どっちの方向を向いてる規制改革会議の雇用改革
本日の規制改革会議の資料が内閣府HPにアップされていますが、個々の論点について論ずる前に、いったいこの会議は、どっちの方向を向こうとしているのか、さっぱり分からないということを申し上げなければならないようです。
「どっちの方向」というのは、雇用システムとしてどういう方向か、という意味です。
http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kaigi/meeting/2013/committee/130215/item2.pdf
この資料のうち、労働時間規制に関わるところは、第一次安倍内閣の時にホワイトカラーエグゼンプションで失敗したときの発想と全く変わっていないようですが、
労働時間の規制を受けない企画業務型裁量労働制の対象業務は、「事業の運営に関する事項についての企画、立案、調査及び分析の業務」に限定されており、また、対象労働者は、「対象業務に常態として従事していることが原則であること」とされている。
多様で柔軟な働き方の実現の観点から、労使の合意により、企業実務に適する形で対象業務や対象労働者の範囲を決定できることとすべきではないか。現行の労働時間法制は、原則として管理監督者等を除き、労働者は労働時間、休憩及び休日に関する規定の適用を受ける。しかし、事務系や研究開発系等の労働者の中には、専門知識や技術等に基づき、創造性の高い業務を行っている者が存在し、これらの者については労働時間の長短と評価の対象となる目標達成度・成果は直接的に結び付かない旨指摘されている。
事務系や研究開発系等の労働者のうち、一定の者については労働時間法制の適用の在り方を見直すべきではないか。
物理的労働時間規制という意味では、三六協定によって日本の労働者は事実上無制限の長時間労働のもとにあるわけで、こういう議論自体がいかに空虚なものであるかということを、2006年から2007年にかけてあれほど繰り返し説いていたのに、そういうことが全くなかったかのように、平然と同じような空虚な議論が展開されていることに、驚かざるを得ません。
そして、こういう事務職が裁量的で、創造的で、自由な働き方をしているみたいなものの言い方自体が、事務職と管理職が連続的で、ある意味で管理職予備軍的存在である日本の独特な感覚であって、世界標準では事務職というのは普通のノンエリート労働者であるという認識が全く欠落していることも指摘しておく必要があります。
逆に言えば、諸外国ではエグゼンプトは入ったときからエグゼンプトなのであり、ノンエグゼンプトは(ごく一部を除けば)ずっとノンエグゼンプトのままであるという根本的なことを抜きにしたまま、これまでの日本的雇用感覚の都合の良いところと、外国の都合の良いところだけをとり出してきて、事務職でも何でもかんでもエグゼンプトというような議論に持って行こうというのは、どうも感心しませんね。
これに対して、
正規・非正規の二分論を超えた多様で柔軟な働き方を促進する観点から、勤務地や職種が限定されている労働者についての雇用ルールを整備すべきではないか。
はまさに私も主張しているところですが、それと、最後の解雇規制のところが、どう有機的にきちんとつながっているのかいないのかが、正直この短い文章ではよく分かりません。
解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、解雇権を濫用したものとして無効とされる。
使用者及び労働者の双方が納得するルールの構築の観点から、解雇に係る規制を明確化するとともに、解雇が無効であった場合の救済を多様化すべきではないか。
最初のセンテンスは現行労働契約法の規定そのものですが、もしかしてそれ自体が問題だから変えようという趣旨なのでしょうか。それとも、それは当然だが、その上でのルールを明確化しようということなのでしょうか。
少なくとも「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない」解雇でもやって良いことにしようという趣旨であれば、それが「使用者及び労働者の双方が納得するルール」になることはあり得ないとしか言いようがないでしょう。
しかし、まさに上で述べられた「多様な形態による労働者に係る雇用ルールの整備」の一環として、「勤務地や職種が限定されている労働者」の解雇についての「客観的に合理的な理由」を明確化し、整理解雇の解決の在り方を多様化しようという趣旨であれば、それは時宜に適したものだと思います。
そして、その際限定されるべきは「勤務地や職種」だけではなく、なぜか上ではやたらに緩和したがっている労働時間の限定という労働基準法本来の趣旨でもあるということを認識する必要もあるように思います。
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コメント
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教科書的にいえば、「経済的規制」は経済活動を押さえつけている規制を撤廃すればそれでよかった。
しかし、「社会的規制」は、政策そのものを考えないと実行不可能。労働規制を緩和するかわりに、別の労働者保護や失業対策は、緩和する規制を含めて包括的な設計を考える必要があるはず。それが、「規制『改革』」といわれるようになった意味だろう。
日本人は、竹中平蔵氏とは違い、実はあまり新自由主義がすきなわけではなく、規制緩和してダメな奴は自己責任と直截にいわれれば、いまの「規制改革」の動きを、多くは支持しないと思うが、そこらへんの、議論の出発点がわざと捨象されているようにみえる。
今日のマスメディアの報道をみていても、いまだにそのような包括的な制度設計の話であるという認識がみえず、悪玉の「既得権者」と善玉の「改革派」というわかりやすい構図を描こうとしている。
このような表面的な議論をしているようであれば、今回のアベノミクスの3本目の矢も、当然のごとく行き詰まり、失速することは間違いのないところだろう。
濱口氏のご指摘のとおり、例えば、知的労働者の労働時間規制の緩和を議論するとして、それでは労働時間の規制全体をどうするのかというような議論がないと、単に経営者側の論理としてしかうけとめられないのでは。
日経新聞は財界に一流紙に育ててもらったという「空気」が社内を覆っているようなので、そのようなバランスのとれた議論を期待するのは無理だと思うが。
竹中氏が主張して事務局に民間人を入れるといっても、労働組合側の民間人ははいっているのだろうか?また、オリックスをもうけさせただけとか言われ、安倍内閣の失速の始まりの1歩になるのではないか。別に安倍内閣を支持しているわけではないので、余計なおせっかいかもしれないが。
いずれにしても、いまのようなこれまでのやり方を踏襲しただけの知恵のない運営では、これまでと同じく、日本社会の「現実」に突き当たり、規制緩和論議も「玉砕」だろう。それがわかっているから、霞が関もついていかないのだろう。
事務局の民間人は時限でやりたい放題やった後、出向元に帰れるからよいが、後始末は、民主党政権の「政治主導」の食い散らかしと同様、ヤクニンがモクモクとやるしかないのがわかっているから、やりたがらないわけだ。
政治力で突破というより、政治という可能性の技術たる「アート」を駆使し、官僚的な画一的な処理方式を上位概念に止揚して、シングルイッシュー化をこえた、望ましい改革案を展開するという智慧が求められていると思う。
投稿: yunusu2011 | 2013年2月16日 (土) 09時47分