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2013年2月 1日 (金)

石水理論への疑問@『労旬』座談会より

JAMの早川さんから

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fd81.html#comment-95236302

ところで労働法律旬報、出ましたがお読みいただけましたか?

と聞かれたので、感想を書かなければなりませんね。

Rojyun178384これは、『労働法律旬報』1月合併号に掲載されている

http://www.junposha.com/catalog/product_info.php/products_id/813?osCsid=5ec55cd11d06435531465d29dcba090c

[連載]賃金を問う!①【座談会】経済分析と労働運動-パラダイムシフトに向けて=石水喜夫+早川行雄+松井健+小原成朗+仁平章

という座談会のことです。

実は正直言って、この座談会における石水善夫さんの発言に、いささか失望感を感じてしまいました。

それは、冒頭早川さんが指摘した日本型雇用システムの意義と限界に関する論点に対して、

私は実はそこがわからないのです。わからないというのは、私自身に限界があるからです。・・・

私は日本型雇用システムを官庁エコノミストの視点から描きます。・・・私の存在は経済分析における技術官僚であり、しかもそれは技術だけの問題ではなく、その精神性も間違いなく官庁エコノミストです。長らくそのように育てられてきてしまったので、今さら変えようもないようです。

ただ、そこで「限界」とだけいわれてしまうと悔しいところがあります。国は経済分析を行い、経済調整政策を行って、解雇抑制的雇用政策を運営してきました。その持つ意義は極めて大きいだろうといいたいのです。

・・・私はこの分析は、その限りでいえば、かなりの成功を収めたと思っています。ところが、このシステムは改革の対象とされ、そのほとんどは壊されました。・・・

このようなシステムの中に育ち、そして、そのノウハウで生き延びている私にとって、その「限界」とはなんなのか。そこがわからないと先に進めないのです。

この物言いは、大変謙遜しているように見えて、実はあまりにも不遜なのではないか、と、戦後60年の労働政策の歴史を見る立場からは思えます。

石水さんは、たかだか1970年代半ばから1990年代初頭までの、せいぜい20年間に主流化したものの考え方(私のいう「企業主義」の労働政策)を、あたかも(少なくとも「官庁エコノミストの世界では)万古普遍の真理か正義であったかのように描き出しています。

1960年代の政府の経済政策論や労働政策論をみれば、全く逆であったことは一目瞭然です。石水さんの目には、国民所得倍増計画も人的資源に関する経済審議会答申も、あるいは第一次雇用対策基本計画も当時の様々な雇用流動化政策や賃金制度改革に向けた政策文書も見えていないのでしょうか。

日本型雇用システム万歳論は、せいぜい1970年代半ば、石油ショック以後に主流化し、1980年代に我が世の春を謳った後、1990年代には再び力を失っていった、あえていえば一時の流行思想に過ぎません。そういう歴史的感覚がないのかな?というのが、まずもって何よりも不思議なのです。

そして、1980年代に最高潮に達した万歳論の下でも、長時間労働、女性雇用の周辺化、中高年の排出など、その問題点は常に指摘され続けていました。無反省に日本型システムのすばらしさを誇っていたのは、スキルなんかなくてもすいすい就職できる日本の若者雇用が若年失業溢れる欧米に比べてすばらしいということくらいだったようにも思われます。

むしろ、今思い出せば、当時の万歳論は労働の世界それ自体の中からというよりも、経済パフォーマンスが優れているからその基盤の日本型雇用もすばらしいという他人のふんどし論が主だったようにも思われます。であれば、経済パフォーマンスが落ちれば万歳論の推進力が落ちるのも無理からぬものがあったと言えましょう。

そして、1980年代的日本型雇用万歳論が、他人のふんどしで褒め称える一方で、現場の不満感覚をきちんとすくい上げることができなかったからこそ、1990年代初頭に会社人間批判とか社畜批判という形でややゆがんだ批判がされ、それをうまくすくい上げる形で新自由主義が広まっていったのではないか、それを、「みんなネオリベが悪いんや」という人の責任に押しつける議論でものごとが解決するのか、という問題です。

ネオリベによる批判に足をすくわれるような万歳論でしかなかったことへの真摯な反省のないまま、「今さら変えようもない」のでは、そのような声が職場の現実に届かないのも無理はないのではないでしょうか。

このあたり、時間感覚がなく、万古普遍の真理のみが書かれる建前の経済学という学問が広まる一方で、様々な正義が時とともに相せめぎ合うことを前提である社会政策論が衰退していったことが背景にあるのかもしれません。そこはよくわかりませんが。

ここで、日本型雇用万歳論が世を風靡していた頃の私の小さな思い出を記しておきます。当時、私は今はなくなった労政局の労働法規課というところにいました。集団的労使関係法制を所管する部局です。そこに、ある一国民の方が見えられ、「おまえらは労働組合法をつかって、変な労働組合が騒ぐのを助けているのはけしからん」というような苦情を縷々、1時間以上にわたって語られました。私はそもそも三権分立で立法府が法律を作り、法律による行政の原理に基づいて粛々と法を施行するのが行政の役割でございまして・・・てなことを申し上げたわけですが、今でも記憶に残っているのは、その方が、

だいたい、最近出た経済白書でも日本型雇用システムがすばらしいと書いてあるじゃないか。それなのに、それと反することをやるのはおかしい。おまえらは経済白書に逆らうのか?

正直、内心このおっさん何を言うとんじゃ、と思いましたが、「経済白書はあくまでも経済政策の観点から分析するものでして云々」とお話して帰っていただきましたが、たかだかそのときの経済白書の執筆者の見解ごときで集団的労使関係法制の原理を否定するとは何事か、と思いましたよ。

さらに思い出せば、そのころ、週刊新潮に会社がちゃんと面倒見てくれているのに労働省なんて要らねえんじゃねえんか、というような記事が出て、こいつら何を考えてんだ、と思ったこともあります。

日本型雇用万歳論は、突き詰めると人事部が他の誰よりも社員のことを大事に思ってくれるんやから、それ以外に要らんやろ、というロジックになりかねない面もあるのです。せいぜい、雇用調整助成金とか能力開発助成金で企業に金をくれればええので、それ以上は要らんと。

縷々書きましたが、どうも石水さんの議論には、たまたま彼が官庁エコノミストになった一時期の流行思想が万古普遍の真理として固定化してしまっている感がぬぐえません。

皮肉な言い方ですが、労働行政が太古の昔から日本型雇用を擁護してきたかのような虚構に立脚して非難を投げつける城繁幸氏のインチキな議論と、価値判断の方向性だけは正反対とはいえ、ほとんど同型的な議論にすら見えます。

もうすこし物事を相対化して考えた方がいいのではないか、そして物事の正否を判断する基準は、何よりも職場で現に働いている労働者の感覚そのものにきちんと寄り添うべきなのではないか、と、エコノミストではない私は思うのです。

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