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2013年9月 7日 (土)

ジョブとメンバーシップと奴隷制

世の中には、ジョブ型雇用を奴隷制だと言って非難する「世に倦む日々」氏(以下「ヨニウム」氏)のような人もいれば、

https://twitter.com/yoniumuhibi/status/283122128201609216

本田由紀とか湯浅誠とか、その亜流の連中が、そもそも正規労働を日本型雇用だと言ってバッシングし、正規雇用を非正規雇用の待遇に合わせる濱口桂一郎的な悪平準化を唱導している時代だからね。左派が自ら労働基準法の権利を破壊している。雇用の改善は純経済的論理では決まらない。政治で決まる問題。

https://twitter.com/yoniumuhibi/status/290737267151077376

資本制の資本-賃労働という生産関係は、どうしても古代の奴隷制の型を引き摺っている。本田由紀らが理想視する「ジョブ型」だが。70年代後半の日本経済は、今と較べればずいぶん民主的で、個々人や小集団の創意工夫が発揮されるKaizenの世界だった。創意工夫が生かされるほど経済は発展する。

それとは正反対に、メンバーシップ型雇用を奴隷制だと言って罵倒する池田信夫氏(以下「イケノブ」氏)のような人もいます。

http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51870815.html(「正社員」という奴隷制)

非正社員を5年雇ったら正社員(無期雇用)にしなければならないという厚労省の規制は、大学の非常勤講師などに差別と混乱をもたらしているが、厚労省(の天下り)はこれを「ジョブ型正社員」と呼んで推奨している

・・・つまりフーコーが指摘したように、欧米の企業は規律=訓練で統合された擬似的な軍隊であるのに対して、日本の正社員はメンバーシップ=長期的関係という「見えない鎖」でつながれた擬似的な奴隷制なのだ。

もちろん、奴隷制とは奴隷にいかなる法的人格も認めず取引の客体でしかないシステムですから、ジョブ型雇用にしろメンバーシップ型雇用にしろ、奴隷制そのものでないのは明らかですが、とはいえ、それぞれが奴隷制という情緒的な非難語でもって形容されることには、法制史的に見て一定の理由がないわけではありません。

著書では専門的すぎてあまりきちんと論じていない基礎法学的な問題を、せっかくですから少し解説しておきましょう。

近代的雇用契約の源流は、ローマ法における労務賃貸借(ロカティオ・オペラルム)とゲルマン法における忠勤契約(トロイエディーンストフェアトラーク)にあるといわれています。

労務賃貸借とは、奴隷所有者がその奴隷を「使って下さい」と貸し出すように、自己労務所有者がそれを「使って下さい」と貸し出すという法的構成で、その意味では奴隷制と連続的な面があります。しかし、いうまでもなく最大の違いは、奴隷制においては奴隷主と奴隷は全く分離しているのに対し、労務賃貸借においては同一人物の中に存在しているという点です。つまり、労働者は労務賃貸人という立場においては労務賃借人と全く対等の法的人格であって、取引主体としては(奴隷主)と同様、自由人であるわけです。

この発想が近代民法の原点であるナポレオン法典に盛り込まれ、近代日本民法も基本的にはその流れにあることは、拙著でも述べたとおりです。

このように労務賃貸借としての雇用契約は、法的形式としては奴隷制の正反対ですが、その実態は奴隷のやることとあまりかわらないこともありうるわけですが、少なくとも近代労働法は、その集団的労使関係法制においては、取引主体としての主体性を集団的に確保することを目指してきました。「労働は商品ではない」という言葉は、アメリカにおける労働組合法制の歴史を学べばわかるように、特別な商品だと主張しているのであって、商品性そのものを否定するような含意はなかったのです。

労務賃貸借を賃金奴隷制と非難していた人々が作り出した体制が、アジア的専制国家の総体的奴隷制に近いものになったことも、示唆的です。

一方、ゲルマンの忠勤契約は日本の中世、近世の奉公契約とよく似ていて、オットー・ブルンナー言うところの「大いなる家」のメンバーとして血縁はなくても家長に忠節を尽くす奉公人の世界です。家長の命じることは、どんな時でも(時間無限定)、どんなことでも(職務無限定)やる義務がありますが、その代わり「大いなる家」の一員として守られる。

その意味ではこれもやはり、取引の客体でしかないローマ的奴隷制とは正反対であって、人間扱いしているわけですが、労務賃貸借において最も重要であるところの取引主体としての主体性が、身分法的な形で制約されている。妻や子が家長の指揮監督下にある不完全な自由人であるのと同様に、不完全な自由人であるわけです。

ドイツでも近代民法はローマ法の発想が中核として作られましたが、ゲルマン的法思想が繰り返し主張されたことも周知の通りです。ただ、ナチス時代に指導者原理という名の下に過度に変形されたゲルマン的雇用関係が強制されたこともあり、戦後ドイツでは契約原理が強調されるのが一般的なようです。

日本の場合、近世以来の「奉公」の理念もありますが、むしろ戦時中の国家総動員体制と終戦直後のマルクス主義的労働運動の影響下で、「家長」よりもむしろ「家それ自体」の対等なメンバーシップを強調する雇用システムが大企業中心に発達しました。その意味では、中小零細企業の「家長ワンマン」型とはある意味で似ていながらかなり違うものでもあります。

以上を頭に置いた上で、上記ヨニウム氏とイケノブ氏の情緒的非難を見ると、それぞれにそう言いたくなる側面があるのは確かですが、そこだけ捕まえてひたすらに主張するとなるとバランスを欠いたものとなるということが理解されるでしょう。

ただ、ローマ法、西洋法制史、日本法制史といった基礎法学の教養をすべての人に要求するのもいかがなものかという気もしますし、こうして説明できる機会を与えてくれたという意味では、一定の意味も認められないわけではありません。

ただ、ヨニウム氏にせよ、イケノブ氏にせよ、いささか不思議なのは、理屈の上では主敵であるはずのそれぞれジョブ型そのものやメンバシップ型そのものではなく、その間の「ほどほどのメンバーシップとほどほどのジョブ」(@本田由紀氏)からなる「ジョブ型正社員」に異常なまでの憎悪と敵愾心をみなぎらせているらしいことです。

そのメカニズムをあえて憶測すればこういうことでしょうか。

ヨニウム氏にとっては、(イケノブ氏が奴隷と見なす)メンバーシップ型こそが理想。

イケノブ氏にとっては、(ヨニウム氏が奴隷と見なす)ジョブ型こそが理想。

つまり、どちらも相手にとっての奴隷像こそが自分の理想像。

その理想の奴隷像を不完全化するような中途半端な「ジョブ型正社員」こそが、そのどちらにとっても最大の敵。

本田由紀さんや私が、一方からはジョブ型を理想化していると糾弾され、もう一方からはメンバーシップ型を美化していると糾弾されるのは、もちろん人の議論の理路を理解できない糾弾者のおつむの程度の指標でもありますが、それとともに理解することを受け付けようとしないイデオロギー的な認知的不協和のしからしむるところなのでもありましょう。

あらぬ流れ弾が飛んでこないように(いや、既に飛んできていますが)せいぜい気をつけましょうね。

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コメント

ヨニウム氏は時代錯誤の懐古趣味、イケノブ氏はエリートや起業家を想定して飛躍し過ぎ。
hamachanも本田氏も普通の人の働き方を議論しているのに。
大体本物の奴隷が聞いたらどんな顔をするかと思ってしまいました。

ローマ法やゲルマン法まで遡って解説して頂いてありがとうございました。「家それ自体~」を詳しく教えて頂ければ幸いです。
最後に引用されたブログは「雇われ」観というタイトルからして受身で途中で読むのを止めてしまいました。

いつも勉強させていただいています。
今回のエントリーも大変ためになりました。
実はアゴラもよく読んでいるのですが(例のイケノブ氏のはほとんど読みませんが、筆者によってはためになる論考のありますので)、この様なエントリーをアゴラにも投稿していただくと議論が深まるのではと思うのですが。池尾氏や松本氏など、アカデミックおよび実業の分野で実績のある方もいらっしゃるので。まあ、代表がアレなので無理ですかね・・・。

そもそも「奴隷」って何でしょう。

昔の映画「ベン・ハー」を見ると奴隷が鎖に繋がれて、鞭打たれながらガレー船のオールを漕いでいました。

で、その船にはかつての友人の鬼謀によって、奴隷に落とされた主人公ベン・ハーもいたわけですが、いずれにしても「奴隷がー」という人の頭の中に、ベン・ハーの姿があったのは間違いないでしょう。

で、その奴隷たちは漕いでいるガレー船が沈没すると、舟もろとも沈むわけです。

ただ、ベン・ハーの場合は近くにいたローマの貴族を救ったため、その後その貴族の養子になりますが。

で、イケノブさんに関しては、日本の企業が「共同体と化している」ということが、理解されていないのではないかと思います。

本来、企業は「機能的職能集団」つまり「ジョブ型組織」であるべきですが、日本では戦後村落共同体が崩壊ししたため、企業の中にその構造がもぐりこみ、企業共同体と化したという流れがあります。

あと、 RUIさんがいう、「家それ自体~」というのは、とどのつまり「共同体」のことで、分かりやすく言えば、「高家筆頭吉良家」や「赤穂藩浅野家」に代表される「お家」のことです。

また、「越後屋」とか「三河屋」などの昔ながらの「大店」も「お家」になるでしょう。

結局、日本人にとって「働く」ということは、どこかの「お家」の一員として迎え入れられて、「滅私奉公」をすることである。そういう認識があるのだと思います。

ただ、今の世の中でそれをそのまま行った企業が、「ブラック企業」として非難されるわけですが。

そしてのその「滅私奉公」が、映画の中の「ベン・ハー」とオーバーラップして、「奴隷がー」とか言う人が出てくるのでしょう。

そういう意味ではhamchanさんのいう、「日本型からの脱却」というのは、「共同体型の組織」からの脱却を意味していると思います。

一つの思考実験として、「メンバーシップ型」と「ジョブ型」つまり、「共同体型」と「機能的職能集団型」のハイブリッドの企業形態は可能かどうかを、考えてみたいと思います。

その答えは、多分「イエス」でしょう。

なぜそういえるのかというと、例えば、アメリカのメジャーリーグの球団が、ジョブ型とメンバーシップ型のハイブリッドだと言えるからです。

つまり、その球団に所属している選手は、文字通り、その球団に「選ばれて所属」しています。そういう意味で、選手は「メンバー」であり、球団は「メンバーシップ」に基づいて運営されています。

そして、その選手が求められるのは、その球団
が勝つための「ジョブ」です。
そういう意味では、確実に「ジョブ型」です。

それと、選手個人の意識を考えると、一人ひとりの選手が自分の全存在と誇りをかけて、試合に臨んでいることでしょう。
そういう意味では、メジャーリーガーは完全に「CALLING」になると思います。

さらに、他のところでもコメントされている方がいるように(バイトAKB参照)、アメリカではメジャーリーガーは、「労働者」として、認められているそうで、そういう意味から言えば、アメリカプロ野球の球団のような企業形態は、これから先の日本の企業形態として、望ましいものではないでしょうか?

ただ、選手が期待されている「ジョブ」を果たすことが出来なければ、放逐されるという、厳しさはあるにしても。

この記事での引用元であるイケノブさんの、ブログ記事を読んでみました。

すると、彼は、全体像を見ずに部分だけを見て(木を見て森を見ない)いるわけではないことが分かりました。

ただ、「メンバーシップの反対が、オーナーシップであるという」、イケノブさんの主張は、濱口さんの言う、メンバーシップ型と、ジョブ型が対概念になりうるという、論理構造の把握に関して、理解が不足していると思いました。

あと、やはり「正社員」=「奴隷」言う認識も、短絡的ではないかと思います。

それと、wikiを調べてみたところ、メンバーシップ型と、ジョブ型が対概念になりうる根拠を見つけました。

それは、ドイツ語における「ゲマインシャフト(Gemeinschaft)」と「ゲゼルシャフト(Gesellschaft)」です。

ゲマインシャフトはドイツ語での共同体であり、ゲゼルシャフトは機能体組織あるいは、「社会」を意味し、このゲゼルシャフトとゲマインシャフトの関係性が、まず理解され、かつ、近代社会は共同体である「ゲマインシャフト」から機能集団である、「ゲゼルシャフト」へ移行することで実現する。という流れが、理解されることが、メンバーシップ型とジョブ型の意味を理解するために、必要なのだと思います。

そういう意味で言うと、日本の問題点は日本社会が「ゲゼルシャフト化」していないことが、根っこにあると思います。

それと、ヨーロッパの場合地続きであるために、人の流動が活発であるため、結果的に地縁血縁中心の、ゲマインシャフトから、能力中心のゲゼルシャフトへの移行が起こったのに対して、日本の場合には四方が海であるため、人の流動がほとんどなく、結果的にゲマインシャフトの構造が維持されていることが、問題なのだとも思えます。

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