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2013年10月29日 (火)

『久野治オーラルヒストリー』

梅崎グループによる労働関係オーラルヒストリーの一環ですが、それとともに本書は、インタビュワの鈴木誠さんの三菱電機労務史研究の一環でもあります。

JILPTアシスタントフェローの鈴木誠さんの三菱電機研究論文については本エントリの末尾にリンクをしておきますが、まずはこの久野治という方はどういう人かというと、1923年生まれで。1937年に高等小学校卒で三菱電機名古屋製作所に見習い工として入社、その後兵役にとられて九死に一生、復員後組合活動に活躍し、最後は電機労連副委員長、IMFJC事務局次長となった戦後組合運動の生き証人です。

戦前見習い工として賃上げ要求をして獲得した話も面白いですが、マクロ労働史の観点からは、やはり、戦前左翼系のインテリが労務幹部として採用されたことが、戦後の労使協調路線の導火線になっているという筋道がくっきりと見えて興味深いところです。

・・・三菱電機という会社が面白い会社というのは、人事労務については実はすばらしい人がいたのです。あなたも書かれたと思いますが、三木忠彦という人がいたのです。自分の息子にレーニンという名前を付けているのです(笑)。

・・・三木さんという人は、会社は当時の言葉で言うと社会民主主義です。共産主義ではないのです。ないのですが、会社の幹部は共産党と言っていたのです。それがありがたいことにほとんどどこの会社も採用しない者を、岩崎さんが採用していたのです。・・・この方が三菱電機の労使関係の骨格を作る人です。

労使協議制は、三菱電機ができた。・・・

戦争が終わり、そうすると三木さんというのが、・・・本社の勤労部長になるのです・終戦直後の労働組合はご存じだと思うけれども、ものすごい労働争議だから、日立も55日のストライキをやる。東芝も毎日のようにストライキをやって、赤い東芝と言われていたのです。私たちだけやっていないのです。三菱だけやっていないのです。

・・・それは三菱だけは労使協議制だったのです。よそはみんないきなり団体交渉です。日立も東芝も団体交渉です。要求を出す。呑むか呑まないか。満額の回答がなければ何月何日からストライキということで、要求と同時にスト宣言もしているわけです。その間に話をして妥協点がないわけです。要求を呑まなかったラストをやるという考え方です。そういう考え方で要するに戦う姿勢を非常に日立や東芝は持ったけれど、三菱は最低でも1か月話し合うということです。

・・・JPCです。生産性本部ができることによって、労働者の意見を聞いて経営を運営していくという思想が出てくるのです。昭和30年になってはじめて三菱電機の労使協議制の考え方が世間として認められるようになってくるのです。・・・

左翼的な人事労務幹部の下で、対決型でなく労使協調型の組合運動が育ち、それが他社に影響を及ぼしていく、という、日本型労使関係の輪廻の糸車が見えるようです。

電機連合自体の中で、その「影響」がどのようなものであったかを、久野さんはこのように淡々と語ります。

・・・僕が東芝の教育をやるのはそこから来るのです。東芝の中に行って、・・・。・・・東芝は川崎が中心だから近いということと、東芝名は徹底的に左翼にやられたから、多少その反動もあって僕らの考え方が入りやすいという形で、東芝には扇会という組織を作って、そこに私の労働組合主義という考え方をずっと植え付けていったのです。この扇会の組織は今も出せないのです。何で出せないかというと、共産党が不当労働行為だということで裁判所に持って行っているのです。

・・・それで、私が出会ったのが関西では松下電器、今のパナソニックです。そして三洋です。こちらの方へ来れば東芝と、これだけの者をまず何とかわれわれの陣営に入れようと思ってやりかけたのです。それが後にIMF-JCという組織になってくるわけです。・・・IMF-JCも一晩にしてできたわけではないのです。その前後にそういう運動があったのです。

八幡製鉄の宮田学校の話は有名ですが、電機産業におけるこういう話は、あまりはっきりとは語られてこなかったように思います。こういう嵌め絵パズルができあがっていく感じは、やはり梅崎グループのオーラルに共通のものですね。

それにしても、やや戻りますが、三木さんの弟子の中側俊一郎さんについてのこういう話も、三菱電機という会社の不思議さを物語っていますね。

・・・中川さんという人もご存じのように東大の新人会にいて、どこも採用されないのです。昨日は留置所に放り込まれたと言うぐらいの人だから、そういう人がどこにも行くところがないときに、ありがたいことに三菱電機に有名な大内兵衛のお兄さんが常務でいたわけです。そのお兄さんに「一人使ってもらいたい人がいる」「誰やそれは」「共産党みたいなヤツだ」、その時に社長の言葉がふるっておるのです。どう言ったかというと、「新人会で留置所2日、3日放り込まれているヤツは、そんなものはまだ小物だ。うちはもっと大物を採用しておる」、これは昭和11年の話です。・・・

この「共産党みたいなヤツ」の下で構築されていった労使協議制が、「共産党が不当労働行為だということで裁判所に持って行」くしくみを生み出していくこの輪廻転生の妙にこそ、労使関係というものの不思議さ、おもしろさが凝縮しているのですね。

(参考)

鈴木誠さんの論文

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2008/02-03/pdf/093-107.pdf(戦後型学歴身分制から能力主義的人事処遇制度へ──三菱電機の1968年人事処遇制度改訂

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2010/02-03/pdf/069-084.pdf(能力主義下における職務給・能率給―三菱電機1968年人事処遇制度改訂のもう一つの側面)

http://www.jil.go.jp/institute/zassi/backnumber/2012/07/pdf/070-087.pdf(「新職能資格制度」と職務重視型能力主義の再編成――三菱電機の1978年人事処遇制度改訂)

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