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« 『若者と労働』への声 | トップページ | 主務大臣に求める「新たな規制の特例措置」ってのを見せてくれないかな »

2013年10月16日 (水)

物理的労働時間規制を強力に進めよ!@『情報労連REPORT』10月号

2013_10_2情報労連の機関誌『情報労連REPORT』の2013年10月号は「働く人を守る日本に!」という特集で、その中にわたくしも登場しています。これは電子ブックですが、

http://www.joho.or.jp/up_report/2013/10/_SWF_Window.html

わたくしの文章はこちらにもアップしてあります。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/johororen1310.html

6年前と同じ問題意識
 
 今年6月に閣議決定された「日本再興戦略」では、労働時間法制については「ワーク・ライフ・バランスや労働生産性向上の観点から、総合的に議論し、1年を目途に結論を得る」とのみ書かれ、具体的な方向性は示されていない。しかしながら、規制改革会議で示された検討課題としては、「企画業務型裁量労働制にかかる対象業務・対象労働者の拡大」「企画業務型裁量労働制にかかる手続の簡素化」「事務系や研究開発系等の労働者の働き方に適した労働時間制度の創設」といった項目が並んでおり、6年前にホワイトカラーエグゼンプションが話題になったときと似たような問題意識が感じられる。
 
「プロフェッショナル労働制」?
 
 一方、「日本再興戦略」では、「大胆な規制改革等を実行するための突破口として」「国家戦略特区」を創設することが謳われており、その検討を行う国家戦略特区ワーキンググループでは、有識者からのヒアリングとして、「労働時間規制の適用除外」や「労働時間規制の見直し」が提示されている。公式のものではないが、一部新聞では秋の臨時国会に提出予定の産業競争力強化法案にプロフェッショナル労働制(仮称)を可能にする仕組みを盛り込むと報じられた(日経8月14日)。厚生労働省が反発する記事が続いたので、経済産業省の勇み足リークと思われるが、政府の一部がどういう考え方をしているかが窺える。
 こうした動きに対して、筆者は6年前のホワイトカラーエグゼンプション騒動のデジャビュを感じつつ、その間に何の進歩も見られないことに嘆息を漏らさざるを得ない。筆者は当時いくつかの雑誌で、マスコミや一部政治家が問題視した「残業代ゼロ法案」という点こそがこの制度の本来の趣旨であり、それは労働時間と賃金のリンクを外して成果に見合った報酬を払うという観点からは正当性があるのであって、むしろ問題は労働時間が無制限に長くなって労働者の健康に悪影響を与えないようにするための歯止めとして実労働時間規制を確立することにこそある、と主張した。
 
異常に緩い労働時間規制
 
 そもそも、規制緩和派の認識は根本からずれている。彼らは日本の労働時間規制が極めて厳しいと認識しているが故に、それを大幅に緩和するべきだと信じているようである。しかし、こと物理的労働時間規制に関する限り、それはまったく間違っている。日本の労働時間規制は世界的に異常なまでに緩いのである。周知の通り、過半数組合または過半数代表者との労使協定さえあれば、事実上無制限の時間外休日労働が許されるのであり、(かつての女子と)年少者を除けば、法律上の労働時間の上限は存在しない。それゆえに、日本はいまだにILOの労働時間関係条約をただの一つも批准できないままなのである。世界一緩い労働時間規制をどうやってさらに緩和しようというのだろうか。
 ところが、労働基準法第4章に含まれるある規定は、確かに世界的に見てかなり厳格である。それは時間外・休日労働や深夜労働の割増賃金規制であって、物理的労働時間規制とは関係がないが、管理監督者でない限り法定労働時間を超えたら割増賃金を時間比例で払えと義務づけている。どんなに高給の労働者であっても、それに応じた高い割増を払わなければならないというのは、何が何でも守らなければならない正義とまで言えるかどうかは疑問であろう。
 
忘れられた過労死予防
 
 ところが、6年前のホワイトカラーエグゼンプションは、「自律的な働き方」とか「自由度の高い働き方」といった虚構の議論で押し通そうとして失敗した。労働側は審議会で、過労死の懸念を繰り返し強調した。時間外手当は適用除外することはできても、過労死した労働者に対する労災補償は適用除外できないのである。
 このことは実は経営側もわかっていた。このとき経団連は「労働時間の概念を、賃金計算の基礎となる時間と健康確保のための在社時間や拘束時間とで分けて考えることが第一歩」だと述べていたのだ。
 ところが、マスコミや政治家はこの問題に対し、過労死防止という観点を忘れ去ったまま、もっぱら残業代ゼロ法案けしからんという批判しかしなかった。結果的に、本来の趣旨であったはずの労働時間と賃金の過度に厳格なリンケージの緩和という問題意識が残業代ゼロという悪事と見なされ、それを再度登場させるために再びワークライフバランスなどという偽善の言葉をまとわせることになってしまったように見える。
 従って、この問題を正しく処理していくために何より必要なのは、「残業代ゼロだからけしからん」という素人受けする議論に安易に乗らず、きちんと労働時間規制と賃金規制の本質に沿った議論を進めていくことである。
 
「働く人の健康」が規制の本質
 
 労働時間規制の本質とは何か?日本の労働法の原点である工場法は、女工哀史と呼ばれる悲惨な労働実態を少しでも改善するために制定されたものである。彼女たちは不衛生な職場で長時間・深夜労働を強いられ、多くが結核にかかって死んでいった。それをせめて1日12時間に制限するところから労働時間規制は始まったのである。戦後労基法の1日8時間1週48時間もその延長線上にあるはずなのだが、健康確保ではなく余暇の確保のためのものとされ、それゆえ36協定で無制限に労働時間を延長できることになってしまった。労働側が余暇よりも割賃による収入を選好するのであれば、それをとどめる仕組みはない。
 この(かつては男性のみに適用された)労働時間規制の歪みが男女均等法制とともに女性にまで拡大され、無制限の長時間労働の可能性にさらされることになった。健康のための労働時間規制という発想は日本の法制からほとんど失われてしまったのである。
 
勤務間インターバルの導入を
 
 現在、労働の現場ではますます長時間労働が蔓延し、過労死や過労自殺はいっこうに収まる気配が見られない。今年6月に公表された昨年度の脳・心臓疾患と精神障害の労災補償状況でも、脳・心臓疾患は338件(前年度比28件の増)、精神障害は475件(前年度比150件の増)と、増加の一途をたどっている。
 労働時間規制の本質に立ち返るならば、まず何よりもこの趨勢を逆転させるために、物理的労働時間規制を強力に進めることが必要である。その際、これまでの労働時間規制の流れとは一旦切り離して、健康確保のための規制として、毎日の休息時間(勤務間インターバル)規制を法制上の制度として打ち出していくことも重要な課題であると思われる。
 一方、賃金規制の本質とは、過度な低賃金の廃絶とともに、労働者間の賃金の公正さを確保することにある。額面の賃金額を無意味化するようなサービス残業の横行は断固としてなくしていかなければならないが、所定時間内の賃金額に大きな格差があることを前提とすると、管理監督者ではないがそれに近い高給を得ている労働者について時間外手当の割増率をどの程度まで守らせるべき正義と考えるかは、少なくとも立法論としては結論ありきではなく率直に議論することができるテーマではなかろうか。

ちなみに、わたくしの連載「hamachanの労働ニュースここがツボ!」は前号で終わり、今月号からは常見陽平さんの「愛と怒りのはたらく道」という連載が始まっています。

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コメント

労働時間短縮が要求される理由

規制緩和の名のもとに、柔軟な働き方(長時間&サービス残業)の自由化を認めさせようという、ホワイトカラーエグゼンプションの時と同じ議論の繰り返しである。労働時間の短縮を指向する労働改革でなければならない。

1. 企画業務型裁量労働制の実態は?

企画業務型裁量労働制の実態はどのようなものかを精査する必要がある。裁量労働制を採用した結果、“長時間&サービス残業”に繋がっていないのか? IT従事者を一括りに裁量労働として扱ってよいのか? マックやユニクロの店長は裁量労働に相当するのか? みなし労働が、“長時間&サービス残業”に繋がっていないのか? 経団連は、裁量労働制をだれに適用するか、どんな仕事を対象にするかなど、企業の労使の協議にまかせろと要求する。日本では、国際比較からも週55時間以上労働する労働者の比率が圧倒的に多く、さらに(統計的な数字に表れない)サービス労働時間が加算される。残業時間に対する報酬は労使の協議にまかせるとしても、労働時間の(店長や管理職を含めて)把握を強化し、規制すべきである。裁量労働制が長時間労働を助長するとしたら、物理的な労働時間規制を強化すべきである。

2.企画業務型裁量労働制の目的は?

そもそも、何を目的としているのか? 効率的な働き方をして一人あたりの生産量を上げようとしているのではないのか?日本では労働生産性を一人あたりの生産量で定義するのが通例である。しかし、世界的な標準では、労働生産性を単位労働時間あたりの生産量で定義する。日本の定義によると、一人あたりの労働時間を増やせば一人あたりの生産量は増え、労働生産性は上がることになる。このような意味で労働生産性を上げようとするなら、単位労働コストは下がる。

実際、日本の単位労働コストは下がりつづけ、デフレに繋がっている。単位労働コストは消費者物価指数あるいはGDPデフレータとともに物価指標の一つである。世界標準の労働生産性および単位労働コストの定義式は次式で与えられる。

労働生産性=単位労働時間あたりの実質生産
単位労働コスト=単位労働時間あたりの賃金÷労働生産性

上記の式より、単位労働コストを上げるためには、単位時間あたりの賃金を上げるか、労働生産性を落とすかである。労働生産性を落とすという選択がないならば、賃金を上げるか労働時間を短くしなければならない。労働時間を長く(それ以上に賃金を上げることなく)して生産量を増やそうとするなら、単位労働コストは下がるばかりである。これでは、デフレを助長する。現在、安倍首相が音頭をとって、賃金を増やすという方向で協議している。デフレから脱却して単位労働コストを上げるためには、労働時間を短くするという議論も必要である。もっとも、裁量労働制の適用が広がり、実態としての労働時間が長く、統計上の労働時間が減る(サービス残業が増える)ならば、単位労働コストは上がるのかもしれない。しかし、これでは今まで来た道の繰り返しである。

3.裁量労働制で自己実現のチャンスは広がる?

企画職や研究職に携わる労働者は、裁量労働制で自由な働き方ができるようになり、創造性が広がり、自己実現のチャンスが広がるという。多くの場合、労働者が数十倍の報酬を得る経営者と同じように働き、実績を上げろという意味合いで使われているのではないか?労働時間の上限を決め、その範囲内で柔軟な働き方を認めることには賛成である。ただし、労働時間の把握をして、相応の賃金を支払うべきである。それで、労働者の創造性が損なわれるとは思わない。

4.長時間労働で健康を害する?

長時間労働で自殺に至る事例、あるいは鬱病になる事例、過労死に至る事例が報告されている。このような事例を防ぐためにも、長時間労働の上限を規制すべきである。健康のために労働時間を規制することは最低限の要求である。

5.長時間労働の弊害は?

日本人男性が家事に割く時間は、OECD諸国の中でも最短である。長時間労働および長時間通勤で疲れ果てて帰宅する男性に、家事に割く時間、子供と遊ぶ時間、家族と夕飯を囲む時間、妻と過ごす時間はない。

女性も男性と同じように働くことが要求されるならば、家庭の崩壊である。事実、結婚をして子供を持つ女性は、職場を離れるか、低賃金のアルバイトに従事することを余儀なくされる。あるいは、家庭を持つことに意義を見出すことができず、離婚や非婚が増える。

6.労働時間の短縮で日本経済は成長しない?

フランスを含めヨーロッパ諸国の労働時間は短い。週35時間労働、5週間の長期休暇、祝祭日は町中の店が閉まる・・・。このような働き方でも、経済パフォーマンスは、日本より良い。彼らは、生活を豊かにするために仕事をする。従って、生活を犠牲にしてまで仕事をしようとはしない。

東大の吉川教授は需要の飽和が経済成長を抑制し、デフレの一因になっていると述べ、さらなる経済成長を成すためには、イノベーションが必要であると論じている。確かに高度成長時代のテレビや洗濯機、冷蔵庫などの新製品に対する需要が、日本経済躍進の原動力になった。日本は豊かになり、これら生活必需品の需要は満たされ、経済が右肩上がりで成長する時代は終わったという議論もある。

フランスにおける、衣食住にかかわる生活用品の多様さには驚くばかりである。蜂蜜屋、ジャムの専門店、ボタンだけを売っている店、衣類を縫製する店、テーブルクロスの店、カーテンの店、ドアのノブだけを売っている店・・・これらのマニアックな商店が軒を連ねている。フランス人の生活に対するこだわりが、これらの商売を成立させているのだろう。

労働時間の短縮が、生活を楽しむ時間的な余裕を与え、生活の質へのこだわりに繋がるのだろう。生活の質に対するこだわりに需要の飽和はなく、マニアックな嗜好品、贅沢品、さらに芸術の領域へと人々の要求は広がっていく。豊かさの追求は新たな需要を創出し、経済の多様性を育み、経済成長を支えるとともに、生活文化の成熟に繋がっていく。

経済官僚あるいは経団連のトップが考える豊かさと、生活者にとっての豊かさは必ずしも一致しない。

前回コメントの補足

1. 付加価値生産性

前回のコメントで労働生産性を、単位労働時間あたりの実質生産量で定義した。これを付加価値生産性で定義する。ここで、実質生産量は実質GDPに対応し、付加価値生産額は名目GDPに対応する。

実質GDP=名目GDP÷GDPデフレータ

であるから、労働生産性は、実質生産量あるいは付加価値生産の式として次のように表される。

労働生産性=単位時間あたりの実質生産量・・・(1)式
=単位時間あたりの付加価値生産額÷GDPデフレータ・・・(2)式

(1)式は生産量で定義されているのに対して、(2)式は生産額で定義される。日本では、実質生産量が増えたとしても、デフレ(GDPデフレータが1より小さい)のため、付加価値生産額はむしろ減少する。

付加価値生産額で評価した労働生産性は、各国通貨の購買力平価で換算することにより、国際比較できる。購買力平価で換算した日本の労働生産性は、米国やフランスの7割程度にとどまる。日本の労働生産性が低いといわれる所以である。だから労働生産性をあげろという議論になる。日本では、労働生産性は一人あたりの実質生産量と定義されるから、労働時間を長くして実質生産量を上げろという議論になる。

単位労働コストを、実質生産量あるいは付加価値生産額で表すと次のようになる。

単位労働コスト=雇用者報酬÷実質GDP
=(雇用者報酬÷名目GDP)xGDPデフレータ
=労働分配率xGDPデフレータ

ここで、労働分配率は雇用者報酬の名目GDP比である。日本では、労働分配率を(純)国民所得に対する比率で表す。このため、日本で公表される労働分配率は他国より高めに評価される。なぜなら、(純)国民所得は、固定資本減耗を差し引いた値であり、日本の固定資本減耗はGDP比で多国の2倍近くあるからだ。マクロ指標としての労働分配率の日本の定義が国際標準とは違っているため、高く評価されるようになっている。要するに、分母を小さくして分子の雇用者報酬を評価するから、労働分配率は高く評価される。労働分配率を高く評価して国民に発表するのは、大本営の発表である。

2. 何故、日本の労働生産性は低いままなのか?

日本人の働き方からすると、フランス人はなまけものである。それなのに、日本人の労働生産性が劣るというのは、日本人の働き方が非効率的だというのか。フランス人やイタリア人の働き方を見ていると、彼らの働き方が効率であるとは到底思えない。なまけもののフランス人の方が、労働生産性が高いのだから、釈然としない。

その理由は、デフレにある。名目GDPはマイナス成長が続いているが、実質GDPの成長はプラスである。実質生産量を増やしながらも、デフレで単価が下がるのだから、付加価値生産額は増えない。生産量を増やしても、売上が増えないのだから、給料が上がるはずもない。要するに、長時間働いて生産量を増やしても、単価が下がるから、単位労働コストは下がるのである。

3.何故、日本だけがデフレなのか?

これだけ長期間にわたってデフレを続けてきた第一義的な理由は、日銀のデフレターゲット的な金融政策にあったといってもよい。しかし、金融政策だけがデフレの原因だったかと問われると、構造的な要因もあるのではないかと考える。

反リフレ派といわれる人達は、デフレは日本経済の構造的な要因によるもので、アジア諸国の台頭により日本の国際競争力が失われている、非効率的な産業が温存されている、雇用の流動性がない、サービス産業の労働生産性が低い、規制で産業構造の転換ができない等を、構造的な要因として上げている。

しかし、欧米との比較で日本だけがアジア諸国の台頭に脅かされているわけではないし、日本の雇用流動性が特に悪いわけでもない。雇用規制を緩和したからといって、どんな産業が雇用を吸収するのか?介護や小売りなどのサービス産業の賃金(付加価値労働生産性)は低く、たとえサービス産業が雇用を吸収したとしても日本全体の付加価値労働生産性は低くなる。サービス産業の労働生産性を上げる手立てはあるのだろうか?

政府は成長戦略として、インフラ事業、環境、健康、文化産業、アジア内需の取り込み、外国企業の呼び込み、等々、を上げている。メニューは変わっているもののこれまでの成長戦略と取り分け違うようには思えない。

反リフレ派といわれる構造改革を唱える人達は、サプライサイド経済学の原理主義者が多い。政府の成長戦略もサプライサイドの方を向いて立てられているように思える。前回コメントしたように、経済官僚、経団連のトップあるいは連合のトップが考える豊かさと、生活者にとっての豊かさは必ずしも一致しない。

彼らが、生活者の需要はどこそこにあるといって、成長戦略をたてたとしても、その分野で需要が育つとは限らない。むしろ、多くの供給者が同じ市場に参入し、似たような商品を供給して価格競争になる恐れがある。

フランスのマーケットでは、生活用品の多様性は驚くほどある。住宅関連商品を一例として考えてみる。日本では、大手ハウスメーカーが住宅を建設することが多い。施主はハウスメーカーの勧めに従ってキッチンシステム、ユニットバス、建具、フローリング、等々を選ぶ。一方、フランスでは、施主はこれら部材の一つ一つを自分で選び、職人に据え付けをたのむ、あるいは自分で据え付ける。

フランスの場合の方が、それぞれの部材に多様性がでてくるのは当然である。なぜなら、日本の場合、大手ハウスメーカーのカタログに載った部材しか選択肢がないからである。商品の種類が少なく、少数の供給者が同じような商品を多量に生産する場合、商品がゆきわたると需要はなくなる。フランスの事例では、浴室のドア、タイル、洗面台、ドアノブ、浴槽、等々を消費者が選んで組み合わせて浴室を作る。それぞれの部材ごとに、様々な供給者が趣向をこらして独創性のある商品をマーケットに供給する。消費者は自分の好みで、これらの部材を選び、好みに応じて取り替える。

フランスの生活者は、個人で使う多くの時間を持っている。部材を一つ一つ選んで浴室を作ることなど、日本の忙しいお父さんにはできないのだ。

日本では、供給者は消費者の意向を汲んで商品を供給するというが、供給者がマーケットを作る。一方、フランスでは消費者がマーケットを作る。少数の供給者がマーケットを作るより、多数の消費者がマーケットを作る方が独創性のある多様な商品が店先に並ぶことになる。日本では、供給者のイノベーションが新たなマーケットを作るというが、フランスでは、多数の消費者が供給者の独創性を育て、マーケットの多様性を作る。

政府あるいは供給者が、創造性を働かせてマーケットを作ることが必要な場合もあるが、日本で構造改革が必要であるとするなら、消費者主導のマーケットを作ることにある。消費者主導のマーケットは、自律的に成長する。

前回コメントの補足(2)

前回のコメントで、日本がデフレから脱却するための構造改革として、消費者主導のマーケットを作る必要があると述べた。

もともとは物理的労働時間規制に関するスレッドでありながら、労働時間規制とデフレからの脱却とどんな関係があるのかと問われるであろう。労働時間を短縮すれば、労働生産性が落ちこみデフレからの脱却どころか、成長戦略の足を引っ張るのではないか、日本の国際競争力が損なわれるのではないか、と思われるだろう。今回のコメントでそのあたりを補足する。

昨年6月、産業構造審議会新産業構造部会は “「成熟」と「多様性」を力に~価格競争から価値創造経済へ~”という報告書をとりまとめた。この報告書の中から、筆者の目に留まったキーフレーズを上げる。

 「成熟」と「多様性」を力に
 デフレの継続→期待成長率の低下
 大量生産・価格競争の成長モデルの限界
 日本の産業は付加価値創出力が低い
 就業構造の行き詰まり
 一人あたり国民所得を維持・拡大
 企業戦略の転換(価格競争から価値創造競争へ)
 新産業の創出と産業構造の転換
 一人一人が価値創造に参画
 円滑な労働移動

どのキーフレーズも、その通りである。デフレからの脱却を図るためには、価格競争から価値創造経済へ転換しなければならない。社会(あるいは経済)の「成熟」と「多様性」を醸成していく必要がある。

ただし、この報告書で一貫しているのは、企業が主役である。企業が主役で、このような変革を目指そうという提言である。変革の方向性には賛成するが、「企業が主役」というアプローチの仕方には納得しかねる。

「企業が主役」から「生活者が主役」に転換していかなければならない。戦後の日本社会の特徴を上げるなら「企業中心社会」である。「企業中心社会」からの脱皮がなくして、このような変革を成し遂げることはできないだろう。

前回のコメントで、住宅関連商品を事例として日本とフランスにおける商品の多様性および供給者の多様性について比較した。日本では大手ハウスメーカーの勧めに従ってキッチンシステムやユニットバスを選ぶのだ。日本の場合、大手ハウスメーカーのカタログに載った部材しか選択肢がない。一方、フランスではキッチンシステムを構成する一つ一つの部材を消費者が選択し、これらを組み合わせて自分で構成するのだ。消費者は様々な供給者が提供する、一つ一つの部材を直接マーケットで購入する。フランスの事例では、大手ハウスメーカーの仲介はない。

日本ではコンビ二文化が蔓延している。コンビニは、24時間営業で何でも揃っているので便利である。地方でも、ガソリンスタンドが閉鎖されると、そこに新たなコンビニが出現する。コンビニの出現に伴って、昔からの小さな商店が消えてゆく。郊外のショッピングセンターが消費者を引き寄せ、駅前の商店街をシャッター街と化す。フランスにはコンビニがない。フランスの消費者は、昔からの小さな商店で、あるいは街の広場にテントで店を開くマルシェで買い物をする。

日本の消費者は、大手のスーパーやコンビニチェーンが販売する商品を買う。日本の消費者にとっての選択は、大手のスーパーが揃える商品に限定されるのだ。大手のスーパーに選ばれた供給者だけが厳選される。そこに、「成熟」と「多様性」があるのだろうか?あるいは、そこに付加価値の創造性があるのだろうか?そこには、大量生産と価格競争の成長モデルが生き続ける。コンビニで繰り広げられる、コンビニ弁当の価格競争に付加価値の創造性があるとは思えない。

付加価値の創造性の源泉はどこにあるのか?少数の大手サプライヤーに創造性の源泉があるとでもいうのか?創造性の源泉は、多数の生活者にある。フランスの消費者は、浴室の壁を自分で選んだタイルで内装し、床を自分で選んだ素材(大理石、タイル、あるいはテラコッタ)で内装する。彼らは、街のマルシェで何百種類もあるチーズの中から自分の好みの食材を購入する。創造性の源泉は、生活者の選択にある。生活者の感性が供給者の創造性を育む。供給者が絞られ、商品の選択肢が少なくなるとき、創造性は失われる。

フランスの高級ブランドあるいは高級食材は、消費者の生活に対するこだわりから生まれる。日本のように、大手企業が主役で、そこで働く従業員に対して価値創造に参画しろといっても限界がある。生活者が主役で、生活者がマーケットで自分の好みで商品を選択し購入することで価値創造に参画するのだ。そこに付加価値創出力を高める余地がある。

大手が牛耳る産業界では、効率の重視、量産による価格競争、供給者(下請け)の絞り込みが進み、付加価値生産性が低下する。雇用の規制緩和が叫ばれているが、付加価値生産性の低下が著しいサービス産業が雇用の受け皿になるのだろうか?ますますの賃金の低下が危惧される。

商品の多様性あるいは供給者の多様性は、多くの商品あるいは多くの供給者がマーケットで取引されるということを意味する。マーケットで多種多様な商品の取引が行なわれ、十分な貨幣の流通が市場にあれば、需要と供給がバランスし、経済は成長する。そこに、労働市場の拡大もある。

生活の質に対する、生活者のこだわりには限界がない。生活の質に対する要求は、質の高い商品やサービスの供給を促し、質の高い商品やサービスの供給はさらなる質の向上を促す。労働時間の短縮は、必ずしも経済成長の妨げにはならない。むしろ、需要と供給がバランスするような生活の質の追求が求められる。

生活の質を向上するサイクルに入るためには、労働時間の短縮が必要である。長時間労働の中で、生活を楽しむ時間的な余裕はない。長時間労働をしている労働者にとって、24時間営業のコンビニは便利なお店かもしれない。しかし、このような生活スタイルが「成熟」した経済の在り様だとは思えない。

追記:
筆者の主張の輪郭を明らかにするため、デフォルメして書いている部分はある。日本の製造業は創造性を働かせて世界でナンバーワンの地位を確立した。これからも、さらに進化させる必要がある。また、経済の成長を支える政府の役割も大きい。ノーベル賞を受賞した山中教授の研究成果を活かすためにも政府の後押しは必要である。ただし、価格競争から価値創造経済へと転換し、「成熟」と「多様性」を力とするには、生活者主導の経済へと転換する必要がある。

前回コメントの補足(3)

労働時間の短縮は、健康面からはもちろん、ワークライフバランスの改善、デフレからの脱却という点からも必要だということを、前回コメントの補足で述べた。

産業構造審議会新産業構造部会の報告書は“デフレからの脱却を図るためには、価格競争から価値創造経済へ転換しなければならない”と述べている。そこで目指す方向には全く賛同するものの、筆者が問題を提起したのは、そのアプローチにある。サプライサイドの強化というアプローチだけでは、内需の成長は見込めないということを申し上げた。

だからといって、財政で需要を創出する成長戦略を主張しているわけではない。デマンドサイドからの経済政策というと、政府がお金をつぎ込んで需要を創出する財政政策を連想させるが、日本に財政赤字をさらに積み増す財政的な余裕はない。

経団連のトップや学者先生達が考える上からの成長戦略ではなく、生活者あるいは地方の中小零細企業を活性化するような下からの成長戦略が重要であると申し上げたかったのである。企業が利益を溜め込み、生活者に還元されなければ、経済の成長はない。実際、GDP比で比較する日本の家計の調整可処分所得(年金や医療など社会保障給付をした後の家計の可処分所得)は米国やフランスより圧倒的に劣る。また、GDP比で比較する日本の企業の貯蓄は圧倒的に多い。

経済の効率化を進め、労働生産性を上げ、労働規制を緩和し、イノベーションを促し、法人税率を下げ、競争力を強化して、企業の利益を最大化するというアプローチだけでは限りがある。企業の利益を最大化することで、一般消費者がその利益に預かり、地方の中小零細企業がその利益に預かるわけでもない。企業の効率化が日本経済全体の効率化に繋がるというトリクルダウンの論理こそ合成の誤謬である。

かつて、現在の甘利経済再生担当大臣が経済産業大臣を務めていた平成19年、「感性価値創造イニシアティブ」という案がまとめられた。「機能や価格といった従来のものづくりの価値軸に加え、感性価値観という新たな着眼点からの価値創造が必要になっている」と提言している。その通りである。

しかし、「生活者の感性に働きかけ、感動や共感を得ることで顕在化する価値を感性価値として着目し、・・・産学官が一体となって取り組んでいくべき事項を、今後の産業政策の柱とすべく検討する」と謳っている。

サプライヤーが生活者の感性に働きかけるというのは、主客逆転である。生活者の感性がサプライヤーに働きかけるような環境があって、秀でたデザイナー、芸術家、サプライヤー等のエリートを輩出する。少数の秀でたエリートが文化を作るわけではない。

大衆文化こそ、日本文化の土壌である。大衆文化がエリートを輩出し、彼らの才能と大衆が呼応して文化が成熟する。元禄文化、文化・文成の文化、明治開国の文化、大正モダニズムの文化等、しかりである。

このような文化的環境を育成するためには、生活者を主役にしなければならない(注)。「企業が豊かになれば生活者も豊かになる」という発想から、「生活者が豊かになれば企業も豊かになる」という発想の転換である。

(注)明治開国の文化は、産官が主導したが、明治維新にあって大衆が封建制から解放され、海外からの文化が流入し、大衆文化が開花した。

前回コメントの補足(4)

これまでのコメントで、長時間労働が日本のデフレと関わりがあるのではないかという懸念を述べた。今回は、労働時間の短縮が労働生産性を改善し、デフレから脱却する成長戦略になるという議論をする。

日本の長時間労働の実態は10年前と比べても、ほとんど改善されていないとい。今なお、産業競争力会議および規制改革会議で国家戦略特区において労働時間規制緩和を緩和しようと議論している。解雇ルールの明確化や労働時間の規制緩和は阻止されたようであるが、産業競争力会議や規制改革会議を構成するメンバーのメンタリティは10年前と比べてほとんど進化していない。

安倍首相は「グローバル企業が投資をしやすい環境を作り、雇用拡大につなげる」と述べている。円高デフレを擁護して日本企業の海外進出を唱導してきたこれまでの議論から一歩前進である。「海外の投資を呼び込まなければならない」という問題意識はその通りである。

しかし、海外からの投資を呼び込めなかったのは、日本の法人税率や雇用規制のせいだろうか?デフレで日本の名目GDP成長率が10数年にわたってゼロ成長だったからではないか。日本の国内企業すら海外に逃げ出しているというのに、海外からの投資を呼び込めるわけがない。経済成長率を高めること、内需を成長させること、が問題の本質である。法人税率や雇用規制、その他規制の問題はあるかもしれないが、2次的なものである。

なぜ、10数年にわたって名目GDPの成長がなかったのか?第一義的には、日銀のデフレターゲット政策にあったことは間違いない。アベノミクスの第一の矢で、金融政策は軌道修正された。問題は、第三の矢である成長戦略にある。

産業競争力会議あるいは経済財政諮問会議の議論を見ると、相変わらずのサプライサイドの理論である。サプライサイドが、経済成長を牽引していかなければならないという議論である。そして、規制緩和、経済の効率化、労働生産性の向上、・・・という10数年くりひろげてきた議論である。

日本では、官民という区分をして、「民主導の経済を」いわれてきた。「民」は「企業」と「家計」から構成される。「企業」と「家計」を括って「民」とするところに問題の所在がある。「企業」は成長したが「家計」は低迷している。「企業」と「家計」を区分しなければならない。

OECDの統計によると、日本企業の純貯蓄(GDP比)は2001年の5.37%から2011年の7.45%に伸ばしている。一方、家計の純貯蓄は2001年の2.27%から2011年の1.47%に下げている。企業の超過貯蓄(貯蓄-投資:GDP比)は2001年の3.84%から2011年の8.34%に伸ばしているのに対して、家計の超過貯蓄は2001年の2.14%から2011年の2.40%に留まっている。

企業は超過貯蓄(内部留保)を増やし、サプライサイドは強化されたが、それが投資につながっていない。家計が豊かにならないから、企業の投資を呼び込めないのだ。2012年度の「国土交通白書」は、40歳未満の若者における持ち家比率が1983年の42.2%から2008年の28.4%へと約14ポイント下がったことを指摘している。賃金の低下や長引くデフレで家を購入できないのだ。

アベノミクスの成長戦略は、「企業の投資をいかに増やすか」という議論をしている。しかし、「消費者の需要をいかに増やすか」という議論をしなければならない。日本では、
「投資を増やす」が「消費を増やす」より優先する。

「投資を増やす」ことにより、経済が活性化し、消費も増え、新たな投資に繋がるという考え方によるのだろう。一方、消費をしても将来に繋がらないと考えるのだろう。投資の方が消費より乗数効果が高いと考えるのだろう。もっともである。筆者もそのように考えてきた。

ところが、フランスで驚いたのは、パリはもちろん地方の街でもそこら中に花がきれいに飾ってある。街を飾る植え込みも、木々の高さや葉っぱの色まで見事にデザインされ、手入れされている。花がもつのはせいぜい2~3週間だろう。しかも、花がらも摘んである。知人に聞いたら、フランス人は花に莫大なお金をかけているという。花は枯れたらゴミになるだけだ。何と無駄なお金の使い方・・・と思った。

しかし、よく考えてみると、花の生産農家、造園業者、デザイナーなどに、収入をもたらしている。サービスが創出され、サービスが購入されることで付加価値の生産に寄与していることになる。消費してしまえば、無くなってしまうようなサービスでも、GDPの増加に寄与する。

フランス人は年間1500時間くらいしか働かないのに、日本人は年間2000時間も働く。それなのに、フランス経済のGDPは成長し、日本経済のGDPは停滞したままである。要するに、フランス経済は消費が主体のフローの経済である。消費してしまえば、残らないような財やサービスでも、フローの経済は膨らむ。

一方、日本経済は生産設備に投資して経済成長を図ろうとするストックの経済である。いくら働いてストックを増やしても、消費が伸びないから日本経済のGDPは停滞したままなのである。消費が伸びなければストックの投資も停滞する。

固定資本減耗は資産(設備や建物)の減耗に対する対価であり、固定資本減耗(GDP比)は付加価値を生み出すのに使われた資産を評価する。2011年のフランスの固定資本減耗(GDP比)が13.98%であるのに対して、日本の固定資本減耗(GDP比)は21.76%である。ちなみに、米国の固定資本減耗(GDP比)は12.36%である。日本の固定資本減耗(GDP比)は、米仏の2倍近くもあり、過剰設備であることを示している。

アベノミクスの成長戦略は、さらに生産設備を増やそうという戦略である。過剰設備で国内の消費がないと、必然的に海外市場に向かうことになり、日本の空洞化はさらに進む。過去10数年間、日本経済が辿ってきた道の繰り返しである。

これまでのコメントで、フランスの衣食住に関わるマーケットの多様性を指摘した。多くの生活者が主役のマーケットの方が、一握りの生産者が主役になるマーケットより多様性があるのは当然だろう。一握りの生産者が主役のマーケットでは、商品やサービスの選択の多様性は生活者から奪われるからである。かつてのソビエト連邦の経済を考えてみるがよい。政府がマーケットを支配することにより、街には同一規格の無機質なアパート群が立ち並んだ。前のコメントで述べた、ハウスメーカーによる住宅の供給、あるいはスーパーマーケットによる商店街の駆逐の事例は、資源配分が偏ってしまうことを示す。

日本の産業政策は、電子産業の振興を後押ししてきた。しかし、多くのメーカーが電子産業に参入することにより、似たような商品が供給され、価格競争に繋がった。海外メーカーとも競合して、電子産業は存亡の危機にある。液晶テレビに代表される家電製品をみれば明らかである。選択的な産業政策の介入が、結果として非効率的な資源配分に繋がった事例である。

生産者がマーケットを支配し、マーケットの多様性が損なわれると、効率的な資源配分が損なわれる。偏ったマーケットに、供給者が集中するため、資源配分が効率的になるのだ。また、生産者がマーケットを支配するとき、多様な価値が創出されるチャンスが損なわれる。多数の生活者が参画しなければ、価値が創出されるチャンスが減るからである。

多数の生活者がマーケットを支配する中で作られるマーケットの多様性を尊重しなければならない。マーケットの多様性が、効率的な資源配分を行うのだ。そこに、新たなマーケットが誕生し、新たなサプライヤーが登場する。多様な商品やサービスがマーケットで交換されることで付加価値が創出され、経済成長の原動力となる。

「企業が主役」から「生活者が主役」という社会に簡単に移行できるわけではない。一国の文化に関わるような価値観を転換する生活革命が必要である。このような変革がすぐにできるとも思わないが、少なくとも変革の方向性を共有して、一歩を踏み出す必要がある。

長時間労働で家族と夕飯を囲めないような生活に「生活の豊かさ」はない。日本人にとって、ワークライフバランスの改善は、「生活の豊かさ」を取り戻す第一歩である。長時間労働から解放され、生活者に時間的なゆとりができれば、その時間を使って新たな価値を生み出す原動力になる。生活革命によって、生活文化のインフラができてくる。

「生活の豊かさ」と「労働生産性の向上」は対極にあると考えられがちである。しかし、両者は共存することを認識すべきである。生活文化のインフラ構築は経済成長の原動力になる。「生活の豊かさ」の追求が、経済成長の原動力となり、「労働生産性の向上」に繋がる。アベノミクスの第三の矢に、異次元の経済成長戦略を求めるとするならば、「企業が主役」から「生活者が主役」への転換、「投資」から「消費」への政策の転換である。

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