集団的労使関係なき権利教育は「窮鼠猫を噛む」か
金子良事さんが面白いことを言ってます。
http://ryojikaneko.blog78.fc2.com/blog-entry-265.html(異議を申し立てる力)
私は権利教育というのは筋が悪いと思っている。そんな生存権ギリギリのところまで追い詰められてから戦かうのではなく、もっと交渉するということをちゃんと日常的な行為として身につけるべきだと思う。それがないと、結局、窮鼠猫を噛むみたいな話になり、追い詰められて一寸の虫にも五分の魂があることを見せつけたいという運びになる。それではまったく生産的ではない。ただの百姓一揆である。
うーん、若干誤解があるような気もします。権利教育は必ずしも交渉を否定しているわけじゃなく、むしろ交渉を通じて自分の権利を主張実現していくという筋だと思っているんですが。
実際、日本の労働政策で労働教育がかなり実施された1940年代末から50年代の頃の労働教育関係文書を見ると、そのトピックの大部分は労働組合とか団体交渉に関することだったわけだし。
ついでに最近の近世史学的に言えば、百姓一揆ってのも窮鼠猫を噛むというよりは団体交渉的性格が結構強かったりするんですが、それはまあさておき、
でも金子さんがこういう言い方をされるにはそれなりの理由があって、今日のように集団的労使関係があまりにも希薄化してしまっていると、権利がどうこうってのもほとんど個別化されてしまい、現実問題として交渉の余地もくそもなく、我慢を重ねたあげくに「追い詰められて一寸の虫にも五分の魂があることを見せつけたいという運び」になるのが一般的だからでしょう。
その意味では、金子さんの
しかし、交渉を教えるのもまた難儀である。実際、やってみせるのが一番の教材ではあるのだが、それを目の前で見ても、何も感じられない人もいる。それは前提として、自分がやってもダメだということがある。
ってのも、やはり交渉ってものができる集団的枠組みがないとただの畳の上で水泳を教える話になってしまうわけです。鶏と卵みたいですが、実はここが最大のネック。
日常的に、そこそこのレベルで交渉するのを自然に学んでいけるというのが一番望ましいんですけどね。
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