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« 「賃金に関する政労使協議」@『労基旬報』 | トップページ | 竹信三恵子『家事労働ハラスメント』 »

2013年10月24日 (木)

海老原嗣生『日本で働くのは本当に損なのか』

Isbn9784569815022海老原嗣生さんより新著『日本で働くのは本当に損なのか』(PHPビジネス新書)をお送りいただきました。いつもありがとうございます。そして今回は、とりわけありがとうございます。

http://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-81502-2

ブラック企業、終身雇用の崩壊、うつ病の増加……。それでも滅私奉公を続けますか?

 なぜ日本人は、上司や会社の悪口を言うのか、なぜ日本人は、なかなか転職しないのか、なぜ日本では、女性活用が進まないのか―欧米型雇用と比較して日本型雇用の本質を鋭く分析し、まことしやかに信じられている常識を覆す。

 内容例を挙げると、◎日本には人事異動があるが、なぜ欧米にはないのか ◎欧米ではなぜ若者の雇用デモが頻発するのか? 日本の若者は大人しいのか? ◎日本では先輩が呑みに誘うのに、欧米では誘わないのか? ◎欧米と日本、どちらが学歴社会なのでしょうか 等々

 また日本型雇用問題への解決策も提示する。

 そして『ブラック企業』がベストセラーとなった今野晴貴氏が本書を解説―「雇用システムの問題を『立場を超えて』説明しようと務めている」

 学生から、管理職まで、企業の雇用問題を知る上で必読の一冊!

本書は、現段階の海老原テーゼを全面展開した「ほんとにほんとのこれ一冊」ですね。

そして、そのテーゼは、わたくしが繰り返し論じているところと、ほとんど同じです。ほんとに、本書を読みながらそのありとあらゆる部分に、「そうそうそうなんだよ」と繰り返し繰り返しつぶやいている自分に気がつくほどです。

そのほんの一例を「はじめに」から、日本型雇用の特徴をなす「公理」として示している部分:

・・・その公理とは、-

1)給与は「仕事」ではなく「人」で決まる。

2)正社員とは誰もが幹部候補であり、原則出世していく。

このどちらもが、日本固有のもので、他国においては(例外としては存在しますが)一般的ではないものなのです。

そのたった二つの公理から、日本特有の雇用の特徴が次々と生み出されていきます。

・・・・・・・・・

こんな話がすべて、「公理」を元に説明できる。・・・

この本では、この二つの公理が生み出す功罪を明らかにしていきたいと思っています。

「ジョブ」と「メンバーシップ」からすべてをコロラリーとして説明するわたくしと極めてよく似ている、という点だけではなく、それで「功罪」を明らかにするというところにこそ注目して欲しいと思います。

そう、売らんかな主義の評論家になればなるほど、「功罪」を客観的に論ずるというスタンスが薄れていき、ひたすら「功」ばかりを言いつのったり、「罪」ばかりをあげつらったりしがちです。そういう議論は、確かに表層的なマスコミ受けはするし、ネット上では人気を博したりするでしょうが、地に足のついた議論をしようとする人々にとっては、有害以外のなにものでもありません。

海老原理論の醍醐味は、なによりもこの「功罪」の論じ方の妙味にこそあるといってもいいでしょう。

さて、本書では、今野晴貴さんの解説の前に著者による「おわりに」がありますが、ここでわたくしとのある意味でエールの交換のような記述があります。

・・・二つ目は、件の濱口桂一郎さんとの度重なるセッション。雑誌やセミナーで、もう七回ほど氏とは意見を交わさせていただきました。そして、話し込むほどに、これほど雇用に関して見方が一致する人が世の中にいるのか、と嬉しく感じていたのです。

しかも、氏の言葉のセンス。日本型職務契約のことを「メンバーシップ型雇用」、総合職=全員幹部候補生に関しては「誰もがエリートを夢見る社会」、四十代定年制を議論したときには「日本型階段を残したまま、それについていけない人を切り捨てるだけ」と冷水を浴びせ、解雇権緩和のセミナーでは「会社の一員になるという労働観から、会社とは職務でのみつながるという欧米的常識への移行がまず必要」とばっさり。この本でもこうした氏の言葉・理論・概念をいくつか借用しています。

こんな感化を受けてきた人間としては、オマージュ的なものが書きたく、その中に、氏と解釈が異なるいくつかの側面も織り込んで、挑戦をしてみたいと思ったこと。それが二つ目の理由になります。・・・

いやいや、海老原さんにオマージュと言われると裸足で逃げ出しますが、全体が私とのエール交換になっていることは上で述べたとおりです。

最後に載っている今野晴貴さんの解説も大変深くて、一見対照的な立場にいるように見える海老原さんと今野さんが、真摯に現実に真正面から向かい合おうとするその姿勢において、まったく一致していることを見事に物語っています。

そう、雇用、労働に関する本には、ポジショントークで、ある現実を誇張し、別の現実を無視するていのものが結構多いのですが、そうじゃない本当に信頼できる論者というのはどういう人々であるかを、この解説は浮き彫りにしています。

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コメント

海老原さんの本を読む前にこんな小論を書いていました。良ければコメントお願いします。

1対9の世界と9対1の国
-「働き蟻」のパフォーマンスが組織のパフォーマンスを決める-

「日本人って他の国の人から「働きすぎ」と言われているのに、どうして日本の会社はずっと儲かっていないし、経済も調子が悪いのはなぜだろう。他の国に行くと、会社に行っているお父さんが家事もしてるし、お母さんも働いているし、色々地域や教会の行事もやっていて、日本のおやじとは大違い。アメリカでホームステイすると、つつましい生活をしているけれど、家族の皆が優しくて、思いやりがあって、報道される『あくどく稼ぐアメリカのビジネスマン』という印象とこんなに違うのはなぜだろう。」

多くの日本人がこのような疑問を感じているのではないでしょうか?ここでは、筆者が過去15年にわたってアメリカ、イギリス、香港での会社勤めと生活のなかから煮詰めた結論をご披露します。そして日本と日本の会社がどうしてずっと調子が悪いのか、日本の中にいる誰が足を引っ張っているのかについて語ります。そしてグローバル化のなかで、日本が世界の標準に合わせて行かざるを得なくなることについても書きます。

誰が「働き蟻」なのか

「日本以外の国の組織のパフォーマンスは1割の『働き蟻』のパフォーマンスで決まる。日本の組織のパフォーマンスは9割の『働き蟻』のパフォーマンスで決まる。」
これが結論です。この命題は厳密な調査に基づいたものではなく、日本の組織も他国の組織でもこの1対9あるいは9対1という比率が当てはまらない場合もあるでしょう。ただこのように理解すると色々なことが見えてきます。この命題の意味は、日本を除く世界では10%のモチベーションが強くて良く働く能力の高い人の成果が組織全体の成績を決めているのに対して、日本では90%のそういう人たちの成果が組織の成績になっているということです。

働き蟻かそうでないかを決めるのは、単純に能力ではありません。もちろん才能も一部はありますが、やる気とか一生懸命にやるとか時間を長く働くとか、同じ時間でも能率よく働くといった要素を含みます。他の国では能力の非常に高い人が長い時間一生懸命働くことをせずに、家族との時間や余暇を楽しむことに重点をおいて、働き蟻に入らないことを選択することもよくあります。一方で長い時間働いているが、やり方が悪いとか能率が悪いとかで働き蟻には入らない人も偶にはいます。ただ仕事のやり方を改善することは、やる気次第で達成可能ですから、総じていうと、働き蟻かどうかを決めるもっとも大切な要素はやる気の問題、つまりどういう生き方を選ぼうとするかという選択の問題に尽きると思います。

もちろん働くのは働き蟻の人たちだけではありません。残りの人たちも働きます。ただ物事の方向性を決め、枠組みを作り、指示を出すのは、働き蟻の人たちです。働き蟻でない人たちは、指示に従って仕事をしますが、いつも従順というわけではなく、文句も言うし、自分の権利を大いに主張したりもします。しかし自分の選択の結果選んだ「非働き蟻人生」ですから、仕事については働き蟻の人たちが決めた枠組みの範囲で最終的に物事が決まることは仕方がないと考えます。というのはその人たちにとっては仕事だけが人生ではないのです。

働き蟻になることは、往々にして、家族との時間を削り、子供の勉強を見てあげる時間を減らし、地域でのボランティア活動の時間を犠牲にすることに繋がります。どこの国のどんな会社や役所でも、反対する人を説得して物事を決めたり、ノルマを立てて達成に苦労したりするのは、ストレスが多いことです。物事を決めなければいけないということはリスクをとらなければいけません。計画を実行して成功すれば、収入もグッと増え地位が上がる可能性がありますが、失敗したり目標未達成に終われば、収入が減り、地位が下がるか、下手すればクビになります。それに何といっても他の人たちから文句を言われ、責められます。将来の不確かな収入や地位のために、ストレスの多い人生を何で選ぶの?働き蟻がやっていることを批判しているほうが楽じゃない?こちらは物事を決める立場にないから、責められることはないよね。こんな風に非働き蟻の人たちは考えます。人生は金と地位だけが重要で無いことは確かです。

1対9の世界

働き蟻は日本だけにいるのではない
1対9の世界、すなわち日本以外の大概の国では、1割の働き蟻たちは本当によく働きます。日本の働き蟻をとって、日本以外の働き蟻と比べたら、日本以外の働き蟻の人たちの方が良く働いているでしょう。この点は、日本人も世界の多くの人も大いに勘違いしている点かと思います。

この1割の働き蟻たちは、確かに日本人の良く働く人たちと比べると、職場にいる時間は短いかもしれません。しかし日本人が多分思っているよりはずっと長い時間働いています。日本以外の世界では、付き合い残業の習慣はありませんし、共働きしている夫婦が当たり前なので、夫婦の片割れが家事もせずに職場に籠っていることは許されないのです。それに子供の学校や教会などの地域活動も夫婦なり家族ぐるみでの参加が前提になっていることも多いわけです。このような制約にも拘らず、10%の働き蟻たちは必要な場合は朝7時半に出勤してきた上で、夜8時は当たり前、夜10時過ぎまで残業している人も少なくありません。

スマートフォンが働き蟻をもっと働かせる
この10%の働き蟻たちにとって更に不幸なことが、ここ10年程度で定着してしまいました。お分かりになりますか?スマートフォンの導入です。会社のイントラネットにつながったスマートフォンの導入によって、仕事はまさに24時間可能になってしまいました。社内のやり取りはもちろん、取引先等との打ち合わせのメールも深夜、土日にも行われるようになってしまったのです。海外のリゾートホテルでは、くつろいでいるはずの人がスマートフォンが震えるたびに、気になって仕方ない様子で、メールを確認しています。また新聞の身の上相談のコーナーでは、土日にスマートフォンのメールが気になってリフレッシュできない、何とかこれから逃れる方法は無いかというような、ややノイローゼ気味になった読者の相談が寄せられています。

かくして10%の働き蟻は24時間体制で働いています。なんでそんなに働くのか。

仕事で本当に集中して能率が高いのに週に60~70時間も働き、夜も週末もスマートフォンに追いかけられた上、家事の分担、子供の送り迎え、教会や地域社会への奉仕活動などなど、ちょっと可哀そうなくらいに良く働きます。一般には、高給がもらえるからだと言われます。確かに会社の中の所得格差が殆ど全ての国で日本より大きくなっています。ザクッと言うと、大体10%の働き蟻はそれ以外の人の2倍働いて、3倍給料をもらっている感じでしょうか(もちろん仕事の内容が違うので大胆な簡略化です)。こう言ってしまうと恵まれているように思えますが、実際90%の非働き蟻が週40時間でこなす仕事の2倍の量を、職場での週60時間と家庭やリゾートでの幾ばくかの時間でこなすのは大変です。その他の理由として、権力欲(「人に指示されるより、人に指示したい」)や目の前にある競争にとにかく勝ちたいという欲求などあるでしょう。ただこれだけ大変だと、才能は高いがこんな生活はしたくないと思う人が少なからずいるのは不思議ではありません。ですから元気な内に働き蟻となって沢山稼いで、そのあとは働き蟻をやめて教育や福祉などのあまりお金の儲からない仕事に専念する人は多いのです。この人たちは蓄えた資産が多いですが、会社や組織の大きな意思決定からは外れているので、もはやここで考える「10%の働き蟻」には含まれません。一方で40代から50代になって競争に勝ち残った1~3%位の「超働き蟻」は、若い時よりさらに多く働きます。この辺まで来ると、もはや金はすでに一生で使いきれないくらいもっているので、高給そのものは働く動機になりません。権力欲が優勢になってきますが、本当のところ仕事が好きなのです。良く言えば仕事が三度の飯より好き、悪く言えば仕事中毒ということでしょう。

働き蟻は長い時間働くだけじゃない

この10%の働き蟻たちは、長い時間働くことも事実ですが、何より生産性が高いことに驚かされます。90%の非働き蟻たちは基本的に10%の働き蟻たちからの指示を待っていますので、働き蟻たちが指示を出さない限り、仕事が始まりません。指示を出して組織を動かし成果を上げるためには、当然のことですが、指示を出す前に十分な調査を行い、事実を分析して、指示を作る必要があります。新しい指示が過去の指示と矛盾しないか、外部の顧客、ベンダー、役所などに新しい指示の結果が影響しないか、影響がある場合のインパクトの分析や必要な場合の事前了解の取得、また会社の中の関係する部署への根回しなど、やることは沢山あります。これらの作業を進める場合に非働き蟻たちを巻き込むことはあまり期待できません。もちろん作業を細かく分け、厳密に定義して作業分担することは理論的には可能ですが、現実には少数の有能な働き蟻で手分けし、柔軟な対応を可能にした方が上手くいくでしょう。したがって働き蟻の人たちには、創造的ではあるが、大変な量の仕事が集中します。

また10%の働き蟻の別のつらいところは、新しい提案を自ら行うことが求められる点です。90%の非働き蟻たちは、「働き蟻たちは自分たちよりも色々経験を有しており、また判断力もあることになっていて、日ごろから良く働いているからこそ、人に指示する立場にある。そして何より自分たちよりも沢山稼いでいる。」と思っています。だからアイデアを出すのは当然であり、そのアイデアに基づいた指示に基づく新しい施策の結果の責任を負うのは働き蟻の仕事と考えます。思いつきでない説得力のある提案を行うためには、業務と環境を徹底的に研究する必要があります。こういった中で、働き蟻たちは、結果的に業務の隅々まで知るようになります。一定の権限を部下におろしていても、仕事の隅々まで理解しているわけです。そして自ら提案者になることで経営から企画力を評価されることになる。ブレストと称しても、他の参加者が提案するのを待って、その提案を批判することで一段上にいることを示して評価されるようなことはないのです。

働き蟻と非働き蟻の社会貢献の仕方

ということで働き蟻たちは、24時間体制で仕事をしているか仕事のことを考えています。したがってこの人たちはコミュニティ活動などについて、もちろん例外はありますが、労力を提供するよりは、資金を提供するような形で貢献する傾向があります。学校、教会等を含むコミュニティ活動に労力の提供で参画する場合、相当の時間を食われるので、労力の提供を行うのは引退するなどして働き蟻から外れてから後の人生にとっておき、現時点では他の参加者より多く所有している資金を提供する方を選びます。コミュニティ活動も、参加する人がお金を出しても、汗を出しても相応に評価する形となっています。したがって労力で貢献しなくても、きちんとお金を出して貢献していれば、コミュニティ活動に積極的でないとは認識されません。

一方で非働き蟻たちはどうでしょうか?この人たちは決められた勤務時間を超えて働くことはしません。もちろん残業することも土日に働くこともありますが、通常は上司から残業を指示されるから残業するのであり、またその場合はきちんと残業代を請求します。まさに労働は苦痛であり、労働の対価として給料を得るために時間を売るという、古典的な労働者の姿です。日本で一定以上の資格を満たすホワイトカラーに残業代を認めない、いわゆるホワイトカラー・エクセンプションの導入が失敗しましたが、日本以外の世界では非働き蟻たちは原則としてエクセンプションの対象外です。労働に費やした時間を切り売りするのではなく、時間に関係なく24時間働く10%の働き蟻が対象だから、エクセンプション制度が機能するのです。

90%の非働き蟻たちは、仕事に費やす時間が定まっているので、それ以外に費やせる時間が予測可能ですから、コミュニティ活動等の予定を入れやすいわけです。このコミュニティ活動の中に、海外からの留学生のホームステイ受け入れ等も含まれます。日本人留学生がホームステイするときに滞在させてもらう家庭のお父さんは、こうした背景から9割の非働き蟻たちが圧倒的に多いのです。冒頭で紹介したように、この人たちは決まった時間だけ仕事をして、それ以外の時間はコミュニティ活動に積極的だし、時間に追いまくられているわけでもなく、家族をこよなく愛し、留学生にも優しいわけです。

また海外に進出している日本企業で働いている殆どの現地採用の人たちも、90%の非働き蟻に属していると考えてよいでしょう。日本企業は現地スタッフを現地トップまで登用することも少ないし、ましてや本社役員への出世の門戸を開くこともありません。給与・ボーナスも特に高額を支払うことも無いので、10%の働き蟻、あるいは働き蟻を目指す人々にとっては全く魅力がありません。したがって日本から駐在している人たちが日常的に接触している人たちは、非働き蟻の人たちであり、残業することもなく、それほど仕事のモチベーションも高くなく、しかしコミュニティ活動で積極的に労力奉仕し、愛すべき人たちなのです。

非働き蟻の辛さと楽しさ

こう書くと非働き蟻に属することはとても快適なように思う人も少なくないかと思いますが、問題は給与が思いっきり低いことです。ボーナスも限定的で、職種によっては全く出ないことも珍しくありません。また会社の業績が悪くなったりすると真っ先にリストラされて、解雇されることもあります。仕事の内容が定型化されていて相対的に単純であり、毎日反復して行われるようないわゆるルーティンワークなので、機械やコンピュータにとってかわられてしまう可能性が高く、また場合によっては業務が中国やインドの労働者にアウトソースされてしまうこともあります。この給与の安さと解雇のリスクがあるので、共働きが当たり前となるわけです。共働きになっても子供の世話はしなければいけないので、お父さん・お母さんは分担して子供の面倒を見るのです。このためには決まった時間に働き、子供の迎えに行ったり、食事を作る時間をあらかじめ決められることが重要です。こうして9割の非働き蟻たちの仕事と生活は、1割の働き蟻たちのそれとは随分異なった形になります。

この90%の非働き蟻たちは、上昇志向が殆ど無いだけでなく、総じて勉強熱心ではなく、語学なども国にもよりますが、大体母国語だけ、少々英語は聞いたり話したりはできるといった感じです。英米の場合は母国語が世界で通用してしまう英語ですので、外国語に興味が無い人が殆どです。海外生活の経験も普通はなく、希望することもない。ましてや海外留学などもってのほかという人が殆どです。通常は高校が最終学歴ですが、米国のように大学進学率の高い国では大学に行ったものの勉強はしなかったなーというような人たちです。勉強をしているケースでも、外国のことなどは全くと言ってよいほど知識もないし、興味もないわけです。ヨーロッパの人々は国外のことに関心を持たざるを得ないので、少し違いますが、それでもEUの範囲内が主たるスコープでしょう。

アメリカ、ヨーロッパ、アジアの非働き蟻

では非働き蟻の人々は現状、すなわち「10%の働き蟻が指示する人、90%の非働き蟻が指示される人」という構図に満足しているのでしょうか?これは国によりまちまちで、たとえばアメリカでは建前として自分の意思による選択の結果としてこの生き方を選んでいるという意識があるのでしょう。これからの選択によっては働き蟻に入ることもできる、仮にそれが会社組織では難しくても、コミュニティ活動の中では実現できると思っている人が大半だろうと思います(現実にはなかなか難しいのですが..)。その観点から10%の働き蟻たちと対等に付き合える、対等な立場から彼らの活動を評価できると考えているように思います。ただ最近になって「ウォール街をやっつけろ」というような動きが非働き蟻の共感を得るようになってきています。リーマンショックの後に非働き蟻の家が差し押さえになるような事態が多く発生する一方で、働き蟻の一部がいくらなんでも高すぎる報酬を得ていたことが発覚し、さらに所得税の税率も非働き蟻よりもずっと低いことが分かって、信頼して仕組みづくりを任せていたのに何だよという思いが強まってきました。確かに筆者からみてもひどすぎる状況と思いますし、アメリカの大統領自身がそういう動きを煽っているわけです。アメリカの世論の二極化というのは深刻な状況で、右派からも左派からも働き蟻の仕事の内容に対する批判は強まっています。

一方ヨーロッパでは、生まれた時の親の資産状況とか育った環境が平等でなかったという思いがアメリカと比べると強いように思います。ある意味で、働き蟻と非働き蟻の間に明確な仕切り線が引かれており、非働き蟻たちは働き蟻たちが何をやっているのか知らないし、興味もないというところでしょう。ですから昔のように明示的な特権階級や上流階級の存在がなくとも、意識としては別の世界にいる人たちであり、利害が対立する場合は、集合的に「敵」とみなされると思います。

アジアは国によってバラバラですが、中国やインドは働き蟻たちがもっと少ない比率、10%ではなくて3%とか5%、を占め、非働き蟻が95%とか97%とかになっていると思います。韓国、台湾、香港、シンガポールといったNIES諸国では、人々の上昇志向が強く、上位に属する人の比率がもう少し大きいかもしれません。いずれの地域にしても、24時間体制でメチャクチャに働く働き蟻たちがおり、仕事にはそこそこのエネルギーで臨み家族・地域社会等をより重視する非働き蟻たちがいるということは変わりありません。

9対1の日本

日本では、この比率が逆です。というより、逆でした、というべきでしょうか。かつては日本には90%の働き蟻たちと10%の非働き蟻がいたと思われます。他の国では10%くらいしかいない働き蟻が、日本では90%もいて組織のために頑張るわけですから、上手く機能すれば、素晴らしい組織の成果が得られそうです。確かにそんな風に機能していた時代がありました。でもこの20年ほどの間、どうもこれが上手く機能していないようです。なぜなのでしょうか?

いつから日本に9割の働き蟻が発生したのか

日本は昔から90%の働き蟻がいたのかというと、そうでもないようです。第二次世界大戦のずっと前、明治のころまでは日本でも働き蟻が10%以下しかいなかったようです。どうも昭和という時代、とりわけ第二次世界大戦が終わってからバブルが崩壊する1990年ころまでが、良くも悪くも日本の輝いていた時代であり、働き蟻が90%もいた時代だったのでした。

90%も働き蟻がいたら、指示する人ばかりで混乱しそうに思えます。ところがその輝いていた時代は、日本も日本の企業も日本の学校もやるべき方向が与えられていたように思われていたし、その方向に迷いがなかったのです。つまり働き蟻が考え抜いて行くべき方向を特に示さなくても、やるべきことが明確だったのです。第二次世界大戦の前は、良くも悪くも、それは大陸進出であり、それを可能にするように戦争に備えること、そして戦争が始まれば最後の一人が倒れるまで戦い抜くことでした。歴史を振り返ればその方向性は間違えていたし、結果的に大失敗に終わったことはいうまでもありません。ただ90%の働き蟻が「国家総動員」の旗印のもと、文字通りに一斉に同じ方向に向かってがむしゃらに働いたのです。

戦争に負けて、日本は軍事面で頑張ることはやめ、今度は経済面で徹底的に頑張ることにしました。戦後すぐ後は、日本を占領したアメリカの意向の下、日本を再軍備しない方針があったので、経済一辺倒以外に選択枝が無かったのですが、その後冷戦構造に移行する過程で、軍事も重視する方向性もありえたことは事実です。ただその時点で日本は経済一本槍路線を定め、この方針が基本的には今日まで続いています。

安くて、よいものを、大量に

この経済強化という基本方針の下で、何が行われたかといえば、「安くて、よいものを、大量に作る」ということです。この大方針は揺らぐことなく、90%の働き蟻はひたすらこれを実現するために頑張りました。方針が正しいかどうかを考え抜いたり、別の方向があるのではないかと考えたりするのは、どちらかというと無駄で、「安くて、よいものを、大量につくる」ためにはどうすればよいのかを考えることが重要でした。個人や個々の企業が考えた「方向性」とか「ビジョン」なども、基本的に「安くて、よいものを、大量に」という原則に反していない限り成功したのです。

企業は製造業であっても、サービス産業であっても、「安くて、よいものを、大量に」の原則に沿って、創意工夫が行われました。銀行は「金利が安くて、貸し出し条件の緩い資金を、大量に貸し出し」ました。また労働者は「サービス残業も含めて、実質的に単価の安い、質が良くて頑張る従順な労働力を、大量に」提供しました。

1960年代の高度成長期は勿論、1970年代の石油ショックの時代も、省エネと節約による経費削減で乗り切り、1980年代に入って二度目の石油ショックがあり、アメリカなどとの貿易摩擦に直面しても、さらに頑張って「安くて、よいものを、大量に」提供して危機を克服し続けたのでした。

9割が働き蟻の国のありよう

この幸せな時代に日本の組織の中はどうなっていたのでしょうか?他の国では1割しかいない働き蟻がどうして日本では9割もいたのか、どうやって9割の働き蟻が寝る間を惜しんで働くインセンティブを持ち続けることができたのでしょうか。

まず日本では、試験の成績さえ良ければ、どんな生徒でもどんな学校にも入れるのです。日本は学歴社会と言われて久しいですが、これは学校が入学試験の成績次第でどんな子にも門戸を開いているからなのです。他の国では、一流の大学ほど学費が高くて現実問題として財産の少ない家庭に生まれた子が入学できないとか、学費はともかく、そもそも自分の出身から考えて一流大学を受験することが想像できないという国も多いのです。

次に、日本の会社では就職するときに働き蟻候補と非働き蟻候補を分けて採用されることも原則ありません。誰もが大学や高校を卒業した直後に就職し、誰もが社長になれる可能性をもって、一斉に会社員人生を始めるのです。日本の組織は、会社に入る前の経験や能力を高く評価しません。即戦力といっても会社に入ってから、どれだけ早くその会社のやり方や風土に慣れるかが評価の対象となっています。

さらに基本にある考え方が、人間は能力にあまり差が無い、あったとしても努力しだいでその差を補えるというものなのです。組織の中で昇進していく際に重要なのは能力ではなく、対人関係で人に嫌われないこと、利害の違う人たちの間で上手く調整することができるか、一部の人が意に沿わない決定に従わないというような事態を回避できるかといったことになってきます。ですから組織の中で偉くなるためには、どれだけ素晴らしいアイデアや企画を展開できるかではなく、組織のみんなの顔を立てながら、丸く治めていくことが重要なのです。

能力のある人間を突出させるのではなく、組織を丸く運営していくことが優先されるので、給与やボーナス等の報酬もあまり差をつけません。日本以外の国では、採用されたときの職務から責任範囲が広がるとか、責任が重くなるとかしない限りは、給料は上がらないのが普通ですが、日本ではそういうやり方をせずに、何年勤めたかで給料の金額が増えていくのが主流の考え方でした。前に述べたように、日本の会社員は大体大学を卒業してから一斉に就職するので、結果的に年齢を加える毎に報酬が上がる「年功賃金」制度が出来上がりました。

こういう形の社会になっていると、誰もが少なくともスタート時点では平等に社長や組織のトップになる希望を持っており、実際にそうなるかも知れないので、みんなが「安く、よい物を、大量に作れる」ように頑張ります。その目的達成のためには、コストを抑えるために残業代をつけるのを遠慮したり、時間外のQCサークルで品質や工程改善の提案を自分のことのように行ったりします。当然ですよね、自分が社長になるかも知れないのだから。

9割が働き蟻であるがゆえに失ったもの

かくして戦争で一回は挫折したものの、戦後以降バブル崩壊のころまでは、日本国民の9割が働き蟻として一生懸命に働き、見事に日本を世界第二の経済大国に成長させ、一人当たりの所得も世界最高レベルを達成したのでした。ただ9割が働き蟻であることによって、他の国では当たり前のこと、即ち9割が非働き蟻の社会で実現していることができないということもありました。

一つは、地域社会に対する貢献とか教会・学校などの非営利組織への貢献といったことはどちらかというと疎かになってきました。他の国ではこういった活動で働き蟻が金を出し(金銭的な貢献をし)、非働き蟻が汗をかく(労働を提供する)という構図になっていることが少なくないわけですが、まず皆が働き蟻で仕事で消耗してしまっているので、地域貢献する時間も気力もない、一方で一部の人が他の人より特に稼いでいるというわけでもないので、寄付しようという気も起こらない。そういう状況になっているのです。

二つ目は、女性の社会参加が相対的に少ないことです。夫婦が二人揃って働いて、しかも二人とも働き蟻だったら、はっきり意って家族として成立は難しいでしょう。子供がいれば、子供は相当不幸です。だから子供を作らないという選択にも繋がりますし、離婚も多くなります。これは託児所などの子育てサービスが充実している他の国でも実際起きていることです。だから他の国で一般的な共働きも注意深く見ると、夫婦の一人が働き蟻のときはもう一人は非働き蟻であることが多く、両方とも働き蟻の能力を有していても片方が働き蟻を演じている間は、もう片方は非働き蟻になっているというような時間差戦略をとっていることもあります。夫婦とも非働き蟻の場合は、一人分の給料では生活がやっていけないという切実な理由が原因のことが少なくないと思われます。日本で女性が働かなくて済んだということは今では美しい昔話になってきているかもしれません。

もう一つは、他の国では1割の働き蟻は9割の非働き蟻の分まで仕事をしなければならない、養っていかなければならないという一種の使命感を持っていると感じます。一方で非働き蟻の9割は、色々文句は言うけれど、働き蟻がいなければ社会が成り立っていかないことも分かっているので、彼らが高い地位を占めたり、多額の報酬を得ることに対して、仕方が無いと考えているということも事実です。非働き蟻は金や権力が人生の生きがいではないと納得しているか、あきらめているわけです。こういった考え方が日本にはないので、競争の末、大きな権力や財産を持った人に対して、強い反感が生じます。能力に大きな差が無いわけですから、その結果は運か要領の結果に過ぎないわけで、許せない、何とか引き摺り下ろしたいという感情が生まれてしまうわけです。だから長い間日本は所得や資産の分布という点で、非常に平等な国であったのですが、結果として生じた僅かな差に対して不平等感がすごく強く感じられたのでした。

9対1の国の終焉

何はともあれ、日本は戦後9割の働き蟻の必死の働きで、世界で最も優れたパフォーマンスを示してきました。もちろんそこから発生した弊害はあったけれど、デメリットを大きく上回るメリットがあったことは間違いありません。ところが、バブル崩壊の90年代初頭くらいから、徐々に9割働き蟻体制が崩壊に向かっていると考えられます。具体的にはどういうことか、また何がその原因でしょうか?

「安く、よいものを、大量に」作れなくなった!

まず「安く、良いものを、大量に」作ることが、日本では難しくなってしまったのです。これは9割の働き蟻が頑張って働き、良好なパフォーマンスを残したが故の結果です。日本はこの好パフォーマンスのおかげで、相対的に高い成長率を維持しつつ、物価水準もそこそこ安定的に抑え、貿易黒字を継続的に計上できる国になりました。そういう国の通貨は当然値上がりします。この通貨円の相場上昇は、日本の労働力の価格を引き上げることになりました。競争相手が先進国の間は、それでも節約と工夫でなんとか品質対比で安い価格の製品を提供できたのですが、アジア、特に中国が1979年に改革開放で本格的に国際市場に乗り出してから事情が変わってしまったのです。中国の賃金は日本の賃金の20分の1くらいでしたから、労働集約的な産業ではとても太刀打ちができません。当初は品質の違いで何とか競争していたのですが、段々中国の技術力が向上するに従って、品質対比での価格優位性を失って行ったのです。

でも日本という国家が「安く、よいものを、大量に」作ることが難しくなっても、日本企業が同じく「安く、よいものを、大量に」提供することが不可能になる訳ではありません。日本企業はコストの安い海外で生産することが可能だからです。実際に日本企業は海外に進出して、「安い」ものを作り続けました。品質的にもカンバン方式やアンドン方式を海外工場に取り入れ、日本で作るのとほぼ同じレベルの品質の製品を供給できるようになりました。これはこれで大いなる成功だったのですが、次の禍根を残すことにもなりました。まずは現地生産する際に、現地の技術者に日本の技術を教えることになったこと、特に現地企業との合弁生産の際には、核心の技術が現地企業に移ることになりました。またカンバンやアンドンが日本企業成功の鍵と認識され、これらを含むトータルな生産方式が解読されて英語で定式化され、世界の誰もが習得し、自分の工場で導入し適用できるようになりました。こうして安さだけでなく、品質の良さも海外の競争相手に移っていったのです。もっともこういう風に、途上国がコストの安さに先進国からの技術移転を加えて競争力をつけるという図式は、まさに日本が先進国に仲間入りする際に自ら行い成功した経路でしたので、これが良くなかったとは言えません。

選べない経営者たち

日本の繁栄を支えてきた「安くて、よいものを、大量に」作って売るやり方が段々通用しなくなってきたことは、多くの働き蟻、とくに経営者と呼ばれるシニアな働き蟻にも認識されていたと思います。それまで日本も日本企業も大きな方向性は与えられてきており、その方向性の中でひたすら頑張るというやり方で成功してきたのですが、この時点で働き蟻の役目としては、今までのやり方を根本から変えるか、いままでやってきた仕事の中でこれだけは絶対に負けない自信のある分野に絞って資源を投入し「強みをもっと強くする」ことをやる必要がありました。ところが多くのシニアな働き蟻たちにはこの選択が難しかったのです。前に書いたように、日本の組織では、自分からは提案したりリスクをとったりせず、組織の和を重んじる人格の優れた調整型の人が昇格し、リーダー役になるのです。この人たちに部門の廃止、そして解雇に繋がるような厳しいことを求めるのは無理です。このリーダーたちは心優しい人たちなのです。

では高度成長期に日本のリーダー、つまりシニアな働き蟻たちは、何の選択もしなかったのか?多分その時々に応じて、一定範囲の選択は立派に行ってきたのだと思います。ではなぜこの心優しい人たちに選択ができたのか?それは全体のパイが大きくなっていたので、有望な部門に10の資源を追加投入するときに、有望で無い部門に1だけ追加投入するというように、絶対額としてはみな追加投入にあずかれるけれど、相対的には比率が低いというような形が取れたのです。こういう形で非有望部門の人の顔を立てつつ、実質的に配分を変えられたのでした。ただ市場に低い成長かゼロ成長しか望めなくなると、どうしても実額として非有望な部門への配分を減らさなければいけなくなります。そうすると和を重んじるシニア働き蟻にはお手上げとなってしまうのです。これと同じことは政府の予算配分でも起こっています。政府の場合は赤字国債を発行して次世代にツケを廻す形でこの方式を継続できるのですが、企業では倒産してしまうので無理です。

日本企業が直面した資源制約

更に悪いことは、90年代以降に日本企業が資源制約の壁にぶつかっていたために、将来のための投資が不足してしまったのです。日本はずっとカネ余り・モノ余りだったと思われていますからあまり認識されていないようですが、実は21世紀の日本と日本企業の競争力を考えるときに、深刻な問題があったと思います。

まず一つは労働力です。日本は80年代後半から労働人口(働ける年代の人口)が減り始めました。しかも急速に高齢化が進展しており、90年代には一番人口が多いベビーブーマーがシニア働き蟻層として若い世代の上にどっかり腰を下ろしてしまったのです。この方々はしっかり調整型の和を重んじるタイプで自らリスクはとらないですし、年功賃金の頂点にいて高い給料と多額の退職金を謳歌することになりました。企業が新しい分野に人的資源を投入しようとしても、実際に働く人材が確保できなかったものと思われます。実はこの時点で人材のグローバル化に着手していれば、先進各国に先んじて有能人材、すなわち他の国の1割の働き蟻を日本や日本企業のために確保できたのにと悔やまれます。

つぎに不足したのはカネです。バブル崩壊までは日本の有力企業は手元に巨額の現金を持っており、松下銀行とかトヨタ銀行と言われていました。ところがバブル期に本社社屋や保養所・社宅といった企業の付加価値創造には直接関係のないことにカネを使ってしまったこと、そして言うまでもなく、バブル崩壊で運用資金が大幅に目減りしてしまったために、手元資金が減ってしまいました。手元資金が減っても大型の資金調達が可能であれば、カネは回ったのですが、先送りにしていた銀行の不良債権処理が90年代後半から2000年代前半まで時間を要し、金融セクターが資金を提供できる状況ではなかったのです。一方海外では、90年代からリーマンショックまでの約15年間にわたり、途中でITバブル崩壊があったものの、その影響も乗り越えて経済成長が続きました。この間に世界の企業は「競争相手より早く、より大きな投資で勝負にカタをつける」という戦略を展開し、1割の働き蟻が猛烈に働いてその戦略を実現していったのです。例えばサムソンの半導体投資や天然資源企業の大型買収などが相次いで発生しました。そしてその規模は殆どの日本企業には手の届かない数兆円といった単位になっていきました。日本の会社は小金は持っていたが、この規模の投資や買収には手が出なかった、すなわち相対的な資源不足にあったのです。

最後に、そして致命的だったのは、働き蟻の能力不足という資源制約でした。これは半分は教育の問題でしょうが、もう半分は働き蟻の努力不足です。この点については、すでに一部の働き蟻の方々は気付いておられると思うので詳細には記しませんが、分かりやすい例としてはグローバルなコミュニケーションの手段である英語での仕事能力です。日本のマスコミは世の中の空気を読んでその範囲内で発信する傾向があるので、情報収集手段としては不十分ですから、英語の有力新聞を毎日読むような努力が必要ですが、日本の働き蟻の1割がそういう努力をしているか疑問です。そこで収集した情報をもとに論理を組み立て数字で補強して、英語で発信できる人がどれほどいるかなということです。今は新卒で外資系に就職する人も増えていますので、「外資は給料は沢山もらえるが仕事はきついし雇用の保証もない」という認識が共有できてきていますが、日本にいる外資系企業が特にきついのではなく、外国企業の働き蟻はそういうレベルで仕事をしているということなのです。英語だけの問題ではなく、仕事の要求水準が高いのです。残念ながら日本の働き蟻はグローバル競争のなかでは殆どが非働き蟻に分類されるレベルになってしまいました。実は日本と日本企業の低迷の多くがこの働き蟻レベルでの資源不足から生じているように思います。

必要なグローバル基準の働き蟻

もちろん日本の働き蟻のなかに、外資系で勤めている働き蟻だけでなく、日本企業、官庁、大学・研究機関などで、グローバル規準の働き蟻として働いている、あるいは働ける人も少なくありません。ただ働く人の1割には全然達していないでしょう。従業員1万人の企業があって、グローバル規準の働き蟻が1千人いたら、会社は全く変わると思いませんか?また日本には1歳あたり百数十万人の人口がいます。もしこのうち10数万人がグローバル規準の働き蟻になったら、日本はまた成長を始めるでしょう。仮に1歳当たり10万人の働き蟻を生むためには、学歴と仕事能力は直接の関係はないものの、年間に国立大学に入学する学生数が10万人弱なので、そのくらいの人数が働き蟻になるくらいのイメージです。(勿論私立大学に国立大学の学生より優秀な方が沢山いることは存じております。あくまでも規模感を示しただけです。)

実は90年代の後半から、世界中の企業がグローバル規準の働き蟻と働き蟻候補を求めて、世界規模で人材の争奪戦をしています。そして働き蟻候補の候補を探して、大学が人材の獲得競争をしています。その人材供給源の主要な国が中国とインドになったりしているのです。具体的な例はいくらもありますが、アメリカは高度人材用に特別な雇用ビザ枠を設定していますし、9.11以降アメリカが入国審査を厳しくした機会を捉えて欧州諸国が米国からの流出人材を確保に走る、シンガポール政府がインドの大学生に永住ビザを発行するので来ないかと個別に電話攻勢しているといった動きです。(じつはこの動向はずっと英語の有力新聞には書かれていたのですが、日本のシニアな働き蟻たちは全然知らなかったようです。これだけ見ても英語でのグローバルな情報収集能力の欠如が日本と日本企業の競争力を損なっていたように思えます。)

日本全体の1割をグローバル規準の働き蟻にすることはともかく、企業としてはこのままではジリ貧が見えていますので、1割の働き蟻確保に向けて、直ちに動く必要があるでしょう。そのためには日本人を育成していたのでは間に合いません。グローバルな展開をしている日本企業にとっては、海外で非日本人の働き蟻を確保することがどうしても必要だと思います。現在の日本企業海外拠点で働いている非日本人は、多分殆どが働き蟻ではなく、現地の非働き蟻の人たちなのです。日本企業は、非日本人にカネも権力も渡さないのですから、働き蟻が集まらないのは当然です。そして非日本人の働き蟻と同じように働く日本人の働き蟻が出てくれば、その人たちにカネと権力を渡さなければならなくなるのも時間の問題でしょう。

これからは日本も「1対9」の普通の国になる

こういうプロセスを経て、日本企業も「9割の(日本基準の)働き蟻と1割の非働き蟻」という構造からその他世界と同じように「1割の(グローバル規準の)働き蟻と9割の(グローバル規準の)非働き蟻」という構造に移行していくでしょう。

これまで見てきたように、日本と日本企業が上手くいかなくなった責任は、日本の輝かしい時代を支えてきた殆どの日本基準の働き蟻たちには無いと思います。世界がグローバル化していく中で、本当は1割の本当の働き蟻、グローバル基準の働き蟻が必要だったのだけれど、日本や日本企業のシニア働き蟻たちが本来の役割、即ちグローバル基準の働き蟻の役割を果たさなかったことに原因があります。

もちろんジュニアな働き蟻の中で、グローバル基準の働き蟻となって、シニアな働き蟻がどっかり腰を下ろした旧体制の外側で活躍した人、活躍している人はいます。そういう人は外資系ではたらいているか、新しい企業を創業することで、本来の働き蟻の役目を果たしています。ただ、研究者や外資で働いている限りはシニア働き蟻から邪魔されることは無いのですが、創業で成功しても成功が故に既存のシニア働き蟻の権益に影響を及ぼすようになると、排除されるようになります。90年代から2000年代に登場したIT系の創業者が、シニア働き蟻から排除されていった事件は記憶に新しいかと思います。

日本企業が、従業員の1割のグローバル基準の働き蟻を確保し、その人たちを本来の形で働いてもらうためには、シニア働き蟻層の抵抗を抑え、また本当の働き蟻に逃げられないような待遇を用意しなければなりません。これは大変難しい話で、そもそも決断する経営者がシニア働き蟻の中から選ばれた調整型リーダーですから、不可能に近いことかもしれません。ただ数は多くないが、本当に危機感を持って動き始めているように見える経営者もおられるようです。こういう会社が先頭を切ってグローバル基準の働き蟻を育成し、他の企業からかき集めるようになれば、自然と周りの企業もグローバル基準の働き蟻が役割を果たせるように変わっていかざるを得なくなるでしょう。シニア働き蟻の中核的存在である団塊世代が定年を迎えつつある、今がその変革の機となることを期待したいと思います。

非働き蟻の重要な役割

ではこれまで働き蟻を自負してきた人たちが、非働き蟻に喜んでなるのだろうかという疑問が生じるでしょう。実はこれは意外とスムーズに進むのでないかと思うようになっています。

一つ目は、若い世代ほど今までの枠組みが維持できなくなっていることを感じ取っていると思います。いくら会社のために尽くしても、会社の工場や営業所は海外に移っているし、年金は上の世代が使い切ってしまいそうだ。会社という組織に忠誠を誓っても、会社がそれに応えてくれる保証がないし、そもそも会社そのものが生き残れるかも疑わしい。そういう状況のなかで、家族との時間を犠牲にしてまで、働き蟻を演じることに価値があるのかという風に考えるようになっていると思います。

次に、東日本大震災以降に顕著となったと考えるのですが、いざとなった時に頼りになるのは、会社という場ではなく、家族や地域社会という絆なのではないかという考え方です。最近ブータンの国王と王妃が新婚旅行で来日したことを契機に、貧しくても家族や地域社会の温かいつながりで人々が幸福に暮らしているという一つの社会のあり方に若い人が共鳴しています。

その通りです。人間の幸福がカネや権力の多さだけで決まるというのは偏った見方です。カネを稼ぐ手段として仕事があるのであり、それは確かにおろそかにはできないけれど、他に沢山やることはある。つまり家族との触れ合いの時間を多くとったり、地域の隣人との絆を強める、また小学校や中学校の運営を教師任せにしないで、地域全体で支えるための組織的活動をする。さらに高齢化のなかで、老人と共生できるような優しい社会造りにたずさわる。などなど、本当に人間らしい生活をするために、仕事と会社のために費やす時間を削って、より幸せを高め、充実感の得られる活動があるはずです。

これらを進めるためには、資金が必要です。こういった活動の主体はNPO(非営利団体)になりますが、活動が本格化するとどうしても専従の職員が必要となるので、そういう職員を雇うための資金が必要です。こういう資金は、皆で少額のカンパするとともに、1割の働き蟻から出させればよいのです。1割の働き蟻だって子供を学校に通わせますし、地域社会の一員でもあるからです。金持ちに資金を出させるには国と地方の税制を変える必要がありますが、これは非働き蟻こそが政治を動かせばよいのです。何といっても9割が非働き蟻なのですから。

非働き蟻が果たすべき役割は、こういう家族・地域の絆から外れてしまう人たちに気を配り、出来るだけそういう人たちを作らないようにすることです。いろいろな活動を進める際に近しい人たちと濃い関係を作るよりも、オープンなつながりとして、より広範な人々が参画できるようにすること、例えば失業中の若者をNPOの専従職員として積極的に雇い入れるなど、弱い立場の人たちを救うことを一つの使命とすべきでしょう。会社だけでなく、地域からもはじかれたような状況にある人が増えると、社会は不安定化します。こういう人々を出さないようにすることはとても大事なことで、当然1割の働き蟻にとっても感謝されるべきことです。この意味でも働き蟻が資金を出す理由があります。アメリカのNPOでは多くの資金を拠出した人を大会で大げさに表彰したり、建物や橋や道路にその人の名前をつけたりします。とても効率の良いやり方で、寄付者のプライドをくすぐって、表彰する費用の1万倍くらいの寄付を出させるのです。

だから非働き蟻は、働き蟻がカネを稼ぎ、高い地位を得たりすることを受け入れてあげる必要があります。間違っても引きずり降ろそうなどとしてはいけません。というのは、この人たちの寄付が活動資金になるだけでなく、経済全体の活動をやはりこの働き蟻たちが支えているからです。誰かがグローバル経済の中で製品を作り、商品を売り、海外事業の利益を国内に還流させなければ、社会全体は成り立たないからです。まあ必要悪みたいなものと認識し、足を引っ張るのはやめておくべきです。

「1対9」の日本での企業のあり方

このような社会へ移行していくことを前提に、日本企業は何をするべきか、以上で述べてきたことの繰り返しになりますが、おさらいします。

まずグローバル経済における競争力を強化するために、グローバル基準での働き蟻を従業員の1割確保すべく、報酬と待遇の体系を変えることです。この体系は他の国の働き蟻も惹きつけるものでなければなりません。グローバル戦略を検討してから、この報酬体系見直しをするのではダメです。現在のシニア働き蟻の決め方ではろくなグローバル戦略は出てきません。グローバル基準の働き蟻に考えさせるべきです。まずはそういう働き蟻を確保することからスタートすべきです。

グローバル基準の働き蟻を正当に遇するためには、お金が必要です。その原資は非働き蟻の給与を下げるしかありません。思い切って給与水準を下げる代わりに、繁忙期の労働力を組合員の残業でこなすのではなく、正規社員を増やしてワークシェアしてもらうこともこの新しいあり方を持続可能なものとするためには必要かもしれません。この結果、非働き蟻の仕事に対するモチベーションは下がるでしょう。ただ日本の場合は、旧社会主義諸国のように怠惰になってしまうとは考えられません。現在日本でどうみても非働き蟻の処遇しかされていない非正規社員でも、真面目に誠実に仕事をするという姿は、コンビニやファミレスでも本当に感心します。

この改革は政府主導でやるものでなく、社会全体のコンセンサスを基に進めるものでもないだろうと思います。グローバルな競争で切羽詰まった企業が、自らの生存のために改革を先行して実行し、周りの企業が追随するという形で進められるものだと思います。非働き蟻の活動を支えるには、社会の変化も必要ですが、人々の意識は随分変化し、この改革を受け入れる方向になっていると思います。

どのみち日本企業はこういう方向で変わらざるをえません。将来環境に強いられる形で追い込まれるよりは、今着手すべきとは思いませんか?

(終わり)

とてもうまく描き出していると思います。

ただ、そもそも1割のエリート層を「働き蟻(worker ant)」と表現することに、そしてノンエリートのワーカー層を「非働き蟻(non worker ant?)」と表現することに、言葉の次元でいささか抵抗感を感じてしまうのも事実です。

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