「人権」という「お題目」
うーむ、こういう言い方自体、すでに誤解を孕んでいるような・・・。
http://twitter.com/shinichiroinaba/status/298100241108983808
いわゆる「人権問題」には何も憲法を持ち出さなくとも語れるし語らねばならん(たとえばいわゆる「人格権」なんて民法の問題でもある)ということを我々素人に対してもっと啓蒙していただきたいと思いますが学者やプロの方には。
http://twitter.com/shinichiroinaba/status/298100668357545986
中公の公民でもっと法教育をやっていただいて、「人権というのは単に憲法に書いてあるお題目のことではないのだよ」と若い人たちの骨身にしみさせていただきたいとは思いますが、現場の先生方はそういう訓練は受けておりませんのでねえ。
問題は、憲法レベルの「人権」か、下位法令レベルの「権利」かですらないような。
それこそ本ブログで何回も取り上げてきた赤木智弘氏のように、
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)
男性と女性が平等になり、海外での活動を自己責任と揶揄されることもなくなり、世界も平和で、戦争の心配が全くなくなる。
で、その時に、自分はどうなるのか?
これまで通りに何も変わらぬ儘、フリーターとして親元で暮らしながら、惨めに死ぬしかないのか?
ニュースなどから「他人」を記述した記事ばかりを読みあさり、そこに左派的な言論をくっつけて満足する。生活に余裕のある人なら、これでもいいでしょう。しかし、私自身が「お金」の必要を身に沁みて判っていながら、自分自身にお金を回すような言論になっていない。自分の言論によって自分が幸せにならない。このことは、私が私自身の抱える問題から、ずーっと目を逸らしてきたことに等しい。
といういかにもよくありがちな(リベサヨ的)「人権」感覚は、
ええ、わかっていますよ。自分が無茶なことを言っているのは。
「カネくれ!」「仕事くれ!」ばっかりでいったい何なのかと。
という「人権」感覚(の欠如)と表裏一体なわけですよ。
いうまでもなく、どちらも憲法第25条、第27条という立派な「お題目」なんですけれどもね。
つまり、憲法のお題目すら、言葉としては教えられてることになっているけど、実は全然伝わっていないの。
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