フォト
2024年12月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« OECD『成人スキルの国際比較』 | トップページ | 常見陽平『普通に働け』 »

2013年10月10日 (木)

解雇規制論議に見る律令法思想と市民法思想

今年の4月から月2回のペースで、WEB労政時報の「HR Watcher」というコラムに、溝上さんらとともに連載していますが、今週アップされたのは「解雇規制論議に見る律令法思想と市民法思想」です。

http://www.rosei.jp/readers/hr/article.php?entry_no=118

その最後のところで、主として国家戦略特区WGの八田氏を念頭にこう述べましたが、これは一昨日の朝日の記事の松井氏やその尻馬に乗っている評論家諸氏にも同じように言えることであることは、賢明な読者の皆さんにはよくおわかりのことと思います。

このように、権利濫用法理の意味が理解できない根源には、この経済学者の法理解の歪みがあるようにも思われる、そもそも、東洋的社会においては、法とはもっぱら律と令、つまり刑法と行政法を指すものであって、国家権力による人民への規制以外の何物でもなかった。それに対して西洋社会における法とはまず何よりも民法であり、大陸系のシビル・ローであれ、英米系のコモン・ローであれ、市民相互間の利害調整の道具として発展してきたものである。

労働法も民法の特別法であり、使用者と労働者という市民相互間の関係を適切に規律するための国家規制も、究極的には労使間の利害調整をどうすることがもっとも適切かという点に帰着する。国家が一方的に人民に不都合な規制をかけているなどという、東洋専制主義世界と見まがうような法律観で労働法を語るとすれば、それはその論者の脳内の東洋専制主義を示しているに過ぎない。

労使の利害の調整点を、どこにどのようにシフトさせるのがちょうどいいのか、そういうごく当たり前の発想でこの問題が議論されるようになることを切に願いたい。

実というと、こういう自生的秩序の認識は、あのハイエクが強調していたことなのですが、それがまったく理解できないたぐいの人がその解説書を書けるあたりにガラパゴス日本の所以があるのかも知れません。

まあ、OECDから相手にもされない評論家が、OECDはこう言っているぞ、と居丈高に説教してみせて、無知なマスコミ相手に通用してしまう日本でもあります。

« OECD『成人スキルの国際比較』 | トップページ | 常見陽平『普通に働け』 »

コメント

 経済学者と法学者で「権利濫用」への認識が異なる理由は次のとおりだと思います。

 法学者は個別に問題となる法律関係の当事者である「使用者」VS「被用者」間の利害調整を考え権利行使の態様を規制することを考えます(=民事法)。

 一方経済学者はまず初めに社会全体の最大幸福を実現する望ましい社会制度を一般的に経済学的に決定し(=厚生経済学)、その望ましい社会制度と比較して現実に多くの幸福を得ている「既得権者」と少なく幸福を得ている「(潜在的)新規参入者」の存在を発見し、現実の制度の”不合理”の原因を、既得権者が政府を動かし公的規制することで新規参入を制限するレントシーキングに求めます(=公共選択論)。
 経済学者は既得権者が政府を動かして実現する”不合理”な規制を「権利濫用」と批判するのです。
 これはリカードの時代の穀物法以来の自由主義の伝統であって東洋の法思想とは何ら関係がありません。

 そして経済学者の多くは現実に存在する労働規制(のある部分)に対してもまたこの公共選択論の考察が当てはまると考えます。
 つまり労働規制は、就業者=「既得権者」VS求職者=「新規参入者」の対立を「も」新たにもたらし、社会全体の最大幸福を阻害し前者の保護と後者の疎外をもたらす、「既得権者」および政府の「権利濫用」と考えるのです。
 穀物法や大店法は「既得権者」保護目的の立法であり労働規制はそうではないという反論は成り立ちえますが、機能としては「既得権者」保護という望ましくない結果を同様にもたらす以上経済学者は区別することはありません。

 そうである以上
>使用者と労働者という市民相互間の関係を適切に規律するための国家規制も、究極的には労使間の利害調整をどうすることがもっとも適切かという点に帰着する。
との主張は経済学者には通じないでしょうね。
 法制度は二当事者間の利害を調整するためにある、との法学者の主張と、法制度は(潜在的参入者を含む)社会全体の最大幸福を実現するためにある、との経済学者の主張の違いが問題の根底にあるのです。

>国家が一方的に人民に不都合な規制をかけているなどという、東洋専制主義世界と見まがうような法律観で労働法を語ると

 経済学者はそんな主張は誰もしていないでしょうね。
 上述した通り現実に存在する労働者を保護することで潜在的に存在する求職者の利益を害することおよびそれに拠る社会全体の損失を問題にしているのです。
 不合理な規制の原因を声の大きな「既得権者」の声が通りやすい民主主義的意思決定システムにもとめて、その解決策としての自由化実現のために社会経済全体を見通せる”啓蒙専制君主”による意思決定を求めるのです(小泉政権を思い出せ)。
 個別人民の利益保護を名分として人民全体の利益を毀損する民主主義的意思決定を経済学者は問題にしているのです(=公共選択論)。

 現実の当事者間の秩序を保護・尊重する議論が行われる保守主義+議会制民主主義と、望ましい社会秩序から議論を始める功利主義+啓蒙専制主義とがはっきりとした対照をなしています。
 法学者は、ベンサムやその系統である「法と経済学」論者の極小数の例外を除き、前者に与し、経済学者の主流である新古典経済学は後者に与しているわけです。

正社員の解雇が難しいのは「解雇規制」なるものが存在するからではない、という話が出発点なのですが、まったくご理解されていないご様子。不都合があれば、すべて政府の規制のせい、という発想が、「脳内の東洋専制主義を示している」といわれているわけですが。不都合なことが起きるのは、政府の規制**以外**が原因、ということは当然いくらでもありうるわけでして。

正社員の解雇に関していえば、結局のところ、これは契約の問題。バブル時代に金融機関が行い、バブル崩壊後に問題となった、「逆ざや」契約と同類、といえば理解しやすいですかね。「逆ざや」契約と違って、日本企業は、現在でも正社員の雇用契約を結んでいるわけで、「逆ざや」契約よりも遥かに普遍性と合理性があるのですけど。

まあ、「解雇特区」なるものは、いってみれば、徳政令を出して、「逆ざや」契約を、企業が自由に放棄できるようにする、という発想なのでしょう。しかし、バブル期に発生した「逆ざや」契約と違って、正社員の雇用契約というものは、今もって発生しつづけているわけでして、一度徳政令を出せば片付く、というものではないですね。それが普遍性と合理性という部分ですが。そもそも、常時徳政令状態では、契約そのものが成立しないだろうと思いますけど。「守られない契約」を契約とは呼ばないでしょう。

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 解雇規制論議に見る律令法思想と市民法思想:

« OECD『成人スキルの国際比較』 | トップページ | 常見陽平『普通に働け』 »