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2014年2月 4日 (火)

魔法使いの弟子たち(再掲)

当面の政局にはコメントするつもりはまったくありませんが、物事を長期的視野から考える上で再読いただければよいのではないかと、過去のエントリをいくつか・・・。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_46a5.html(山口二郎氏の反省)

『情況』という新左翼っぽい雑誌があります。1/2月合併号が「特集:新自由主義」ということで、ハーヴェイの本の書評特集をしていたので買ったんですが、はじめの方に金子勝氏とか山口二郎氏のインタビューが載っていて、特に後者はかなり率直な「反省の弁」という感じになっていたので、紹介しておきます。

>90年代に改革を論じた多くの人が、「市場化を進めていったとき、市民化の足場が掘り崩される」ということを、あまり判っていなかった。今でこそワーキングプアとか格差とかいわれているけれど、当時の改革論議では、規制緩和を徹底したときに何が起こるかという心配をしている人なんて、ほとんどいなかった。その理由としては、「生活者の政治」という構えでものを考えるときに、実は「生活する一番の土台のところを崩される」ということについての警戒というか、予見というのが、できていなかったのだと思います。「生活者を基盤とした政治」とか、今でも簡単に言う人がいますけど、そんなに単純に主張できる者ではなかったということです。

>さっきも言いましたが、生産拠点と生活拠点とを対立させて捉えるというのはやはり間違っている。私たちはみんな労働力を売って、生活の糧を得ているわけですよね。ところが労働市場というのは、私たちが供給者であって、企業が主権者なわけですよ。消費者主権が労働市場においても徹底されるとどういうことになるかというと、雇う側が労働者に好き放題無理難題をふっかけてきて、賃金のダンピングはするわセクハラはするわ、という話になってくるわけですよね。ですから市場化のベクトルあるいは消費者主権という原理で社会のシステムを再編していくというのは、私たち自身にとっても不利益が生ずる側面もあるわけです。結局、消費者主権の論理みたいなものを、脳天気に言いすぎた。消費者主権というものは一つの原理ですから、それが原理主義的に徹底されていくと、私たち自身が労働を売るときにね、同じ原理が適用されてブーメランのように跳ね返ってきているわけです。

>私たちはある意味で生産に参加することで生きているわけですから、その部分では、過当競争を防ぐための生産者カルテル、みたいな発想も必要になってくるわけですよね。ですから、労働組合の役割というものが、市民・生活者の論理と対峙する、という考え方は間違っていると思いますよ。生産と消費がトータルにあって人間生活がなりたつわけですから、その点で90年代の「生活者起点の政治」という議論はとても偏っていたというか、結果的に市場化の方にすくい取られていってしまった、という後悔がありますね。

 今頃あんたが後悔しても遅いわ、なんて突っ込みは入れません。この文章自体がまさにそれを懺悔しているわけで、人間というものは、どんなに優秀な人間であっても、時代の知的ファッションに乗ってしまうというポピュリズムから自由ではいられない存在なのですから。

まあ、でも90年代のそういう風潮に乗せられて、いまだに生産の場に根ざした連帯を敵視し、それこそが進歩だと信じ込んで、地獄への道をグッドウィルで敷き詰めようとする人々が絶えないんですからね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-54bc.html(政治とは悪さ加減の選択)

山口二郎さんのブログに『週刊金曜日』のコラムが載っています。

http://www.yamaguchijiro.com/?eid=901(通常国会の政策論議をどう進めるか)

この言葉にはまことに同感なのですが、

>・・・そうなると、みんなの党や減税を売り物にしている怪しげな地方首長など、ポピュリストやデマゴーグの出番となる。投機的再編論議に賭けるということは、日本の民主主義にとっては実に不毛である。

長年の付き合いだからというわけではないが、菅にもう少し政権を続けさせることが現状では最善の選択だと、私は考えている。丸山真男を持ち出すまでもなく、政治とは悪さ加減の選択である。今よりもっと悪いものが出てくることが確実なときに、わざわざ最悪を引き寄せるべきではない

わたくしも、まったくそう思います。ただ、この真理を、一昨年の総選挙の前にも語っていたのであれば、もっと説得力があったように思います。

当時の麻生首相に「もう少し政権を続けさせることが現状では最善の選択だと」は考えなくても、「わざわざ最悪を引き寄せる」ようなことをしていなかったか、権丈先生であれば若干違う意見をお持ちかも知れません。

その違いが「長年の付き合いだから」ということであったのであれば、それはやはり考えるべきことがあるのでしょう。

さはあれ、「ポピュリストやデマゴーグの出番」がもっとも避けるべきであることだけは、まっとうな感覚の持ち主であれば共有するところでしょう。

まことに「政治とは悪さ加減の選択である」という真理が身に沁む思いです。

(追記)

北の山口二郎さんといえば、名古屋の後房雄さんですが、河村市長を応援してしまった経験がどこまで身に沁みておられるのかなぁ、と思わせられるブログ記事が。

http://blog.canpan.info/jacevo-board/archive/230

後さんは、

>2009年4月29日の名古屋市長選挙の夜は、河村事務所の3階でテレビを見ていたものですが、それからの経過を考えるとなかなか感慨深いものがあります。

と、まさにカイカク派の応援団であったのですが、

>あらためて考えてみると、河村氏との政治イメージの違いが最大の要因だったように思います。選挙で票を集め、勝って市長になることだけをイメージしている河村氏(だからこそ今だに総理を目指すなどと叫んでいるわけですが)に対して、私としては市長になるということは市政全体に責任を持つことだと考えていたわけです。

>ともあれ、選挙のことだけ考えている人ですから、選挙では勝つわけですが、そのあとやりたいことは減税と議員報酬半減だけで、行財政改革も各分野の問題解決もめんどくさいことはやりたくないわけですから、今後も議会相手に広い意味での選挙運動のようなことばかりやり続けるのでしょう。大阪など応援にいく所もあるし。

市長という仕事をやる気がないということが市民の多数に理解されるまでは、もう少し時間がかかるでしょうが、事実ですからいずれは理解されるでしょう。

と、それがリフォーム詐欺の片棒担ぎであったという風に認識されるようにはなったようなのですが、

そして、コメント欄である方がその趣旨を明示しておられますが、

>「河村台風」を退治するとも書かれていますが、この「台風」を発生させた立役者は、事実かどうかは知らないけれど、後さんご自身だという話も聞いています。その通りであれば、「河村台風」というモンスターを世に送り出したはいいけど制御できなくなって逃げ出し、離れた所から他人事のように批判しているようにも見えます。

正直、過去の罪責を云々するよりも、これからのことに対する姿勢の方が大事でしょう。その意味で、こちらの記事は身体から力が抜ける思いがします。

http://blog.canpan.info/jacevo-board/archive/232

>毎日新聞によれば、注目の4月東京都知事選挙にワタミ会長の渡辺美樹氏が「みんなの党」から立候補しそうです。もし実現すれば大ホームランです。自治体経営のモデルが見られるかもしれません。

小説『青年社長』や渡辺氏の著書をこのブログでも紹介してきましたが、都知事候補としては文句ありません。ちゃんと仕事をしてくれるでしょう。なって騒ぎたいだけのどこかの市長とは違います。

どうして「違います」と思えてしまえるのかが不思議なのですが、魔法使いの弟子は永遠に魔法使いの弟子なのかも知れません。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-9826.html(山口二郎氏の反省その2 参加や直接政は必ずしも民主主義を増進させないのか!?)

雑誌『月刊マスコミ市民』2月号で、山口二郎氏が今さらのように「参加や直接政は必ずしも民主主義を増進させないのか!?」と語っています。

>大阪の動きを見ていて私たちが反省しなくてはいけないと思ったのは、参加とか直接政といった概念が、決して自動的に民主主義をもたらすわけではないということです。憎悪や怨念など人間の感情を基にした参加は、極めて破壊的な効果をもたらすことがあるのです。

立派な政治学者が今頃になってそんなことを言い出さないでよ!!といいたくなりますね。

実は、山口二郎氏と私は同年齢。同じ年に同じ大学に入り、同じような環境にいたはずですが、私がその時に当時の政治学の先生方から学んだのは、まさに歴史が教える大衆民主主義の恐ろしさであり、マスコミが悪くいう自民党のプロ政治のそれなりの合理性でした。

>今までは、自民党一党支配という大きな構造や霞ヶ関の官僚支配といった強固な枠組みがありましたので、これを崩すためにはローカルな参加や直接政が有効であると考えてきました。しかし私は、それらが必ずしも民主主義の増進に寄与するわけではないことを痛感しました。

今ごろ痛感しないでよ!と言いたいところですが、山口氏の同業者には未だに痛感していない、どころかますます熱中している方もおられるようなので、それ以上言いませんが。

ついでに言うと、政治学者と同じぐらい罪深いのは政治思想学者じゃないかと思ってます。「熟議」とかなんとか、横のものを縦にしただけの薄っぺらな議論をやってると、その言葉をポピュリストにうまいこと流用されるだけ。

大向こう受けだけを狙った朝まで生テレビ的超浅薄な議論が「熟議」にされちゃって、あんた等がさんざん悪く言っていたその分野に精通した自民党プロ政治家の利害関係者の利害得失をとことん突き詰めた「熟議」は、利益政治の名の下にゴミ箱に放り込まれてしまっていますよ。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/01/post_46a5.html(山口二郎氏の反省)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-c012.html(山口二郎氏と竹中平蔵氏の対談)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-54bc.html(政治とは悪さ加減の選択)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-c357.html(こりゃだめだ)

(一応念のため)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-28b3.html(「熟議」は「維新」)

>まあ、下世話な話といえばそうかも知れませんが、向こう三軒両隣にちらちらするフツーの人々は、むつかしげな政治思想の本なんかそうそう読むわけではありませんから、「熟議」とかいう新しげな言葉は、橋下さんちの「維新の会」みたいなやり方のことをいうんだろうなぁ、とたぶん何の違和感もなく思うんだと思いますよ。

>>大阪府の橋下徹知事が代表を務める地域政党「大阪維新の会」が府と大阪市の再編に向けて7月以降、市民参加型の公開討論会「熟議(じゅくぎ)会」を府内数カ所で開催することが7日、分かった。・・・維新は今秋にもダブル選が予想される知事選と市長選を視野に、熟議会を「大阪都構想」実現に向けて市民を巻き込む新戦略にしたい意向だ。

>なるほど、「熟議」ってのは、守旧派の既成政党がぐだぐだ言って動かないのをむりやり動かすために、なにやら「市民」さまを持ち出して言うこと聞かせることなんだなぁ、と、ここ十年ばかりの物事を見てきたフツーの人々は思うのでしょうね。名古屋方面でも、そんな感じだったようだし。

>>熟議会は維新にとってはこうした手詰まり感を打開する一手ともいえ、「これまでのタウンミーティングの進化形」(幹部)と話し、市民側の議論の活発化を狙っているとみられる

>いやぁ、「市民側の議論の活発化」ですか。まさに、「市民」主義の皆様方がここ十年ばかり目指してきた路線ではありませんか。涙がこぼれるくらい素晴らしいです。これぞ「市民維新」でしょうか。

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