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2014年1月26日 (日)

赤木智弘氏のまっとうさとねじれ(再掲)

「ありす」さんが、改めて2007年に出た赤木智弘氏の『若者を見殺しにする国』について大量に引用しつつツイートされているので、

https://twitter.com/alicewonder113

参考までにそのときに本ブログで書いた論評を再掲しておきます。

問題構造は何ら変わっていない、というか、この期に及んでもなおリベサヨ全開の政治構図を全力で振り回す人々の群れが絶えない状況下で、ますます事態が悪化している印象すらあるので。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_c3f3.html(赤木智弘氏の新著)

41ad8n5htal_ss500_ 双風舎の谷川茂さんから赤木智弘氏の新著『若者を見殺しにする国』をお送りいただきました。有り難うございます。

前にこのブログで、目次だけでコメントした部分について、もう少し詳しく見てみましょう。「第2章 私は主夫になりたい」です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_89ec.html

>格差社会の一つの要因は、強者同士の結婚です。年収500万の男性と年収300万の女性が結婚すれば、年収800万の世帯が生まれます。その一方で、強者男性女性と結婚できない弱者男性は、年収130万程度の世帯を維持するほかありません。これでは、平等を達成することはできません。(p108)

>私は、こうした経済格差のありように対抗するため、男女という性差に社会責任(男は仕事、女は家事)を付与するのではなく、経済の強弱に於いて社会責任を付与(強者は仕事、弱者は家事)することを考えます。(p113)

>この構図を税金でたとえれば、「累進課税の強化」となります。直間比率の是正などと言う論理によって、裕福な人間の税金ばかりが安くなり、経済弱者に重い税負担がのしかかっている。こうしたネオリベラリズムな経済体制を批判する左派ならば、強者に対する思い社会責任の付与については、きっと賛成して貰えるはずです。

>とはいえ、「女性」というフィルターがかかると、なぜか「男性に対する負担増ならまだしも、女性に対する負担増はおかしい」などと、平等の軸がぶれてしまう。

なぜか、

>これまでの「弱者」概念というものが、「女性」「肌の色」「人種」「生まれた場所」などという、人間が自身の力であとから変えようのない「固有性に対する差別」による弱者を示しました。すなわち「平等を求める行為」というのは、そうした固有性によって人を差別しない社会を目指すと言うことです。

>一方で、右肩上がり経済社会における「経済弱者」というのは、あくまでも一時的な格差で発生した弱者だと考えられます。つまり、「努力すればやがて報われるような一時的な弱者」と言うことです。そうした状況は、バブル崩壊後の低い経済成長の社会になってからは変化し、「努力をしても報われない弱者」、すなわちワーキングプアを生み出しました。

>にもかかわらず、「固有性に対する差別」にこだわる左派の多くが、こうした状況をちゃんと把握しておらず、いまだに「努力すれば何とかなる」とか「一緒に労働運動をすれば何とかなる」などと主張しているのを知るにつけ、開いた口がふさがらなくなります。

>つまり、左派の人たちは。「固有性に対する差別」とたたかうことを強調するあまりに、「固有性でない差別」に対する理解が浅くなっています。それと同時に、彼らの主張は「自己責任論に対する親和性」が高いのです。(以上p114~115)

私はこの部分を読んで、赤木さんの社会に対する認識能力の高さを改めて確認しました。現在の様々なアクターに対する理解はかなり的確です。この文章で文句をつけるべきところは、「左派」という概念に対する通り一遍さくらいです。それは、やや耳にいたいかも知れませんが、歴史的知識の乏しさゆえではないかと思われます。

赤木さんにとっては、左派というのはいまの社民党みたいなものなのでしょうね。福島瑞穂さんみたいなのが「左派」の典型なのでしょうね。それは、年齢から考えれば、生きてきた時代状況の中ではまさにそうだったのですから、やむを得ないところがあります。

しかし、それは高度成長期以後のここ30年くらいのことに過ぎません。

それまでの「左派」というのは、「固有性に対する差別」を問題にするのはブルジョア的であり、まさに「努力しても報われない弱者」働いても働いても貧しさから逃れられない労働者たちの権利を強化することこそが重要だと考えるような人々であったのです。リベラルじゃないオールド左翼ってのはそういうものだったのです。赤木さんとおそらくもっとも波長があったであろうその人々は、かつては社会党のメイン勢力でもあったはずなのですが、気がつくと土井チルドレンたちが、赤木さんの言う「「固有性に対する差別」とたたかうことを強調するあまりに、「固有性でない差別」に対する理解が浅くなってい」る人々、私のいうリベサヨさんたちが左派の代表みたいな顔をするようになっていたわけです。この歴史認識がまず重要。

リベじゃないオールド左翼にとっては、「経済の強弱に於いて社会責任を付与」することは当然でした。当時の状況下では、これは、「女房子供の生活費まで含めて会社に賃金を要求する」こととニアリー・イコールでした。終戦直後に作られた電産型賃金体系が一気に日本中に広まったのは、そのためです。

しかし、やがてそういうオールド左翼のおっさんたちが、保守オヤジとして指弾されるようになっていきます。彼らに「固有性に対する差別」に対する感性が乏しく、「左翼は女性差別的」と思われるようになったからです。

ここまでの歴史が、おそらく赤木さんの認識の中には入っていません。その後の、オールド左翼が消えていき、社民党とはリベリベなフェミニズム政党であるとみんなが思うようになるのは、せいぜい80年代末以降です。そして、その後の彼らに対する認識は、赤木さんの言うとおりです。

リベサヨとネオリベが紙一重であるということは、実はこのブログでも何回も繰り返して述べてきたことです。そこを「左派」という言葉で括ってしまうと、せっかくの赤木さんの的確な認識が全然生きなくなります。むしろトンデモな言葉に聞こえてしまうのです。

この部分以外にもコメントすべきところは多いのですが、とりあえず今日のところはこの程度にしておきましょう。

なお、いくつか参考となるかも知れない文章をリンクしてきます。まず、「時の法令」という雑誌に載せた「差別と格差の大きな差

http://homepage3.nifty.com/hamachan/sabetutokakusa.html

あと、お時間があれば、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_a90b.html(リベじゃないサヨクの戦後思想観)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_5af3.html(リベラルサヨクは福祉国家がお嫌い)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/08/post_a88b.html(超リベサヨなブッシュ大統領)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_0a5d.html(雇用平等はソーシャルか?)

最後に、このブログで赤木さんを最初に評論したエントリーです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/05/post_3f06.html(フリーターが丸山真男をひっぱたきたいのは合理的である)

(追記)

私の単純な書き写しミスで、男と男が結婚するかしないかというわけわかめな話になってしまいまして申し訳ありません。「強者女性と結婚できない弱者男性」です、もちろん。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)

昨日の続きです。

赤木さんは第3章「丸山真男をひっぱたきたいができるまで」で、ご自分の思想遍歴を語っているのですが、これがまさに昨日の話とつながります。

彼は、自分が「いわゆる左派」だったというのですが、その「左派」ってのは何かって言うと、最初に出てくるのが、オウム真理教バッシングに対する批判なんですね。

それが左派かよ!そういうのはプチブル急進主義って言うんだぜ!

と、昔風の左翼オヤジはいうでしょう。

オウムだの幸福の科学だの、そういう大衆をだまくらかすアヘン売人どもに同情している暇があったら、その被害者のことを考えろ!

と、ゴリゴリ左翼はいうでしょう。

でも赤木さんにとっては、そういうリベリベな思想こそが「左派」だったんですね。このボタンの掛け違いが、この本の最後までずっと尾を引いていきます。

彼が、「このような左派的なものに自分の主張をすりあわせてきました」という、その「左派的なもの」というリストがp131にあります。曰く、

>平和を尊び、憲法9条を大切にする。

>人権を守る大使から、イラクの拉致被害者に対する自己責任論を徹底的に否定する。

>政府の有り様を批判し、労働者の立場を尊重する。

>男女はもちろん平等であり、世代や収入差によって差別されてはならない。

ここにはいかにもリベサヨ的なものから、一見ソーシャルなものまで並んでいますが、実は、その一見ソーシャルなものは赤木さんにとって切実なものではなかったことがそのすぐあとのところで暴露されています。

>男性と女性が平等になり、海外での活動を自己責任と揶揄されることもなくなり、世界も平和で、戦争の心配が全くなくなる。

>で、その時に、自分はどうなるのか?

>これまで通りに何も変わらぬ儘、フリーターとして親元で暮らしながら、惨めに死ぬしかないのか?

をいをい、「労働者の立場を尊重する」ってのは、どこか遠くの「労働者」さんという人のことで、自分のことじゃなかったのかよ、低賃金で過酷な労働条件の中で不安定な雇傭を強いられている自分のことじゃなかったのかよ、とんでもないリベサヨの坊ちゃんだね、と、ゴリゴリ左翼の人は言うでしょう。

>ニュースなどから「他人」を記述した記事ばかりを読みあさり、そこに左派的な言論をくっつけて満足する。生活に余裕のある人なら、これでもいいでしょう。しかし、私自身が「お金」の必要を身に沁みて判っていながら、自分自身にお金を回すような言論になっていない。自分の言論によって自分が幸せにならない。このことは、私が私自身の抱える問題から、ずーっと目を逸らしてきたことに等しい。

よくぞ気がついたな、若いの。生粋のプロレタリアがプチブルの真似事をしたってしょうがねえんだよ、俺たち貧乏人にカネをよこせ、まともな仕事をよこせ、と、あんたは言うべきだったんだ、と、オールド左翼オヤジは言うでしょう。

もちろん、半世紀前の左翼オヤジの論理がそのまま現代に通用するわけではありませんが、リベサヨに目眩ましされていた赤木さんにとっては、これは「ソーシャルへの回心」とでも言うべき出来事であったと言えます。

問題は、赤木さんの辞書に「ザ・ソーシャル」という言葉がないこと。そのため、「左派」という概念がずるずると彼の思考の足を引っ張り続けるのです。

彼の主張は、思われている以上にまっとうです。「俺たち貧乏人にカネをよこせ、まともな仕事をよこせ」と言ってるわけですから。そして、戦争になればその可能性が高まるというのも、日中戦争期の日本の労働者たちの経験からしてまさに正しい。それこそ正しい意味での「ソーシャリズム」でしょう。

ところが、「左派」という歪んだ認識枠組みが、自分のまっとうな主張をまっとうな主張であると認識することを妨げてしまっているようで、わざとねじけた主張であるかのような偽悪的な演技をする方向に突き進んでしまいます。

自分が捨てたリベサヨ的なものと自分を救うはずのソーシャルなものをごっちゃにして、富裕層がどんな儲けても構わないから、安定労働者層を引きずり下ろしたいと口走るわけです。安定労働者層を地獄に引きずり下ろしたからといって、ネオリベ博士が赤木君を引き上げてくれるわけではないのですがね。

赤木さんはあとがきで、こう言います。

>ええ、わかっていますよ。自分が無茶なことを言っているのは。

>「カネくれ!」「仕事くれ!」ばっかりでいったい何なのかと。

それは全然無茶ではないのです。

そこがプチブル的リベサヨ「左派」のなごりなんでしょうね。「他人」のことを論じるのは無茶じゃないけど、自分の窮状を語るのは無茶だと無意識のうちに思っている。

逆なのです。

「カネくれ!」「仕事くれ!」こそが、もっともまっとうなソーシャルの原点なのです。

それをもっと正々堂々と主張すべきなのですよ。

無茶なのは、いやもっとはっきり言えば、卑しいのは、自分がもっといい目を見たいというなんら恥じることのない欲望を妙に恥じて、その埋め合わせに、安定労働者層を引きずりおろして自分と同じ様な不幸を味わわせたいなどと口走るところなのです。そういうことを言えば言うほど、「カネくれ!」「仕事くれ!」という正しい主張が伝わらなくなるのです。

なお、その後赤木智弘氏に言及したエントリは以下の通りです。ご参考までに。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/05/post-ef68.html(きわめてまっとうな赤木智弘氏のつぶやき)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-4659.html(赤木智弘氏を悩ませたリベサヨの原点-マイノリティ憑依)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-b41a.html(ソーシャルに目覚めた赤木智弘氏がリベサヨ全開の反原発デモに反発するのは当然である)

(追記)

ちなみに、上記わたくしの赤城著評に対して、最も本質的な次元で論評されたのが松尾匡さんです。

http://matsuo-tadasu.ptu.jp/essay_71225.html(07年12月25日 市民派リベラルのどこが越えられるべきか)

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コメント

赤木氏は、自由主義経済とは結局は弱肉強食と考えているように思われます。スポーツのように、自分が勝てば対戦相手が負ける関係。誰かが豊かになれば、別の誰かが貧しくなくなる関係。彼の言葉を使えば、富裕層や安定労働層は豊かさを維持するために貧困労働層に貧しさを強いている、このように認識しているのでしょう。

彼が偽悪的に演技をするのは、結局は自分も弱肉強食の競争の中で勝ちたいだけであり、富裕層や安定労働層と同じ穴の狢だ、という意識があるためと思われます。自分たちが豊かになれば、別の誰かが貧しくなるのではないか。そういう疑問が頭をよぎるため、道化師のような言動につながるのでしょう。『「丸山眞男」をひっぱたきたい』の結論が戦争による社会の流動化という、明らかに無意味な提案になっているのもこのためです。日本の社会を流動化させるほどの戦争相手国というのは、中国、ロシア、アメリカぐらいでしょう。いずれも核武装しており、運が良くても日本側の再起不能な国家崩壊、運が悪ければ人類の全文明の消滅です(日米同盟を維持したまま中国との全面核戦争に発展するなど)。社会を流動化するために、その社会の礎である国や文明を崩壊させる、これほど馬鹿げた矛盾はありません。彼の演技は、自分の議論が机上でさえ矛盾なく一定の結論を得られないことに対する、一種のブラックユーモアと解釈すべきです

私個人の認識としては、ミクロ経済学の純粋交換理論により、自由主義経済は弱肉強食ではなく、交換を通じてお互いの効用を高めあう制度だと考えています。したがって、赤木氏の哲学的な苦悩は杞憂だと感じます。

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