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2013年9月18日 (水)

高等教育の問題点@『季刊労働法』242号から

4910197091032_2さて、『季刊労働法』242号に載せたわたくしの「職業教育とキャリア教育」という文章の中に、先日の朝日新聞のインタビュー記事を補足するような一節がありますので、そこだけちょっと引用しておきます。

ある種の人々にとってはかえって怒りに火を注ぐ内容かも知れませんが。

10 高等教育の問題点

 このように、大学院ですら正面から職業教育機関としてのアイデンティティを確立しつつある中で、肝心の大学自体は依然として職業教育機関として位置づけられていません。
 もっとも、理工系学部においては学術研究と技術者としての職業教育とが密接不可分であり、学部卒業生のかなりの部分が大学院修士課程に進学し、就職していくという形をとっているため、(いわゆるオーバードクター問題は存在しますが)高等職業教育機関としての矛盾はあまりないということもできます。
 これに対し、文科系学部は問題の塊です。とりわけ経済学部や文学部などは、その学術研究機関としての建前からくる高度にアカデミックな教育と、現実の就職先で求められる職業能力とのギャップをどう埋めるのかという解きほぐしがたい問題に直面しつつあります。
 さらに今日大学進学率が5割を超え、能力不足故進学できない者はいなくなっています。大学進学の可否は本人の能力ではなく親の経済力によって決まるのです。高校卒業時に就職することすらできなかった「落ちこぼれ」が、親がその間の機会費用負担できるという条件さえクリアすれば、大学に進学し、その大部分は文科系学部に進むのです。こういう大学生は、上述のレベルの低い普通科高校の生徒と同じ問題、すなわち職業能力の欠如という問題に直面し、フリーターやニートの源泉となっていきます。
 この問題は、大学教師の労働市場という問題とも絡みますが、いずれ正面から職業教育機関としての大学という位置づけが迫られることになるでしょう。

このあたり、本ブログでだいぶ前に結構書いた記憶がありますが、どういう層を念頭に置いて議論をしているのかで、全然イメージが違ってくるのでしょう。

も少し(やや皮肉を交えて)言うと、哲学科だって、その学生の大部分がどこかの大学の哲学の先生のポストにつけるんだったら、立派な職業教育なんですよ。そういう大学であれば、ですが。

7年以上も昔のものですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_c7cd.html(哲学・文学の職業レリバンス)

一方で、冷徹に労働市場論的に考察すれば、この世界は、哲学や文学の教師というごく限られた良好な雇用機会を、かなり多くの卒業生が奪い合う世界です。アカデミズム以外に大して良好な雇用機会がない以上、労働需要と労働供給は本来的に不均衡たらざるをえません。ということは、上のコメントでも書いたように、その良好な雇用機会を得られない哲学や文学の専攻者というのは、運のいい同輩に良好な雇用機会を提供するために自らの資源や機会費用を提供している被搾取者ということになります。それは、一つの共同体の中の資源配分の仕組みとしては十分あり得る話ですし、周りからとやかく言う話ではありませんが、かといって、「いやあ、あなたがたにも職業レリバンスがあるんですよ」などと御為ごかしをいってて済む話でもない。

職業人として生きていくつもりがあるのなら、そのために役立つであろう職業レリバンスのある学問を勉強しなさい、哲学やりたいなんて人生捨てる気?というのが、本田先生が言うべき台詞だったはずではないでしょうか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_bf04.html(職業レリバンス再論)

哲学者や文学者を社会的に養うためのシステムとしての大衆化された大学文学部システムというものの存在意義は認めますよ、と。これからは大学院がそうなりそうですね。しかし、経済学者や経営学者を社会的に養うために、膨大な数の大学生に(一見職業レリバンスがあるようなふりをして実は)職業レリバンスのない教育を与えるというのは、正当化することはできないんじゃないか、ということなんですけどね。

なんちゅことをいうんや、わしらのやっとることが職業レリバンスがないやて、こんなに役にたっとるやないか、という風に反論がくることを、実は大いに期待したいのです。それが出発点のはず。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/04/post_722a.html(なおも職業レリバンス)

歴史的にいえば、かつて女子の大学進学率が急激に上昇したときに、その進学先は文学部系に集中したわけですが、おそらくその背景にあったのは、法学部だの経済学部だのといったぎすぎすしたとこにいって妙に勉強でもされたら縁談に差し支えるから、おしとやかに文学でも勉強しとけという意識だったと思われます。就職においてつぶしがきかない学部を選択することが、ずっと仕事をするつもりなんてないというシグナルとなり、そのことが(当時の意識を前提とすると)縁談においてプラスの効果を有すると考えられていたのでしょう。

一定の社会状況の中では、職業レリバンスの欠如それ自体が(永久就職への)職業レリバンスになるという皮肉ですが、それをもう一度裏返せば、あえて法学部や経済学部を選んだ女子学生には、職業人生において有用な(はずの)勉強をすることで、そのような思考を持った人間であることを示すというシグナリング効果があったはずだと思います。で、そういう立場からすると、「なによ、自分で文学部なんかいっといて、いまさら間接差別だなんて馬鹿じゃないの」といいたくもなる。それが、学部なんて関係ない、官能で決めるんだなんていわれた日には・・・。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/post_8cb0.html(大学教育の職業レリバンス)

前者の典型は哲学でしょう。大学文学部哲学科というのはなぜ存在するかといえば、世の中に哲学者という存在を生かしておくためであって、哲学の先生に給料を払って研究していただくために、授業料その他の直接コストやほかに使えたであろう貴重な青春の時間を費やした機会費用を哲学科の学生ないしその親に負担させているわけです。その学生たちをみんな哲学者にできるほど世の中は余裕はありませんから、その中のごく一部だけを職業哲学者として選抜し、ネズミ講の幹部に引き上げる。それ以外の学生たちは、貴重なコストを負担して貰えればそれでいいので、あとは適当に世の中で生きていってね、ということになります。ただ、細かくいうと、この仕組み自体が階層化されていて、東大とか京大みたいなところは職業哲学者になる比率が極めて高く、その意味で受ける教育の職業レリバンスが高い。そういう大学を卒業した研究者の卵は、地方国立大学や中堅以下の私立大学に就職して、哲学者として社会的に生かして貰えるようになる。ということは、そういう下流大学で哲学なんぞを勉強している学生というのは、職業レリバンスなんぞ全くないことに貴重なコストや機会費用を費やしているということになります。

ついでに、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/12/post-f2b1.html(経済学部の職業的レリバンス)

ほとんど付け加えるべきことはありません。「大学で学んできたことは全部忘れろ、一から企業が教えてやる」的な雇用システムを全面的に前提にしていたからこそ、「忘れていい」いやそれどころか「勉強してこなくてもいい」経済学を教えるという名目で大量の経済学者の雇用機会が人為的に創出されていたというこの皮肉な構造を、エコノミスト自身がみごとに摘出したエッセイです。

何かにつけて人様に市場の洗礼を受けることを強要する経済学者自身が、市場の洗礼をまともに受けたら真っ先にイチコロであるというこの構造ほど皮肉なものがあるでしょうか。これに比べたら、哲学や文学のような別に役に立たなくてもやりたいからやるんだという職業レリバンスゼロの虚学系の方が、それなりの需要が見込めるように思います。

(このエントリへのコメント)

https://www.facebook.com/kojikomatsuzaki/posts/10201142555020434

なるほど、このお二人の言い分も角度を変えて見てみたら一理ある。というか、世間一般からしたらこっちのほうが普通なんだろう。

・・・両氏の指摘、腹立たしくもあったんですがこれが事実でもあります。

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