが、2007年に国会に提出された労働基準法改正案とその提出に至るいきさつである。まず、いまなお国会に係属している同改正案は、1か月80時間を超える時間外労働に対して5割の割賃を払えとのみ規定している(中小企業を除く)。お金が欲しければそれ以上残業しろと慫慂しているかのごとくである。そこには長時間労働を制限しようという政策志向はほとんど感じられない。

 一方で、国会提出法案からは削除されてしまったが、それに至るまで政治家やマスコミを巻き込んで大きな議論になったのが、いわゆるホワイトカラー・エグゼンプションであった。ところが、上記のような労働時間規制に関する認識の歪みが、この問題の道筋を大きく歪ませることとなってしまった。そもそもアメリカには労働時間規制はなく、週40時間を超える労働に割賃を義務づけているだけである。したがって、ホワイトカラー・エグゼンプションなるものも割賃の適用除外に過ぎない。一定以上の年収の者に割賃を適用除外することはそれなりに合理性を有する。ところが、日本ではこれが労働時間規制の適用除外にされてしまった。ただでさえ緩い労働時間規制をなくしてしまっていいのかという当時の労働側の批判はまっとうなものであったといえよう

 ところが、この問題が政治家やマスコミの手に委ねられると、世間は「残業代ゼロ法案」反対の一色となった。そして、長時間労働を招く危険があるからではなく、残業代が払われなくなるからホワイトカラー・エグゼンプションは悪いのだという奇妙な結論とともに封印されてしまった。今年に入って名ばかり管理職が問題になった際も、例えばマクドナルド裁判の店長は長時間労働による健康被害を訴えていたにもかかわらず、裁判所も含めた世間はもっぱら残業代にしか関心を向けなかったのである。

 ホワイトカラー・エグゼンプションが経営側から提起された背景には、長時間働いても成果の上がらない者よりも、短時間で高い成果を上げる者に高い報酬を払いたいという考え方があった。この発想自体は必ずしも間違っていない。管理監督者ではなくとも、成果に応じて賃金を決定するという仕組みには一定の合理性がある。しかしながら、物理的労働時間規制を野放しにしたままで成果のみを要求すると、結果的に多くの者は長時間労働によって乏しい成果を補おうという方向に走りがちである。その結果労働者は睡眠不足からかえって生産性を低下させ、それがさらなる長時間労働を招き、と、一種の下方スパイラルを引き起こすことになる。本当に時間あたりの生産性向上を追求する気があるのであれば、物理的な労働時間にきちんと上限をはめ、その時間内で成果を出すことを求めるべきではなかろうか。

 二重に歪んでしまった日本の労働時間規制論議であるが、長時間労働こそが問題であるという認識に基づき、労働時間の絶対上限規制(あるいはEU型の休息期間規制)を導入することを真剣に検討すべきであろう。併せて、それを前提として、時間外労働時間と支払い賃金額の厳格なリンク付けを一定程度外すことも再度検討の土俵に載せるべきである。

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コメント

残業代ゼロによって原則週40時間だったのが給料同じで原則48時間とか60時間とかになるのだから労働者が不利益を受けることは明らかです。

過労死だけが労働問題だけではなく、今まで残業していた人たちが残業代を貰えなくなるのは賃下げと同じですし、その分を残業絶対禁止や教員のみなし残業手当てになるという議論もないので「残業代ゼロ法」を労働側が擁護するのは不可能です。

そんで、マスコミはあくまで情報提供が仕事。実際に残業代ゼロ法なのだからそれを公衆に明らかにして何が悪いのでしょうか? やましいところがあるとしか思えない

>今まで残業していた人たちが残業代を貰えなくなるのは賃下げと同じ
現状の基本給で足りないといった話についてはきちんと労使間で話をしたうえでベースアップを要請すべきで残業代をもらう事に執着してるから導入の経緯なりメリットがわからなくなる。
本来仕事は通常の勤務時間内に留めるのが本来望ましく現場実態も絡むにせよ超勤が恒常化してることを異常だと考えないまま手当云々に執着するのはあまりにどうかしている。
こんな反発ありきでは主に管理職絡みで度々問題が上がる長時間拘束の弊害解決なんて無理だと言わざるを得ない、志があまりに低すぎ。

>ふみたけさん

私は本来、自由主義・市場原理を重視していますし、国民の間でフラットに権利が守られるという慣習があるなら残業代ゼロでいいです。

しかし、雇用側が残業代を払わない「自由」、被雇用者が残業しない「自由」があるとして、じゃあ勤務医が現実にある長時間労働を理由として勤務時間が終わればさっさと帰ってもいいんですか? 「無責任だ!」て愚民・愚経営者は言うだろ。

自由を認めるなら、高スキル労働者が消費者にたいして冷淡になることを認めるべき。現状の低給与・過剰サービスは日本的温かさだと知れ

このお題の問題とするところは、①現行の週40時間法制の緩和ないし事実上の撤廃と、②長時間労働をしないさせないためのインセンティブが無くなってゆく問題だと思われます。
前者はあからさまですから素人でも反対や批判の的にしやすいと思います。
問題は後者(ないし前者①と後者②の抱き合わせ)の問題を、オブラートに包んで一般労働者にまで丸呑みさせてはどうか、という案が出されていることです。
時間外手当には、ある種のペナルティー機能(それでも十分ではありません)があるからこそ、労使ともに残業しないさせないというインセンティブが働いているわけですから、これがなくなることは、かなり大きな穴が開くのではないかと思います。また、労働時間の把握も行いにくくなるのではないかと思われます。

今でも、規制からこぼれている人が相当数いるのに、今度の案だと、その穴から全員がこぼれ落ちることになります。
hanachan仰せのように、残業代が払われなくなるのではなく、長時間労働をしないさせないという労使双方のインセンティブがなくなることが一番大きな問題です。

尤も、現行でも低賃金で働かせている場合の残業(長時間労働を含む)は、労使双方の利益が一致してしまっている場合も多いわけですから、一人当たりの労働時間を内部・外部シェアーさせる策は考えていかなければなりませんけど。

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