火曜日のエントリでは朝日の報道に「脱力感」を呈しましたが、実を言うと、その対象の産業競争力会議のペーパーも、私としてはたいへんな脱力ものでした。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/skkkaigi/goudou/dai4/siryou2.pdf
いや、このペーパーのあちらこちらに、「ジョブ型」「メンバーシップ型」をはじめ、私の文章かと見まがうような用語がこれでもかこれでもかと詰め込まれてはいるのですよ。でも、肝心の政策の中身が、私の言ってることとはどんどん逆の方向に向かっているように見えるのです。
いや、新聞報道が目の敵にする残業代については、繰り返し述べているように高給労働者にまで過剰な規制をする必要はないし、そもそも賃金をどうするかは(最低基準を除けば)労使の交渉にゆだねられるべきことという考え方に変わりはありません。
しかし、日本の労働時間規制の最大の問題である物理的労働時間の上限がほとんど規制されておらず、青天井のままになっていることについては、山のようなリップサービスの文言はあるものの、それではいったい何をどう規制するのかはどこを見ても出てきません。
あまつさえ、私が目を疑ったのは、このペーパーにこういう文言が出てきていることです。
子育て・親介護といった家庭の事情等に応じて、時間や場所といったパフォーマンス制約から解き放たれてこれらを自由に選べる柔軟な働き方を実現したいとするニーズ。特に女性における、いわゆる「マミー・トラック」問題の解消
そういう言い方で進めようとしたことが最大の間違いなんですよ、と口を酸っぱくして言い続けてきたことが、かくも簡単に出てくるのでは、私は何を言いに行ったんだろうか、と脱力感を感じるしかありません。
本ブログでも述べたように、私は産業競争力会議の雇用人材分科会に有識者ヒアリングに呼ばれて、長谷川座長や八代尚宏さんらの面前で、こう述べています。
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/bunka/koyou_hearing/dai1/gijiyousi.pdf
したがって、問題はある意味で厳しい残業代規制をどうするかという話でなければならなかったはずだが、かつての規制改革会議は、ホワイトカラーエグゼンプションというものを仕事と育児の両立を可能にする多様な働き方であるという言い方をされていた。私はこのような言い方をしたことが問題を混迷させたのではないかと思っている。
当時日本経済団体連合会は、これは労働時間と賃金が過度に厳格にリンケージされていることが問題なんだ、それでは昼間たらたら働いて、夜いつまでも残っている人間のほうが高い給料をもらっていくことになってしまう、これはおかしいのではないかという非常にまともなことを言っていた。ところが、それが表に出なかった。そして、ワーク・ライフ・バランスのためのホワイトカラーエグゼンプションだという議論に対して、労働者側は、これは過労死促進であると反論した。私はまっとうな反論であったと思っている。
ただ、実はエグゼンプトだから過労死するのではなくて、エグゼンプトでなくてもその組合が結んでいる36協定で無制限の残業をやらせたら、やはり過労死するので、エグゼンプトが諸悪の根源というわけではない。物理的な時間規制がないというところに問題があるのだが、少なくとも過労死促進だという議論は、それはそれで正当である。こういうかみ合わない議論のまま建議が2006年の年末に出され、2007年の年始にこれが新聞に出た途端に残業代ゼロ法案であるとか、残業代ピンハネ法案であるという、本来はそれでなければならないことが、あたかもそれが一番悪いことであるかのような批判がなされ、結局それでつぶれてしまった。これは大変皮肉なことであって、本来の目的である残業代問題が一番言ってはならないことになってしまった。そのために、いまだにこの問題、エグゼンプションの問題が労働時間と賃金のリンケージを外すという本来の目的ではなく、ワーク・ライフ・バランスといったような議論になってしまっているところに、かつての議論の歪みがいまだに糸を引いているのではないかと思っている。
・・・それとともに、先ほど来申し上げているように、日本の労働時間規制の最大の問題は、物理的な労働時間規制がないという点。したがって、健康確保のための労働時間のセーフティネットをきちんと確保することが必要で、当面何らかの根拠としては現在、存在する過労死認定基準としての月100時間ということになろうかと思う。しかし、ヨーロッパ各国で存在している1日ごとの休息時間規制といった、いわゆる勤務時間インターバルというものを基本的なシステムとして導入することも考えるべきではないか。残業代とは関係のない物理的な労働時間規制というものの必要性がむしろ重要であろうと思っている。
これも何回も繰り返していることですが、労働時間規制とはこれ以上長く働かせてはいけないと言っているのであって、これ以上短く働いてはいけないなどと馬鹿なことを規制しているのではありません。労働保護法制と就業規則をごっちゃにしたような議論がまかり通ったことが、かつてのホワイトからエグゼンプションの議論を駄目なものにした最大の原因です。
そういった舌の根も乾かないうちに、子育てや親の介護のために労働時間の規制緩和などという馬鹿げた議論が平然と出てくるのは信じられない思いです。
この問題は、私はいろんなところで繰り返し述べてきました。最近も、去る3月5日に開かれた経済社会総合研究所、経済産業研究所、労働政策研究・研修機構の「経済における女性の活躍に関する共同セミナー」で、あえて場所柄をわきまえずに強調したところです。
たまたま本日、その議事録が経済社会総合研究所のHPにアップされたので、私の発言部分を引用しておきたいと思います。女性の活用を褒め称える議論をすべきところで何でこういうつまらないことをいうのだと不愉快に感じられた方もいるのかもしれませんが、今回の産業競争力会議のペーパーを見るにつけ、やはり機会を捉えてこういうことを言い続けていかないといけないのだろうな、と思いを新たにしたところです。
http://www.esri.go.jp/jp/workshop/forum/140305/data/gijiroku.pdf
○濱口 JILPTの濱口でございますが。私は必ずしもJILPTを代表してお話をするわけではございません。私はここにあるとおり労使関係部門の統括研究員でして、女性労働とかワークライフバランスについて研究しているわけではありません。では、なぜ私がここにいるのかというと、恐らく麻田さんの趣旨としては、最近労働時間であるとか雇用形態といったことについていろいろ議論の中に巻き込まれておりますので、恐らくそういう観点からのコメントをという趣旨ではないかなというふうに思っております。パネルディスカッションが予定調和的な議論ばかりというのはいかがなものかと思いますので、若干不協和音のある発言と聞こえるかもしれませんが、お許しをいただければと思います。
また、前半の最後に松田先生から労働時間のあり方についての御質問がありました。また、児玉先生あるいは樋口先生のお話の中でフレキシビリティが重要だというお話があったのですが、正直言って私はかなり違和感を感じております。どこに違和感を感じたのかということについてもちょっと突っ込んでお話をしたいと思います。
皆様にはせっかく雨の中をお集まりいただいたので、予定調和的というよりはむしろ少し火花を散らすような話があった方が良いかなというふうに、その方が顧客満足度も高まるのではないかと思っておりますので、よろしくお願いしたいと思います。
今から7年前にワークライフバランス憲章と行動指針というのができました。大変良いことが書いてあるのですが、ほとんど実現しておりません。30代、40代の男性の長時間労働は全く変わっておりませんし、男性の育児休業、2%近くとっているといことになっていますが、これ実は5日未満が半分近くなので、こんなものは実は育児休業でも何でもないのではないかと思います。
このように笛を吹いても踊ってないのですが、なぜ踊らないのか。それは非常に簡単であって、踊る阿呆になりたくないからです。つまり踊るのは阿呆なんです。何が阿呆かというと、日本的な雇用システムにおいてはいわゆる男性正社員というのはワーク無限定、ライフ限定というのがデフォルトルールですので、そこでワークライフバランスだといって掛け声に踊らされて踊ってしまうと阿呆になってしまいます。
一つ面白い言葉があるのでご記憶にとどめていただければと思うのですけれども、昔、私が今おりますJILPTの前身の職研に亀山 直幸さんという方がいたのですが、彼があるとき、日本の労働者、正社員というのは雇用安定、職業不安定なんだ、それで人生が安定するんだと名言をはかれました。もちろんこれはこれで大変合理的なシステムなのですが、問題はその合理的なシステムが、補助的な働き方を前提としていた女性がそうでない働き方をしようとしたときに、なお合理的であり得るかというのが問題なのだろうと思います。
ややデフォルメした言い方になるかもしれませんが、少なくとも1960年代に結婚退職制とか女子若年定年制なんかで裁判になったときの会社側の主張ははっきりと、女子社員は補助的な仕事をするもんだと言っておりました。その後はもちろんそんな露骨なことは言いませんが、しかしそれを前提とした男性の働き方自体が明示的に変わったわけではありませんので、変わらない男性の働き方を前提として、しかし女性がどういう働き方をするかという問題はずっとこの数十年間続いてきた話なのだろうというふうに思います。
それが一番はっきりと現れているのが総合職の女性たちです。踊りきれない総合職女性たちという、これまたわざと面白がらせるような表現をしておりますが。育児休業とってる間は良いんですよ。あるいは短時間勤務やってる間は良いんです。ところが、それが終った後待ってるのはフルタイムではなくてオーバータイムの日々であるというのが最大の問題になるわけです。
ここはちょっと突っ込んでお話しておきたいと思います。ここ10年ぐらいの労働時間とワークライフバランスをめぐる議論というのは、混乱している、むしろミスリードするような議論が支配的であったのではないかと思います。先ほどのRIETIの報告の中でもちらっとそれが出てくるのですが。労働時間のフレキシビリティを高めることがワークライフバランスに資するのだという、ちょっと聞くともっともらしい話がずっと続いているのですね。
例えば今からもう大分前、2005、6年頃の当時の規制改革会議の答申なんかでも、仕事と育児の両立ができる働き方を実現するために労働時間規制の適用除外を増やさなければいけない、と言っておりました。その後、ホワイトカラーエグゼンプションの立法化というのは挫折するわけで、、それについてはまた論ずべきことがあります。しかし、ここで申し上げたいことは、そもそも労働時間のフレキシビリティを高めるということがすなわちワークライフバランスだというふうに無媒介な議論がされすぎていたということ自体に対して、私は非常に疑問を持っているということです。
もう少しきちんと分けて議論すべきです。そもそも労働基準法が労働時間を規制していること、つまりフレキシビリティではなく労働時間のリジディティこそがまずは第1次的なワークライフバランスなんですね。これは考えてみれば当たり前です。夕方仕事が終わってから保育所に子供をピックアップしにいける確実性がある、あるいは家に帰って家族のために料理をつくる確実性があるというのがまず第1次的なワークライフバランスであるはずです。もしそれが、会社のために夜遅くまで残る可能性がある、ということであれば、確実にワークライフバランスを確保できるという予見可能性が失われてしまいます。残業が恒常的にあるかどうかはともかくとして、フレキシブルに働けるというのはそういうことですよね。つまり、労働時間のフレキシビリティは、第一次的にはワークライフバランスに反するのです。
こういった毎日の労働時間の確実性という意味での第一次的ワークライフバランスが確保された上で、それでも足りないからもうちょっと融通を利かせられないか、例えば育児のために育児休業とったり、短時間勤務したり何なりというのが、次の段階です。これは私は第2次的なワークライフバランスと呼んでいます。この局面に来て初めて、フレキシビリティがワークライフバランスに役立つという話になるのです。
ヨーロッパでは第1次的なワークライフバランスはあることが前提です。少なくとも一部のエリートを除けばあるのが前提で、その上で第二次的ワークライフバランスができるようにということで育児休業をはじめとするいろいろな仕組みがあります。実を言うと、それに対応するような仕組みという意味で言えば、日本の法律は大変完備しています。六法全書を見る限り、日本の第2次ワークライフバランスのための法制度は大変立派なものです。では何で踊れないのかというと、その前段階、つまり第1次的なワークライフバランスを確保するための日常的な労働時間の規制というところが非常に弾力化しているからです。そこを抜きにして、2次的ワークライフバランスにおいてのみ正しい議論が無媒介的に入ってしまうと、労働時間をもっとフレキシブルにするとワークライフバランスが実現できるというような、まことにミスリーディングな議論になってしまうのではないかと思います。
これは主として労働時間規制の問題ですが、ワークライフバランスの議論としても大きな問題があったのではないかと思っております。
それがまた男性正社員の働き方にも影響してくるわけですね。
日本型雇用慣行、雇用システムとの関係でもいろいろと議論がされているのですが、私が大変違和感を感じているのは何かと言いますと、日本型雇用システムが固定的でリジッドであることが女性の働き方に対してマイナスに影響を与えているというような議論にどうもなっている感じがするのです。もし間違いであれば申しわけないのですけれども、それがゆえにもっとフレキシブルにという話になっているのではないか。これもまた、フレキシブルとかリジッドという言葉を無媒介的に使いすぎているのではないか。
そもそも日本型雇用システムの特徴をどこにとらえるかなのですが、雇用保障という意味でのある種のリジッドさがあるのは確かです。しかしそれを補償するために非常に極限的なまでに労働時間とか仕事の中身についてのフレキシビリティが高まっている点にこそ、その最大の特徴があるとみるべきではないか。これはかつて高度成長に貢献したことは確かですが、それが特に家庭責任を負っている女性にとって働くことを難しくしていたという形で問題をとらえないと、バランスのとれた議論にならないのではないかと思っております。
そういう観点で、近年いわゆる限定正社員とかジョブ型正社員という議論が出てきているのですが、議論の出発点が日本型システムはリジッドであるところに問題があるというふうな発想からこの問題をとらえると、どうも話がおかしな方にゆがんでいってしまうのではないかなというふうに思います。
このシンポジウムは「女性の活躍」というタイトルになっておりますが、女性問題というのは男性問題と裏腹の関係にありますので、男性の働き方をどうするかということを抜きに女性の働き方の議論というのはありえないと思います。
「女性の活躍」をタイトルにしているシンポジウムの場で『女性の活躍はもうやめよう』なんていう台詞をあえて掲げるということ自体大変不協和音だろうなというふうに思っているのですが、あえてこういうことを言わせていただきました。
つまり、今の社会の文脈で女性の活躍ということを言うと、それは伝統的な男性正社員並みという含意をどうしても引きずってしまいます。そうでないと言っても「もっとフレキシブルに」という言葉が今までの男性型のフレキシブルな働き方と繋がってしまう。そうするとある種スーパーウーマン的な活躍のモデルしかなくなってしまう。そうでない活躍のモデルをもっと考えた方が良いのではないか。やや極論でありますが、あえて議論の種にするために提起させていただきました。
ありがとうございました。
○濱口 幾つかの論点があると思います。まずフレキシビリティについては、私はフレキシビリティにさまざまな異なるフレキシビリティがごちゃ混ぜになっているのがおかしいのではないですかということを申し上げました。今樋口先生が言われたのを聞いていると、どうもそれはもう1つ別の、第3番目のフレキシビリティなのです。まずはじめに、労働時間をきちっと守らせる、リジッドにきちんと守らせる、それ以上無理に働かなくてもいいというのか、それともそこをもっとフレキシブルに働くのかという第1次的なフレキシビリティがあります。その次に、育児とか家族の世話のために、それをもう少し融通を利かせられるようにするという意味での第2次的なフレキシビリティがあります。そしてさらに、これは最近EUなんかでよく言われていることですが、人生の中で仕事に重点を置く時期とそうでない時期をさまざまなライフステージに割り振っていくという考え方もあります。これもまたフレキシビリティですが、人生というレベルでの第三のフレキシビリティと言えるでしょう。
私が問題だと思っているのは、そういったさまざまなフェーズを異にしたフレキシビリティが、ややもするとごっちゃの議論になっていることです。そして、日本型雇用システムとの関係で言うと、結局会社からみてフレキシブルに働かせることができるというところの第一次的フレキシビリティをどうするのかという議論と、労働者個人にとってより個人のニーズに応じてフレキシブルに働けるという第二次的フレキシビリティという、本来きちんと分けて議論しなければいけないものが、意識的にか無意識的にか、ごっちゃに議論されてしまっているのではないか、これは単に学者の議論だけなら良いのですが、政策の議論の中でそういうごちゃ混ぜ論を前提にいろいろな政策が進んでいってしまうと、大変まずいのではないか。実際今までの政策の流れは、そういうふうになってきていたというふうに私は認識しています。むしろそこは落ち着いて、いろいろなフレキシビリティをきちんと分けるところから話を出発した方が良いのではないかと、そういう趣旨で申し上げたつもりであります。
私は労働者の働き方が一様になるべきだなどとは全く思っておりませんし、多様化していくのだろうと思っております。その多様化するための1つの枠組みとして、例えばいわゆる正社員と言われる人たちの中に第1次的なフレキシビリティ、会社からの要請に従ってよりフレキシブルに働かなければならないという意味でのフレキシビリティをより抑えたようなタイプというのが徐々に増えていくことが、これは当面女性にとってもそうですが、長期的には男性にとってもよりハッピーなあり方だろうと思います。
私の書き方が悪くて樋口先生が誤解されたのかもしれないのですが、日本型雇用システムについてもそれが良いとか悪いとかという単純な議論をしているつもりはありません。むしろ今のフレキシビリティの議論でわかるように、日本型システムが前提としている第1次的なフレキシビリティ、つまり労働基準法で制約している労働時間の制約性が非常に乏しいという意味でのフレキシビリティをどうするのかという議論を抜きにして、あるいはそこを余り深く突っ込まずに、第2、第3のフレキシビリティによって女性の活躍がどんどん進むというような話をしていくと、どこかで無理が露呈するのではないかというのが私の趣旨です。
日本型システムの働き方というのは、それはそれでミクロ経営的には非常に合理的なものがあるから今まで続いてきているわけです。しかしマクロ社会的な問題があるから縮小してきているという面もあるわけで、それがどの程度維持されてどの程度維持されないかは、労働者の働き方と組み合わせるときに、フレキシブルな働き方がワークライフバランスに対して非常に制約要因になるものだということを基本的に踏まえて話をしないと、かえって変な方向にいくのではないかなというのが私の申し上げたかったことであります。
○濱口 同じ話になりますが、もちろん無限定というのはある種のイデアルティップスであります。実態はさまざまです。ただ、裁判所に訴えたときに、明確に限定していない限り無限定であるのがデフォルトルールであるということもまた間違いない事実だと思います。そのことが、現実はさまざまでありながら、基本的な雇用ルールは無限定型であるということが判例法理等々で確立しているというのもまた確かなので、そこである程度のルール、多分さまざまな限定のグラデーションがあると思うのですが、それをもう少し明確な形で作っていくことが必要なのではないか。
さまざまなレベルがあると思います。一番上のレベルでは、、命に関わるような意味でのワークライフバランスを保つために、例えば時間外労働の上限設定をすべきではないかとか、毎日必ず休息時間をとらせるといった最小限のリジディティを確保するということが必要でしょう。最近規制改革会議もこれを打ち出しました。とはいえ、これに対して経営者側は大変強く反発をしているのも御承知のとおりです。もう少し下のレベルでは、日常的な次元である程度の家庭生活や社会生活ができるぐらいに時間外というものを制約しようという話があっていいだろうと思います。これは当然のことながら絶対それ以上はだめだというような形ではなく、イギリスの個別オプトアウトとか、免除請求権みたいな形になるでしょう。いずれにしても、今のような三六協定があればその極限まで長時間労働できることになっているという枠組みだけで本当に良いのかというのが問題意識です。
もう少し企業の必要と労働者の側の必要に応じた形でのさまざまなグラデーションを作っていくなど、第1のフレキシビリティのレベルでもっと議論すべきことはあるのではないかなというふうに思っています。
○濱口 表現はもちろん話を賑やかすためにあえてこういう書き方をしました。しかし、最後のところを読んでいただくと、むしろ活躍の定義を変えましょうという趣旨で申し上げていることはご理解いただけると思うのですが、そのように理解していただけないのは多分私の不徳の致すところなのだろうというふうに思いますが。
一般職を増やそうという話なのか、という点についてですが、一般職自体が昔のまさに典型的な60年代型の発想の女性正社員モデルを看板だけつけ替える形で残してきたたものなので、どうしても補助的な仕事というインプリケーションのある言葉です。そんなモデルで良いはずはないので、だからこそきちんとした生涯キャリアがあるような、しかし今までの男性型の無制限な働き方でないような働き方のモデルを出しましょうというのが私は限定正社員という概念を提起する意味だと思っているのです。 そこを見直すということは、女性用の一般職という枠からそうでない男女共通の、しかし一定の限定のある働き方というふうに発想の転換をしなければいけないのです。旧来型の総合職と一般職の分担を前提とした意味での男性型「活躍」モデルを前提にした上で、その「活躍」を女性も同じようにやるんだという話にしてしまうと、それはやはりかなり無理を要求することになるのではないか。もちろんその無理を達成できる女性は当然いるでしょうし、恐らくこの場にいらっしゃるような方であればあるほどその比率は高まると思います。
私は正直こういうところで議論していて、ある種のエリートバイアスみたいなのがあるのではないかと感じるのです。もう少し組織の中で下積みの方でやっている方々のことを考えると、なかなかそんな簡単にはいかないよということをだれかがメッセージを入れた方がいいというふうに思っています。それは、活躍をやめろという意味ではありません。活躍の中身をちょっと考え直そうという趣旨で申し上げたつもりです。
○濱口 今言われたことは非常に重要なポイントだろうと思います。先ほどもちらっと申し上げたのですが、どうしても労働問題だけという形で議論していると上から下までいろいろな視線で議論しなければいけないという話になるのですが、これはちょっともしかしたら偏見かもしれないのですが、女性問題という形になると、ややもするとそれを議論している方々が社会的に見るとより上位の方々で、どうしてもそれに引き付けた形で議論になってしまう傾向があるのではないか。ちょっと実はそれもあって最後にわざと人を怒らせるようなことを言ってみたのですが。そういう上の方の人たちにとってはリアリティのある活躍ということだけでやっていると、そんな活躍に到底及ばないような人たちが、しかしそれぞれのミクロな場でみみっちくても小さな活躍をするということがどうやって可能かという話にどうも繋がっていかないのではないか。そういう意味から言うと、今指摘された点は非常に重要だというふうに思っております。
もちろん女性だけではなく、全ての問題について社会の上の方から下の方までまなざしを全方位に見渡したような形で議論していくことが必要だろうと思っております。
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