太田出版の『atプラス』17号に、綿野恵太氏が「新自由主義者の労働論――ユニクロ、ドラッカー、ブラック企業」という論文を書かれていて、これ自体が大変興味深い内容ですが、本筋に入る前に、その中で濱口桂一郎に対する批判がされているので、ご紹介しておきます。
http://www.ohtabooks.com/publish/2013/08/08153042.html
・・・いま現在では「同一労働同一賃金」は「日本型正規雇用」を解体するための合い言葉となっている。繰り返すが、「連帯」ではなく「競争」を導く言葉として。これを新自由主義者が言うのは論理的に理解できるとしても、問題は「資本を持たない企業家」の味方を自認する人までがそう言っていることである。たとえば、その無自覚な論者の一人に濱口桂一郎が挙げられるだろう。濱口はEU的な福祉国家をモデルにし、社会福祉制度の充実を目指した後、「同一労働同一賃金」である「ジョブ型」への移行を唱えており、もちろん新自由主義者ではない。しかし、正規雇用の待遇を非正規の水準に合わせるべきと「同一労働同一賃金」の徹底を新自由主義の立場から唱えている八代尚宏の発言にも「一定の合理性」があるとも述べている.つまり、新自由主義者との違いはつまるところ、福祉の拡充を重視するか否かでしかないだろう。
そして、濱口によれば、そのような雇用形態の改革は、非正規労働者も含めた労働組合の組織化による、上からではなく下からの「産業民主主義」によって担われるというのだから、あきれるほかない。ここでは、労働組合は市民社会における中間団体でしかなく、フーコーが市民社会について18世紀末に現れた「自由主義的統治テクノロジーの総体の一部」と述べていたことを想起しなくても、濱口が目指す最終的な着地点が「労使協調」以外にあり得ず、なぜ資本主義自体は全く問題視されないのか、労働者と雇用者が対等に話し合える「民主主義」などそもそもあり得たのか、とだけ問えばよい。濱口の提案は、非正規労働者の社会的不遇の解決を意図しているが、なぜ正規・非正規という「資本を持たない企業家」同士で少ないパイを争わねばならないのか。たとえその争いを、話し合いによる「民主主義」なる語で糊塗したとしても、そのような下からの「民主主義」など、「同一労働同一賃金」を目指す新自由主義者に早晩骨抜きにされるだろう。・・・
というわけで、ある一つの立場からの批判としては極めて筋が通っており、
https://twitter.com/train_du_soir/status/367220084231512065
atプラス最新号の綿野論文、「新自由主義」批判についての賛否は兎も角として、引用された批評それぞれについての見通しが良く、この手の批判の「原点」がどの辺りにあるかを分かり易くしてくれる優れ物。(ただし、市場経済に代わり得る代替物がどの様なものなのかは分からない。)
https://twitter.com/train_du_soir/status/367220220709982209
濱口桂一郎氏に対する手厳しい批判もあるが、こうした視点からはあり得べき批判であり、理解そのものに問題があるようには見えない。
という評価に同感です。では非正規労働者をどうするの?という問いに対する答えは「資本主義自体」をどうにかするしかなく、それまではお預けという処方箋が納得してもらえるかですが、それはそういう立場であるわけですから。
ただむしろ、本論文で綿野氏がやや無自覚的に摘出しているのは、戦後日本型雇用システム、あるいはむしろ戦後日本型雇用のイデオロギーが、ピーター・ドラッカーの思想の、(その本国における非実現と対照的な)異国の地における実現であったことでしょう。
実際、出発点はカール・ポランニーと同様、資本主義の「悪魔の挽き臼」からの脱出口がナチスのような全体主義とならないためにはどうするべきか?というところにあったドラッカーが、『経済人の終わり』『産業人の未来』『企業の概念』といった初期の著作で徐々に構築していったのが、資本主義の中核であるはずの企業を資本主義の悪魔の挽き臼からの防波堤にするというアクロバティックな発想であり、それを忠実に実現したのが日本型雇用システムであったと言えるからです。
なぜ本国では実現しなかったのか?皮肉な言い方をすれば、労働者自身がまさに労働力の売り手としての資本主義的精神に基づいてあくまでも対峙しつづけ、その買い手に過ぎない企業を市場原理からの防波堤として自らの身を投げ出すという脱商品化に踏み切れなかったからでしょう。
企業内労働力脱商品化を通じた社会的超商品化という理想像の実現を阻んだのは、まさに悪魔の挽き臼で商品化された労働者の資本主義的精神であったという皮肉は、その企業内脱商品化への批判に焦点を当てた日本型雇用システム批判がしかしそれを成り立たせるべき労働者の「労働力販売者精神」を昂揚させるどころか、むしろますますドラッカー的な「社長島耕作になったつもりの係員島耕作」の称揚をもたらしているという今日の皮肉と好対照をなしているとも言えるでしょう。
ドラッカーを否定するにドラッカーをもってする今日の日本の精神状況を、その引用文の羅列は見事に映し出しているのですが、綿野氏の文章自体は必ずしもそれに自覚的でもなさそうに見えるのが、二重の意味で皮肉なところではあります。
最近のコメント