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2014年2月12日 (水)

産業競争力会議雇用・人材分科会有識者ヒアリング議事要旨

昨年11月5日、産業競争力会議の雇用・人材分科会に有識者ヒアリングとして呼ばれて意見を述べてきたことは本ブログでも書きましたが、その時の議事要旨が官邸のサイトにアップされたので、リンクを張るとともに、私に関わる部分をこちらにコピペしておきます。

http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/bunka/koyou_hearing/dai1/gijiyousi.pdf

(濱口総括研究員)
  私からは若干広く今後の労働法制のあり方について、雇用システムという観点からお話をさせていただく。
 ここ半年近くの議論について感じていることを申し上げる。雇用というものが法律で規制されている、その法規制が岩盤であるといった言い方で批判をされているが、どうも根本的にその認識にずれがあるのではないかと感じている。
 むしろ私が思うのは、現代の日本では特にこの雇用・労働分野については法規制が乏しい、ある意味で欠如しているがゆえに、慣行というものが生の形で規制的な力をもたらしている。そのメカニズムを誤解して、法規制が諸悪の根源であるという形で議論をすると、かえって議論が混迷することになるのではないかと思っている。それゆえ、まずは問題の根源である日本型の雇用システムからお話をしたい。
 本当はこれだけでも1時間や2時間かかる議論だが、ごくざっくりとお話をすると、雇用のあり方を私はごく単純にジョブ型とメンバーシップ型とに分けている。日本以外は基本的にジョブ型。日本も、法律上ではジョブ型。
 ジョブ型とは、職務や労働時間、勤務地が原則限定されるもの。入るときも欠員補充という形で就「職」をする。日本は、就「職」はほとんどせず、会社に入る。「職」に就くのだから、「職」がなくなるというのは実は最も正当な解雇理由になる。欧米・アジア諸国は全てこれだし、日本の実定法上も本来はジョブ型。
 ところが、日本の現実の姿は、メンバーシップ型と呼んでいるが、職務も労働時間も勤務地も原則無限定。新卒一括採用で、「職」に就くのではなく、会社に入る。これは最高裁の判例法理で、契約上、絶対に他の「職」には回さないと言っていない限りは、配転を受け入れる義務があり、それを拒否すると懲戒解雇されても文句は言えないことになっている。
 それだけの強大な人事権を持っているので、逆に、配転が可能な限り、解雇は正当とされにくくなる。一方、残業を拒否したり配転を拒否したりすれば、それは解雇の正当な理由になる。日本の実定法は、そのようにしろと言っているわけではなく、むしろ逆である。にもかかわらず、いわば日本の企業が、もう少し正確に言うと人事部が、それを作り上げ、そして、企業別組合がそれに乗っかり、役所は雇用調整助成金のような形で、端からそれを応援してきたというだけのこと。しかしながら、法規制が欠如していることによって、これが全面に出てくる。
 実は1980年代までは、メンバーシップ型のシステムが日本の競争力の源泉だと称賛をされていた。ところが、1990年代以降は、いろいろな理由でメンバーシップ型の正社員が縮小し、そこからこぼれ落ちた方々は、パート、アルバイト型の非正規労働者になってきた。とりわけ新卒の若者が不本意な非正規になってきたことが社会問題化されてきた。一方、正社員はハッピーかというと、いわゆるメンバーシップ型を前提に働かせておきながら、長期的な保障もないといういわゆるブラック企業現象が問題になってきている。
 したがって、求められているのは規制改革ではない。規制があるからではなく、規制がないからいろいろな問題が出ている。雇用内容規制が極小化されるとともに、その代償として雇用保障が極大化されているメンバーシップ型の正社員のパッケージと、労働条件や雇用保障が極小化されている非正規のパッケージ、この二者択一をどうやっていくかというのがまさに今、求められていることだろう。一言で言うと、今、必要なのはシステム改革であって、それを規制改革だと誤解すると、いろいろな問題が生じてくる。
 以下、規制改革であると誤解することによる問題を述べる。
 まず、一番大きなものが解雇規制の問題である。非常に多くの方々が、労働契約法第16条が解雇を規制していると誤解し、人によってはこれが諸悪の根源だと言う方もいるのだが、これは客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない解雇を権利濫用として無効とすると言っているだけである。つまり、これは規制をしておらず、それまでの判例法理を文章化しただけである。
 本来、権利濫用というのは、権利を行使するのが当たり前で、例外として権利濫用を無効とするというだけなのだが、その権利濫用という例外が、現実には極大化している。なぜかというと、裁判官が何も考えず勝手に増やしたわけではなく、そこに持ち込まれる事案がメンバーシップ型の正社員のケースが圧倒的に多いため。彼らは職務も労働時間も勤務地も原則無限定だから、会社側には社内に配転をする権利があるし、労働者側にはそれを受け入れる義務がある。そうであるならば、例えば会社から「濱口君、来週から北海道で営業してくれたまえ」と言われれば受けなければならない人を、たまたまその仕事がなくなったからといって整理解雇することが認められるかと言えば、それはできないだろう。つまり規制の問題ではなく、まさにシステムの問題。
 日本よりヨーロッパの方が整理解雇しやすいと言われている。それは事実としてはそのとおりだが、法体系、法規制そのものはヨーロッパの方が非常に事細かに規制をしている。それではなぜヨーロッパは、整理解雇が日本に比べてしやすいと見えるのかというと、それはそもそも仕事と場所が決まっており、会社側には配転を命ずる権利がないから。権利がないのに、いざというときにしてはいけないことをやれと命ずることができないのは当然。逆に日本は会社にその権利があるから、いざというときにはその権利を行使しろということになる。
 そうすると、この法律はどうできるのかという話になる。単純に労働契約法第16条を、例えば客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない権利濫用であっても有効であるとするのは、だめなものはだめと書いているのをだめなことはいいと書きかえろと言っているだけの話なので、それは法理上不可能。気に食わないからこれを削除してしまったらどうなるかと言えば、これは2003年以前の状態に戻るだけ。まさに八代先生が、その規定が全くない状態でどうするかということを議論されていたときに戻るだけなので、実はそんなものは何の意味もない。逆に皮肉だが、欧州並みに解雇規制を法律上設ければ、その例外、すなわち解雇できる場合というのも明確化される。これは別にこうしろという意味ではなくて、例えばこんなことが考えられるだろう。
 使用者は次の各号の場合を除き、労働者を解雇してはならない。
 一 労働者が重大な非行を行った場合
 二 労働者が労働契約に定める職務を遂行する能力に欠ける場合
 三 企業経営上の理由により労働契約に定める職務が消滅または縮小する場合
 当然、職務が縮小する場合は対象者を公正に選定しなければならないし、また、組合や従業員代表と協議しなければならない。実はこれは今とあまり変わらない。何が違うかというと、労働契約に定める職務というものが定められていなくて何でもしなければならないのであれば、要するに回せる職務がある限りはこれに当たらないということが明確化するということ。すなわち、規制がない状態から規制を作るというのも、1つの規制改革であろうというのがここで申し上げたいこと。
 解雇についてはもう一点。いわゆる金銭解決という問題があるが、これもまた多くの方々がかなり誤解しているのは、日本の実定法上で解雇を金銭解決してはならないなどという、そんなばかげた法律はどこにもない。かつ、現実に金銭解決は山のようにある。金銭解決ができない、正確に言うと金銭解決の判決が出せないのは、裁判所で解雇無効の判決が出た場合のみ。判決に至るまでに和解すれば、それはほとんど金銭解決しているということだし、あるいは同じ裁判所でも労働審判という形をとれば、それはほとんど金銭解決をしていることになる。行政機関である労働局のあっせんであれば、金銭解決しているのが3割で、残りは金銭解決すらしていない。いわば泣き寝入りの方がむしろ多い。そこまで来ないものもあるので、現実に日本で行われている解雇のうち金銭解決ができないから問題であるというのは、実は氷山の一角というよりも、本当に上澄みの一部だけ。
 むしろ問題は、私は労働局のあっせん事案を千数百件ほど分析したが、3割しか解決していないというのも問題だが、解決している事案についても、例えば解決金の平均は約17万円であるということ。労働審判の方は大体100万円であることを考えると、金銭解決の基準が明確になっていないために、非常に低額の解決をもたらしているか、あるいは解決すらしていないことになる。大企業の正社員でお金のある人ほど裁判ができるが、そうではない中小零細企業になればなるほど、あるいは非正規になればなるほど裁判はできない。弁護士を頼むということもできず、低額の解決あるいは未解決になっていることに着目をして、まさに中小零細企業あるいは非正規の労働者の保護という観点から、解雇の金銭解決を法律に定めていくことに意味があるのではないか。
 ドイツの法律を前提として解雇無効の場合にも金銭解決ができるという書き方をしても、そんなものは解雇の判決の後だけの話なのだから、その前には役に立たないということを言う人がいるが、ドイツでは、労働裁判所に年間数十万件の案件が来ているが、圧倒的大部分は実は判決に至る前の和解で解決している。なぜ解決できるかというと、法律で金銭解決の基準が定まっているから。
 もう一つ言うと、日本の場合、金銭解決というと必ずドイツ式が議論される。ドイツは、社会的に不当な解雇は無効であるとした上で、無効であっても金銭解決はできるとなっている。しかし、実はイギリスやフランスなどヨーロッパの多くの国々は、もちろん不当な解雇がいいなどという法律はないが、不当な解雇だから必ず無効になるというわけでもなく、その場合、金銭解決をすることがむしろ原則となっており、また、悪質な場合には裁判官が復職、再雇用を命ずることができるという規定もある。不当な解雇の効果、法的な効果をどうするかということについて、既存の判例をそのまま法律にしなければいけないと思えば別だが、そうではなく、新しく作るということであれば、実はヨーロッパのいろいろな国々の法システムの中には参考になるものがあるのではないか。以上が解雇についての誤解を解くお話。
 2番目が、それと若干関係しているが、いわゆる限定正社員あるいはジョブ型正社員と言われるもの。これも非常に、マスコミ等から解雇規制を緩和するものであるという議論がされている。労働契約で職務や労働時間や勤務地が限定されることの論理的な帰結として、当該職務が消滅したり、縮小することが解雇の正当な理由になるというのは当たり前であるが、これはまさにヨーロッパ諸国で普通に行われていること。正確に言えば、契約上許されない配転をしてまで解雇を回避する義務がないというだけである。
 職務が限定されているから、当然、当該職務の遂行能力の欠如というのも解雇の正当な理由になり得るが、忘れてならないのは、契約で職務が定まっているから、日本のようにどんどん変わっていくことが前提ではない。したがって、試用期間中であれば当然、遂行能力がないから解雇ということがあり得るが、長年その職務をずっとやってきた、言い換えれば企業がその人の労務を受領してきた、企業が文句をつけてこなかった場合に、例えば10年ずっと同じ仕事をやってきた人間に、その仕事ができないから解雇だと言うことができるか。それはなかなか理屈として難しかろうと思う。ここはやはりジョブ型というのは職務が限定されているということを、きちんと御認識いただく必要があろう。
 もう一つ、私はジョブ型正社員という言い方をしているが、これをどう位置づけるかという点について。実は今から20年近く前に、当時の日本経営者団体連盟が「新時代の日本的経営」というものを出したが、それはいわゆるメンバーシップ型の長期蓄積能力活用型と、いわゆるパート・アルバイト型の非正規の雇用柔軟型というモデルの間に、高度専門能力活用型という、同じ大きさの長方形を並べるグラフが打ち出されていたが、現実にはほとんど実現しなかった。
 なぜかというと、おそらく高度という形容詞が余計だったのではないか。高度であろうが中程度であろうが、あるいは場合によっては低度であろうが、そういった限定された専門的能力を、その職務がある限り活用するというタイプと改めて位置づけ直すことで、かつての日本経営者団体連盟のいわば天下三分の計みたいなものをもう一度見直すことができるのではないか。
 その際、そのイメージだが、メンバーシップ型の正社員というのは、いわば私はiPS細胞みたいなものだと思っている。iPS細胞というのは、手に貼りければ手の一部となる、足に貼りつければ足になる、頭に貼りつければ頭になる。日本の人事部は労働者というのはそういうものだ、正社員だったらそういうものだと思って動かしてきたが、ジョブ型というのはそうではない。これは部品である。部品というのは、その部品に合ったところにはめなければ使えない。ということは、実はマネジメントというのが必要になるということ。マネジメントが必要になるのは当たり前ではないかと思うかもしれない。実は今まで日本は、貼りつければそれで済む、あとはそこでうまくやれ、うまくやれる人間を入れているはずだということでやってきた。若干極論を言えば、いわばマネジメントの必要性がなかったのではないか。それがジョブ型正社員ということになると、それは部品なので、適切な部品を適切なところにはめなければならない。そういうマネジメントというものが必要になってくるということだろうと思う。
 最後に1点だけ、この限定正社員について申し上げておくと、これは当たり前のことだが、限定をしなければ限定正社員ではない。限定正社員と契約書に書いたからといって、その後、今までのつもりであちこち使い回していると、これは限定ではなくなる。限定正社員と契約書に書いていたけれども、その後あちこち使い回された人間が、その仕事がなくなったからといって解雇されて裁判所に行くと、裁判所は契約書の文言ではなくて当然実態で判断するだろうから、会社側も限定正社員である限りは、限定ということで我慢しなければならない。
 3つ目は、労働時間規制の問題。これも非常に多くの方々が誤解をしている。つまり、日本の労働時間規制は極めて厳しいという誤った認識の下に、ここ10年、20年の法政策というのは、その厳しい労働時間規制をいかに緩和するかということでのみ執られてきたが、私はこれは全く見当外れだと思っている。
 日本は過半数組合または過半数代表者との労使協定、いわゆる36協定さえあれば、事実上無限定の時間外休日労働が許される。かつて女子は、1日2時間、年150時間という上限があった。それゆえに監督官が、夜に行って女性がいれば自動的に摘発できたが、今はできない。お金を払っていないということでなければ摘発できない。
 これだけ緩いので、日本はいまだに、今から100年前にできたIL0の労働時間関係条約ただの1つも批准できていない。非常に皮肉なのは、労災保険の過労死認定基準では、例えば月100時間を超える時間外労働は、業務と発症との関連性が強いと評価されるが、しかし、だからと言って月100時間を超える時間外労働は、労働基準法上は違法ではない。これこそ、日本の労働時間規制の最大の問題ではないかと思っている。
 にもかかわらず、多くの企業が日本の労働時間規制が厳しいと誤解するには理由がある。それは、同じ労働基準法の労働時間の章に入っている労働基準法第37条の残業代規制。これは単に時間外休日労働をさせたら、これだけのお金を払えと言っているだけなので、実は労働時間規制ではなく、賃金規制。しかし、その賃金規制の適用除外は、物理的労働時間規制と同じく管理監督者に限られている。そのために管理監督者でない限りは、残業すれば、あるいは休日出勤すればきちんと残業代を払え、割増賃金を払えとなっている。
 そして労働基準法施行規則第19条によって、これは時給であれ、日給であれ、週給であれ、月給であれ、そしてその他、例えば具体的には年俸であっても、管理監督者でない限りは時間当たり幾らに割り戻して25%、月60時間を超えると50%という割増賃金を払わなければならないとなっている。これはまさに法規制である。
 つまり、国家権力が規制しているという名に値するのは実はこの部分だけ。規制なので違反したら監督官がやってきて、払えとなるわけだが、考えてみると、これは例えば時給800円の非正規が1時間残業したら1,000円払え、年収800万円を時給換算すると4,000円ぐらいになるが、この高給社員が1時間残業したら5,000円払え、払わなければ違法であるということ。しかし、これは本当に刑事罰をもって強制しなければならないほどの正義であるかというのは、議論の余地があるだろうと思っている。
 したがって、問題はある意味で厳しい残業代規制をどうするかという話でなければならなかったはずだが、かつての規制改革会議は、ホワイトカラーエグゼンプションというものを仕事と育児の両立を可能にする多様な働き方であるという言い方をされていた。私はこのような言い方をしたことが問題を混迷させたのではないかと思っている。
 当時日本経済団体連合会は、これは労働時間と賃金が過度に厳格にリンケージされていることが問題なんだ、それでは昼間たらたら働いて、夜いつまでも残っている人間のほうが高い給料をもらっていくことになってしまう、これはおかしいのではないかという非常にまともなことを言っていた。ところが、それが表に出なかった。そして、ワーク・ライフ・バランスのためのホワイトカラーエグゼンプションだという議論に対して、労働者側は、これは過労死促進であると反論した。私はまっとうな反論であったと思っている。
 ただ、実はエグゼンプトだから過労死するのではなくて、エグゼンプトでなくてもその組合が結んでいる36協定で無制限の残業をやらせたら、やはり過労死するので、エグゼンプトが諸悪の根源というわけではない。物理的な時間規制がないというところに問題があるのだが、少なくとも過労死促進だという議論は、それはそれで正当である。こういうかみ合わない議論のまま建議が2006年の年末に出され、2007年の年始にこれが新聞に出た途端に残業代ゼロ法案であるとか、残業代ピンハネ法案であるという、本来はそれでなければならないことが、あたかもそれが一番悪いことであるかのような批判がなされ、結局それでつぶれてしまった。これは大変皮肉なことであって、本来の目的である残業代問題が一番言ってはならないことになってしまった。そのために、いまだにこの問題、エグゼンプションの問題が労働時間と賃金のリンケージを外すという本来の目的ではなく、ワーク・ライフ・バランスといったような議論になってしまっているところに、かつての議論の歪みがいまだに糸を引いているのではないかと思っている。
 この関係で言うと、ホワイトカラーエグゼンプション自体はそういう形で今から6~7年前に失敗したが、その前に作られた、そして、現在も存在している企画業務型裁量労働制についても、私は、根本的に疑問を持っている。そもそも、いわゆる総合職のホワイトカラーの場合、職務が無限定なので、彼らにこの人は企画業務、この人は非企画業務などという職務区分が存在するはずがない。みんな何がしか企画的なことをし、そしてルーティン的なことをしているはず。上位にいけばいくほど企画的な割合が高まるだけである。専門業務型の場合は少なくとも業務という形にはなっているのだろうと思うが、そうではない総合職のホワイトカラーの世界に企画業務などという虚構のものを作り出して議論したことによって、今の企画業務型裁量制自体がかなり歪んだ制度になっているのではないかと思っている。
 ただ、それを言い出すと、労働基準法が作られたときから存在する管理監督者にしても、実は日本に管理職などというのがいるのか。いるではないかとお考えかもしれないが、本来管理職というのは職種である。職業分類表には管理的職業、専門的職業、事務的職業、製造職業と並んで置いてある。日本で同じような意味で管理的職業というものが存在しているかというと、私は存在していないと思う。メディカルスクールを出て医師になる、ロースクールを出て弁護士になるのと同じように、ビジネススクールを出て管理という職業に就くというふうにおそらく意識はされていない。単に総合職のホワイトカラーの一定ラインより上が管理職である。それは単なる地位であるから、管理の仕事をしていない管理職というのが出てくのも当然である。したがって、元々労働基準法自体はジョブ型を前提としており、管理職というのはビジネススクールとかグランゼコールを出て管理という仕事に就く人間を前提としているが、そうなっていない。いわゆる名ばかり管理職といった問題が常に出てくるのも、やはりそこに根源があるのではないかと思っている。
 ではどうするかだが、とにかく現実にこういった無限定の働き方をしている方々を前提とした残業代規制のあり方がどうあるべきかということを考えるのであれば、基本的には6~7年前にエグゼンプションが議論されたときに、本音の議論として、年収要件という話があった。ただ、そのときは、大企業ならばいいが、中小企業であれば管理職だってその年収要件に至らないという話があってうまくいかなかったということもあるので、おそらくそれをクリアする仕組みとして考えられるのは、企業内における地位。上位から何パーセントという形が実は一番ふさわしいのではないかと思っている。これはあくまでも無限定的な働き方をするメンバーシップ型の正社員の中で、連続的により上になればなるほど企画的な仕事の割合が増えていく。どこで線を引くか。それは基本的には労使で決める話だが、その目安としては業務ということではなくて、企業内における地位、上から何パーセントといったものが一番ふさわしいのだろうと思っている。
 それとともに、先ほど来申し上げているように、日本の労働時間規制の最大の問題は、物理的な労働時間規制がないという点。したがって、健康確保のための労働時間のセーフティネットをきちんと確保することが必要で、当面何らかの根拠としては現在、存在する過労死認定基準としての月100時間ということになろうかと思う。しかし、ヨーロッパ各国で存在している1日ごとの休息時間規制といった、いわゆる勤務時間インターバルというものを基本的なシステムとして導入することも考えるべきではないか。残業代とは関係のない物理的な労働時間規制というものの必要性がむしろ重要であろうと思っている。
 トピックとしては最後に、労働条件変更と集団的労使関係システムについてお話したい。先ほど来申し上げているように、日本は残業代を除けば労働法規制が乏しい。むしろ欠如しているがゆえに現実に企業の人事部がやってきたメンバーシップ型の雇用慣行というものが、そのまま判例法理として確立し、それが企業を逆に縛る形になっている。これは日本の三種の神器と言われる終身雇用慣行にしろ、年功序列型の賃金にしろ同じである。日本の法律は賃金を年功制にしろなんてどこに書いていない。しかし、一旦年功制で今まで動かしてきたものを変えようとすると、なかなか難しい。
 ただ、ある面で言うと日本は労働条件の不利益変更について合理性があれば認めるという、ある意味フレキシブルな仕組みになっている。もっとも、その合理性というのが一体何によって判断されるかというと、裁判官が諸般の事情を総合的に考慮して判断することになっているので、明確性に欠けるところがある。とりわけ集団的な労働条件を不利益に変更、ある部分は利益があり、ある部分は不利益があるという形で変更するときに、当然のことながら多くの労働者にとってはそれはそれでいいと言っても、一部の労働者からそれは俺たちにそういう不利益を及ぼすのはおかしいというふうに文句をつける。最終的に最高裁までいかないと、それがいいかどうかわからないという不透明性がある。
 これについては今までいろいろな議論がされており、とりわけ労働条件の不利益変更について、過半数組合ないし労使委員会が同意すれば、その合理性を推定するというような案がかつて提起されたこともあった。しかし、これは主として労働者側の反発で成立しなかった。それはなぜかというと、とりわけこの労働組合がない場合の労使委員会は、事実上、今の36協定の過半数代表者であり、その場合、会社側が「濱口君、ちょっとここに来て判子を押しとけ」みたいなことが、かなりまかり通っているので、それを前提とすると、それにそこまでの権限を与えることは問題であろうということは確かである。
 したがって、ここで考えなければならないのは、そういった労働条件の変更を正当化し得るだけの従業員代表法制というものが日本に欠けていることである。ヨーロッパ諸国は、ドイツにしろフランスにしろ、また、最近ではイギリスでも、そういった労働組合以外の従業員代表システムというものが確立しているが、日本には、そういった仕組みがないがゆえに、大変難しくなっているのではないか。
 とりわけ年功序列制の修正などの場合、すなわち、ある労働者には有利だが別の労働者には不利、また、年齢の高い方にとって不利であるといったようなものを正当化し得る仕組みをどうするかといった場合に、この問題は重要であろう。これは、実は従業員代表制だけではなく、過半数組合そのものについてのあり方もあわせて議論する必要があると思われる。なぜかというと、組合に入っていない方の利益もちゃんと踏まえて、しかし、全体としての利益、不利益を考慮してこういう判断をしたというように言わなければならない。現在の労働組合法では、あくまでも労働組合というのは、組合員の利益だけを代表すればよいことになっている。非正規であるとか組合を卒業した管理職の方々の利益は代表しなくていいことになっている。そうすると、やはりその問題は常に出てくるだろう。ここは職場における利益と不利益を含む意思決定をどのように正当化するかという、まさに民主主義の問題である。職場における民主主義というものを、民主主義の正統性というものをどのように考えるのかということがここに現れていると思っている。
 最後に、今の職場における民主主義についての、いわば延長線上にある話だが、この労働法制、労働政策については、労働政策審議会のような三者構成の審議会で議論するべきという議論と、それはむしろ既得権であるからけしからんという議論がある。
 これをどう考えるかだが、一言で申し上げると三者構成原則というのは最悪の労働政策決定システムであろうと思っている。ただし、他の全ての政策決定システムを除けばということだが。ある意味これで話は尽きているが、当然、議会制民主主義というのは多くの問題があるし、かつてのイギリスの腐敗選挙区のように、その代表性に大変な疑問を持つような実態が存在した。だからと言って、科学的な真理を体現したと称する人たちが、自分たちの科学的に正しいやり方で理想の社会を造ったのならばそのような楽園が実現したのかというと、必ずしもそうではないというのがおそらく20世紀の経験であろう。賢者は他人の経験に学ぶというので、やはり我々は愚者にならない方がよろしかろう。そして、こういった広い意味での政策決定あるいは意思決定システムの議論に必要なのは、思うに法学でもなければ経済学でもなく、むしろリアリズムに徹した政治学ではなかろうか。
 若干個人的な回想になるが、私の学生時代にはむしろ、当時まだマルクス・レーニン主義が非常に盛んだったので、それに対抗するこういったリアリズムの立場からの議論というのは結構聞くことが多かったが、それがなくなって以来、そういった科学的な真理やそう称するものに対して疑義を呈するというスタンス、かつての偉大な政治学者の方々のようなスタンスが、若干社会から乏しくなったのではないか。むしろこういった本来の意味での政治にかかわる問題については、政治学的な教養が必要なのではないかと一言付け加えさせていただく。
 
(八代教授)
 濱口さんが言われているシステム改革というのを私は規制改革と理解しており、少なくとも私がいたときの規制改革会議では、そういう共通認識があった。その当時は、労働契約法を作るという点についても厚生労働省とも基本的に合意していた。今、判例法が独り歩きし、法律がないことが問題だという点で、共通認識があったと思う。やはり一番大事なのは、今どういう解雇規制をつくるのかということ。資料2の1ページ目の下にあるのが濱口試案ということでよろしいか。
 
(濱口総括研究員)
 試案と言うほどのものではなく、仮として作ったもの。もちろん現実に作るとなれば、それなりのところできちんとやらなければいけないが、今の法規制がないがゆえにこういった事態になっていることを何とかしようというのであれば、むしろ規制をこういう形で明確にした方がよろしかろうという趣旨で書かせていただいた。
 
(八代教授)
 ただ、大事な解雇の金銭解決の部分が入っていない。例えばドイツやイタリアでは一定の範囲内で、裁判官が解雇の無効性の度合いに応じて、一応の金額を決める場合がある。そういうことを日本でやることはできるのか、できる場合にはどう書くのかというのを教えていただきたい。
 
(濱口総括研究員)
 実は、御承知だと思うが、かつて2003年のときにも金銭解決を法律に書こうとしたし、それは2005~2006年頃の労働契約法を作るときにも、かなり詳細なアイデアを出した。
 その意味から言うと、ここは具体的な規制を置き、その規制で不当な解雇になったときに金銭解決をどう書くかというのは、ある意味で技術的な話であるので、私は可能だと思う。しかし、むしろ私がここで申し上げたのは、今までは、解雇が無効であることを前提に、同じ裁判の口頭弁論終結時までに金銭解決による一回的解決を図りたいということを言えば、最終的な判決で、この解雇は無効であるが一定の金銭の支払いを命じて雇用関係を解消するという判決を下せるといった、いわゆるドイツ型の仕組みを前提とした議論のみがされているが、必ずしもそれだけが選択肢ではないのではないかということ。これは「してはならない」と書き、「無効」だと書いていないが、どちらもあり得るのではないかと思っている。そうであるならば、これはもう少し簡単になると思う。いずれにしても、どう書くかということについて、ここで事細かな条文を考えてもしようがない。
 
(八代教授)
 ただ、実際に厚生労働省が三者構成の労働政策審議会で議論しようとしたときに、大企業の労働組合と中小企業の経営者が、ともに現状より不利になるということで反対した。だから私も、三者構成は民主主義と同じだと言われても、それとはまた次元が違うのではないかと思う。その代表性に問題がある。なぜここに非正社員の代表が入っていないのか、あるいはもっと企業でも新興企業などのようなものが入っていないのかと問われたときに、既得権を守るものになってしまうのではないか。
 
(濱口総括研究員)
 それについては、私は別に何ら否定しているわけではなく、まさにイギリスの腐敗選挙区のような事例もある。今の労働政策審議会が腐敗していると言うと怒られるかもしれないが、要は基本的には労働問題というのは利害の問題であって、天上の神々の争いであってはならないと思っている。利害の争いである限り、利害をクリアに出し、お互いにきちんと見せ合って、それをつぶし合う形で問題を解決していかなければならないのが大原則だろう。具体的にそれをどうやっていくかについては、もう少し技術的な話になってくるだろうし、実は少し上に書いてある集団的労使関係の見直しという話とつながってくるのではないか。今はある意味で組合を作りたい人間は作っていい。作れるけれども、作りたくなければ作らなくてもいい。作る余裕がとてもないような人々がいっぱいいるわけで、そこに対して、どのように集団的な声をきちんと救い上げる仕組みを作っていくか。そういったものをいわば末端のところにきちんと作り上げていくことを前提に、ミドルレベルあるいはマクロレベルといったものの議論へとつなげていく必要があるのではないか。それをせずに、これが正しいんだということでやってしまうと、下手をすると神々の争いになってしまう。神々の争いになってしまうのは一番避けるべきではないかというのが、最後のところの趣旨。
 
(八代教授)
 過去に厚生労働省が出した原案に年間104日の強制休業という労働時間規制もあったことが、全く報道されていなかった。仮にこれが実現していれば、本来、残業代とは無関係なきちんとした労働時間規制になっていたのではないか。EUの1日11時間というのがちょっと難しいと思うのは、本当に締切りがある仕事だとそれが守れないため。だから年間全体として過労死を防ぐために、とにかく忙しい仕事が終わったらきちんと休暇をとる。こういう規制はどうか。
 
(濱口総括研究員)
 むしろここで私が申し上げたかったことは、個々の制度設計の問題というよりも、一体この制度は何を目指しているものなのかということ。本質的に言うと、ある種のホワイトカラーの働き方というものが、決して労働時間の長さに比例した成果を出すのではないということから来ているはずだと私は思っている。これはホワイトカラーエグゼンプションのときの日本経済団体連合会の出した提言もそのように書いてあるし、実は企画業務型裁量制が議論され出した1990年代初頭の議論もそこから始まっている。それにもかかわらず、厚生労働省もそうなのだが、これをワーク・ライフ・バランスができるというような言い方でやろうとしたところにボタンのかけ違いがあったのだろう。
  一旦そういう形で話がされ、これは過労死促進策だという話になってしまうと、話がことごとく食い違ってしまう。それをもう一度本来の筋道に戻して議論した方がいいのではないか。実はつい先日、規制改革会議に日本労働組合総連合会が呼ばれて、労働時間規制についての意見を開陳した模様。私は出された資料を見ただけだが、そこでは、まさに健康確保や労働時間規制の必要性についてはいろいろ書いてあるが、残業代が一番大事だなどということは書いていない。それは彼らとしても、一部のマスコミや政治家のような残業代ゼロが一番諸悪の根源だという発想に立っていないということなので、実はそこに着目すれば、もう少しまともな議論ができるのではないか。むしろそういう形で議論してほしい。
 
(長谷川主査)
 ジョブ型とメンバーシップ型に関して教えていただきたい。ジョブ型であれば地域限定であろうが、職務限定であろうが、それがなくなれば解雇できる。一方、メンバーシップ型の正社員は、人事そのものが無限定で、配置転換、残業、いろいろな裁量権の下にある。したがって、解雇についても、慣行上のものもあるが、いろいろな制約が事実上ついているという話だと理解している。私自身の経験では、ドイツでもアメリカでも働いたが、ジョブ型であっても配置転換がある。
 ただ、日本と大きく違うのは、欧米では、配置転換にはほとんど必ずプロモーションが伴う。そうでないと本人にもインセンティブが全くないから。だから職種が違ったり、本来ここでしか働かない人がどこかに変わるときには、本人の能力をより生かすためのプロモーションを伴ってやることで、ほとんど問題が生じない。ところが、日本では、かつていわゆるローテーションという形で全く必然性もなく配置転換を行っていた。例えば北海道から九州に配置転換をする必然性がなくても、会社のローテーションでやったりしたという事実はある。今はそういうこともおそらく大企業では変わっていっているし、中小企業でも、事業所が辺鄙なところにもあって、その辺鄙なところからまた極端に辺鄙なところに行くということもないだろうから、実態が変わりつつあることに鑑みれば、もう少し実態に合わせた形で慣行でもいいし、法規制でもいいが、変えることが可能ではないか。その辺についてどうお考えになるか。
 裁量労働の問題について究極のところは、濱口さんは上位から何パーセントとかでエグゼンプションとするのが適切ではないかというお話をされたが、これについても実際の私の海外での経験からいくと、ホワイトカラーのエグゼンプトは新入社員からで、その代わり個室をもらい、秘書がつくという形。
 日本も企画業務だとかそうでないだとか、あるいは賃金、年俸で区切ると企業による差、特に大企業と中小企業の差もあり難しい。ただ、時間で縛られない働き方は、ワーク・ライフ・バランスをある程度助けるものでもある。欧米の場合は、家に必ずと言っていいほど地下室があって、そこにオフィスを持っており、仕事を持って帰っても家族に邪魔されない、あるいは邪魔されずに仕事をしようとすればできるという環境があるから、早く帰って子供と遊んで、遅くなって子供が寝たら、地下のオフィスで仕事をしようということも可能。特にコンピュータの時代になればそういうことも全く問題ない。そういう違いはあるにしても、時間管理になじまないものがあって、先生がおっしゃるようにエグゼンプションを中高位何パーセントからとすれば、これは非組合員、管理職と同じことになり、いわゆる組合員ではあるが、そういう時間管理になじまない者には全く適用されない。その辺についてどうお考えか。
 
(濱口総括研究員)
 後の方がわかりやすいので、先にそちらから先にお答えするが、全くおっしゃるとおり。つまりここで私が上位から何パーセントと言ったのは、日本のメンバーシップ型の社会を前提にすれば、こういうふうにするしかないよという話。ところが、日本の法律もそうだし、どこの国の法律もエグゼンプトというときの管理監督者というのは入ったときから管理監督者。それはビジネススクールやグランゼコールを出て初めから管理職見習いとして入り、2年か3年ぐらいすれば見習いが取れて管理職として働く。初めから入口が違うわけで、それを前提として管理職という職種のエグゼンプトをやっているだけだと。ところが、日本はそうではない。
 先ほど日本には管理職という職種が存在しないと申し上げたのはそこ。日本は、管理職のエグゼンプトですら、係員島耕作が係長島耕作になって、課長島耕作になったらエグゼンプトだと言っているだけの話。この中高位というものが、昔みたいに何でもかんでもみんな管理職に放り込めばいいという1990年代から変わってきている。機能としては管理していない者をみんな昔は管理職に放り込んでいたのが、そういう無駄なことはできなくなったので、管理職を少数精鋭に絞れば、自ずから、そこらからこぼれ落ちる人が出てくる。ところが、賃金制度は依然として年功制だから、非常に高い給料をもらっている。高い給料をもらっているけれども、管理の仕事はしていないし、昔みたいに管理職に就かないので、残業代を払わなければならない。おかしいだろうと。私はまさにそこに矛盾があると思っている。
 もし、本当に世の中ががらっと変われるのであれば、つまり企業の人事部がメンバーシップ型からジョブ型に全部変わるというのであれば、まさに今おっしゃったのが本来の姿、法の本来の趣旨ではある。しかし、それはすぐにできないだろうということ、かつ、昔であればみんな管理職に放り込まれていった人がそうでなくなってきていて、そこをどうするかということに対応するのであれば、こういった上位から何パーセントというのが、メンバーシップ型を維持していることを前提とした上での話になる。これは管理監督の仕事、これは企画の仕事、これは何の仕事というジョブで人事管理をするようになれば、当然それでできる。しかし、現実にはそうでないということを前提としてお話している。
 前半の方だが、基本的に企業に一方的な配転の権限はないと私は認識している。プロモーションを伴うというのは、本人が同意している、あるいはむしろ希望しているからそこに就くということだろう。根本的なことを言うと、まず日本は、上から下まで全部同じ労働者だと言われる。これは多分、戦後の平等主義の下で、全部同じ労働者であるという発想。係員島耕作から社長島耕作まで一連のつながりであるという認識の下にいろいろな議論がされるということは、欧米と比較するときの最大の誤解の元なのではないかと思う。
 基本的に企業には配転の権限がない。雇用契約で限られているということが前提。これは少なくともいろいろな労働法でそのようになっている。もちろんプロモーションもあるが、基本的にはそのプロモーションも、この職位が空いた、この課長職が空いたので、やりたい人はいるかというもの。これは外から入れる場合もそうだし、中で内部昇進する場合でも、基本的にはそういう発想。まさにジョブ型の発想でやっているがゆえに、その仕事ができるかという形で物事は動く。その仕事があるのか、ずっと続くのか、それともなくなるのかという形で議論ができる。日本はそれも人事部の胸先三寸で動いていく形になっているので、そこが一番違うのではないか。
 2番目の中小は違うというのは、実はおっしゃるとおり。ジョブ型、ジョブ型と言うが、日本の中小企業なんてそんなに回るところなんてないのだから、実はジョブ型ではないかという言い方をされることがある。これは半分正しくて、半分間違っていると思う。つまり別にこのジョブに限るという意識はどこにもない。
 そういう意味では非常に小さなメンバーシップ型だが、配転の余地がいっぱいあるわけではないので、事実上、その企業自体、中小零細企業自体がその仕事ができなくなれば、会社自体と運命を共にするのはある意味で当たり前だろうと思うのだが、そこがジョブ型という形で明示的に意識されているわけではないというのが1つ。また、先ほど申し上げたように、そもそも弁護士に高いお金を払って裁判所に持ってこられるのは、大体大企業の正社員が中心になるので、中小企業は違うのは確かにそうだと思うが、中小企業が違うというロジックが、それとしてはなかなか確立しにくいという面はあるかと思う。
 ここはどう考えるかだが、やはり中小企業だから違うというロジックは、法の論理としては立てにくいだろう。ただ、まさに実態として回す余地がないのだから、解雇は当然だろうという形で議論がされていけばいいわけで、そこはまさに回す余地があるかどうかということが、法律の中できちんと明示的にわかるようになることが一番重要ではないかと思っている。
 最後に、実態が変わってきているというふうにおっしゃられた。そうかもしれないが、1つは判例法理というのは過去の日本の、特に1980年代までのメンバーシップ型のシステムが猛威を振るっていたというか、非常に誇らしく、ジャパン・アズ・ナンバーワンと言っていたころに確立したもの。当然のことながら、裁判所も別に固定観念でやっているわけではなく、例えば外資系企業でこの仕事という形で就けたようなものについては、実はフレキシブルにというか、この仕事に就けたのだから、この仕事ができなければアウトだろうという判断をしている。
 ただ、どうしても普通の日本の会社の普通の正社員ということであれば、今までの延長線上で判断することになるので、そこはむしろ実態が変わってきているということが世の中で明らかにというか、裁判官の目にわかるような形になっていないということではないか。あるいはそれが変わってきているとすれば、変わってきているということがその判断基準できちんとすくい取れるような法規制があればすくい取れるが、それがないがゆえに、単に言いわけしていると聞こえるということではないか。
 
(長谷川主査)
 それに関連して、例えば研究者の場合、研究者として採用され、本来であれば一生研究者であるけれども、研究者としてのアウトプットを、要求される最低限のレベルまで出せないときに、例えば、欧米でよくやるようなプロフェッションを置いて、6か月以内にこういうものを出してくださいなどといったことを何回かやって、それも達成できない場合に解雇することにすれば、これは裁判になっても受け入れられる可能性がかなり高いのだろうか。
 
(濱口総括研究員)
 それは個別ケース。おそらく、雇用契約そのものがどれくらいの専門性を要求するものか、どれくらいのアウトプットを出すことを合意していたかということの判断になるだろう。
 私は基本的に、あまり上澄みの方というよりは、むしろ上澄みでない方を主として考えている。基本的には、契約にジョブディスクリプションが書いてあって、これをきちんとやればOKだというのが、特殊なエリートを除いた普通の労働者にとってのラインであるというのが私の認識。ただ、世の中にはもっとハイレベルな要求水準の契約があるだろうし、それはそのように書いてあれば、当然それに基づいて判断されるのではないか。日本にはそもそもその根っこがないので、要求水準というものがその都度その都度、会社が思いついたようにこれを命じられたものであると、なかなか同じように判断されないのはやむを得ない感じがする。
 
(長谷川主査) 
ただ、入社のときにジョブディスクリプションで全部詳細には書けないが、同じ職種の中で経験を積むにつれてジョブグレードが上がっていって、グレードによって求められる度合いやアウトプットが変わってくることは当然あるのではないか。
 
(濱口総括研究員)
 それは、おそらく雇用契約の中身がある意味変わってくるのだろう。入ってからずっと同じ形で行くわけではなく、基本的には、ある時点で契約を打ち切った場合に、何が求められていて、何が求められていないかということが、労使双方から見て明確であることが最も重要だと思う。
 
(長谷川主査)
 わかった。
 
(赤石日本経済再生総合事務局次長)
 お話をお伺いしていると、ジョブ型とメンバーシップ型の違いがとても大きく、日本と欧米ですごい差があって入口が違うと何度かおっしゃっていたが、もしよろしければ欧米型の判例ではなく、契約がどうなっているか追って教えていただきたい。他方、長谷川主査がおっしゃるとおり、日本の場合は、最初からジョブディスクリプションを書くのが論理必然的に結構難しいところがあるので、そこをどう変えたら欧米型に移行できるのかというところを勉強したい。
 
(濱口総括研究員) 
どこをどう変えたらというのは、それはむしろ欧米のいろいろな人事管理のものがいっぱい出ているので、問題はむしろそういった技術的な話ではなく、そもそも人事部がそんなことを言われたからといってすぐにできるか。
 先ほど人事部が岩盤だという言い方をした。しかし、人事部には人事部の言い分があって、まさに自分たちが何でもやるような形で社員たちを回してきたがゆえにかつての日本はこれだけの競争力を示してきたのではないか、たまたまここ10年ほど少しうまくいっていないからといってそれを全部否定するのかと人事の方々は思っているだろう。むしろ問題はそこだと思う。そう簡単に人事の方々が変わるとは思わないが、もしそれが変わるとなれば、具体的にどのように書くかについては、教科書のようなものは幾らでもある。しかし、おそらくそうはいかないだろう。
 むしろ問題は、人事部の方々がどうお考えになるかというところにある。実は役所などはほとんど何の役にも立っておらず、端の方から雇用調整助成金で応援しているだけ。労働組合も実は企業別組合はその上に乗っているだけ。このメンバーシップ型の仕組みを、がちっと作って動かしているのは、間違いなく人事部の力だと思っている。

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コメント

濱口先生ならではの、明確かつ痛快な語り口を堪能させていただきました。特に最後のところ、「このメンバーシップ型の仕組みを、がちっと作って動かしているのは、間違いなく人事部の力だと思っている。」には、思わず膝を叩きました。
何でもやる、という前提で入社してくる大卒総合職も、何でもできる訳もありません。そこを工夫し、順列組み合わせで何とかさせるのが人事の妙、「ローテーションという形で全く必然性もなく配置転換」とは、どこの世界のお話なんでしょうか?少しは実務を経験してから発言して欲しいものです。

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