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2013年11月 7日 (木)

規制改革会議第11回雇用ワーキンググループ議事概要(濱口発言部分)

去る10月11日に、再度規制改革会議雇用ワーキンググループに呼ばれ、労働時間規制の問題について意見を述べてきたことは、既に本ブログで書いたとおりですが、その議事概要が内閣府のHPにアップされましたので、そのうちわたくしの発言部分をこちらに引用しておきます。

内容的には、既にこの6,7年間言い続けてきたことの繰り返しですが、政府の規制改革会議の真ん中でこういう考えが主流化しつつあることには、いささか感慨深いものがあります。一昨日に、産業競争力会議雇用・人材分科会に呼ばれて意見を述べたときも、解雇規制やジョブ型正社員と並んで、この問題についてかなり詳しくお話ししてきたところでもあり、こういう形で認識が深まっていくとすれば、大変望ましいことであると思っています。

http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kaigi/meeting/2013/wg2/koyo/131011/summary1011.pdf(議事概要)

http://homepage3.nifty.com/hamachan/tsuru131011.html(濱口発言部分)

規制改革会議第11回雇用ワーキンググループ議事概要(濱口発言部分)
 
日時:平成25年10月11日(金)14:00~15:53
 
〇濱口統括研究員 濱口でございます。ジョブ型正社員のときに引き続いてお呼びいただきましてありがとうございます。
 
私は、実は根本的な認識としては鶴座長や水町委員と共通するものもあるのですが、制度、規制に関する認識についてはかなり違うところがございます。あえてそこを強調する形で、若干過激な物の言い方に聞こえるかもしれませんが、世間のこの労働時間規制に関する議論のされ方というのは根本的にかなり問題があると認識をしておりますので、いわばここにいらっしゃる皆様の認識をどこまで揺るがせるかというつもりでお話をしたいと思っております。
 
最初に3つのテーゼがありますが、私は大体この十数年間、労働時間規制が議論されるときは大体この3つのテンプレートでもって議論がされてきたと思っております。「日本の労働時間規制は厳しい」「労働時間の規制緩和というのはワーク・ライフ・バランスに役立つ」「残業代ゼロ法案はけしからん」、大体いろいろな議論というのはこの3つのテンプレートに当てはめて議論されてきたと思いますが、いずれも間違いです。
 
しかし、マスコミも政治家も、場合によっては学者もこういう議論に乗ってやってきたんじゃないか。それをむしろ引っくり返すところから議論を始めないといけないのではないか。一つ一つお話をしてまいります。
 
まず、「日本の労働時間規制は厳しいのか?」。私は、厳しいとは全く思っておりません。むしろアメリカと並んで世界で最も緩い国の一つだと思っています。ただし、ここで重要なのは、労働時間規制というのは時間そのものの規制を意味します。物理的な時間を規制するというのが労働時間規制なのであって、残業代を規制するとか休日手当を規制するというのは、私の認識では労働時間に関係のある賃金規制であって労働時間規制ではありません。そういう意味では、アメリカは労働時間規制のない国です。
 
そういう意味からいうと、日本は物理的な労働時間の上限は年少者を除けばありません。かつては、女性は1日2時間、年150時間という時間外の上限規制がありましたが、それは男女平等でなくなりました。
 
ただ、そうはいっても法律上は、労基法32条で1日8時間、週40時間、かつて48時間でしたが、労働時間の上限があって、これは規定の仕方を見るとそれを超えて働かせてはならないと書いていますので、本来はヨーロッパ型の規定でした。戦前の工場法以来、そういう物理的な労働時間規制として規定されているのですが、実態としてはむしろ三六協定でもってこれを超えるのが当たり前、少なくとも正社員であればオーバータイムがあって当たり前で、それを拒否したら懲戒解雇もあり得べしという社会になってきたのです。これは、労使が両方ともそれを望んできたという面もあるのでしょう。
 
とはいえ、三六協定にも限度基準というものがあるよということになっています。確かにあるのですが、しかし、これもまずそもそも法律上、労働契約に関して強行的な効力を持つものではありませんし、またこれにも適用除外があります。そのため、1世紀近く前にワシントンで開かれたILOの第1回総会で採択された第1号条約、1日8時間、週48時間という条約すら日本は批准できないんです。なぜできないかというと、時間外の上限が規定されていないからであります。
 
その結果として、現実の日本社会で意味があるのは残業代規制のみということになってしまい、そのためにあたかも残業代規制のみが労働時間規制であるというふうに皆が思って、それをどうするかということばかりが議論されている。
 
諸外国の状況は先ほど来、鶴座長や水町委員も言われたのでごく簡単に申しますと、アメリカは残業代規制のみで物理的な時間規制はありません。EUは、ヨーロッパの国々はもう少し細かいものはありますが、最低基準としては「時間外を含め」週48時間であります。この「時間外を含め」というものを往々にして忘れることが多いのですが、時間外を入れて48時間です。ただし、変形制がありますので、一時的にそれを超えることは十分あり得ます。
 
大事なのは、残業代については何の規制もしていないということです。かつて国によってはそういう規制もありましたが、基本的にはもう残業代をどうするかといった賃金の話は労使が決めることだということで、どんどん労使に委ねています。物理的な時間規制は、これは労使がどうあろうが労働者の生命、健康のためにきちんと守る。その現れとして、EUでは労働時間規制というのは安全衛生法制であると位置付けられています。
 
その一番典型的な例が、これも先ほど来紹介がありましたが、1日11時間の休息時間が義務付けられているという点です。以上を一言でいうと、「日本の労働時間規制は厳しい」というのは間違いであって、むしろアメリカと並んで最も緩い国の一つだと言えます。
 
2番目、実は今から6~7年前にいわゆるホワイトカラーエグゼンプションが議論されたときに、当時のこの会議の前身である規制改革・民間開放推進会議の答申は、この労働時間規制の適用除外制度というものを、仕事と育児の両立を可能にする多様な働き方であるとか、ワーク・ライフ・バランスが進むんだという言い方で議論をしていましたが、私はこれは全く間違っていると思っています。
 
なぜこういう議論になるかというと、労働基準法の法的性格に対してどうも根本的に誤解があるのではないか。労働基準法というのは名宛人は使用者でありまして、「1日8時間、週40時間以上働かせてはならない」と命じているだけであります。それより短く働くことを何ら禁止も規制もしていません。
 
国家公務員法はある意味で国家公務員の就業規則みたいなものですから、そこに規定してある勤務時間というのはそこまで働かなきゃいけないわけですが、それとは違います。労基法の上限の範囲内でどんなに短く働くことも、十分に可能です。したがって、上限規制を緩和するというのは、もっと長く働かせていいよという以上の意味はあり得ません。
 
ワーク・ライフ・バランスとの関係で、労働者個人にとって意味のある柔軟化の障害になり得るのは、物理的な労働時間の上限ではなくて、就業規則の必要的記載事項として始業・終業時刻を決めなければいけないといった規制ではないかと思われます。これはある意味で間接的に労働者が何時までに来なければいけないとか、何時までいなきゃいけないという拘束になりますので、そこをどう外すかという話、ある意味でフレックスタイムというのはそこを外しているわけです。これは、物理的な時間規制そのものの緩和とはまったく違う話であるというふうにもう少し認識したほうがいいのではないかと思っております。したがって、2番目の労働時間規制の緩和がワーク・ライフ・バランスに役立つというのも間違いです。
 
3番目、それに対してこれは6~7年前のホワイトカラーエグゼンプションのときに一番ある意味で問題になった話なのですが、残業代ゼロ法案とか、残業代ピンはね法案という形で批判されました。それで潰れたというのが、実はこの議論がおかしくなっている最大の理由だと思っております。
 
物理的な労働時間規制が非常に極小化された日本で、ある意味で唯一、法律上の武器として駆使されているのがこの残業代規制、労基法37条の割増賃金です。世の中には労働時間にかかわる裁判、訴訟がいっぱいあるといわれているのですが、よく見るとどれも、管理監督者だというけれども、実は違うんだ。だから、残業代を払えという類いの訴訟ばかりでありまして、物理的な時間そのものを争ったものはほとんど見当たりません。
 
労働時間規制の適用除外という限り、事実上空洞化しているといいながら、本来物理的な労働時間を規制している32条以下の規定を適用除外するのであれば、それは厳格でなければならない、というのは当然です。したがって、労基法41条に規定する管理監督者というものは、本当に物理的な時間の規制を緩和しても、解除してもいいような人なのかどうかという観点で判断します。そうすると、当然それは相当上位クラスの人にならざるをえない。厚労省が終戦直後以来やってきている解釈(「経営者と一体的な立場にある者」)というのはその観点からすれば、まことに当然の解釈ということになります。
 
しかし、この労基法41条の適用除外は、32条以下の物理的な時間の規制も、37条のお金の規制もひとしなみに適用除外しております。その結果、何が起こるかというと、お金の観点からすれば、賃金の観点からすれば、経営者と一体とは言えなくても残業代規制は適用除外してもいいような人々が、物理的な規制と一緒くたにされて、時間外労働で働いた時間に正確に比例して、事細かに残業代を払わなければいけない、という事態になってしまうわけです。世間的には残業代を払わなくてもいいのではないかと思われるような人々に対しても、法律上きちんと払わなければならないし、それを払わないとサービス残業でけしからんといって訴えるということになってしまう。現行法の問題点は、実はそこのところにあるのではないか。
 
これを人事管理の面から見ますと、日本のような職能資格制度が一般的な社会では、企業の中で管理監督者としての機能を果たしているかどうかということと、職能資格の上でどれくらいの位取りにいるかということとは必ずしも対応していません。賃金水準というのは職能資格上の地位に対応していますので、同じような賃金水準の者の間であっても、機能的に管理監督者であるかないかによって、残業代を払うべきか、払わなくてもいいかが変わってきてしまう。
 
これは、実は昔からある問題で、それがゆえに例えば(機能的には管理監督者ではないけれども処遇が同程度だからそれと同様に取り扱うという)スタッフ管理職などという変な存在もあったわけです。その後90年代以降、管理職よりももっと下のレベルの人々にまで成果主義賃金制度というのが普及してきました。働いた時間ではなく、出した成果でもって賃金を決めようという考え方です。これに対して人事管理上望ましいか望ましくないかという議論はありますが、いずれにしても法律上は、法定労働時間内である限り、どんな賃金制度も許されます。どういう仕事に対してどういう払い方をするかという点については、日本は基本的に極めて自由です。賃金規制は、最低賃金をクリアして、公平性、平等の原則が守られれば、どんな仕事の仕方にどんな払い方をするかということについてはほとんど規制はありません。
 
ところが、法定労働時間を超えた瞬間に突如として事細かに1分刻みできちんと払わなければいけなくなります。所定内のところで相当高い給料をもらっている人であっても、管理監督者でない限り、時間外になったらそれに応じた高い残業代を払わなければいけない。
 
厳密に言うと、こういう事態をもたらしている規定は労働基準法施行規則第19条です。この規定によれば、時給であれ、日給であれ、週給であれ、月給であれ、その他であれ、つまり年俸制であれ、管理監督者でない限りは、一旦時間当たり賃金幾らに割り戻して、それに25%なり、あるいは月60時間を超えたら50%、休日は35%を割増しして払わなければいけない。これは、賃金規制の在り方としてここまでの規制をすることが妥当なのか。高い給料をもらっている人にそれだけの高い残業代を払わなければ正義に反するのかという問題意識で議論すべきだろうと思います。これを、ただ残業代ゼロがけしからんという形で潰してしまったところに問題がある。
 
ただ、きちんと認識しておいていただきたいのは、6~7年前にホワイトカラーエグゼンプションの議論をしたときに、厚労省の審議会で労働側は残業代ゼロだからけしからんという議論はしていません。そこで彼らが言っていたのは、これは過労死促進になるという議論です。(いかに空洞化しているとはいえ)物理的な労働時間規制をまったく外してしまおうという法案なのですから、その批判はそのとおりとしか言いようがない。
 
付け加えますと、私は企画業務型裁量労働制というものに対してもかなり疑問を持っています。そもそも専門業務型裁量労働制の場合は、確かにそういう研究開発などの専門業務というのは実際にあるんだと思いますが、企画業務などというものが現実に存在しているのか。日本の普通の総合職のサラリーマンの場合、企画係というポストについている人は企画ばかりやっていて、企画係でない人は企画は何もやっていないかというと、そんなばかなことは全くないはずです。したがって、企画業務という形で業務で切り取るということ自体、実はジョブ型でない社会を対象にした制度としてはかなりの程度ナンセンスだったのではないか。
 
実はみんなそれがわかっているからこそ、ホワイトカラーエグゼンプションのときには、例えば管理監督者の一歩手前の人々であるとか、あるいは年収幾らというような言い方をしていたのではないか。それは、実際に総合職のサラリーマンの場合、職能資格制度でそれに従って上がっていくということを念頭に置いて議論していたから、そして専ら残業代規制をどうするかということを念頭に置いていたからであって、その観点からすれば、そんなにおかしな議論はしていなかったのだと思います。
 
しかし、それをそもそも物理的な時間規制を適用除外する制度として議論したために、過労死促進法案というある意味で正しい批判を受けたのではないか。そしてそれをワーク・ライフ・バランスに役立つというような現実と遊離した議論で進めようとしたために、残業代ゼロだからけしからんという、きちんと議論すればそういう変な反論にはならないようなもので潰れるということになってしまったのではないか。
 
この問題の最大の皮肉は、審議会で労使の間で議論しているときには、物理的な労働時間の適用除外が過労死促進になるというまともな議論がされていたのに、その外に出たところで、マスコミや、とりわけ政界から、残業代ゼロであるがゆえにけしからんというゆがんだ形で批判をされて潰れてしまったために、本当はそれがこの制度を導入すべき最大の理由であるにもかかわらず、それが世間的には一番、口にできないタブーになってしまったということにあるのではないか。ここまでゆがんでしまった議論の筋をきちんと正していかないと、かつてのいびつな議論の延長線上でやっていくと、また同じような、一方からは過労死促進法案、こちらからは残業代ゼロ法案という批判の中で、また話がつぶれていくということになるのではないかと考えております。
 
後ろのほうに、参考として先ほど簡単に申し上げましたEUの労働時間規制はどんなものかということを条文を引きつつ、解説をしております。ここでは一々説明いたしませんが、最初に3つほど丸で書いてあるとおり、EUの労働時間指令というのは安全衛生規制であります。健康の確保のための規制であります。したがって、実労働時間規制であります。そして、それが故に賃金規制では全くない。これが、少なくともアメリカという例外はありますけれども、先進国の大部分を占めるEUの労働時間規制についてのスタンダードであるということを念頭に置いて考えていくべきではないかと思っております。
 
私からは、以上でございます。
 
 
質疑応答から:
 
〇大崎委員 ・・・・濱口先生に是非この機会にお伺いしたいのですが、一つはEUの仕組みが絶対的な労働時間の規制ということで、残業代とは関係ない。したがって、健康の確保というようなことが重要な目的になっているというのは非常になるほどと思ったのですが、それでちょっと実はお伺いしたいのは、この条文を拝見していますと、1日11時間の休息期間をとるべきというところについて、かなり広範な例外が規定はされているなと思いつつ、例えば変な話なんですけれども、輸送に従事する者はいいとして、では労働時間を列車に乗車して過ごす場合はどうなんでしょう。
 
例えば出張で海外に行く場合などというのは休息時間になるのか、ならないのかというのを実はちょっとお伺いしたいんです。
 
なぜそんな変なことをお伺いしたいかといいますと、先ほど来、水町先生からも鶴座長からも、なるべく柔軟な制度にする一方で適用除外対象者みたいになる人に対しては、今度は健康確保、あるいは休日や休息時間についての規制を入れるべきじゃないかというお話があったのですが、それは原則論としては非常にもっともだと思いつつ、そこのところの定義とか、実務的に何をそれとするのかということをきちんとしておかないと、逆に非常に融通の利かない制度になるんじゃないかという気がしておりまして、それであえてそういうことをお伺いしたいというのが一つです。
 
なぜそんなことを言うかというと、大体考えてみると飛行機に12時間も乗って海外に行って、それでがんがん仕事をして帰ってきてというふうなことを考えたときに、時差もありますし、それが休息時間だとなると何か現実離れしているような気がする一方で、それが休息でないとなると、今度は出張も頻繁には命令できなくなってしまうなということを思ったということです。
 
それから、もう一つはそれと似たような話なのでありますが、EUなどで言っている絶対的な上限規制なり労働時間規制の適用対象外の者なのでございますけれども、どういう人たちなのかというのを、特に日本との比較でお伺いできればと思う次第です。
 
〇鶴座長 ありがとうございました。では、よろしいですか。
 
〇濱口統括研究員 では、簡単ですので後のほうから。適用除外されている者は、英語ではディレクター、フランス語ではカードル、ドイツ語ではライテンデ・アンゲシュテルテと言っていますので、訳せば管理監督者ということになるんだろうと思います。
 
ただ、それぞれの国で慣行がありますし、かつ日本のほうがむしろ特殊だと思うのですが、要するに入ったばかりの下っ端から上のほうに至るまで連続的にずらっとつながっているという日本の感覚で考えないほうがいいのかもしれない。例えばカードルというのは、グランゼコールを卒業して初めからカードルとして入りますので、それがむしろ基本的なイメージなんだろうと思います。
 
基本的には労働者である限りは全部適用というふうにしておいて、管理監督者の他に宗教関係とか家族従事者といった全面適用除外はあるんですが、これは非常に例外なので、むしろ重要なのは前半で言われた適用除外です。資料の6ページのところにかなり広範な適用除外のリストがありますがこれには条件があって、その前の5ページの17条のところに、当該労働者に同等の代償休息期間が与えられるか、あるいはそれが不可能な例外的な場合には適当な保護が与えられることを条件として適用除外という形になっております。
 
ですから、実際に1日11時間必ず休ませろといっても、まさにいろいろな仕事のスタイルがあるので、そんなに厳格にはできない。ただ、それは前後にずれたり、あるいは場合によっては別の形ということはあり得るだろうけれども、少なくともこの11時間というのは睡眠時間プラスアルファということで出てきているものですので、それが大枠としては確保されるべしという考え方で、各国でもそれに応じた形でいろいろな制度ができているということだろうと思います。
 
〇大崎委員 ありがとうございました。
 
○大田議長代理 ・・・・それともう一点、その適用除外に関して濱口先生は真に自律的に働くものに厳格に限定されるべきと書いておられるんですけれども、これは今ある管理監督型とか専門業務型、企画業務型ということをどう変えるのかということと、それからホワイトカラーエグゼンプションは前回、本当に変な議論になっていったんですが、その経験を踏まえて、今度はどんな制度にすればいいかという点を教えてください。
 
○濱口統括研究員 話が若干、錯綜しているのですが、管理監督者を厳格に限定すべきというのは法の建前、つまり本当に物理的労働時間を1日8時間、週40時間に限定しているという前提に立って、それを超えるものが例外であるという前提に立てば、その例外を例外でなくすのは厳格に解釈するのは当たり前だという話です。
 
ただ、現実は三六協定によって実は管理監督者であろうがなかろうが青天井になってしまっているので、そこを守れば過労死しないかというとそうではないです。しかし、理屈から言って32条そのものを適用除外するんだと言えば、必ずそういう議論になるしかないという話です。
 
これはどちらかというと、労基法の第四章「労働時間」の章を丸ごと適用除外するんだという議論をする限り、鶴座長も水町委員もそういう形の議論になっているのですが、そういう形で議論する以上は、そういうそもそも論、法の構造からくるそういう批判を免れないであろうという話です。
 
逆に、それを免れるためには、これは37条だけの話なんだという話をするしかない。そうすると、残業代ゼロがけしからんというような、表層をあげつらうような批判をする人は必ず出てきますが、真っ当な議論としては、そういうやり方をするしかないということです。それが一つ目です。
 
2番目に、では具体的な時間規制としてはどうすべきかについては、私は二段階で考えております。一つは、安全衛生規制です。安全衛生規制というのは、本人が望んでもそれはいけないと規制するものです。安全衛生というのは本来そういうもので、本人がいいと言っても、ヘルメットをかぶらず、命綱をつけずに建設現場に行ってはいけないというのと同じで、本人がいいと言っても命の危険のあるような長時間労働をさせてはならない。
 
これをどの辺に線を引くかというのはヨーロッパとは少し違うところもあるかもしれませんが、それが必要なのは間違いない。
 
恐らく、今の日本でそれを議論するとすれば、労災保険や安全衛生法でいっている時間外労働月100時間、これはヨーロッパ人から見ると何だと思うかもしれませんが、そういうものが一つの基準になるかもしれません。
 
もう一つは、いわゆるワーク・ライフ・バランスという観点です。命という意味ではなく、生活という意味でのワーク・ライフ・バランスです。かつての規制改革会議の議論とは全く逆であって、ワーク・ライフ・バランスを確保するためには、物理的な時間の上限をきちんと規制すべきであると思っています。
 
とりわけ、多くの女性たちがなぜいわゆる正社員にならずにパートタイムにとどまるかというと、実はパートタイムではなくてフルタイムでもいいのです。しかし、正社員になるとフルタイムではとどまらずにオーバータイムになってしまう。オーバータイムができないようなやつは正社員じゃないということで、まさに時間無限定になってしまう。
 
ここで必要なのは時間限定正社員なんですね。オーバータイムのないフルタイムというものが確立することが、生活という意味でのワーク・ライフ・バランスに役立つ。これはもちろん、俺はワーク・ライフ・バランスなんて要らないからもっと働きたいという人がいてもいいので、本人の選択ということになります。ではその基準はどの辺がいいのかというと、EU指令でいう個別オプトアウトが週48時間のところにありますので、そのくらいではないか。ワーク・ライフ・バランスよりも仕事のほうがいいという人はそれを超えて働くことになりますが、それでも当然健康の上限はあります。仕事よりもワーク・ライフ・バランスという人は、原則残業はない、あるいは週48時間の範囲内ということになる。そういう二本立てで考えていくのが、一番現実的ではないかと思っております。
 
こういう風に考えてくると、以前お話ししたジョブ型正社員の時間限定、時間無限定という議論とも話がつながってくると思います。
 
○佐々木座長代理 ・・・・
 
○鶴座長 濱口先生、特にコメントはございますか。
 
○濱口統括研究員 前半部分もアカデミックな労働法の先生である水町先生のほうが多分ふさわしいのではないかと思うのですが、あえて言うと日本でもヨーロッパでも裁判所の判決で労働時間の定義というのは大体決まっております。
 
基本的には使用者の指揮命令下にある。それで、作業しているかどうかにかかわらず、いわば待機していつでもスタンバイできるような状態にあれば、それは労働時間だとなっています。ですから、例えばマンションの管理人だとか、病院の夜間救急病院で待っているとか、これはちょっと後ろのほうにつけておりますが、結構ヨーロッパでも大きな問題になっております。
 
こういった、いわば個々の事例でいろいろな問題というのはどんな国でもいろいろな形で発生し得ますし、個々の事例に対してどういうふうに対応するのが一番いいか。病院の場合だと、ヨーロッパの裁判所が待っている時間も全部労働時間といったために大変な騒ぎになってしまったというようなこともあるので、それはもう少し現実に即した解決をしていく必要があるのかなという気はしておりますが、ただ、一般的にはそれはどこでも当然いろいろな事案があって、それに応じてほぼ共通の労働時間の定義がされているといっていいのではないかと思います。
 
何かつけ加えることがあればお願いします。
 
○佐久間委員 ・・・・
 
○鶴座長 特にありますか。
 
○濱口統括研究員 私は工場を前提に作られたという言い方は若干ミスリーディングじゃないかと思うのは、世界中どこでも大体どこで線を引くかというと、ホワイトカラーの中でもいわゆる上のほうのカードルとかエグゼンプトとかと言われるような人たちと、数的にはそれよりも多い、いわゆるクラーク的な仕事をしている人たちとの間であって、そのクラーク的な仕事をしている人たちは、オフィスであっても仕事の仕方は工場で働くのと余り変わらないだろうと思っております。
 
しかし最大の問題は、日本ではクラークとその上のエグゼンプト的なものが連続的にくっついているということです。一人の職業人生の中で、初めに入ったときは本当に下働きで100%クラーク的なコピー取りだの、そんなことばかりやっているのが、だんだんエグゼンプト的な仕事の分量がふえていく。それゆえに、なかなか線が引けないということなんだろうと思います。
 
そういうことを考えると、法律上、建前上は管理監督者という非常に厳格なところだけ適用除外にして、しかし、そうでなくても三六協定で実は世界的に極めてゆるゆるの形にしておくというのは、現実に対応できるように無意識的にやってきた一つのやり方なのかもしれない。ただ、健康の確保のところを除けばですね。
 
ただ、それが矛盾をはらんでいるのはむしろ残業代のところで、そこで実態として矛盾が起こっていく。
 
そう考えれば、そこをもう少しきちんと調整するような仕組みを考えたほうがいいだろう。そういう意味からいうと、水町先生の適用除外論が37条だけの適用除外であるというならば、それは私とほぼ同じような考え方になるのかなという感じがいたします。
 
○大崎委員 ちょっと違うところについてお伺いしたいんですけれども、私はこのワーク・ライフ・バランス実現のための時間規制改革というのは非常に重要だと思うのですが、そこでなるほどなと思ったのは、濱口先生の御発表の中で、むしろ就業規則の必要的記載事項に始業・終業時刻が入っていることが実は障害になっているんじゃないかというのは全く賛成で、私がよく知っている職場の身近な例でも、これがあるがために例えば保育園に子供を送っていって、それがちょっともたついたがために遅刻になって減給になってしまってすごく不愉快だとか、そういうような話があったり、あるいは先ほど佐々木委員からお話があった、夜10時になってからうちでちょっと仕事をするかというようなことも、これがある以上なかなか現実的に難しい問題になるわけですね。
 
それは非常に大事な指摘だと思ったということが一つと、もう一つはワーク・ライフ・バランスとの関係で、これは鶴先生と水町先生と共通したことをおっしゃっていたように聞いたんですが、年休の時季指定権が労働者にあることがむしろ障害になっているんじゃないかというような御発言のように聞こえたんですけれども、私個人は実は一労働者として年休の時季指定権をフルに享受しているもので、使用者にそれが与えられるとちょっと困るなと思ったのですが、その辺はどういう御理解でこういうことをおっしゃっているのか、教えていただければと思います。
 
○濱口統括研究員 1点、若干トリビアなんですが、実は日本も1955年までは本人任せではなくて使用者側が本人に、労働者に、いつ年休を取りたいですかと聞かなければいけないという規定があったんですが、それが削除されてしまった。
 
一見いいように見えるんですが、心の強い人はいいんですが、言い出せない心の弱い人は取れない。したがって、その消化率が半分を下回るというような状態になったと言われております。
 
○稲田大臣 この労働時間の議論を今日私は初めて聞いてすごく興味深かったんですけれども、ちょっと前の議題に戻って恐縮なんですが、先ほどの3人の先生方ともやはり健康管理という観点から上限なのか、休息を取るのかは別として、例えば上限を設けるべきだという考え方だというふうに理解をしました。
 
そして、32条の時間規制の問題と、あとは37条の残業代規制の問題がごっちゃになっているという議論なんですけれども、今、聞いた私の理解で32条の時間規制のかからない、例えば管理監督者的な人たちというのは、たとえ制限、上限を設けてもそれは適用の範囲外になる。そして、32条の時間規制がかかる人でも37条の残業代規制がかからない場合もあるんじゃないか。
 
例えば、収入がすごく高い人である場合にはそういうものを外してもいいんじゃないか。でも、そういう場合には上限を設けたとき、その上限の適用はあるという整理になるということでいいのかどうか、ちょっとわからなかったことと、あとは32条の時間規制の問題と残業代規制の問題とを分ける意義というか、分けることによってどういう整理ができるのか、もう一回整理して教えていただきたいと思います。
 
○鶴座長 これは、濱口さんお願いします。
 
○濱口統括研究員 要はその2つ、つまり物理的な時間規制の問題と残業代規制の問題がごっちゃに議論されるために、ややもするととりわけマスコミとか政治といったような土俵の上では食い違っているスローガンがぶつかってしまう。つまり、こんな人に残業代をそこまで払う必要があるのかという話をしているはずなのに、それに対して、いや過労死を促進するからけしからんという話になる。あるいは、物理的な時間の話をしているはずなのに残業代を払わないのはけしからん。つまり、本来、分けて話せばそれなりにきちんと筋の通った話になり得るはずのものが、いわばスローガン同士をぶつけ合うことによって非常に不毛な議論になってしまうのではないかということです。
 
これは、まさに6~7年前にホワイトカラーエグゼンプションをめぐって起こったことではないか。残業代という問題についていうならば、私は労使の間で話し合えば一定の解決というのはあり得る話だろうと思っています。なぜならば、本来賃金をどうするかというのは労使で決める話なのですから。しかし、それは過労死促進だという話になってしまったらこぶしは下ろせないだろう。
 
それで、逆に残業代ゼロがけしからんという話になってしまって、それが世の中の通説になってしまうと、そもそもその賃金の払い方というのは、所定内であれば、時間ではなく成果に応じて払うことも自由なのに、法定労働時間を超えたとたんに賃金は時間比例でなければならないということなってしまう。それがいいのかどうかという本来労使間でまっとうな話ができるはずなのにできなくなってしまう。きちんと分けて話せば深まる話が深まらないまま、単にお互いに悪口を投げ合うような形になってしまう。
 
6~7年前がまさにそうであったので、そうならないためにはどうしたらいいのかということで、できるだけそこを分けて議論したほうがいいのではないかということです。

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コメント

>例えばカードルというのは、グランゼコールを卒業して初めからカードルとして入りますので・・<

ヨーロッパの複線型の教育=労働者の区分の存在というのを、小生あらためて再認識しました。言い方がいいかどうかは判りませんが、あちらの場合は止むに止まれぬ階級社会でしょうか。

一方、我が国の典型は、全部ではないにせよ>・・・一人の職業人生の中で、初めに入ったときは本当に下働きで100%クラーク的なコピー取りだの、そんなことばかりやっているのが、だんだんエグゼンプト的な仕事の分量がふえていく。それゆえに、なかなか線が引けない・・・<というわけですね(少なくともそういうのが標準だと認識されている)。
で、なお且つ制度改革についての議論も、物理的な時間規制の問題と残業代規制の問題がごっちゃになっている。ここの整理は大事だと思いました。

要するに、『「健康とか人間としての文化的な最低限度生活の問題(セーフティーの問題)」と別に、「仕事量に応じた利益の獲得の問題(ある意味ハイソな部分)」がいっしょくたになっている』問題がある、と。

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