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2013年2月

2013年2月28日 (木)

それが普通のレギュラーワーカー、日本の「正社員」は疑似エリート

読売の記事で、

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130227-OYT1T01749.htm(「准正規労働」で待遇改善、無期雇用で賃上げ)

厚生労働省は来年度から、正社員と非正規労働者の中間に位置する新たな雇用形態の創出に乗り出す。

 働く期間に定めがない無期雇用にして賃金を上げ、正社員に近づける一方、昇進などは制限する「准正規労働者」ともいえる形態で、増え続ける非正規労働者の労働条件の改善につなげる狙いがある。非正規労働者を准正規労働者に引き上げるなどした企業に対し、総額54億円を助成する方針だ。

 「正社員を増やすことにこだわっていても、不安定な非正規労働者が増えるだけだ」。厚労省幹部は危機感をあらわにし、今回の対策を打ち出した背景を語る。

 同省では、これまで非正規労働者を正社員にした企業に助成金を出すなど様々な対策を講じてきた。だが、非正規労働者はこの10年間に年平均約30万人のペースで増え続け、昨年は約1813万人と労働者全体の35・2%を占めるまでになった。このうち約400万人は正社員を希望しながらかなわずにいる非正規労働者だ。

本ブログで何回も繰り返してきたことですが、こういう雇用形態を「中間」とか「准正規」とか言うこと自体が、特殊日本型「正社員」という世界的にはかなり特殊な形態をデフォルトだと思っている特異な発想に基づくものなんですね。

日本以外の普通の感覚からすれば、ここで「中間」とか「准正規」と呼ばれている在り方こそ、ごくごく普通の労働者(レギュラーワーカー)の姿であり、適度に安定していてそこそこの賃金を得られる普通のノンエリート労働者の働き方。

その上に、少数派としてエリート労働者が乗っているというのが普通の姿なんですが、日本ではその外国では少数派のはずのエリート仕様の働き方が、「正社員」として普通の在り方になっていたわけです。もちろん労働者の大部分がほんとにエリートなんてことはあり得ないのですが、疑似エリートとして無制約的に働く代償として、疑似エリート的な処遇が(あくまで擬似的ですが)一定程度確保されていたわけですね、かつては。

その「正社員」をかつてのように大量に維持することがもはやできないからといって、それを縮小する一方で、過度に不安定な非正規雇用にする必要の本来ない仕事自体はずっとあるような人々が、二者択一的に非正規労働者化されてきたことが、今日の問題の原因となってきたわけですから、こういう方向性はあまりにも当たり前のことなんですが、世界的に特異な「正社員」こそが本来の姿と思っている人には、そうは見えないというのが問題の根源なわけです。

というようなことは、分かっている人には分かっているのですが、分かってない人にはなかなか分からないし、こういう記事の書き方をすれば、ますます本来あるべき「正社員」を「准正規」におとしめるように勘違いする人が出てきて、ますます話がこんがらがるのであろうなあ、と正直気が重くなります。

(追記)

https://twitter.com/mnaoto/status/307345160730193920

今までの「正社員」を「モーレツ社員」に呼びかえる法改正をしてはどうだろうか。そうすると記事の内容も、“厚生労働省は来年度から、モーレツ社員と非正規労働者の中間に位置する新たな雇用形態として正社員の創出に乗り出す”となってなかなかいい感じである。

https://twitter.com/mnaoto/status/307345929512558592

「疑似エリート」じゃなくて「モーレツさん」でええやん。ほんならなんか特殊な物好きしか選ばん雇用形態なふうな感じもでん?

そやな。「モーレツさん」と「非正規さん」の間に、「ぼちぼちさん」をつくりまひょ、といえば、エリートやらノンエリートやらいう言い方とちごて、身分制やなんやという反発も和らぐかもしれへん。

裁量労働制にコメント@東京新聞

今朝の東京新聞に、裁量労働制に関する記事が載っていますが、その中で、私がコメントしております。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013022802000101.html(裁量労働 増加の一途 残業代不払いの抜け道に)

Pk2013022802100034_size0一定時間働いたとみなし、仕事の手順や時間配分を従業員に任せる「裁量労働制」が、二〇一一年に全国で初めて九千件を超え、過去最多になった。規制緩和による経済成長を主張する経団連は適用拡大を求めるが、労働者側は「際限のない残業につながり、長時間労働を助長しかねない」と反発している。 (中沢誠)

 全国の労働基準監督署への届け出数をまとめた厚生労働省によると、一一年は、前年より四百三十二件増の九千三百五十六件。内訳は、研究開発などの特定業務に適用される「専門業務型」が七千三百三十九件、本社勤務のホワイトカラーなどに適用される「企画業務型」が二千十七件だった。届け出数は増加傾向にあり、専門業務型は過去十年で三倍、企画業務型は〇四年の適用要件緩和で、翌年は二倍に膨れ上がった。

 裁量労働制は、労働時間だけでは成果を評価しにくい働き方に対応するために設けられた。いくら働いても労使で合意した労働時間分の賃金だけを払えばいいため、経営者は残業代削減という側面に目が行きがちだ。

 企業からの労務相談を手掛ける窪田道夫・特定社会保険労務士は「『名ばかり管理職』への規制が強まり、残業代削減の逃げ道として、裁量労働制に切り替えている」と話す。景気低迷が続き、どの経営者もコスト削減に腐心している。窪田氏も顧客から残業代削減の相談を受けることは多いという。

 独立行政法人「労働政策研究・研修機構」(東京)の浜口桂一郎研究員は「IT業界の拡大に伴い、制度を使うIT企業が全体の導入件数を押し上げている」と分析する。

 システムエンジニア(SE)のようなシステム設計業務は、専門業務型の対象業種に含まれる。一一年の就労条件総合調査によると、専門業務型の業種別導入率は、情報通信業が17・7%と最も高く、学術研究(8・7%)、製造業(3・1%)、金融保険業(2・5%)と続く。

 しかし、IT業界では裁量性の低いプログラマーなどにも制度を適用する企業もある。浜口氏は「IT関係者自身、裁量労働制の導入には無理があると言っている。専門業務型裁量制のあり方について再検討する必要がある」と指摘する。

最後の台詞は、一昨年11月に情報労連主催で開かれた「情報サービス産業はどこへ向かうのか?」というフォーラムに出席したときに、パネリストの情報産業サービス協会副会長の岡本晋さんが語った言葉です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-5747.html(情報サービス産業はどこへ向かうのか?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/12-3d5d.html(この業界で裁量労働を導入するのには無理がある@『情報労連REPORT』12月号)

今号では、この連載のほかに、16ページから17ページにかけて、わたくしが出席した「第9回情報サービスフォーラム」の概要が載っています。

パネルディスカッションでは、わたくしが

濱口 情報サービス労働は、少数の専門家たちがシステムを開発してきた経緯から、裁量性が高い労働であると認識されてきた。しかし、実際には元請企業から大量の業務が発注される多重下請構造という理由のために、非自律的・非裁量的になっているのではないか。そこでは、勤務間インターバル規制といった歯止めも必要となるのではないか。

というようなことを提起したところ、

情報サービス産業協会副会長の岡本晋さんが、

岡本 この業界で裁量労働を導入するのには無理がある。納期が決められており、ボリュームのある業務をこなす中では、自由に働いて下さいというやり方はできない

と、極めて率直に胸の内を語られたのが印象的でした。

なお、この判決も参考になります。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-9c85.html(京都某IT会社事件の判決文)

2013年2月27日 (水)

岩出誠『平成24年改正労働法の企業対応』

9784502065309_240岩出誠さんの『平成24年改正労働法の企業対応―派遣法、労働契約法、高年齢者雇用安定法改正の実務留意点』(中央経済社)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.biz-book.jp/%E5%B9%B3%E6%88%9024%E5%B9%B4%E6%94%B9%E6%AD%A3%E5%8A%B4%E5%83%8D%E6%B3%95%E3%81%AE%E4%BC%81%E6%A5%AD%E5%AF%BE%E5%BF%9C%E2%80%95%E6%B4%BE%E9%81%A3%E6%B3%95%E3%80%81%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%A5%91%E7%B4%84%E6%B3%95%E3%80%81%E9%AB%98%E5%B9%B4%E9%BD%A2%E8%80%85%E9%9B%87%E7%94%A8%E5%AE%89%E5%AE%9A%E6%B3%95%E6%94%B9%E6%AD%A3%E3%81%AE%E5%AE%9F%E5%8B%99%E7%95%99%E6%84%8F%E7%82%B9/isbn/978-4-502-06530-9

昨年改正された労働3法の内容を詳細に解説した本という意味では、去る21日に紹介した安西愈さんの『雇用法改正 人事・労務はこう変わる』(日経文庫)と似ていますが、安西本が改正労働契約法に主力を注いで、半分以上を有期契約関係につぎ込んでいるのに対して、岩出本は半分以上を改正派遣法に充てていて、だいぶ力の入れ場所が違う感じです。

いや、それはそれぞれに理由があるわけですが。

2013年2月26日 (火)

「会社に追い出されない」@『AERA』3月4日号にコメント掲載

14694朝日新聞の週刊誌『AERA』の3月4日号の巻頭記事に、「社員追い出し最新悪質手口」というのが載っていますが、

http://publications.asahi.com/ecs/detail/?item_id=14694

その中に、私のコメントが引用されています。

私の発言は、記事のメインである大企業の追い出し手口ではありません。

・・・これまで紹介した事例はあくまで大手企業の追い出し手口だ。中小企業では、そんな手間も時間もかけない理不尽な首切りが横行している。「店長から『俺的にダメだ』という理由で解雇された」「『退職しなければパートにする』といわれた」。労働局の斡旋事例を分析し、労働政策研究・研修機構がまとめた「日本の雇用終了」には、信じられないような中小企業の解雇の実例が並ぶ。裁判になればまず認められない、「態度」を理由にした解雇が多いのも特徴だ。

政府の規制改革会議・・・では、経営側の強い要望である「解雇規制の緩和」が主要課題に挙がる。だが、先の調査を担当した同機構の濱口桂一郎・統括研究員はこう警鐘を鳴らす。

「議論を慎重にしないと、中小企業で見られるような企業本位の安易な解雇が大企業にも広がりかねない」

最後の台詞の「企業本位の安易な解雇」というのは、若干微妙に私が言った趣旨と違うような気がしますが、まあ、おおむねはこういう話です。

ちなみに、11頁には、『日本の雇用終了』からとった事例がお札よろしくぺたぺたと貼られています。

20130304

2013年2月25日 (月)

radiomikanさんの拙著書評

112483ツイートは何回か引用させていただいたことのある「radiomikan」さんが、「みかん色の空」というブログを開設され、その記念すべき第1回目の記事に、わたくしの『日本の雇用と労働法』の書評を書いていただきました。ありがとうございます。

http://radiomikan.hatenablog.com/entry/2013/02/25/213534

本ブログの記念すべき第一冊目にはこの本をチョイスしてみました。

読んだ感じとしては、いい意味で教科書的で手堅い、という感じです。日本型雇用システムと労働法制が判例を交えて語られるので理解が深まります。

はい、それは、前書きに書いたように、法政大学社会学部の学生さんたちに講義するために書いた教科書ですから。

法学部の学生みたいに条文と判例を並べ立てられることには慣れていない、それより社会の仕組みについて興味を持っている方々に、興味を持っていただきながら授業するにはこんな感じかな・・・と思いながら書いたものですので。

それでも、いささか法学部的法律論が突出してしまっているところがいくつかあって、多分、らぢおみかんさんが躓いた

ただ、読んでいて「なんだこりゃ、難しい…」と思ったのが、35~45頁のあたりですね。この「雇用契約」のあり方は一度読んだだけでは、正直よくわからなかったです。何度も同じ場所を読み返すうちに、だんだんわかってきた、という感じでした

のあたりはそうなんですね。まあ、このあたり、法学部的密教と現実社会の顕教がだいぶ乖離しているところだからでしょう。労働者は社員じゃないってあたりもそうですが。

顕教の世界に生きている人に本気で理解させようとすると、多分この数倍の記述が必要になるのだと思います。

働く人のメンタルヘルスケア@『BLT』

201303『ビジネス・レーバー・トレンド』3月号は「働く人のメンタルヘルスケア」が特集で、去る1月21日に開かれた労働政策フォーラムの報告とパネルディスカッションが載っています。

http://www.jil.go.jp/kokunai/blt/backnumber/2013/03/index.htm

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-b65d.html(労働政策フォーラム 「職場のメンタルヘルス対策を考える」は明日です)

椎葉 茂樹 厚生労働省労働基準局安全衛生部労働衛生課長、原谷 隆史 労働安全衛生総合研究所作業条件適応研究グループ部長、小林 由佳 本田技研工業株式会社人事部安全衛生管理センター全社メンタルヘルス推進チーム、郡司 正人 労働政策研究・研修機構主任調査員の4人の報告者に、わたくしがコーディネーターとしてパネルディスカッションをしております。ちなみに、わたくしは余計なことを言わず司会に徹しておりますので念のため。

そのほか、調査解析部によるいくつかの会社の取り組みの紹介も載っていますが、その中に、サイバーエージェントの例も載っていて、いろんな意味で興味深いです。

2013年2月24日 (日)

当社は採用の多い企業ですからどうかそこはご承知ください

Img_5350いやあ、これは絶品。

http://id.fnshr.info/2013/02/24/chuumonshukatsu/(注文の多い料理店―就活編)

なかなか内定がとれずに消沈する二人の学生が見た「当社は採用の多い企業ですからどうかそこはご承知ください」という文言。この企業はどんな企業なのだろうか?

これはもう、リンク先を読んでくださいとしか言えない。

描写の一つ一つ、言葉遣いの一つ一つが、もうなんとも・・・。

今野晴貴さんの本を読んだ後の一服の清涼剤に・・・、なるかどうかは分かりませんが。

(参考)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/43754_17659.html

当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはご承知ください

Il Popolo della Libertà

黒川滋さんの「きょうも歩く」から、話の本筋じゃなく、脇道の話題ですが、

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2013/02/221-fadb.html

たまたま見ていたテレビでイタリアのベルルスコーニの報道。ベルルスコーニの母体となる政党名が「Il Popolo della Libert」、「自由な人々」と訳すのですが、日本では左翼の砂かけまぶしみたいに使われているリベラルというのは、欧州ではベルルスコーニのことなんですね。

確かに

http://www.pdl.it/

これも、かつていやというくらい本ブログで繰り返した記憶がありますが、日本のサヨクな方々の、異様なまでの「リベラル」信仰には、リベラルとソーシャルが対義語であるのが普通のヨーロッパ感覚からすると、何とも不可思議な違和感があるんですね。

そのへんから「リベサヨ」なんて言葉も出てきたわけですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_5a72.html(ザ・ソーシャル)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_c7ac.html(リベラルとソーシャル)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/05/post-e644.html(リベラルってなあに?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-af5f.html(「ソーシャル」がかけらも出てこない・・・)

2013年2月23日 (土)

おとぎばなし

https://twitter.com/konno_haruki/status/305145793256493056

よく「退職」という行為が、結果的には経済原理によって、不法企業の営業を圧迫し、職場環境を改善するなどというおとぎばなしをきく。

確かに良く聞きますね。

本ブログのエントリにも、そういうツイートがされたりしてます。

https://twitter.com/xev_ra/status/304407801122398210

会社にとって優秀な社員は貴重な財産。優秀な社員を切れば痛いのは会社。だから気に入らないからという理由だけで優秀な社員を切る会社は競争原理で淘汰される。解雇など自由にできる方が社会は健全化する。

https://twitter.com/usi4444/status/304645689470771202

現実に存在しているものを思考実験で否定するのはいかがなものでしょうか?

https://twitter.com/xev_ra/status/304738655623327745

否定などしてない。あっても構わないと言ってる。なぜならそういう企業は淘汰されるから。ネットも発達した今、酷い事する企業は生き残れない

「淘汰される」とか「生き残れない」ってのが「思考実験」だといわれているのが理解できない、経済学の初等教科書脳の実例。

現実世界において、そういう企業が労働市場の競争原理とやらでつぶれた実例を出さないと反論したことにならないという回路が脳内にないのでしょう。

逆に、労働の世界でブラックという評判が立てば立つほど、財・サービス市場で良い企業だと褒め称えられ、業績がどんどん上がっていっている実例は、いっぱいありますけど。

もちろん、それは常夏島の中の人のいうとおり、それを是とするわれわれ日本人の行動が支えているわけですが。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-6962.html(自分はやってないくせに他人に求める人が増えまくるとき、世の中のブラック労働的な傾向は加速していく)

大変分かりやすい構図で、いま日本社会で起こっている事態を説明してくれています。

『赤旗』の解雇規制論について

『赤旗』2月19日号の「主張」が、規制改革会議の解雇規制改革論に反発していますが、それ自体がいささか粗雑というか、そこらの解雇といえば整理解雇しか目に入らない解雇自由化論者ととほとんど変わらないおおざっぱな認識枠組みで議論しようとしているため、逆のイデオロギーからは全く同じロジックで自由化論になってしまうような議論になっています。

私が一生懸命説いているのは、こういう解雇規制堅持論ではいけない、ということなんですが。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2013-02-19/2013021901_05_1.html(主張 雇用の規制緩和 過酷な職場づくり許されない)

日本には、解雇を規制する厳格な法律はありません。しかし「整理解雇4要件」という判例法理があり、解雇の必要性があるか、解雇を回避する努力をしたかなどの要件を満たさないと「解雇権の乱用」として無効とされます。このため企業は裁判で勝ち目がないので、いま電機大手がすすめているような希望退職募集、退職勧奨などのやり方をとっています。

まずこれが、ほとんどかつての池田信夫氏なみの粗雑な認識。

日本には「解雇を規制する(厳格かどうかはともかく)法律」がちゃんとあります。

労働契約法第16条。

(解雇)
第16条 解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、その権利を濫用したものとして、無効とする。

不公正な解雇は違法であるというのは、ヨーロッパ諸国ではほぼ共通の法原則であり、その点では日本も変わりません。

そして、真に経営上の理由による職務の喪失に伴う解雇は、原則としては正当な解雇になります。この点でも、大原則としては日本と西欧で変わりがあるわけではありません。

違ってくるのは、雇用契約の性質がジョブ型かメンバーシップ型かによって、ある事業場である職務が喪失されることが(一定の労使協議等の手続を経て)解雇を正当とするのか、他の職務や他の事業場に配転する義務が課されるかの違いです。

そしてそれは、労働者の側に他の職務や他の事業場に配転されることを受け入れる義務があるかどうかと裏腹です。

配転拒否した労働者をクビにしても構わないと最高裁がお墨付きを出している日本では、それだけの権限を持っている会社側が、いざというときにはその配転する権限を行使して雇用を守るのは当然だろう、という当然の理屈で、整理解雇4要件(ないし4要素)が存在しているのです。

逆に言えば、配転しようにもそもそも会社の中にそんな他に回すような仕事なんかない中小零細企業では、整理解雇法理を形式的に当てはめてみたところで、仕事がなくなればやはり解雇は正当になるでしょう。

上の赤旗の議論自体、大企業正社員しか目に入っていない議論のように思われます。

「このため企業は裁判で勝ち目がないので、いま電機大手がすすめているような希望退職募集、退職勧奨などのやり方をとっています」なんてのは、まさに、だから解雇を自由化しろ!という最近の議論で強調されている全く同じロジックではないですか。

真に重要なのは、そして、本来『赤旗』がきちんとその立場を主張しなければならないのは、どのみち経営が傾いたら解雇せざるを得ない中小企業においても、そう簡単に許してはいけない「貴様ぁ解雇」をきちんと規制することであるはずなのではないかと思うのですが。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-4415.html(日航2労組は「整理解雇は条約違反」とILOに申し立て・・・てはいない)

確かに日航の労組が整理解雇に絡んでILOに申し立てたのでしょうが、少なくとも「整理解雇することはILO条約違反」だなんて馬鹿なことは主張していないはずです。

http://www.asahi.com/job/news/TKY201102040388.html日航2労組「整理解雇は条約違反」 ILOに申し立て

いや、見出しはまことにミスリーディングですが、記事自体はまちがってはいない。

会社更生手続き中の日本航空のパイロットでつくる日本航空乗員組合と、客室乗務員でつくる日本航空キャビンクルーユニオンは4日までに、昨年末に同社が実施した整理解雇の撤回を訴え、日本政府に対して是正勧告を出すよう国際労働機関(ILO)に申し立てた。

2労組は、整理解雇の際に「組合所属による差別待遇」「労組との真摯(しんし)な協議の欠如」「管財人の企業再生支援機構による不当労働行為」があったと指摘。これらは日本が批准する結社の自由と団結権保護や、団体交渉権の原則適用などに関する条約に違反すると主張している。

整理解雇された165人のうち、パイロットと客室乗務員の計146人は先月、解雇は違法で無効として、会社側を相手取り、労働契約上の地位確認と賃金支払いを求める集団訴訟を東京地裁に起こしている

要は、組合差別だからILO条約違反だと訴えているわけであって、そうでなければ通用するはずがありません。だって、差別のような不公正さがない限り、整理解雇それ自体は正当な理由のある解雇ですから。

ところが、朝日新聞の記者は、ILOに通用する組合差別という点ではなく、通用しない整理解雇という点を見出しにしたわけです。

ここが、差別問題にはきわめて鈍感なわりに、仕事自体が縮小したことに伴う整理解雇に対してはとんでもない悪事であるかのように考える日本型メンバーシップ感覚と国際的な労働問題のスタンダードのずれがよく出ています。

このJALの問題については、電話取材も受けましたが、肝心のここがなかなか理解されないのですね。

2013年2月21日 (木)

安西愈『雇用法改正 人事・労務はこう変わる』日経文庫

112733安西愈さんの『雇用法改正 人事・労務はこう変わる』(日経文庫)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.nikkeibook.com/book_detail/11273/

労働契約法、労働者派遣法、高年齢者雇用安定法の改正がすべて成立。企業の人事労務はどう変わるのか、そして人材活用や雇用のリスク管理はどうすべきか。改正法の背景や、具体的内容、対応実務を第一人者が解説。

昨年改正された労働法3つについて、新書本とはいえ相当に詳しく解説されています。とりわけ、改正労働契約法については、無期雇用転換、雇い止め法理、不合理な労働条件の禁止のそれぞれについて、1章ずつを割き、大変力のこもった、時としてはその改正内容を叱りつけるような勢いで、書かれています。

第1章 日本の雇用が変わる
第2章 労働契約法の改正―無期雇用転換をめぐって
第3章 有期労働契約の雇止め法理を法制化
第4章 期間労働者への不合理な労働条件の禁止
第5章 労働者派遣法の改正―派遣先で必要な対応を中心に
第6章 高年齢者雇用安定法の改正と労働契約

たとえば、第2章の冒頭には「雇用体系を混乱させる法改正」とあり、第4章には「同一労働・同一賃金の原則が適用されるのではない」、等々、日本型安定雇用を維持する立場からの批判が随所に繰り広げられています。


今朝のモーニングバードで定年制について

私は見られなかったのですが、今朝のテレビ朝日のモーニングバードの中のそもそも総研たまペディアで、八代尚宏さんとともに、私のしゃべっている映像も流れたようですね。

ここに、その概要が載っているようなので、私自身の参考までに、

http://datazoo.jp/tv/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%89%EF%BC%81/624767

そもそも総研たまペディア
そもそも日本に定年制は本当に必要なのか?

今日のテーマは「そもそも日本に定年制はほんとうに必要なのか?」。4月から定年に関する法改正が施行され、企業は「定年制の廃止・65歳まで定年引き上げ・65歳までの希望者全員、会社か関連会社で働ける」という選択肢の中からどれかを実行しなければならなくなった。内閣府が実施した60歳以上の男女への調査では、「何歳まで働きたいか?」という質問に「働けるうちはいつまでも」と答えた人が最も多かった。

出演者に「65歳以上の求職者に聞いた働きたい理由で、最も多かった答えは何か?」という問題が出た。正解は「収入を得る必要が生じた」。その他の理由は「社会に出たい」、「時間に余裕ができた」というものがある。定年制の廃止を訴える国際基督教大学の八代尚宏客員教授に、その理由を聞いてきた。

国際基督教大学の八代尚宏客員教授は定年制の廃止を主張している。八代氏は「高齢者社会の中でまだ働ける60歳の人を退職させるのは人材の無駄遣い」として、現行の定年制は「政府の財政にとっても非常に損」だと述べた。また、日本に定年制について「日本的雇用慣行の年功賃金と終身雇用からきている」と分析し、定年制廃止のために終身雇用と年功賃金も見直すべきだとした。

定年制廃止のメリットは有能な人材が無駄にならないことと、保険料納付による社会保障の充実が挙げられる。海外の定年制について労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎統括研究員に話を聞いた。  

労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎統括研究員は「定年は年齢差別だ」と話し、日本と韓国以外では世界的に退職について年齢差別をしてはいけないというのが基本ルールだと説明した。アメリカやイギリスには定年制がなく、フランスやドイツなどでは年金の支給開始年齢を定年に設定できる仕組み。日本の制度では、60歳以降は最雇用契約を結ぶ形になっていて、濱口氏は背景に年功的な賃金制度を挙げた。欧米では30歳頃を過ぎると給料が変化しなくなるのが普通だという。

2人の専門家が指摘した、定年制の背景にある年功賃金についてスタジオトーク。 

国際基督教大学の八代尚宏客員教授は、定年制廃止は中途採用の難しさなどの格差はなくなるとして、仕事に応じた賃金を得ることが原則として当たり前だと主張。終身雇用がなくなることで労働者の安泰がなくなるとしながらも、今の問題は能力以上の賃金を貰う人がいることだと述べた。学生の就活状況から見ても、今の中高年世代は恵まれ過ぎだとして、仕事を求める高齢者はそれに相応しい賃金とセットで考える必要があるとした。

国際基督教大学の八代尚宏客員教授は、定年制が若者にしわ寄せがいくことを指摘していて、「高齢者は若者の雇用を奪わないようにすべき」とした。労働に関するスウェーデンのスヴェン・オット・リトリーン雇用市場大臣(2009年当時)のインタビューを振り返った。

2009年にスウェーデンのスヴェン・オット・リトリーン雇用市場大臣(当時)に行ったインタビューを振り返った。大臣は「スウェーデンでは誰もが仕事を持つことが重要だと考えている」と話し、人々が助け合い働けるようにしなければならないとした。

VTRを見てスタジオトーク。スウェーデンには「完全雇用」という言葉があり、老若男女、健常者、障害者関係なく誰もが働く社会を作っている。スウェーデンでは解雇も多いが、一方で職業訓練などの支援も充実している。

65歳以上の求職者が働きたい理由2位は「健康を維持したい」。仕事に対する生きがいなど、お金以外の理由で長く働きたいと考える人は、全体の6割を超える。 

定年制についてはおおむねこういうことですが、最後のところが若干ミスリードの可能性があるので一言。

「スウェーデンでは解雇も多いが」というのは、解雇が自由という意味でいっているならば事実ではありません。

こういう言い方は、そういう理解をしたくて仕方がない人の目には、そういう風に映りかねないので、問題です。

参考までに、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-10d4.html(スウェーデンの解雇法制)

規制改革会議がいろいろ言い出したことを受けて、解雇法制に関する議論がまた活発化していくのだと思いますが、そうすると必ず一知半解さんや無知蒙昧さんがしゃしゃり出てきて、どや顔で「スウェーデンは解雇自由なんです」などとお馬鹿な台詞を繰り出すことがほぼ間違いなく予想されますので、今のうちに、誰でも使えるスウェーデンの解雇法制のまとめを載せておきます。

『管理職』は職種か?

『労基旬報』2月25日号に掲載した「『管理職』は職種か?」です。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roukijunpo130225.html

今さらながら、読者は「管理職」という言葉をなんだとお考えでしょうか?『7割は課長にさえなれません』というタイトルの本があったり、ビジネス雑誌で「課長になれる人、なれない人」などという特集が繰り返されるところからすると、管理職でない労働者が年を重ねてやがてなれる「地位」というのが、多くの日本人の感覚ではないでしょうか。正社員なら中高年になったら管理職になるのが当たり前だったが、最近は必ずしもそうではない・・・といったところでしょう。そこでは、非管理職と管理職というのは一つながりの職業キャリアの前期段階と後期段階であり、その推移も連続的で、非管理職正社員が年とともにだんだん管理職「的」な役割を担うようになり、やがて実際に管理職になってもなおしばらくは管理する側であるとともに上から管理される側としての側面がかなり強い、というのが一般的です。

ところが、日本国の実定労働法は必ずしもそういう感覚に沿って作られているわけではありません。労働組合法の「使用者の利益を代表する者」にせよ、労働基準法の「監督もしくは管理の地位にある者」にせよ、それに該当するかしないかは明確に区別できるはずの者という前提で作られています。これは、欧米諸国の労働法がすべてそうなっているからで、何ら不思議なことではないのですが、しかしそれら源流の国々の管理職の在り方が日本とは根本的に異なるとすると、その法制が日本の職場の現実と矛盾を引き起こし、解きほぐしにくい問題を生み出すのもむべなるかなという面があります。

改めて考えてみれば、世界共通に使われている職業分類において、管理職というのは専門職、事務職、販売職等々と並ぶ大ぐくりの「職種」と位置づけられており、日本の職業分類でもこの点は何ら変わりません。しかし、ジョブ意識の乏しい日本社会といえども、事務職、販売職、製造職等々はまだ職業人生をその道で進んでいく一つの領域としての「職種」と意識される度合いがかなりありますが、管理職をこれらと同格の「職種」と意識することはほとんどないでしょう。つまり、最初から管理職という「職種」になるために訓練を受け、はじめから管理職という「職種」で就職し、ずっと管理職として活躍していく、という欧米ではごく普通にみられる職業キャリアは、ほとんど存在しません。

労働法上の管理職問題を考える上では、個々の規定の解釈も大事ですが、こういう雇用システム的観点からの考察が不可欠だと思われます。

大学における実務教育研究会提言@日本生産性本部

日本生産性本部の大学における実務教育研究会の提言「職業人の育成にむけた実務教育の展開を~大学教育を通じた人づくり改革~」が、昨日公表されています。

http://activity.jpc-net.jp/detail/lrw/activity001370/attached.pdf

広い知識と深い専門を身につけ応用的能力を展開させる大学本来の目的をふまえつつ、「変化に対応できる実践力のある人材」を育成するために、大学教育を、職業人を育む実務教育へと進化させることをめざした以下の提言を行う。

提言1:理論の習得と実践展開のマッチングによる専門的な職業人教育体制の強化を

(1)既存の学部において専門教育を行うコースの設置やカリキュラムの改編

大学教育における幅広い教養と知的探究心の滋養といった大学本来の強みを生かしながら、既存学部の中で専門教育を行うコースの設置やカリキュラムの改編を進める。

(2)地域特有の産業構成や地域振興のニーズに合致した大学カリキュラムへ編成

地方大学においては産学連携を密接に図りつつ地域の産業ニーズをふまえた専門教育カリキュラムへと内容を改編することも考えられる。
また、大学等を中心とした地域の社会人再教育体制づくりにもつながり、大学が社会人の学び直しの場としての機能を持つことができる。

提言2:職業人に求められる実践力を習得するプログラムを正課として導入を

(1)教養・専門課程と連関した実践型キャリア教育プログラムの展開

実践力の習得には、企業や地域等における課題に対して学生が主体的にチームで取組み解決策をまとめていく実践型キャリア教育プログラムの展開が有効であると考える。

(2)実践力習得のプログラムを機能させるための人材の育成・整備

大学の教職員のプログラム運営力向上、キャリア・コンサルタントや企業人・企業労使OB 等の外部人材の活用、メンター制度の導入等の体制整備を図るべきである。

(3)学生が主体的に実践力習得の履歴を記録できるシートの開発・導入

実践力習得について学生自らが身に付けた力やその裏づけとなる体験・出来事などを記録できる「実践力習得(履歴)シート」を開発・導入する。これには、現在、国が展開する「学生用ジョブ・カード」を参考にできる。

座長は慶應義塾大学の太田聰一さん、委員には、児美川孝一郎さんもいますね。

Jpc

能力不足解雇の真実

佐々木亮さんのツイート:

https://twitter.com/ssk_ryo/status/303771105078951936

能力不足の場合にいつでも解雇できる制度があれば、使用者的には、そりゃ楽だよなぁ。気にくわないやつを、能力不足として解雇しちゃえばいいんだからね。理由なんて何でも作れるし。

112050118この点はまさにこの通り。だから、この本でもこう言っているわけです。

(2) 「能力」の曖昧性

 広い意味での「態度」の重要性と対照的であるのが、雇用契約の本旨からすればもっとも典型的な雇用終了理由となるはずの「能力」の意外なまでの希薄さである。もちろん、使用者側の主張において労働者の「能力」を主たる雇用終了理由としている事案の数はそれほど少ないわけではないが、詳しくみると抽象的かつ曖昧なものが多く、具体的にどの能力がどのように不足しているかが明示されたケースはあまりない。むしろ、主観的な「態度」と客観的な「能力」が明確に区別されず、一連の不適格さとして認識されている事例が目立つ。
 これは、日本の職場において求められている能力が、個別具体的な職務能力というよりは、上司や同僚との人間関係を良好に保ちつつ、職場の秩序を円滑に進めていく態度としての能力であることを物語っているといえる。もっとも、それが雇用終了の理由として堂々と通用するかどうかという点を除けば、この点は大企業の職場においても似た傾向があるともいえ、むしろ規模の大小を問わず日本の職場に共通の特徴というべきかも知れない。

私は、解雇規制の在り方については経営上の理由に基づく解雇について集団的手続規制へのシフトなど一定の改革が望ましいと考えていますし、佐々木さんとは必ずしも考えが一致するわけではありませんが、能力不足を理由とする解雇を下手に緩和したら、実は態度が気にくわないからという「貴様ぁ解雇」が(現実に結構行われていますがなおいっそう)堂々と行われるだけだと思っています。

そのあたりが、現実を知らない経済学者流の議論の危ういところだと思います。

2013年2月19日 (火)

僕の記憶ではこれまでの白書ではこういうセンスはなかったように思います@出口の真っ正直インタビュー

ライフネット生命社長の出口治明さんの「出口の真っ正直インタビュー」というネット記事に、なんと昨年の厚生労働白書を執筆した若手官僚の三村国雄、入部寛のお二人が登場しています。

http://www.lifenet-seimei.co.jp/deguchi_watch/2013/02/post_92.html

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出口(以下、出): 「平成24年版厚生労働白書」の第一部をほとんどお二人でご執筆されたという話を伺いました。たくさん白書がありますが、今回のように執筆当時に20代、30代の方がほとんどを書くというのは、あまりないことではないですか?

三村(以下、三): 経済財政白書(旧・経済白書)などを作っている内閣府ではしっかりした体制で書かれると伺っていますが、厚生労働省は職員もそんなに多くないので、一人あたりの作業量は多くなります。確かに執筆は私たちが担当しましたが、テーマの構想や構成、執筆のスタンスなどについては、もちろん上司や幹部と何度も緻密に議論しましたし、最終段階では、細かい校正もお願いしてしまいました(笑)

入部(以下、入): 今振り返ると、執筆はかなりこじんまりとやっていました(笑)。旧厚生省が出していた厚生白書時代はもっとスタッフも多く、管理職が中心になって書くことが多かったようです。

出: 参考文献を見たときに、ロールズとかサンデルをあげておられて、僕の記憶ではこれまでの白書ではこういうセンスはなかったように思って、印象に残っています。

三: ロールズなどの理念・哲学的な議論を白書で取り上げたというのは、おそらく初めてです。今回は「社会保障を考える」というテーマなので、学生などの若い人にも世読んでいただこうと思いながら書きました。平成24年というのは社会保障と税の一体改革ということもあって社会保障全体についていろいろと話題になる中で、そもそも社会保障というのはどういうことなのかと。社会保障を考えるということは、どういう社会が人々にとって良い社会かと考えることが大切である、と思ったときに、例えばロールズという社会哲学者が社会とはこうあるべきだと言ったと。そういう視点も加味しつつ社会保障の今の制度やこれからのあり方を見つめていくのが大事ではないかということで紹介しました。

この白書については、本ブログでも繰り返し取り上げて、売り上げにいささか貢献したかも知れないと慰めていますが、世間への影響力ということでは、やはりライフネット生命社長の出口さんが高く評価したことは格段の影響があったと思います。

この鼎談でも、ある種のワカモノ論者がわざと言い立てる世代間格差の問題が取り上げられていますが、

出: もうひとつ、世代間格差の問題をきちんと書かれていますね。人間の社会というのは、お年寄りもいれば中年も若い人もいる、どんな社会にも老中青というのがあるわけですよね。「ある切り口でみたらアンバランスはあるけれど、高齢化の必然でもあるし、今の世代はすごく豊かな世界に生きているのですから、世代間の対立などは意味がないんですよ」といった趣旨のことを書かれていたところが印象に残っています。僕は会社も国家も全部同じだと思っているんですけど、会社で言えば60代の社員と20代の社員が喧嘩をしている、そのような状態で会社が発展するなんてありえないですよね。

入: その辺りはいろいろとご批判いただきましたし、若い人が執筆したと言われているけどウソじゃないかといわれたりもしたようです。しかし、実際のところ社会の成熟過程において、私的な扶養が社会的な扶養に置き変わっていく中で、我々若い世代はその分の負担が軽減されているということは、社会保障を考えるに当たって見過ごしてはならない点です。

上の写真を見れば分かるように、まさに若い人が執筆してます、って、それが論点じゃないか。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/24-7de8.html(『平成24年版厚生労働白書』は社会政策の教科書)

本日公表された『平成24年版厚生労働白書』は、第1部が「社会保障を考える」と題して、社会政策の根本論から説き起こして、福祉レジーム論や国際比較などを取り混ぜながら、社会保障改革の方向を検討する内容となっており、これはもう、そこらの凡百のろくでもない社会保障論もどきをちらりとでも読んでる暇があったら、これを教科書として熟読玩味した方が百万倍役に立つというものになっています。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/post-9073.html(ブックファースト新宿店で厚生労働白書フェア)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/10/post-b832.html(ライフネット生命出口社長の推薦書は・・・)

白書は、日本社会の長所として、「経済水準の高さ、就業率の高さ、教育水準の高さ、長寿社会を実現した質の高い保険医療システム」を挙げる一方で、日本社会の課題として「所得格差、男女間格差、社会的つながり、社会保障の安定財源確保(≒社会保障と税の一体改革)」を指摘している。白書の中では、このような認識に至る思考のプロセスが、数字・ファクト・ロジックで丁寧に語られているので、ぜひ一読してほしい。筆者は大変勉強になった。

ちなみに、この白書を酷評して自らの劣化の程度を露呈したこの方の文章も、ご参考までに。

http://blogos.com/article/46029/(劣化著しい厚生労働白書 - 鈴木 亘)

障害者雇用が決まるか

来週月曜日に第56回労働政策審議会障害者雇用分科会が開催されるという案内がアップされました。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000002v5hi.html

3.議題(1)意見書(案)について
(2)その他

ということで、うまくいけば精神障害者の雇用義務の問題と、障害者差別禁止の問題について、報告書がまとまるのかもしれません。

ちなみに、前回(1月22日)の分科会に提示された意見書(素案)は、こちらにあります。

http://www.mhlw.go.jp/stf/shingi/2r9852000002tdih-att/2r9852000002tdl9.pdf

第1 障害者の権利に関する条約への対応

労働・雇用分野における障害者の権利に関する条約(以下「障害者権利条約」という。)への対応は、他の労働法令との調整を図りつつ、障害者雇用促進法を改正すること等により対応を図ることが適当である。その際、内閣府で検討している障害を理由とする差別の禁止に関する法律と、障害者雇用促進法が整合性のとれたものとなるよう、当分科会での議論を踏まえ、内閣府等との調整を図るべきである。
また、障害者雇用率制度について、障害者権利条約においては積極的差別是正措置を講ずるべきだということが盛り込まれており、また、我が国における障害者雇用率制度は成果を上げてきていることから、引き続き残すことが適当である。

第2 障害者雇用促進制度における障害者の範囲等の見直し

(2)精神障害者の取扱い(P)
※ 精神障害者の雇用環境の改善状況や、義務化に向けた条件整備状況を踏まえ、精神障害者を雇用義務の対象とすることについてどう考えるか。
※ 仮に精神障害者を雇用義務の対象とする場合、企業の経営環境や企業総体としての納得感といった観点も踏まえ、十分な準備期間を設けることについてどう考えるか。

このように精神障害者についてはなおペンディングでしたが、何らかの形でまとまる見通しがついたのでしょうか。

ブラック企業鼎談@『国公労調査時報』

603国公労連の『国公労調査時報』3月号が、ほぼ全ページを費やして、ブラック企業特集を組んでいます。

http://kokkororen.com/news/view.php?id=384

出ているのは、今やミスターブラック企業(あまりにもミスリーディングですみません)ことPOSSEの今野晴貴さんに、JMIU書記長の三木陵一さん、国公労連書記長の岡部勘市さんの3人です。

おもしろいのは3人がそれぞれ話した後の座談会です。三木さんが今野本の第7章の日本型雇用とブラック企業の関係のところに疑問を呈したり、会場からの質問に、こういうのがあったりします。

日本型雇用の話に戻して恐縮ですが、研究者の中には日本型雇用の正社員の特徴はメンバーシップ型で、ヨーロッパがジョブ型で産業別だから企業ごとの差別もなく、非正規の賃金差別もない。ブラック企業をなくしていくといった場合、労働組合が規制力を高めて年功賃金に戻せば済む問題ではないというような指摘についてはどう考えればいいでしょうか。

そんな単純な言い方をしている人はいないと思いますが(笑)、それは是非、自分の頭でじっくりと考える必要のある問題だと思いますよ。

最低賃金を上げよ@クルーグマン

日本の「りふれは」さんたちと違って、クルーグマンは一方でアベノミクスを(その限りで)支持しつつ、他方でちゃんとこういうコラムを書いています。

このへんが、なんと言われようが日本で騒いでいる連中に対して「りふれは」というひらがな表記を捨てがたい理由なんですね。どうみても、クルーグマンと違う。

http://www.nytimes.com/2013/02/18/opinion/krugman-raise-that-wage.html?_r=0(Raise That Wage)

One major proposal, however, wouldn’t involve budget outlays: the president’s call for a rise in the minimum wage from $7.25 an hour to $9, with subsequent increases in line with inflation. The question we need to ask is: Would this be good policy? And the answer, perhaps surprisingly, is a clear yes.

しかしながら、一つの大きな提案は予算の支出を伴わない。最低賃金額を7.25ドルから9ドルに引き上げるという大統領の呼びかけだ。問うべきは、それは良い政策なのか?だ。そして答えは、多分驚くほど明らかにそうだ、ってことだ。

(追記)

全文のちゃんとした翻訳は、こちらにありますので、是非。

http://d.hatena.ne.jp/okemos/20130219/1361261268(ポール・クルーグマン: あの賃金を引き上げろ)

2013年2月18日 (月)

「団結と参加」@日本ILO協議会『Work & Life』

日本ILO協議会の発行している季刊誌『Work & Life』2013年1号に、「団結と参加」という文章を寄稿しました。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/danketusanka.html

今の時代、ILOといえば「ディーセント・ワーク」であって、団結だの参加だのという文句はえらく古めかしく見えるかも知れませんが、いかに集団的労使関係が不人気で若手研究者から見向きもされていないからといって、ILOの基軸の一つである労使関係の問題を知らんぷりしていていいわけではないでしょう。それに、いささかつまらない話ですが、わたくしはここ数年間、労働政策研究・研修機構で「労使関係部門」の統括研究員をしているのに、この間やってきたのは労働局あっせん事案の分析など個別労使紛争の研究ばかりで、一体肝心の「労使関係」はどこに行ったのか?と問い詰められても仕方がない状態です。

一方で、2009年に刊行した拙著『新しい労働社会』の最終章で、非正規労働問題を解決するためには、集団的合意形成の仕組み、すなわち非正規労働者も含めた企業レベルの労働者組織が必要なのだと論じた者としては、最近の菅野和夫先生の教科書(『労働法 第十版』弘文堂)で、「特に、正規労働者と非正規労働者間の公平な処遇体系を実現するためには、非正規雇用者をも包含した企業や職場の集団的話し合いの場をどのように構築するかを、従業員代表法制と労働組合法制の双方にわたって検討すべきと思われる。」(p17)と語られるなど、この問題への関心が高まってきている状況を考えれば、そろそろ集団的労使関係について根っこに遡って考えるという作業が求められていると思わざるを得ません。

以下は、ILO協議会の機関誌という媒体にふさわしいかどうか分かりませんが、改めて日本の集団的労使関係法制の在り方を考える上で、世界各国の法制を自分なりに類型化し、そこから何らかのヒントを得ようとしてまとめてみたものです。どの程度役に立つのか、立たないのか分かりませんが、議論のきっかけにでもなれば幸いです。

・・・

なお、同誌のバックナンバーについては:

http://iloj.org/book.html

大内伸哉氏の解雇規制改革論

規制改革会議の動きに早速、大内伸哉さんがアモーレブログでコメントされています。

http://souchi.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-b76f.html

大内さんの年来の主張であり、特に目新しい話が書かれているわけではありませんが、とりわけ日本の解雇も欧米の解雇も知らないくせに、「先進国でもっとも厳しい正社員の解雇規制などが念頭にあるとみられる。」などと事実無根の記事を書きたがる新聞記者や、一部評論家諸氏には、じっくりと読む値打ちがあるエントリです(てったって、よみゃぁしないでしょうけど)。

原稿で書いているのは、労働法制はビジネスのニーズに合ったものにせよというもので,その方向で考えると,非正社員問題の解決の糸口もみえてくるのであり,それが解雇規制の再編だ,というものです。

・・・現在の解雇規制には,単線的で,不明確で,厳格すぎるという点に問題があるように思えます。単線的とは,解雇が違法・不当であれば無効という効果しか定められていないことです。金銭解決も必要ということです。

・・・解雇のなかにもいろんなタイプのものがあるのであり,たとえば差別的解雇と経済的理由による解雇を一緒にするようではいけません。差別的解雇や報復的解雇は無効とすべきです。このへんは,どういう解雇について金銭解決をすべきかのきめ細かな議論が必要なのです。

・・・不明確性のほうは,労働契約法16条の文言の不明確性です。・・・明確性は法的安定性を担保するために重要なことで,裁判所に行かなければ結果がわからないような実体規範はできるだけ減少させ,労使自治の尊重と結びつく手続規範を重視すべきとする考え方を採っています。・・・解雇の回避努力を強く求める考え方を改め,むしろ事前に明示された解雇手順をきちんと踏むことにで,恣意的な解雇を防止するということに重点を置いたルールが重要だと思っています。これは手続規範の重視とも重なります。

このように、ヨーロッパ諸国で一般的な解雇規制のあり方を前提に、現在の日本の規制の組み替え(正しい意味での『改革』)を主張しているわけですが、そういう大事なところを全部すっ飛ばして、「解雇自由にしなきゃ日本終了!」と言い立てる人々がマスコミの表面にしゃしゃり出る傾向にある中では、こういうまっとうな意見も、解雇自由化論として乱暴にまとめられてしまう恐れもありますね。

2013年2月17日 (日)

グループ経営のリスク@『経営法曹研究会報』

経営法曹会議より『経営法曹研究会報』73号をお送りいただきました。今号の特集は「グループ経営をめぐる経営リスクに関する問題点」で、

1 グループ企業間における出向・転籍に関する問題点

2 グループ企業間における派遣・業務委託に関する問題点

3 集団的労使関係に関する問題点

4 グループ経営における労務管理上のガバナンス

という4つのセッションに分けて、討論がされています。

そのうち、最後のガバナンスの設問がなかなか面白いです。

乙社(子会社)の社長であるAは、特定の社員に対する指示が厳しく、もはや指導・教育の域を超えてパワハラと言える状態に達しております。

(1)乙社(子会社)の取締役、監査役は、どのような対応をとれば良いでしょうか。

(2)甲社(親会社)の通報窓口に対して、「乙社の代表取締役社長Aのパワハラが激しい」旨の通報が届きました。

甲社としてはどのような対応をとれば良いでしょうか。

一応の思考経路

(1)関連

・取締役は、監視・監督義務を負っている。

・取締役会は、代表取締役を解職することができる。

・監査役は、取締役による違法行為がなされ会社に著しい損害が生じる恐れがあるときは、取締役に対して差し止め請求ができる。

(2)関連

・株主は、取締役による違法行為がなされ会社に回復することができない損害が生じる恐れがあるときは、取締役に対して差し止め請求ができる。

・監査役は、その職務を行うため必要があるときは、子会社の業務の調査をすることができる。

・会社は、株主総会決議によりいつでも取締役を解任することができる。

他人の解雇、自分の解雇

本ブログでだいぶ前に取り上げた話ですが、佐々木亮さんのツイートで思い出しました。

http://twitter.com/ssk_ryo/status/302696791596482560

解雇規制緩和を声高にいう人は、自分が解雇されるとものすごく怒る(当職調べ・通説)。

その実例を。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-d479.html(世にもおもろい小倉・池田バトル)

世にもおもろい見ものは、黙って楽しんでおけばいいというのが大人の態度なのでしょうが、それにしても、

彼が「また解雇されたときには」と書いているのは、私が「一度は解雇された」ことを前提にしているが、私は一度も解雇されたことはない。以前の記事にも書いたように、国際大学グローコムの公文俊平が私を含む3人に対して「雇用契約が存在しない」という荒唐無稽な通告(国際大学の文書ではなく公文の私的な手紙)をしてきたことはあるが、それは裁判所における和解で無効とされ、国際大学は通告が存在しないことを確認した。

正当な理由があろうがなかろうが、およそ解雇は自由でなければならないと主張しているはずの人間が、自分のボスによる解雇通告に逆らうなどという言語道断な振る舞いに出たことを、平然と公言しているというのは、これを天下の奇観と言わずして何と申しましょう、というところです。

しかも、絶対的解雇自由を主張するということは、解雇されたあるいは解雇通告を受けたということがいかなる意味でもスティグマではあり得ないということのはずなんですが、

小倉弁護士はこれまでにもたびたび私に対して虚偽による中傷を繰り返しているが、私が大学を解雇された「問題人物」であるかのようにほのめかすのは、通常の言論活動を逸脱して私の名誉を毀損する行為である。このブログ記事を撤回して、謝罪するよう求める。撤回も謝罪も行なわれない場合には、法的措置をとることも検討する。

なんと、正当な理由があろうがなかろうがことごとく認められるはずの解雇をされたと言われることが、名誉毀損に当たる、というすさまじくも終身雇用にどっぷり浸った発想をそのまま披瀝しているんですな。

池田氏の理論によれば、解雇されたということは、自分のボスが有している完全に恣意的な解雇権を素直に行使したというだけなのですから、どうしてそれが名誉毀損になるのか、池田氏の忠実な信徒であればあるほど、理解困難になるところでしょう(論理的に頭を使う能力があればの話ですが)

(念のため)

上記事実関係については、池田氏の一方的陳述に過ぎず、当時GLOCOMにいた会津泉氏が、「事実無根で悪意に満ちた誹謗と中傷ばかり」と、切り込み隊長氏のブログで発言していることを付記しておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/05/post-b14a.html(3法則氏が、遂に解雇権濫用法理と整理解雇4要件の違いに目覚めた!)

これは率直に慶賀したいと思います。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/ff86cfa0ac298e764adacc2d32d8fee2

自分のことが素材になると、アメリカ以外の先進国共通の不当解雇規制の問題と、雇用システムによって差が生じる整理解雇の問題が違うということがおわかりになったようです。

今まで本ブログで繰り返しそのことを述べてきながら、なにかというと「解雇権濫用法理が諸悪の根源」というような議論に苛立ってきたわたくしとしては、まことに慶賀すべきことであります。

・・・ところが、3法則氏、自分がようやく気がついたからといって、いままでの自分の迷妄をなんと法律の専門家になすりつける作戦に出たようです。

両者を混同して、私が「正当な理由があろうがなかろうが、およそ解雇は自由でなければならないと主張している」などとばかげた主張を行なうのは、小倉弁護士と天下り学者に共通の特徴である。このような虚偽にもとづいて、まともな議論をすることはできない。彼らは、まず私がそういう主張をしたことを具体的な引用で示してみよ

困ったおじさんですね。

(ちなみに)

労務屋さんも意外の念を禁じ得ないようです。

http://d.hatena.ne.jp/roumuya/20090515#p1(今日の池田先生)

そもそも、あれだけ「解雇自由」を連呼しておいて今さら「あれは整理解雇のことでした」というのもないだろう、とも思うわけですが、いずれにしても池田先生としては「整理解雇の規制緩和(自由化?)」を主張しておられるのであって、「一般的な不当解雇をすべて自由にせよというものではない」と、スタンスを明確にされたということでしょう。これまではそこが不明確だったわけですから、「私の過去の記事も同じである」とか「私がそういう主張をしたことを具体的な引用で示してみよ」とかいうのはあまり誠実な態度とは思えませんが…。

まあ、3法則氏に「誠実な態度」を求めるなどとあまりにも高望みが過ぎるというものです。悔し紛れに今までの自分の無知蒙昧をとっさに相手になすりつけながらもなんとか正しい認識に到達したことを褒めてあげなければいけません。

なお、これは2009年時点のエントリをそのまま再掲したものなので、その後、3法則氏が再び整理解雇ではない個別解雇について自由にしろとかつての主張と自家撞着的に主張していることはまた別の話です。トラバ記事参照。

文革こそ最大の走資派

Bt000020024400100101_tl橋爪大三郎、大澤真幸、宮台真司という大風呂敷派3人による鼎談本で、「をいをい」的な発言もけっこうありますが、文化大革命についてのこの認識は、かなり正しいのではないかと思われました。

・・・おそらく文革を経験したということが、逆説的に「現在」に効いていると思うんですね。文革が、いったん伝統を無化してしまい、更地のようなものを作ったおかげで、今日の、改革開放も可能になったのではないでしょうか。文革によって、伝統の拘束力が低下し、中国人の行動に非常に大きな自由度が生み出された。だから、速やかに改革開放が進捗したように思います。とすれば、これは、究極の歴史のアイロニー、「理性の狡智」です。なぜなら、文革は、資本主義の文化を廃して、社会主義の文化を創るということが、公式の目的だったわけですが、実際には、文革のおかげで、今日の中国の、短期間の、「資本主義化」がうまくいったと考えられるからです。結論からすれば、文革こそが最大の走資派だった、ということになります。


2013年2月16日 (土)

sumiyoshi_49‏さんの「左派と成長」論

先日の

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-8159.html(何で日本の左派なひとは「成長」が嫌いか)

と、ある面では似た問題を、ある意味で対照的な観点から論じた村上尚巳氏の

http://blogos.com/article/56249/?axis=b:9205(心優しい左派的な人たちこそ日銀に金融緩和を求めなければいけない理由 村上尚己(マネックス証券チーフエコノミスト))

について、「sumiyoshi_49‏」さんが次のように連続ツイートしています。私の論も登場しますが、むしろ村上氏の論に対する「違和感」を言語化しようとした部分がとても重要だと思います。

https://twitter.com/sumiyoshi_49/status/302583921789521920

内容自体は否定しないけど、なんか猛烈な違和感。言葉は用意周到だが、「経済成長の重要性を理解しないバカ左翼」に対する揶揄が透けて見える。/心優しい左派的な人たちこそ日銀に金融緩和を求めなければいけない理由 村上尚己

https://twitter.com/sumiyoshi_49/status/302585345365663744

この文章に共感する人は、最初から経済左派が嫌いな人たち(あるいはバカにしている人たち)なんだろうと思う。自分は読んでてすっごく不愉快だった。なぜ不愉快なのか、上手く説明できないんだけど・・・。

https://twitter.com/sumiyoshi_49/status/302587989882707968

上から目線でイラっとしたというのも確かにあると思いますが(苦笑)、経済左派が懸念している問題への意識を共有している感じがあまりしないというか。前にもつぶやきましたが、大した力のない脱成長論を批判する前にシバキアゲ成長派を批判すべきだと思うんですけどね。

https://twitter.com/sumiyoshi_49/status/302602054965272576

村上氏は「心やさしい」と茶化しているけど、脱成長論は「ハードワークで中程度の収入より、低収入でもゆとりのある生活を」と合理的に判断しているだけ。そのこととマクロ経済的な意味での「経済成長」は全く矛盾しないというか、それを実現するための資源を提供すると言い続ければいいだけで。

https://twitter.com/sumiyoshi_49/status/302603067373809665

脱成長論に対する最大の違和感は、みんなそんなゆとりのある生活をすぐに実現できるわけじゃない、まずそんな文明論的で高邁な話をする前に、解決に取り組むべき具体的な問題がたくさんあるじゃないか、というあたりのところ。やはり結局は「勝ち組」の思想じゃないかと言う。

https://twitter.com/sumiyoshi_49/status/302564766650617856

自分はアベノミクスもっとやれ派だが、「ホワイトな雇用を増やせ」という声と一体化しなければ、悲惨な結果をもたらす可能性が高い。繰り返すように、アベノミクスの目標は賃上げの前に、雇用の改善に置かれるべき。

https://twitter.com/sumiyoshi_49/status/302562908456509441

日本の企業は十分な黒字が出るまでは正規雇用に踏み切らないので、その2、3年ぐらいの間にブラック企業を中心とする周辺正社員層の殺人的なハードワークが横行することになる。当然ながら、労働・貧困問題に取り組んでいる活動家や学者は、「経済成長は人々を幸せにしない」という結論を出す。

https://twitter.com/sumiyoshi_49/status/302561917925462016

hamachan先生の図式だと、日本では「景気がよくなって仕事が増える→まず正社員のハードワークで乗り切る→限界に来たら単純作業を非正規に回す→人件費に余裕が出てはじめて新規雇用に踏み切る」から、景気が良くなっても当面は過労問題が悪化して非正規雇用が増えるというだけの結果になる。

スウェーデンの解雇法制

規制改革会議がいろいろ言い出したことを受けて、解雇法制に関する議論がまた活発化していくのだと思いますが、そうすると必ず一知半解さんや無知蒙昧さんがしゃしゃり出てきて、どや顔で「スウェーデンは解雇自由なんです」などとお馬鹿な台詞を繰り出すことがほぼ間違いなく予想されますので、今のうちに、誰でも使えるスウェーデンの解雇法制のまとめを載せておきます。

これはスウェーデン政府による英訳をもとに要約的に和訳したものです。

http://www.regeringen.se/content/1/c6/07/65/36/9b9ee182.pdf(Employment Protection Act (1982:80))

雇用保護法(SFS:1982:80)

(1) 雇用契約
 雇用契約は原則として期間の定めなきものとする(第4条)。
 ただし、業務の性質、臨時代替や訓練生、業務の繁閑、兵役、年金受給者については有期契約が可能(第5条)。6ヶ月以内の試用期間も可能。この場合、期限内に通知なければ期間の定めなき契約に移行(第6条)。

(2) 解雇
 解雇には客観的な理由が必要。被用者に他の労務を提供するよう使用者に要求することが合理的であれば客観的な理由は存在しない。営業譲渡はそれだけでは客観的な理由とならない(第7条)。
 解雇は書面で行い、被用者が不服の場合の手続を教示する(第8条)。使用者は解雇の理由を明示しなければならず(第9条)、原則として直接本人に行わなければならない(第10条)。

(3) 解約通知期間
 使用者及び被用者の解約通知期間は次の通り;勤続2年未満:1ヶ月、2年以上4年未満:2ヶ月、4年以上6年未満:3ヶ月、6年以上8年未満:4ヶ月、8年以上10年未満:5ヶ月、10年以上:6ヶ月(第11条)。
 解雇通知後、使用者が業務を命じなくても被用者は賃金その他の手当の権利を有する(第12条)。

(4) 有期雇用の雇止め通知
 有期契約の被用者は期間満了時に更新されないときはその1ヶ月前に通知を受けなければならない(第15条)。この通知は書面で行い、被用者が当該契約を期間の定めなきものである旨の確認又は第4条違反による損害賠償を請求する手続を教示する(第16条)。

(5) 即時解雇
 被用者が使用者への重大な義務違反をしたときは即時解雇することができる。これは通知の2ヶ月以上前に知られていた事実に基づくことはできない。ただし被用者の依頼により通知を遅らせた場合はこの限りでない(第18条)。即時解雇通知は書面で行い、被用者が不服の場合の手続を教示する(第19条)。

(6) 一時解雇期間中の賃金その他の手当
 一時解雇期間中の被用者は同一の賃金その他の手当の権利を有する(第21条)。

(7) 整理解雇の優先順位
 過剰人員を理由とする解雇の場合、その順位は勤続年数によって決める。勤続年数が同じ時は年齢の高い者を優先する。配転により継続雇用が可能なときは、配転後の業務に資格を有する被用者を優先する。ただし使用者は将来の事業に重要な被用者を2人まで別枠とすることができる(第22条)。

(8) 再雇用の優先権
 過剰人員により解雇された被用者は再雇用の優先権を有する。過剰人員により雇止めされた有期被用者も同じである。再雇用の権利は解雇の日から9ヶ月間有効である(第25条)。再雇用の順位は勤続年数によって決める。勤続年数が同じ時は年齢の高い者を優先する(第26条)。

(9) 交渉等
 労働協約を締結した使用者が有期契約を締結したときは直ちに被用者組織に通知する。ただし1ヶ月未満の契約はこの限りでない(第28条)。
 雇用(職場の共同決定)法第11条から第14条までは、過剰人員を理由とする解雇、一時解雇及び再雇用にも適用する(第29条)。
 使用者が即時解雇をしようとするときはその1週間前に、被用者の個人的理由による解雇をしようとするときはその2週間前に、本人に直接通知する。被用者が労働組合員であるときは、被用者組織にも通知する。通知1週間以内に当該被用者及び被用者組織が協議を求めたときは、協議終了まで解雇できない(第30条)。
 有期契約の雇止めの時もその属する被用者組織に通知し、求められれば協議を行う(第30a条)。
 試用期間中に又はその満了により期間の定めなき契約に移行せずに雇止めしようとする使用者は、その2週間前に通知する。被用者が労働組合員であるときは、被用者組織にも通知し、求められれば協議を行う(第31条)。
 他の者が再雇用の優先権を有するときに被用者を雇い入れようとする使用者は、まず被用者組織を交渉する(第32条)。

(10) 定年退職
 被用者は67歳に達した月末まで継続雇用される権利を有する(第32a条)。67歳に達した月末の1ヶ月前に書面で通知する。67才に達した被用者は1ヶ月以上の解雇通知期間はなく、優先権もない(第33条)。

(11) 解雇通知又は即時解雇等の効力に関する紛争
 客観的な理由なき解雇通知は被用者の訴えに基づき無効とされる。ただし、優先順位違反というだけでは適用されない。解雇通知の効力について紛争が生じた場合、最終判決まで雇用は終了せず、被用者はその間の賃金その他の手当の権利を有する。最終判決までの間、裁判所は解雇通知期間の終了時又はその後に雇用が終了するものとすることができる(第34条)。
 即時解雇についても同様である(第35条)。
 第4条に反して期間を定めた雇用契約は被用者の訴えに基づき期間の定めなきものとされる。この場合も最終判決まで雇用は終了しない(第36条)。
 裁判所が解雇通知又は即時解雇を無効と最終判決したときは、使用者は被用者を業務から離すことはできない(第37条)。

(12) 損害賠償
 本法に違反した使用者はそれに起因する損害を賠償する責めを負う。第11条の解約通知期間に違反した被用者はその損害を賠償する責めを負う(第38条)。
 使用者が、解雇通知や即時解雇が無効である又は有期契約が期間の定めなきものであるという裁判所の判決を拒否したときは、当該雇用関係は解除されたものと見なす。この場合、使用者は被用者に次の損害賠償を払わなければならない。勤続5年未満:6ヶ月分、5年以上10年未満:24ヶ月分、10年以上:32ヶ月分(第39条)。

非正規労働が「問題」化したのは・・・

金子良事さんのツイートですが、若干ずれているような・・・。

http://twitter.com/ryojikaneko/status/302208347501887488

本田一成さんの『主婦パート最大の非正規雇用』を読み返しているが、00年代に非正規雇用の問題が最大の主婦パートではなく、若者問題にすり替えられて行ったことへの違和感が語られていて、いろいろと感慨深い。その一翼を間違いなく担ってたのは本田由紀さんだと思うのだが。

労働問題の世界にいると、確かにそう感じられるわけですが、それは残念ながら、労働問題の中の人の感覚に過ぎない。

世間一般からすると、非正規労働者が主として主婦パートと学生アルバイトであった時代、私の言う幸福な日本的フレクシキュリティでほとんどカバーされていた時代には、非正規労働というのはそもそも「問題」ではなかったのです。

労働問題という狭い世界だけで、あるいは女性問題という狭い世界だけで、「パート問題」は「問題」として存在していたけれど、それはその外側の世界では何ら共有されていなかった。そんなの誰も文句言うとらんやないか、何が問題やねん。

その世間一般が、非正規労働が大変だァと騒ぎ出したのは、それまでの感覚では学校を卒業したらちゃんと正社員として就職(就社)するはずの若者(意識的無意識的に主として男性を念頭)が正社員になれなくて非正規労働者になっているという報道が、問題意識に火をつけたため。

「すりかえられた」というのは、労働問題の中の人の感覚であって、外側からすれば、若者問題になって初めて「問題」化したのです。

2013年2月15日 (金)

ロスジェネ系解雇規制緩和論者が若者バッシングに走るとき@後藤和智

後藤和智さんが「後藤和智の若者論と統計学っぽいブロマガ」で、「ロスジェネ系解雇規制緩和論者が若者バッシングに走るとき」というタイトルで、城繁幸氏を取り上げて論評しています。

http://ch.nicovideo.jp/kazugoto/blomaga/ar116575

私も城氏については適時批評してきましたが、後藤さんの論評は若者論の後藤さんが「若者の味方」を称する城氏の正体を露呈するという構図になっており、まことに興味深いものがあります。

・・・さてここまで、城氏がいかに若年層に対して偏った視線を送っているかということについて述べてきました。おそらく一部の方は、「あれ?城って「若者の味方」的な動きをしてなかった?急に若者バッシングに転向したの?」と疑問に思ったことかと思います。しかし私としては、むしろ城氏のこのような動きは必然ではないかと思うのです。

 そもそも『若者はなぜ3年で辞めるのか?』以降の城氏の議論は、ほとんど働かずに高給をもらっているとされる中高年世代の正社員への、若年層の反発という正確の強いものでした。そして自分たちの世代の「新しさ」を主張し、上の世代を追い出すための議論が展開されていました。そのような城氏の言説が、『3年で辞めた若者はどこへ行ったのか』のように、よりよい政策の提示ではなく「新しい」若者の提示と誇示に向かうのは必然なのかもしれません。

 それがここに来て、濱口桂一郎が皮肉を込めて《日本的経営の麗しき美風》(http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-99a9.html)と呼んだものに傾倒してしまうのはそれなりの理由と必然性があるように思います。第一に城氏の言説は、やはり会社の中の正社員エリート層や、あるいはフリーランスでやっていけるようなクリエイティブ層を中心に採り上げていたものだからです。そのため3つめの記事のような、グローバルエリート向けの議論に傾倒するのも必然ではないでしょうか。

 また、城氏が主なターゲット層としてマーケティングしていたのは、城氏とほぼ同世代のロスジェネ層でした。そのためその層が加齢によって会社においても中堅的な位置を占めるようになったとき、第1,2の記事のように、若年層バッシングによって「守り」を固めるようになるのもある意味必然です。ちょうど城氏が連載を持っている『SPA!』についても、ここ5年ほどに、ロスジェネ層よりさらに若い若年層を叩いたり、あるいは揶揄的に採り上げる特集が目立つようになりました。

 そのため、城氏の言説は、ロスジェネ系の論客の行く末を端的に表しているものではないかと思うのです。すなわち、上の世代への攻撃でのし上がり、自分たちは正当に評価されていない、自分たちが正当に評価されれば確実に地位は上がるはずだ、そして自分たちは上の世代にはない可能性を持った新世代なんだということを主張してきたロスジェネ系の論客は、自分が上の地位に入ると、しきりに下の世代を叩いて顧客を守るようになる。言うなれば「守り」に入るのです。

 このようなことが起こったのも、城氏が実務家という自らの立脚点を忘れ、単純な世代間闘争論に足をすくわれて、ずぶずぶとはまっていったことの帰結としか言いようがないわけです。そして上の世代に対して、自分の「窮状」をアピールし、実存に訴えかけるような「動員」で支持を集めてきたような論客がロスジェネには多い。そこにはよりよい政策の提示や、あるいは社会の分析という視座は生まれようがなく、なおかつ自意識だけ強い。

 かつての若者擁護論者こそが、将来の若者バッシングの最も優秀な候補生である。そのことを城氏の動きは教えてくれます。

どっちの方向を向いてる規制改革会議の雇用改革

本日の規制改革会議の資料が内閣府HPにアップされていますが、個々の論点について論ずる前に、いったいこの会議は、どっちの方向を向こうとしているのか、さっぱり分からないということを申し上げなければならないようです。

「どっちの方向」というのは、雇用システムとしてどういう方向か、という意味です。

http://www8.cao.go.jp/kisei-kaikaku/kaigi/meeting/2013/committee/130215/item2.pdf

この資料のうち、労働時間規制に関わるところは、第一次安倍内閣の時にホワイトカラーエグゼンプションで失敗したときの発想と全く変わっていないようですが、

労働時間の規制を受けない企画業務型裁量労働制の対象業務は、「事業の運営に関する事項についての企画、立案、調査及び分析の業務」に限定されており、また、対象労働者は、「対象業務に常態として従事していることが原則であること」とされている。
多様で柔軟な働き方の実現の観点から、労使の合意により、企業実務に適する形で対象業務や対象労働者の範囲を決定できることとすべきではないか。

現行の労働時間法制は、原則として管理監督者等を除き、労働者は労働時間、休憩及び休日に関する規定の適用を受ける。しかし、事務系や研究開発系等の労働者の中には、専門知識や技術等に基づき、創造性の高い業務を行っている者が存在し、これらの者については労働時間の長短と評価の対象となる目標達成度・成果は直接的に結び付かない旨指摘されている。
事務系や研究開発系等の労働者のうち、一定の者については労働時間法制の適用の在り方を見直すべきではないか。

物理的労働時間規制という意味では、三六協定によって日本の労働者は事実上無制限の長時間労働のもとにあるわけで、こういう議論自体がいかに空虚なものであるかということを、2006年から2007年にかけてあれほど繰り返し説いていたのに、そういうことが全くなかったかのように、平然と同じような空虚な議論が展開されていることに、驚かざるを得ません。

そして、こういう事務職が裁量的で、創造的で、自由な働き方をしているみたいなものの言い方自体が、事務職と管理職が連続的で、ある意味で管理職予備軍的存在である日本の独特な感覚であって、世界標準では事務職というのは普通のノンエリート労働者であるという認識が全く欠落していることも指摘しておく必要があります。

逆に言えば、諸外国ではエグゼンプトは入ったときからエグゼンプトなのであり、ノンエグゼンプトは(ごく一部を除けば)ずっとノンエグゼンプトのままであるという根本的なことを抜きにしたまま、これまでの日本的雇用感覚の都合の良いところと、外国の都合の良いところだけをとり出してきて、事務職でも何でもかんでもエグゼンプトというような議論に持って行こうというのは、どうも感心しませんね。

これに対して、

正規・非正規の二分論を超えた多様で柔軟な働き方を促進する観点から、勤務地や職種が限定されている労働者についての雇用ルールを整備すべきではないか。

はまさに私も主張しているところですが、それと、最後の解雇規制のところが、どう有機的にきちんとつながっているのかいないのかが、正直この短い文章ではよく分かりません。

解雇は、客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない場合は、解雇権を濫用したものとして無効とされる。
使用者及び労働者の双方が納得するルールの構築の観点から、解雇に係る規制を明確化するとともに、解雇が無効であった場合の救済を多様化すべきではないか。

最初のセンテンスは現行労働契約法の規定そのものですが、もしかしてそれ自体が問題だから変えようという趣旨なのでしょうか。それとも、それは当然だが、その上でのルールを明確化しようということなのでしょうか。

少なくとも「客観的に合理的な理由を欠き、社会通念上相当であると認められない」解雇でもやって良いことにしようという趣旨であれば、それが「使用者及び労働者の双方が納得するルール」になることはあり得ないとしか言いようがないでしょう。

しかし、まさに上で述べられた「多様な形態による労働者に係る雇用ルールの整備」の一環として、「勤務地や職種が限定されている労働者」の解雇についての「客観的に合理的な理由」を明確化し、整理解雇の解決の在り方を多様化しようという趣旨であれば、それは時宜に適したものだと思います。

そして、その際限定されるべきは「勤務地や職種」だけではなく、なぜか上ではやたらに緩和したがっている労働時間の限定という労働基準法本来の趣旨でもあるということを認識する必要もあるように思います。

ジョブレス解雇じゃないアンフェア解雇こそが真の労働法問題

規制改革会議の論点整理案が明らかになったということで、例によってまた日経新聞がうれしそうに記事にしていますが、

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFS1403F_U3A210C1MM8000/規制改革会議、解雇条件見直し検討 金銭解決を提唱

本ブログで何回も繰り返してきたように、労働者の権利を守るという観点から真に重要な解雇規制とは、雇用契約の基盤であるはずのジョブがなくなったときにどうするかというジョブレス解雇の問題ではなく(ヨーロッパでは、それは労使協議で解決すべき問題)、ジョブがあるにもかかわらず使用者側の意思でそこから排除される事態をどうコントロールするか、という問題です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-ac43.html(ジョブレス解雇と貴様ぁ解雇)

この貴様ぁ解雇(英語で言えばアンフェア解雇)をなぜ規制しなければならないかについては、私の個別労使紛争研究による実態が何より雄弁に物語っているわけですが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/post-a1c3.html(解雇するスキル・・・なんかなくてもスパスパ解雇してますけど)

それとともに、より理論的な研究もされています。かなり以前に本ブログで紹介したものですが、こういう時期であるだけに改めて強調しておく必要があると思われ、再掲しておきます。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-142e.html(山垣真浩「解雇規制の必要性」)

昨日ちょっと言及した山垣真浩さんの「解雇規制の必要性-Authority Relationの見地から」は、世の経済学者の圧倒的大部分が整理解雇を念頭において解雇規制が失業を増やすという議論ばかりをやっているのに対し、労働契約が不完備契約であること、それも、よく言われるような企業特殊熟練が形成されるから云々という議論ではなく、別に企業特殊熟練があろうがなかろうが、労働契約それ自体の性質から、指揮命令型不完備契約にならざるを得ず、まさにこの雇用関係の下の労働者には諾否の自由がないということから、「俺の命令に服従しなければクビだ」という解雇の脅しが、労働者に不利な条件での労働を甘受させることになるがゆえに、解雇権が制限されなければならないことを説得的に論じています。

・・・つまり解雇権は制裁手段つまり使用者の命令権を強化する装置となるので、「労働の従属性」を防止するためには一定の規制が必要となる。それは労働者の「生産性」「仕事能力」の不足とか人事評価を基準とする解雇を規制するという内容でなければならない。なぜなら指揮命令関係の下では、労働者の「生産性」「仕事能力」は技能水準と服従性という2つの異質な要素からなっているので、労働者の過度な従属(労働者の厚生の悪化)を防止するためには、使用者が評価するところの「生産性」基準による解雇を制限する必要があるからである。

これはもう、全くその通りです。わたくしがもうすぐまとめる労働局あっせん事案の内容分析でも、まさに「云うことを聞かない」からクビというのが大変多いのですね。

労働において「指揮命令関係」が有する枢要的性格が、経済学者の議論では欠落しているという点に、解雇規制がわけの分からない迷路にさ迷い込む最大の理由があるのでしょう。指揮命令関係がなければ、それは労働契約ではなくある種の請負契約と変わらないわけです。経済学者が雇用関係をプリンシパル・エージェント関係で捉えるとき、請負的プリンシパル・エージェント関係と一体区別が付いているのかどうか。もしついていないとすれば、経済学者に必要なのはまずは民法契約編の基本的知識なのかもしれません。

ついでに、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/11/post-4f64.html(「権力」概念のない経済学の解雇問題への一帰結)

・・・ここで筒井さんが述べておられることは一般的なことですが、これを具体的な雇用関係に当てはめて考えると、労働者を解雇することが合理的であるかどうかの意思決定が使用者に与えられていることの「権力」性を認識することができるかどうかという問題になるでしょう。

「こいつは無能である」という判断に不確実性がなく、その合理性はすべての人に明らかであるという完全情報を前提にすれば、すべての個別解雇は誰も異論を挟む余地のない合理的なものとなりますが、いうまでもなくそういうことはないわけです。「権力」概念のない経済学が、「権力」現象そのものである個別解雇をまともに取り扱うことができない(というより、解雇というのはすべて整理解雇のことだと思いこんでいる)のは当然のことかも知れません。

それに対して、経営状況が悪化して誰かを解雇しないと会社がやっていけないというのは、もちろん不確実性がなくなるわけではないにしても、かなりの程度客観的に判断できることですので、「権力」概念のない経済学でも取り扱うことができますし、整理解雇4要件の合理性を論ずることもできるのでしょう。

労働者の賃上げの第一次的責任は労働組合にある

労働弁護士水口洋介さんが、浜田宏一、松尾匡両氏の著書について論評しつつ、その最後で労働組合にややきついコメントを。

http://analyticalsociaboy.txt-nifty.com/yoakemaeka/2013/02/post-c07e.html(アベノミクス 「アメリカは日本経済の復活を知っている」(浜田宏一著)と「不況は人災です」(松尾匡著))

■労働者の賃上げの第一次的責任は労働組合にある

ヨーロッパの社会民主義(ママ)政権だと、こういうときには、政労使の円卓会議を開いて、賃上げについての合意を呼びかけるでしょうね。民主党はそれさえできず、決めたのは増税だけ。

安倍首相は、経営者団体に、労働者の報酬を増やすように要請しました。なかなかやりますね。

労働者の賃上げに、もっとも責任を負っているのは、労働組合でしょう。政府が、民間労働者の賃上げを直接、命令できない以上、労働組合が、ストライキをくんで賃上げを要求しなければなりません。

それもしないで、アベノミクスを非難する労働組合って、どうでしょうか?

「どうでしょうか?」と口当たりは柔らかいですが・・・。

奈良県立奈良病院事件に最終決着

そういえば、私が以前評釈した奈良県立奈良病院事件が、最高裁の上告不受理という形で最終的に決着したようです。

あまりにも当たり前の結論を決着させるまで、よくぞここまで頑張ったものだな、という気もしますが、まあ、おかげでこの分野に最高裁が是とした判決が残ることになったわけでもあります。

http://apital.asahi.com/article/story/2013021400005.html(当直医に割増賃金確定 最高裁、県の上告受理せず)

当直勤務の際、過酷な労働に見合う割増賃金が支給されていないとして、奈良県立奈良病院(奈良市)の産婦人科医の男性2人が、2004~05年分の未払い分の支払いを県に求めた訴訟で、最高裁第三小法廷(大谷剛彦裁判長)は県の上告を受理しない決定をした。12日付。請求を一部認めて計約1540万円の支払いを県に命じた一、二審判決が確定した。

県は夜間や休日の当直1回につき一律2万円の当直手当を支給していた。2人は「勤務実態を反映した額になっていない」と06年に提訴。「当直中の分娩(ぶんべん)が常態化しており、通常勤務と同様の労働だ」と主張し、労働基準法で定められた時間外・休日の割増賃金を支払うよう求めていた。

09年4月の一審・奈良地裁判決は「当直中の分娩も少なくないうえ、帝王切開などの異常分娩、救急医療への対応もしている」と指摘。当直を割増賃金の支給対象と認め、未払い分の支払いを県に命じた。他方、緊急事態に備えて医師が自宅に待機する「宅直」は支給の対象外とした。10年11月の二審・大阪高裁判決も一審判決を支持した。

医師側勝訴で決着したことで、当直手当だけで実質的には日勤の時間帯と変わらない仕事を医師に求めている医療機関は、早急な待遇改善を迫られそうだ。

厚生労働省は2002年、夜間・休日の「宿日直勤務」で認められるのは、原則として病室の定時巡回などに限られ、夜間は十分な睡眠時間が確保されなければならない、と当直勤務の要件を示す通達を出した。

しかし、その後も、労働基準法違反を指摘される医療機関が後を絶たず、11年は労働時間に関する違反や割増賃金の不払いなどが1543件に達した。

県立奈良病院の04年の分娩(ぶんべん)数のうち約6割に当たる397件は医師1人態勢の夜間か、休日の宿日直帯の分娩だった。当直医は帝王切開手術などの異常分娩や入院患者や救急搬送される患者の治療にも当たった。

「日中と変わりない仕事を1人でこなすのは無理。夜間・休日も複数の医師を配置し、勤務後は帰宅できる交代制にしてほしいという思いから提訴した」と原告の医師(53)は語る。小児科医の江原朗・広島国際大学教授(医療政策)は「最高裁の決定は時間外に医師を働かせるにはそれに応じた人件費が必要という当たり前のことを病院経営者が理解する契機になるだろう」と話す。

地裁段階の私の判例評釈はこれです。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/naraken.html労働判例研究 地方公務員たる医師の「宿日直」の監視断続労働性及び「宅直」の労働時間性 --奈良県(医師時間外手当)事件

また、本ブログ上でもこの問題については結構何回も取り上げてきました。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/post_355a.html(医師 増える過労死 「当直」違法状態)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_515a.html(世の中の問題の多くは労働問題なんだよ)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/04/post_6cc3.html(医師に労基法はそぐわない だそうで)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/post-8a42.html(医師を増やせば医療崩壊は止まる?)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/04/post-0100.html(医師の当直勤務は「時間外労働」)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-3bfa.html(奈良病院「当直」という名の時間外労働裁判の判決)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/07/413-eed8.html(奈良県立病院の「医師に関して有効な労働基準法41条3号に基づく宿直許可申請書および許可書」)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-25e5.html(産科医当直は違法な時間外労働…労基署、奈良県を書類送検)

2013年2月14日 (木)

埼玉県生活保護受給家庭の高校生にも学習教室

以前、本ブログで取り上げた

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-4287.html(埼玉県が生活保護家庭の教育支援へ)

生活保護受給世帯で育った子供が成人後、再び生活保護を受けるなど「貧困の連鎖」が問題化していることを受け、埼玉県は都道府県として初めて、県内の生活保護世帯の全中学3年生を対象に、教育支援事業を実施する。

埼玉県といえば、『生活保護とワーキングプア』を書かれた大山典宏さんがおられるところですが、今回の政策に何らかのつながりがあるのでしょうか。

(追記)

本事業は、まさに大山典宏さんが担当されていました。

の延長線上の事業が報じられていました。

http://mainichi.jp/select/news/20130215k0000m040048000c.html(生活保護:埼玉県が受給世帯対象に無料学習教室 全国初)

埼玉県が生活保護費受給家庭の高校生の就学状況を追跡調査したところ、中退率が全体の2倍以上になっていることが分かった。県は中退を防止するため、来年度から受給世帯の高校1年生200人を対象に無料の学習教室を開く方針。受給世帯の高校生を対象にした本格的な学習支援は全国初という。

 県社会福祉課によると、11年度に県内の高校に入学した受給世帯の742人のうち、同年度末で中退したのは51人、6.9%で、全体の中退率(3.1%)の2倍以上だった。51人の約6割が無職と答え、高校中退が「貧困の連鎖」につながる可能性が浮かび上がった。

 県は10年度から受給世帯の中学生を対象に無料学習教室を開き、参加者の高校進学率(同年度)は97.5%と受給していない世帯とほぼ並んだ。しかし、教室参加で高校中退した人の22.2%が「学業不振」を理由に挙げ、県は進学後の学習支援も必要と判断。来年度当初予算案に学習支援教室開設費など1億1445万円を盛り込み、5カ所の教室で教員OBらがマンツーマンで指導する予定だ。

 同課の大山典宏主査は「保護世帯は親らによる中退への歯止めが弱い。福祉事務所と家庭の情報を共有しながら、中退防止を支援したい」と話している。

510787400000_22010年の記事と同様、大山典宏さんが担当されていますね。

Isbn9784569697130http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/09/200-f0ab.html(『生活保護200万人時代の処方箋~埼玉県の挑戦~』)

生活保護については、ややもすれば本筋を外した議論が横行しがちな昨今だけに、こういう本当の意味での自立支援につながる動きは、きちんと応援していかなければならないと思います。

メンバーシップ型正社員とジョブ型無期労働者を区別できないとこういう議論になる

労働に関心のある一部の世界ではある程度理解されていることなのですが、それをちょっと離れるともうまったく理解されていないということが、こういう議論で露呈します。

http://agora-web.jp/archives/1518728.html(改正労働契約法「5年で無期」が大学教育に及ぼす影響)

この法律の制定により頭を悩ませているところがある。それは大学である。

大学教員、研究者は、授業やプロジェクトなどのために雇用されている有期雇用労働者が数多く存在する。当然のことながら彼等全員を無期雇用することなど大学にはできない。

・・・日本企業には長期雇用慣行があり、企業の基幹部分を担う正規社員=終身雇用、景気による労働需要に柔軟に対応できる非正規社員=雇用の調整弁という図式があった。企業は有期労働者を多数雇い入れ、労働需要が続く限り有期雇用を更新し続け、需要がなくなったときに契約を終了させて雇用調整をするというかたちをとっており、非正規社員が都合のいいように使い捨てられていたためこのような立法に至ったのであろう。

しかし、大学教員、研究者のように、そもそもの趣旨として、有期雇用であっても雇用の調整弁として雇われてきたわけではない者も存在する。そういった者達に本条の適用は馴染まないのではないだろうか。雇用や労働条件の安定を保障するため、無期雇用で働く者が増えることは望ましいのかもしれない。だが、本条は様々な検討課題を残しており、企業の雇用政策に今後大きな影響を及ぼすことになるだろう。

いうまでもなく、EU指令に基づきすべてのEU諸国でも同様の規制が存在するのにこういう問題になっていないのは、そもそも日本の「正社員」が単なる無期雇用ではないことに原因があるわけです。

日本型雇用システムにおけるメンバーシップ型「正社員」とは、いかなる職務にも就くことを命じられる広範な人事権と、いかなる職務に廻せることによる職務を超えた雇用保障とがセットになった存在ですから、有期雇用が無期雇用になったからといって日本型「正社員」になるわけではありません。

この点は、先の日本労働法学会の討論の場でも議論になったところですが、立法に関わった人々の認識もそうであることは間違いのないところです。

その上で、上記引用のアカデミック関係の雇用契約を考えると、そもそもいかなる職務にも回すことを前提とした日本型メンバーシップ契約なのかという根本のところで、安易に正社員モデルでのみ考えて、正社員かしからずんばいつでも雇い止め可能な有期契約か、という発想に陥っていく姿が浮き彫りになっており、このあたり文教関係者に対する適切な認識を求めていくべきところが多いように思われます。

ジョブ型無期雇用であれば、当該授業なりプロジェクトが本当に消滅すれば、それはもっとも正当な雇用終了事由になるはずです。なぜなら、まずジョブがあり、しかる後にそれにふさわしい人をあてはめるのが雇用ですから、そのジョブ自体がなくなれば、雇用がなくなるのは当然だからです。もちろん、実質的に同一のジョブが続いているにもかかわらず、タイトルだけちょいと変えてジョブがなくなったから云々というのはだめですが。

今回の労働契約法改正の最大の目的は、仕事はちゃんとそこにあるのに、なくなっていないのに、そしてその仕事をちゃんとやっているのに、ただ契約期間が満了したからというだけの理由で、雇用が終了されてしまうという不条理をどうなくすかという問題意識にあるのですから、それ以上の「メンバーシップ型正社員にするのは大変だ、とてもできないぞ」という発想でマイナス方向の反応ばかりが盛り上がっていくのは、困ったことです。

(追記)

https://twitter.com/hahaguma/status/301912035254493184

今回の法改正自体がそこを区別していないので大学等に混乱を招いているのでは?

いや、一応区別してるんですけど・・・(汗)。

http://www.mhlw.go.jp/seisakunitsuite/bunya/koyou_roudou/roudoukijun/keiyaku/kaisei/dl/h240810-02.pdf

また、無期労働契約に転換した後における解雇については、個々の事情により判断されるものであるが、一般的には、勤務地や職務が限定されている等労働条件や雇用管理がいわゆる正社員と大きく異なるような労働者については、こうした限定等の事情がない、いわゆる正社員と当然には同列に扱われることにならないと解されること。

(再追記)

依然として、こういうわかったつもりのわかってない人々が・・・、

https://twitter.com/tamai1961/status/305690667613564928

残念なのは、松岡先生みたいな人には専門と関わりなく見えていたことが、労働問題の専門家に見えてなかった、どころか、想像もつかなかった、ということ。個々の法学者ではなく、立法過程そのものの問題だと感じる。

自分自身が日本的雇用システムにどっぷりつかって、メンバーシップ型正社員以外の、欧米では普通のジョブ型無期雇用が想像もつかなくなっていることを棚に上げ、「松岡先生みたいな人には専門と関わりなく見えていたことが、労働問題の専門家に見えてなかった」などと、どや顔で言えてしまうところに、こういう人々の生の姿が浮き彫りになっていますね。

ちなみに、この方、「ドイツ法思想史」もご専門らしいのですが、まずはご専門のドイツの労働法制がどうなっているのか、よく勉強されてから発言した方が良いような・・・。

2013年2月13日 (水)

リバタリアンのパラダイス:中国

サンケイの記事というところで、はじめからいささか皮肉含みではありますが、皮肉抜きに真剣な問題としてまずは読んでいただきたいですね。

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130213/chn13021311030000-n1.htm(金持ちはますます金持ちに 相続税も固定資産税もなし 富豪に好都合な中国のシステム)

中国政府が昨年末までに提出すると約束していた所得分配改革案がようやく発表された。この改革案に盛り込まれた諸項目がすべて実施に移されれば、所得格差の問題は間違いなく解決に向かうだろう。とりわけ注目されるのが、相続税(中国語では遺産税)の導入について初めて言及したことだ。だが高所得者の反対を押し切って実現にこぎつけられるだろうか。

・・・だが、改革案の中で目標年次などをはっきりと定めている項目は意外と少ない。多くは項目を列記しただけで、実施時期や目標数字などはほとんど入っていない。中には単に「研究する」とのみ書かれた項目もある。どこまで実現できるかは極めて不透明といえよう。

その典型的な例が相続税である。改革案では単に、「適当な時期に問題を研究する」とのみ書かれている。

中国では従来、相続税や固定資産税のような資産税は一部を除いて導入されてこなかった。富裕層にとっては、こんなに好都合なことはない。中国の富豪ランキングをみると、創業者の財産を子息がそっくりそのまま引き継いでいるケースが少なくない。相続税がないからだ。また、富豪の多くは不動産分野に投資し、巨額の利益を得ている。これは住宅取得税や固定資産税といった資産税がないからであろう。

・・・それ以上に難しいのは相続税である。実際に導入されれば、所得格差是正の切り札になるのは間違いないが、とにかく改革案では「研究する」と書かれているだけだ。いつになったら実現するのか、皆目見当がつかない。高所得者からの反発は必至なので、よほどの覚悟がない限り、導入は難しい。

日本をはじめとする先進資本主義諸国の再分配制度を社会主義だ、共産主義だと、常日頃口を極めてののしっておられる、心正しきリバタリアンな皆様方にとって、真に心安らぐ資本主義のメッカは、共産党一党独裁でお金持ちが下らぬ民主主義から守られる中国であったようです。

まあ、くだらない「研究」は始まったようですが、上記記事からすると、少なくとも、当分の間は大丈夫でしょう。

リバタリアンのパラダイス、萬歳!

(追記)

同じサンケイから:

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130214/chn13021411030000-n1.htm(大革命の前夜、反乱恐れる習政権)

中国では今、『旧体制と大革命』という本が広く読まれている。アレクシス・ド・トクビルという19世紀のフランス歴史家が書いた本で、その内容は、フランス大革命の特徴や原因に対する考察である。

・・・(大革命前の)フランスでは、貴族たちが憎むべき特権にしがみつき、人民の苦しみにまったく無関心で自分たちの独占的な利益の維持だけに汲々(きゅうきゅう)としていた。それが、「旧体制」につきものの「社会的不平等」をさらに深刻化させて大革命の発生を招いた。

 同じように、今の中国では貧富の格差が拡大して社会的不公平が広がり、階層間の対立が激化している。このような状況下では、「民衆の不平不満が増大して社会が動乱の境地に陥る危険が十分にある」というのである。

・・・どうやら中国のエリートたちがこの本を読んで連想しているのは中国での「革命」のことであり、彼らの心配事はやはり、フランス革命のような「大革命」の嵐がいずれ中国の大地で吹き荒れてくるのではないか、ということである。

なぜか、サンケイは中国を論評するときだけ熱心なソーシャル派になるようです。

2013年2月12日 (火)

古市憲寿「創られた『起業家』」@『社会学評論』

『社会学評論』63巻3号に掲載されている古市憲寿さんの「創られた『起業家』」がなかなかおもしろいです。

要するに、90年代半ば以降の起業家言説の分析なんですが、古市さんらしいクールな視線で手際よく料理していて、いろいろと労働問題へのインプリケーションもあり、いろいろと突っ込みネタを示してくれています。

冒頭の要約から:

・・・バブル経済が崩壊し日本型経営が見直しを迫られる中で、「起業家」は日本経済の救世主として政財界から希求されたものだったしかし、一連の企業を推奨する言説にはあるアイロニーがある。それは、自由意思と自己責任を強調し、一人一人が独立自尊の精神をもった起業家になれと勧めるにもかかわらず、それが語られるコンテクストは必ず「日本経済の再生」や「わが国の活性化」などという国家的なものであったという点である。・・・さらに、若年雇用問題が社会問題化すると、起業には雇用創出の役割までが期待されるようになった。・・・

古市さんの言説分析が通り一遍になっていないのは、そういう起業家言説が出てくる前はどうだっかたという歴史的視点が裏打ちされているからです。

それまでは、同じ領域は中小企業政策という枠組みで語られていました。それは、

・・・大企業による優越的な地位の濫用によって中小企業が競争上不利な立場に立たされるべきではない大企業との「格差是正」や「弱者保護」といった保護主義的、社会政策的な性格を強く保持していた

のです。

このことは、そうした中小企業で働く労働者の問題にもそれに連なる視点を付与し、中小企業労働問題という分野が労働問題の世界にそれなりにちゃんとあったのですね。

ところが、そういう視点が消えて、代わりに中小企業にベンチャーという名を与え、積極的に評価しようとする流れの中で、

・・・「二重構造」の解消ではなく、むしろそれを是としながら、「起業」や「起業家」を保護の対象ではなくて、競争の主体として過剰な期待をしたところに、「第3次ベンチャーブーム」における「起業家」は成立した

というわけです。

この点を捕まえて、古市さんは、

・・・日本において立ち現れ、要請された「起業家」というのは、大企業を中心とした既存の「企業社会」を延命させるためのものだったのではないか・・・

日本経済に貢献し、雇用も創出し、失敗した場合も自己責任をとるし、既存の大企業を否定しない。政財界のいう「起業家」とはまさに日本経済の救世主である。これは、起業家論の「おいしいところ」ばかりを集めた「起業家」像であるとも言える。

・・・日本において政財界が要請してきた「起業家」とは、既存の「企業社会」のために存在する「都合のいい協力者」に過ぎなかったのである。

と述べます。

「起業家」言説論としては、これで一区切りです。

でも、そういう「起業家」のもとに雇われ、自分自身は起業家でも何でもないのに、そういう起業家言説、ベンチャー礼賛論のイデオロギーに怒濤のごとく洗礼される若き労働者たちについても、なにがしかの言及はあってもいいように思われます。

なぜなら、起業家が「都合のいい協力者」であるとしたら、その起業家にとって「都合のいい協力者」である労働者たちは、誰が心配してくれるのでしょうか。

そこに、こういうストーリーが生み出されてくるのでしょう。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/posse09.html(萱野稔人×濱口桂一郎「これからの労働の話をしよう」 『POSSE』第9号)

大変皮肉なことに、強い個人型ガンバリズムが理想とする人間像は、ベンチャー企業の経営者なんです。理想的な生き方としてそれが褒め称えられる一方で、ベンチャー企業の下にはメンバーシップも長期的な保障もあるはずもない労働者がいるわけです。しかし、彼らにはその経営者の考えがそのまま投影されます。保障がないまま、「強い個人がバリバリ生きていくのは正しいことなんだ。それを君は社長とともにがんばって実行しているんだ。さあがんばろうよ」という感じで、イデオロギー的にはまったく逆のものが同時に流れ込むかたちで、保障なきガンバリズムをもたらしました。これが実は現在のブラック企業の典型的な姿になっているんではないでしょうか。

これは、大企業正社員型の「「ブラック」じゃない「ブラック」」とは全然違うんです。むしろそれを否定しようとしたイデオロギーから、別のブラック企業のイデオロギーが逆説的に生み出されたという非常に皮肉な現象です。そういう意味では現代のブラック企業は、いろいろな流れが合流して生み出されているのです。いわば保障なき「義務だけ正社員」、「やりがいだけ片思い正社員」がどんどん拡大して、それが「ブラック企業」というかたちで露呈してきているのだと思います。

何で日本の左派なひとは「成長」が嫌いか

メモ書きとして:

ジョブ型社会では、経済成長すると、「ジョブ」が増える。「ジョブ」が増えると、その「ジョブ」につける人が増える。失業者は減る。一方で、景気がいいからといって、「ジョブ」の中身は変わらない。残業や休日出勤じゃなく、どんどん人を増やして対応するんだから、働く側にとってはいいことだけで、悪いことじゃない。

だから、本ブログでも百万回繰り返してきたように、欧米では成長は左派、社民派、労働運動の側の旗印。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-5bad.html(「成長」は左派のスローガンなんだが・・・)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-211d.html(「成長」は労組のスローガンなんだし)

メンバーシップ型社会では、景気が良くなっても「作業」は増えるけれど、「ジョブ」は増えるとは限らない。とりわけ非正規は増やすけれど、正社員は増やすよりも残業で対応する傾向が強いので、働く側にとってはいいこととばかりは限らない。

とりわけ雇用さえあればどんなに劣悪でもいいという人じゃなく、労働条件に関心を持つ人であればあるほど、成長に飛びつかなくなる。

も一つ、エコノミック系の頭の人は「成長」といえば経済成長以外の概念は頭の中に全くないけれど、日本の職場の現実では、「成長」って言葉は、「もっと成長するために仕事を頑張るんだ!!!」というハードワーク推奨の文脈で使われることが圧倒的に多い。それが特に昨今はブラックな職場でやりがい搾取するために使われる。そういう社会学的現実が見えない経済学教科書頭で「成長」を振り回すと、そいつはブラック企業の回し者に見えるんだろうね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b066.html(決まってるじゃないか。自分の成長のためだよ!)

まあ、要すれば文脈と意味内容のずれによるものではあるんだが、とりわけ経済学頭の人にそのずれを認識する回路がないのが一番痛いのかもしれない。

(追記)

まあ、実のところ、「ニュースの社会科学的な裏側」さんのこの評言が一番的確なのかも、という気もしますが・・・。

http://www.anlyznews.com/2013/02/blog-post_13.html

さすがに経済成長を重視する人々も、不平等や外部不経済が自動的に解決すると主張する人々は少数だ。ただし、ブラック企業問題に取り組んでいるNPOに経済成長に着目しないのはセンスが悪いと高飛車に言い放ったりする経済成長万能派も現存するわけで、実証的・理論的な背景が脆弱な面もあって、特に根拠は無いのだが、左派には不愉快に思われるような気がする。つまり、左派は経済成長が嫌いなのではなく、経済成長と言う単語にうるさい人々が嫌いなのでは無いかと思われる。

いるいる。

2013年2月11日 (月)

どこの国の話?

JILPTのコラムですが、「「働き者」と「怠け者」に関する議論」というのが、固有名詞を隠して部分的に引用すると、ある国についての話が、別の国の話に聞こえてくるから不思議です。

http://www.jil.go.jp/column/bn/colum0216.htm(「働き者」と「怠け者」に関する議論)

・・・への政権交代以降、失業者や就労困難者、低所得層向けの社会保障給付の削減に関する報道がほぼ絶えることなく続いている印象がある。

それにしても、受給者に関する語られ様には少なからず驚かされる。与党・・・党、特に給付削減の急先鋒である・・・は、今回の抑制策を公表するにあたって、働き者(striver)と怠け者(給付受給者)という二項対立の図式を提示している。政府は働く人々の味方であり、公正さを追求するために怠け者を懲らしめるのだ、というロジックで給付削減を説明するわけだ。・・・・

非常に分かりやすい図式だし、全く実態がない話ということでもないのだろうが、現地メディアやシンクタンクなどの調査結果をみると、どうもこうした受給者像は大方が誇張で、実際の受給者層はもっと多様なようだ。少なくとも何らかの給付を受給している世帯の多くは低所得の就労世帯で、恐らくは低賃金・細切れの仕事ばかりで十分な収入が得られず、また就労と失業の間を行き来する人々も多いという。就労世帯における貧困の深刻化は、統計上でも確認されている。こうした人々の多くは、まともな仕事は一体どこにあるのか、と苛立っているだろう。あるいは、健康上の問題から働けなくなった人々も多く含まれている。

にもかかわらず、国民の間には受給者に対する批判的な意見が大勢を占めているようだ。この辺り、一外国人に過ぎない筆者には窺い知れない事情もあるに違いないのだが、失業者(とりわけ長期失業者)といわず低所得層といわず、「ただ乗り」している奴らが多すぎるというニュアンスの回答が多数を占める調査結果は、あちこちで見かける。政府も、受給者に懲罰的な施策を打つことは国民の支持を得ていると思っている感があるし、さらには野党・・・党の中にも、懲罰に反対すれば国民の反感を招きかねないとの意見が少なくないらしい。

もちろん、働ける人には働いてもらった方がいいだろうとは思う。社会保障の問題に留まらず、経済的にも、社会的にも、あるいは本人の健康にもいい場合もあるだろう(健康的な働き方なら、ということだが)。しかし、必ずしも全てが自らの責任ではない何らかの理由によって失業や低賃金労働を余儀なくされ、給付に生活を助けられている人々を、虚実織り交ぜて悪しざまに罵っても、働き者は増えない気がするのだ。

筆者の樋口さんが「一外国人に過ぎない筆者には窺い知れない事情もあるに違いないのだが」と言ってるわけですから、言うまでもなくこの国は樋口さんの調査対象国であるイギリスであるわけですよ、もちろん。

・・・にどういう固有名詞が入るのかは、リンク先でご確認ください。

2013年2月10日 (日)

はちみつ色のユン

1010489_01_2はちみつ色というのは、東洋人の肌の色です。主人公のユンは、韓国の孤児で、ベルギーの家族に養子に貰われてきた子どもだから。

http://hachimitsu-jung.com/

1960年代から70年代、朝鮮戦争後の韓国では20万人を超える子どもが養子として祖国を後にした。その中の一人、ユンは5歳のとき、ベルギーのある一家に“家族”として迎えられた。髪の毛や肌の色が異なる両親と4人の兄妹、カテリーン、セドリック、コラリー、ゲールと共に暮らす中、ユンは生まれて初めて腹一杯食べ、おもちゃを持ち、路上生活や孤児院を忘れることができた。やがてフランス語を覚え、韓国語を忘れ、絵を描くことで実母の幻影と会話しながら、ユンは画才に目覚めていく。そんなある日、“家族”にもう一人、韓国からの養女・ヴァレリーがやってくる。彼女を見たとき、ユンは自分が何者なのかを意識し始めるのだった……。

本人の出てくる実写とアニメを組み合わせた映画ですが、それがとても効果的にユンの心象風景を描き出していて、感動ものです。

ストーリーの中で一番心に残ったのは、自分のアイデンティティを探しあぐねて、絵本に出てきた日本の武者の姿に自己同一化し、一生懸命サムライのまねをするところ。まだ韓流など全くない頃、ヨーロッパで東洋人の活躍する姿といえばサムライ・ジャポネくらいだったでしょうから、そうなるのだろうな、と思いつつ、この映画を韓国の韓国人が見たらまた複雑な思いをするかも知れないな、という気もしました。

ちなみに、このユンさん、監督紹介によれば、

http://hachimitsu-jung.com/kantokushoukai.html

Staffjung映画に出てきた絵の才能を生かしてベルギーで結構沢山の漫画(バンド・デシネ)のシリーズを出しているようで、それもほとんどが日本の武士や遊女を舞台にしたもののようです。

この映画に出てきた彼の子どもの頃の一つ一つのエピソードが今の彼を作っているという話にもなっているんですね。

結構重いですが、見る値打ちのある映画です。今は東京でしかやっていないようですが、そのうち関西でも上映されるようなので、そちらでも是非。

2013年2月 9日 (土)

実態が不明確な理想の言葉は簡単に信用できない

NHKの協同労働番組に、黒川滋さんも反応されていて、

http://kurokawashigeru.air-nifty.com/blog/2013/02/27-6c43.html(みんなが労働者でみんなが経営者)

例によって、大変共感するのですが、同じ話を連ねても仕方がないので、黒川さんの少年時代の思い出の部分を:

高校生のときに私の通学していた高校では、何だかんだと毎週のように学内集会があって、校長から「本当の自由と自立」みたいな話を聞かされ、そして学校行事は「ほんとうの自由と自立」に感動したくて来校する観客のために振り回され、校内で非合理なことがあっても「ほんとうの自由と自立」のために我慢するよう求められ、そういうことを横目にみながら「ほんとうに自由になっているのかい?」と場の空気を壊すようなことをやっていたので、実態が不明確な理想の言葉は簡単に信用できない悪い癖があります。そうしたときに労働法の解説書に出会い、労使間の自治の論理と、集団的労使関係という合意形成に向けた交渉システム、団結権保障のための様々な考え方などを知り、空虚な理念語を振り回すより、問題解決の手段なんだと認識して今に至っております。

黒川さんは「実態が不明確な理想の言葉は簡単に信用できない悪い癖」と言っていますが、いやいや、そういう「実態が不明確な理想の言葉」にすぐころりと逝かれて、「どうしてこんなすばらしい理想がおまえは分からないのだ!」と人をブラックな世界に引きずり込みたがる単細胞な人々に比べれば、大変「良い癖」というべきでしょう。

そういう「良い癖」を持った人々がもう少し世の中に増えれば、表面的な人付き合いはいささか摩擦含みになるかも知れませんが、その代わり、「実態が不明確な理想の言葉」に萌え上がって萌えつきちゃう悲劇は少なくなるような気はします。

これは偉大な指導者の社会主義国であろうが、偉大な教祖の宗教団体であろうが、偉大な経営者のブラック企業であろうが、同じことではないでしょうか。

2013年2月 8日 (金)

協同労働について

昨晩のNHKのクロ現で、協同労働が取り上げられたということで、一部で話題になっているようです。

この問題については、本ブログでも過去に結構何回も取り上げてきていますので、ご参考までに。

結局要は、最後の「メンバーシップ型雇用社会における協同組合のポジショニング」をどう考えるかということに帰着するんですよね。営利社団法人として出資者が社員である会社があたかもそこで働く人を『社員(メンバー)』とする団体であるかのごとく振る舞う社会において、そもそも働く人が法律的に厳密な意味で「社員」であるような団体はいかに存在するのか、という問題です。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/02/post_c79d.html(労働者協同組合について)

端的に言うと、労働者協同組合における労務提供者は労働法上の労働者ではないということに(とりあえずは)なるので、労働法上の労働者保護の対象外ということに(とりあえずは)なります。この事業に関わるみんなが、社会を良くすることを目的に熱っぽく活動しているという前提であれば、それで構わないのですが、この枠組みを悪用しようとする悪い奴がいると、なかなかモラルハザードを防ぎきれないという面もあるということです。

いや、うちは労働者協同組合でして、みんな働いているのは労働者ではありませんので、といういいわけで、低劣な労働条件を認めてしまう危険性がないとは言えない仕組みだということも、念頭においておく必要はあろうということです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-d8ca.html(ボランティアといえば労働じゃなくなる?)

もちろん、ボランティア活動はたいへん崇高なものではありますが、とはいえ親分が「おめえらはボランテアなんだぞ、わかってんだろうな」とじろりと一睨みして、子分がすくみ上がって「も、もちろんあっしは労働者なんぞじゃありやせん」と言えば、最低賃金も何も適用がなくなるという法制度はいかがなものか、と。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-784e.html(協同労働の協同組合法案)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-8536.html(「協同労働の協同組合法案」への反対論)

労働運動関係の旬刊誌『RJ 労働情報』の最新号(790+791号)に、白鴎大学の樋口兼次さんという方が、「「協同労働の協同組合法(仮称)」(ワーコレ法)案に反対!偽装法人、ワーキングプアの温床の危惧「地域主権」で脅かされる労働者の権利」という、かなり厳しい批判を書かれています。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-ecd7.html(第4の原理「あそしえーしょん」なんて存在しない)

たぶん、現在の組織のなかで「アソシエーション」に近いのは協同組合でしょうが、これはまさに交換と脅迫と協同を適度に組み合わせることでうまく回るのであって、どれかが出過ぎるとおかしくなる。交換原理が出過ぎるとただの営利企業と変わらなくなる。脅迫原理が出過ぎると恐怖の統制組織になる。協同原理が出過ぎると仲間内だけのムラ共同体になる。そういうバランス感覚こそが重要なのに、そのいずれでもない第4の原理なんてものを持ち出すと、それを掲げているから絶対に正しいという世にも恐ろしい事態が現出するわけです。マルクス主義の失敗というのは、世界史的にはそういうことでしょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-132e.html(アソシエーションはそんなにいいのか?)

日本の「正社員システム」とは、それがマルクス的な意味での資本によって結合されただけの自由な=疎外された労働ではなく、まさに「社員」としてアソシエートした諸個人による共同的労働になっているところにあるのだとすると、そして、そのシステムが例えば本号の特集となっている「シューカツ」を生み出す一つの源泉となっているのだとすると、「いまこそアソシエーションを!」みたいな議論はいかにも皮肉なのではないか、ということですね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-97a8.html(とってもメンバーシップ型なユーゴスラビア労働法)

「そういえば、その昔、ゆーごすらびあなんていう国がありましたなあ」

「そうそう、ろうどうしゃじしゅかんりとかいうのもありましたねえ」

と、老翁老婆が渋茶を啜りながら回想するような歴史的存在となった旧ユーゴスラビアですが、ソ連やポーランドと比較しながら、旧ユーゴスラビアの労働法をいろいろ読んでいくと、これって究極のメンバーシップ型労働法理論を構築していたのだという事が分かりました。

労働者自主管理というのも1950年に始めてから徐々に進化していっているのですが、その完成形とみなされているのが1976年の連合労働法というやつですが、この法律では、連合労働者の労働関係は、一方が他方を雇う雇用関係ではなくって、「全ての者が互いに労働関係を結ぶ相互的労働関係」なんですね。企業という概念の代わりに「労働組織」というのが中心で、その労働者評議会が仲間として入れる人間を選定する。事業管理機関も労働者評議会が選ぶ。まさに、出資者がメンバーである会社ではなく、労働者がメンバーである労働組織が社会の中心をなすのが自主管理社会主義というわけで、法制度自体がとってもメンバーシップ型なわけですね。

今の日本で言えば、「協同労働の協同組合」に近いわけですが、社会全体をこういう仕組みにしようとしたところが旧ユーゴの特徴であり、結局それに失敗してユーゴという国まで一緒に崩壊してしまったというわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-e1d4.html(メンバーシップ型雇用社会における協同組合のポジショニング)

ただ、全体をざっと読んで感じたのは、雇用契約自体がメンバーシップ型に傾斜している日本社会において、本来的にメンバーシップ型である協同組合のあるべき位置が狭められてしまい、むしろ本来の機能を超えた公益的存在意義を主張しなければならなくなっているのではないか、ということでした。

・・・言いたいことは実によく分かるのですが、しかしこれは、本来株主の「私益」を目指すための営利社団法人である会社が、ある意味で協同組合的性格に近い労働者のメンバーシップ型共同体に接近したため(商法上の社員じゃない「社員」の「共益」)、本来の協同組合のポジショニングが狭められてしまい、「公益」にシフトしようとしているようにも見えます。

2013年2月 7日 (木)

富永晃一『比較対象者の視点からみた労働法上の差別禁止法理 -- 妊娠差別を題材として』

L14441富永晃一『比較対象者の視点からみた労働法上の差別禁止法理 -- 妊娠差別を題材として』(有斐閣)をお送りいただきました。ありがとうございます。

http://www.yuhikaku.co.jp/books/detail/9784641144415

本書は,日本・ドイツ・アメリカの各国における妊娠差別への規制内容の違いを手掛かりに,近年,労働法分野で射程を拡大しつつある差別禁止法理について,「比較対象者」の観点から,同法理の内容・特徴と限界を把握することを試みるものである。

妊娠差別という、それ自体はわりと小さなテーマに過ぎないように見える部分をてこにして、差別とは何だろう、平等ってどういうこと?というでかいテーマに肉薄しようという本であり、大変細かい理屈をごちゃごちゃといじくる専門書でありながら(だから、読むのは結構大変です)、読後感は結構壮大な本でもあります。

第1章 問題の所在
 第1節 本書の問題関心
 第2節 日本法の概観
 第3節 日本法の特徴と外国法分析における課題
第2章 ドイツ法における妊娠差別規制
 第1節 妊娠等に関係する性差別禁止法制・保護法制等の概観
 第2節 妊娠質問に関する制定法・判例・学説等の展開
 第3節 小 括
第3章 アメリカ法における妊娠差別規制
 第1節 雇用に関する性差別禁止関係法制の概要
 第2節 妊娠差別に関する制定法・判例・学説等の展開
 第3節 小 括
第4章 総 括
 第1節 ドイツ法・アメリカ法の分析
 第2節 まとめと日本法への示唆等

最後の「残された課題」から、

・・・本書で扱った妊娠差別は、「等しくないものを等しく扱う」というべき局面での差別禁止法理の利用の一例である。近年導入が検討されている新しい差別禁止には、この類型に属するものが多い。さらに、新しい差別禁止法制の中には、合理的配慮義務等の新たな手法もみられる。これらの新しい差別禁止類型についても、差別禁止という手法の特徴からみて、解決が求められる問題への対処として適切かという観点を中心に、その内容・射程について探求し、差別禁止法理の総合的・体系的考察を進めていきたい。

世に倦む城繁幸氏の憂鬱

そうか、「世に倦む日々」の中の人は実は城繁幸氏だったのか・・・と、思わず思ってしまうこの昭和の香り漂う(笑)見事な台詞。

http://twitter.com/yoniumuhibi/status/295173462341844992

本田由紀とかに言いたいが、定時に会社から帰るジョブ型やっていたら、50歳くらいのときにあの番組の唐沢寿明みたいにはなれないんだよ。

http://toyokeizai.net/articles/-/12808?page=4(若者にワークライフバランスなんていらない 城繁幸氏と考える「日本に依存しないキャリア」(中))

:それはありますね。以前、某キー局のプロデューサーとブラック企業問題について話していたとき、最後に「でも、考えてみればうちもバリバリのブラック企業なんですよね」と言っていた(笑)。

:確かに僕も今39歳だけど、同じ世代の連中を見ていて、ワークライフバランス実現してる奴は、だいたい20代に超ブラック職場で働いていた人が多い。20代に必死に働いて、ある程度のポジションを得たり、おカネを貯めて事業をやったりして、今になってワークライフバランスを実現できている。逆に、20代にしっかり働いていない奴は、今一番ワークライフバランスがない気がする。

もちろん、この認識は、事実認識としてはまったく正しい。

若いうちからワークライフバランスなんて寝言ほざくような馬鹿野郎は出世できねえんだよ。出世できねえような奴は、中年になってから肝心のワークライフバランスなんて実現できねえんだよ。

てなことを、少し前までは、もののわかった先輩がわかってない後輩にこんこんと諭したものです。日本的経営の麗しき美風ですね。その伝統を見事に受け継いでいるところがなんとも。

(念のため)

言葉を文字通りにとられるとなかなかつらいんですが・・・。

いうまでもなく、若いうち滅私奉公したんだからその見返りはよこせよな、間違ってもクビにしたら許さないぞ、という純粋昭和派ヨニウム氏と、

若いうちは滅私奉公しろ、だけど見返りなんてないからな、どんどんクビにしてやるぞ、という修正昭和派ジョー氏が、

まったく同じ人だと本気で主張しているととられると、なかなか冗談が書けない。

(参考)

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-b066.html(決まってるじゃないか。自分の成長のためだよ!)

「1日の平均勤務時間は16時間くらいでしたね。サービス残業はあたりまえで、泊まりもありました。みんなけっこう自分から長時間労働をしているので、おかしいなと思い、『どうしてこんなに働くんですか』って聞いたことがあるんです。そうしたら『決まってるじゃないか。自分の成長のためだよ!』と……。

2013年2月 6日 (水)

塩路一郎氏死去

昨晩、都内某所で、塩路一郎氏の本のことが話題になりましたが、すでに亡くなられていたのですね。

http://www.sankeibiz.jp/business/news/130206/bsa1302060501000-n1.htm自動車総連元会長 塩路一郎氏が死去

自動車総連元会長の塩路一郎(しおじ・いちろう)氏が1日、食道がんのため死去したことが5日、分かった。86歳だった。葬儀・告別式は近親者で済ませた。喪主は長男、朝比古(あさひこ)氏。

日産自動車入社後、間もなく労働運動に転じ、日産系の自動車労連(現日産労連)や自動車メーカーの労組でつくる自動車総連の会長を務めた。日産の英国進出に反対するなど当時の経営陣と対立したことでも知られ、影響力の大きさから「塩路天皇」とも呼ばれた。

1214lこの本、言ってることが本当かどうかはともかくとして、大変おもしろい本であることは間違いないのに、あんまり世間で論評されていないようなのはもったいない感じです。検索すると、下記本ブログの記事がトップに来るし。

塩路氏死去を機に、読まれるといいですね。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2012/11/post-4c1f.html(塩路一郎『日産自動車の盛衰 自動車労連会長の証言』緑風出版)

これはやはり、労使関係の研究者、労使関係に興味のある人にとっては必読でしょう。「あの」塩路一郎氏が、日産自動車に入って、宮家愈氏の下で益田哲夫氏率いる全自日産分会を倒す民主化運動の回想から、プリンス自動車との合併をめぐって、全金プリンス支部の大会に乗り込んで労組統合を進めたいきさつ、そして、多くの本であまりにも有名になった石原俊社長との「対立」の全経緯を語り尽くした本です。500ページ近い分厚さですが、小説よりも面白くて思わず一気に全部読んでしまいます。

今野浩一郎『正社員消滅時代の人事改革』

318613「正社員消滅」などと、鬼面人を驚かすタイトルですが、別にどこにも正社員が消滅するなんて書いてありません。帯の文句の「制約社員を活用する会社になる」というのが、本書の重要テーマなんですが、なんだか売らんかな的なタイトルになっているようです。

http://www.nikkeibookvideo.com/item-detail/31861/

人材・働き方が多様化する制約社員時代の戦力をどうマネジメントするか? 目先の問題の解決に終始して大局観を失った日本の人事を検証し、交渉化・市場化ベースの雇用管理、仕事基準の報酬管理などの改革策を提示。

言ってることはある意味すごくシンプルで、

会社の指示があれば全国あるいは世界のどこへでも転勤する。時間を気にせず、長時間労働もいとわず働く。業務上必要であれば、これまで経験したことのない仕事でも挑戦する。・・・

こうした「無制約社員」をデフォルトに考え、働く場所、時間、仕事について制約のある「制約社員」を積極的に活用してこなかった今までの企業の人事管理を、そういう制約社員こそが多数派であり、「本田由紀とかに言いたいが、定時に会社から帰るジョブ型やっていたら、50歳くらいのときにあの番組の唐沢寿明みたいにはなれないんだよ」と脅迫する伝統的な無制約社員は少数派になっていく時代に合わせて、多元型人事管理に変えていくべきだ、という本ですね。

伝統型をとれば、基幹社員を機動的に活用できるというメリットがある代わり、優秀な制約社員を基幹業務では活用できなくなる。多元型をとれば、機動的活用というメリットは低下するが、ますます増えていく優秀な制約社員を活用できる。さて、どっちがいいでしょうか、という話です。

あくまでも企業の人事管理の立場から、どちらの方が長期的にメリットがあるのか、という話ですよ。

そして、その改革の指針として、「交渉化・市場ベースの雇用管理」と「仕事基準の報酬管理」の二つを示しています。

序 章 日本の人事管理を作り直す
第1章 人事管理は変化するもの
第2章 働き方は「組織内自営業主型」へ
第3章 伝統型人事管理の限界
第4章 進む「制約社員化」にどう対応するか
第5章 制約社員活用は世界の潮流
第6章 「1国2制度型」人事管理の終焉
第7章 交渉化・市場化ベースの雇用管理--改革指針(1)
第8章 仕事基準の報酬管理--改革指針(2)
おわりに

第4回経済財政諮問会議民間議員提出資料

昨日報道された第4回経済財政諮問会議民間議員提出資料が、内閣府のHPにアップされています。

http://www5.cao.go.jp/keizai-shimon/kaigi/minutes/2013/0205/shiryo_01.pdf

これを見る限り、日経新聞記者とは違って、一方的な妄想に基づいていると言うよりは、ある程度バランスのとれた認識に基づいた記述になっているようです。

「若者や女性等の働く機会の拡大、人的投資の拡大」というところでは、

若者・女性が活躍できる雇用の場を創造

雇用形態に関わりなく公平な社会保障制度・税制の構築

専門性の高い職種の人材育成のための学び直し支援、職業能力の評価・認定制度の拡充、電子化した世界最先端のジョブカードの仕組みの構築

幼児教育無償化の具体化、もう一段の待機児童対策の実行、女性の就労支援とあわせて男性の育休取得やワークライフバランスの推進

継続的な人的資本形成による労働生産性の上昇

人的資源を適切に育成・蓄積することを可能とする仕組み(学び直し、人材マネジメント等)

と、訳も分からずにどや顔で仕分けした民主党政権よりもまっとうな政策という面もあります。

その次の「持続的成長を牽引するための労働市場改革」が、昨日報じられた解雇規制の話にも関わる部分ですが、次のように、一応物事の筋道を踏まえた上での記述になっています。

正規雇用と非正規雇用という二元的な雇用システムではなく、地域や職務を限定した正社員や専門職型の派遣労働者など、「ジョブ型のスキル労働者」を創出することで、雇用形態間の行き来を円滑に行えるような環境整備に着手し、企業側からの「人材タイプの多様化」と個人側からの「働き方の多様化」の最適なマッチングができる、「多元的な雇用システム」を目指すべきである。

就業形態や労働者の属性にかかわらず、能力や仕事内容に応じた人事・処遇制度改革に継続的に取り組むべきである。その際、事業・産業構造転換に伴う労働移動等に対応するため、退職に関するマネジメントの在り方について総合的な観点から整理すべきである。同時に、処遇均衡、能力・成果賃金の実現を支える社会インフラとして、高等教育資金への支援、共働きのしやすい環境整備などに取り組むべきである。

「ジョブ型のスキル労働者」を創出することを前提として、あくまでも「事業・産業構造転換に伴う労働移動等に対応するため、退職に関するマネジメントの在り方」を検討するのであって、どこかの評論家諸氏のような「解雇自由」を謳っているわけではないことを確認しておく必要があるでしょう。そして、この「マネジメントの在り方」の検討には、当然EU共通のルールである集団整理解雇指令の手続規制が含まれるべきことも言うまでもありません。

ただ、とはいえ昨日の日経記事にも見られるように、もと文書の記述自体は物事の筋道を踏まえて慎重に記述されているとしても、それを鬼の首を取ったかの如くもてあそんで声高に叫びたがるある種の経済学者や経済評論家たちは、これをもって「先進国でもっとも厳しい正社員の解雇規制」を徹底的にたたきつぶすのだ!!好きなように解雇できないと会社はつぶれるんだぞ!!などという風にフレームアップする可能性はあり、というよりも結構高く、そういう変な話になっていかないように、きちんと指摘すべきは指摘していく必要は常にあるように思われます。

2013年2月 5日 (火)

雇用に関する有識者講演会@奈良県

2月11日(建国記念日)に、なぜか奈良県でお話をすることになりました。

http://www.pref.nara.jp/secure/94018/houdoushiryou.pdf

1 日時 平成25 年2 月11 日(月) 13 時30 分~ 16 時

2 場所 奈良ロイヤルホテル鳳凰の間(奈良市法華寺町254-1)

3 内容 講演「最近の雇用制度について」
(講師) 独立行政法人労働政策研究・研修機構統括研究員濱口桂一郎氏

「女性の雇用をめぐる状況について」
(講師) 厚生労働省雇用均等・児童家庭局長石井淳子氏

講師と知事によるパネルディスカッション

4 参加者 市町村長、市町村職員、市町村議会議員、県議会議員、企業・商工業団体関係者、大学・学校関係者、労働関係団体、報道関係、庁内関係部局等約160 名

経済財政諮問会議民間議員の提言@日経報道

本日の日経に、「労働市場の総合改革を 諮問会議民間議員提言へ」という記事が載っています。

提言は「退職に関するマネジメントの在り方について総合的な観点から整理すべきだ」と指摘する。会社員の退職ルールの再検討を求める内容で、先進国でもっとも厳しい正社員の解雇規制などが念頭にあるとみられる。

この書き方からすると、「先進国でもっとも厳しい正社員の解雇規制」というのは提言の言葉ではなく、日経の記者の脳内妄想に過ぎない可能性もあるわけですが、とはいえこういう言葉がするりと出てくるということは、そういう誤った認識に基づいて事態が動いていく可能性もあるわけで、ちゃんと釘を刺しておく必要はあるでしょう。

いうまでもなく、アメリカを除けば、不公正な解雇は許されないというのは先進国共通のルールで、日本の解雇権濫用法理もなんら「もっとも厳しい」ものではありません。

それが欧州諸国と違ってくるのは、解雇規制自体ではなく、その背後にある雇用契約の性格がジョブ型かメンバーシップ型かということに基づくのであって、メンバーシップ型でどんな命令にも従う代わりにどんな仕事でもあてがうという約束であればジョブがなくなっても解雇できないのは当然であるわけです。

それは解雇規制「が」厳しいのではなく、解雇規制が適用される雇用契約がそういう風になっているからで、それは企業側もそれを活用してとことんフレクシブルに労働者を使ってこれたこととの対価である以上、逆に、そこの所を欧州並みに緩やかにするのであれば、正社員に対する人事権も欧州並みに制約するという覚悟はありますね、例えば労働時間規制とか、いまだにILO1号条約も批准できない状態を変えるということですね、と問わなければならず、そっちは使い放題のままで、こっちは緩和というようないいとこ取りはできませんよ、としかいいようがない。

後段をみると、日経記者よりもそこはわかっているのかもしれない気配はあり、

技能や能力を持った労働者が適切に処遇される「ジョブ型のスキル労働者」の浸透に向け、労働法制だけでなく、社会保障制度などとパッケージで改革を進めるよう提言する。

という記述からすると、自由な人事権が制約されたジョブ型正社員の創設を前提にして、そういう人々については解雇規制の適用の在り方が当然変わってくるという話のようにも見えますが、何にせよ、「先進国でもっとも厳しい正社員の解雇規制」と平気で言えるような日経記者の書いた記事なので、この程度にとどめておきます。

(追記)

とはいえ、もう一つ気になった記述について、

労働者の意欲を引き出すために、正規・非正規という雇用形態の違いにかかわらず、能力や成果によって処遇を決めることも求める。

いや、それって、非正規も今までの正社員並みにばりばり働かせようという話ですか?それは筋が違う。

そもそも、職務ではなく「能力や成果」で処遇を決めるのが末端の正社員やへたをすると非正規まで及んでいるのが日本の特徴であり、つまり仕事(ジョブ)に値札がついていないということなので、そういうことをやればやるほど、ジョブ型からは遠ざかるのですよ。

いやそれがわかった上で言ってるのならいいのですが、それならますます解雇規制は厳しくしないとね。そう、日経記者の脳内妄想みたいに「先進国でもっとも厳しい」ものにしないと釣り合わないよ。

も一つ拙著短評

131039145988913400963こちらは、2009年の『新しい労働社会』への短評です。

與那覇文哉さんによる「口笛はいつもクロマニヨンズ」というブログです。

http://478238ginowan.blog103.fc2.com/blog-entry-465.html

日本の労働社会における実態を把握、その問題点を提示しながら解決策を提示している。著者はまず、日本独特の労働観を提示する。
日本以外の国では、労働は職務ごと契約しており、契約者と労働者の間で、明確にどのような仕事をするのか決まっているのだが、日本では会社がまず新入社員として一括して採用する形をとるため、特別な職務における雇用という形態ではないのらしい。
さて、私がこの本を読んで、日本における労働社会についての問題点をまとめると、

①正社員と非正社員の身分の固定
②大学での学業内容に就職で必要となるような技術が習得できない。
③正社員を代表する労働組合しか存在しない

の三点ぐらいであろうか。
どれも日本社会における改善すべき問題点としてよく議論にされているのだが、これらがあまりにも強固のため、事態は改善の兆しすら見せていない。一応、②については、2002年の学校教育法で、大学院などのアカデミズム機関も職業教育機関として位置づけることで事態の改善を図ろうとしていることは分かるが、これも今のところ実態通りには行ってないだろう。
①、③の問題については、単純に「同一労働・同一賃金」の導入で解決されるかに見える。げんに最近読んだ池田信夫の本でもこの提案がされていた(『希望を捨てる勇気』)。しかし、濱口氏は、高度成長における日本社会における家庭像-夫が終身雇用、年功制の会社に勤めることで財政的な基盤を得、妻は専業主婦、そうでなくても軽さパートなどの仕事-、では日本版フレシキュリティが達成されているのであり、こうした構造を根本的に変える必要があるため、同一賃金の導入は非常に困難と結論を出している。

これななどを読むと、派遣社員と働いている私なんかは、ひえー、と思わず叫び声を挙げるのであり、派遣社員であり続けることにリスクを感じてしまうのである。そういう意味で、非常に「不都合な真実」がつまっている本だが、労働環境の現実を理解するためにも是非、一読されたい本である。

拙著短評

112483ブクログに、拙著『日本の雇用と労働法』の短評が寄せられてました。HeeHawKunさんです。

http://booklog.jp/users/heehawkun/archives/1/4532112486

多くの問題が指摘される日本型雇用システム、その特徴と成立過程を戦前~戦後の労働法の歴史を交えて説明している。

日本型雇用システムの全体像を俯瞰することができ、労働法の入門書としておすすめ。

戦時中の「『皇国の産業戦士』として平等」と言う思想が、戦後に社会主義的装いで再確認されたとあり、なかなか興味深い。

なるほど、労働というひとつの観点であっても、この国は戦前も戦後も社会主義的であったと言うことか。

2013年2月 4日 (月)

デンマークの解雇規制(これまた再三再論)

スウェーデンの再三再論に、デンマークはどうなの?というコメントがつきましたが、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-823f.html#comment-95324602

デンマークの労働市場の柔軟性について、
会社はアメリカと同じ容易さで従業員を解雇できる、と書いていますが、
同じ北欧でもデンマークとスウェーデンでは法規制が異なるのでしょうか?

デンマークについても、本ブログで結構再三書いてきておりますが、Dursanさんから

しかしながらこの問題を取り上げる度に初見の方もおられるでしょうし、
ため息も出てしまうでしょうが、気落ちせずお続けいただけますよう、
切にお願いする次第でございます。

といわれていることもあり、煩をいとわず、再三紹介いたしましょう。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-9ff0.html(北欧諸国は解雇自由ではない)

一知半解氏が北欧は解雇自由だなどとまたぞろ虚偽を唱えているらしいので、拙稿より北欧諸国の解雇規制の記述を引いておきます。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/roubenflexicurity.html『季刊労働者の権利』2007年夏号原稿 「解雇規制とフレクシキュリティ」

(4) デンマーク
 法律上原則として使用者は労働者を自由に解雇できる。ただし中央労使協約により、解雇は公平で予告が必要である(勤続に応じて3ヶ月~6ヶ月)。著しい非行の場合は即時解雇が可能である。使用者は解雇の正当理由を示さなければならず、これに不服な労働者は解雇委員会に申し立てることができる。解雇委員会は、労使間の協調が不可能ではないと認めるときは復職を命じることができる。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/02/post-c511.html(デンマークの解雇規制はこうなっています)

誹謗中傷の後始末もしないまま、平然とフレクシキュリティとか知ったかぶったかしているようですが、念のためデンマークの解雇規制についてもEUの資料を引用しておきます。

何回も書いてきたことですが、デンマークという国は労働組合の力が大変強く、全国労使協約でもって、他国であれば労働法で規定するようなことも規定してしまうので、六法全書に労働法がほとんどないという変わった国ですが、そこの所を念頭に置いた上で、読んでください。欧州委員会が2006年にまとめた加盟各国の解雇規制の報告書です。これくらいざっと目を通した上で何事か語るのが最低限の学問的良心だと、わたくしは思うのですがね。

デンマークには不公正解雇に対する一般的な法的な禁止はない。原則として使用者は被用者を自由に解雇できる。デンマーク労働組合総連合会とデンマーク経営者連盟の間の主要協約に、保護がある。解雇は公正で予告が必要である。重大な非行の場合、使用者は予告なしに解雇できる。使用者は被用者の前で解雇を正当化するよう義務づけられる。しかしながら、これは解雇の効力の条件ではない。解雇に対する主たる治癒は斡旋手続きである。労働協約の適用を受ける被用者は解雇委員会に申し立てることができる。同委員会は当該解雇を違法と宣言し、被用者の復職を命じることができる。これは、被用者が組合員であるか否かを問わず、使用者が協約の適用を受ける限り適用される。

解雇により雇用関係は終了する。しかしながら、解雇委員会または産業裁判所は、彼・彼女が公式の訴えを提起したことを条件として被用者が復職されるべしと判決することができる。さもなければ、解雇は当該委員会または裁判所の定める額の補償金に帰結する。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/post-15b9.html(デンマーク型フレクシキュリティの落とし穴)

ネオリベ系の論者がデンマークモデルを持ち上げるときに、必ずねぐって知らんぷりするのが、デンマークが労働関係のほとんどすべての規制を国会制定法ではなく中央労使団体間の労働協約で決めて実施しているウルトラ・コーポラティズム国家であるという点ですが、そして、本ブログでも何回か取り上げてきたように、そのことが個別企業レベルにおける解雇規制の緩やかさを担保しているわけですが、その「組合員であることがすべて!」という超労働組合万能国家であるがゆえに、自分から労働組合に入ろうとしない人間は、セーフティネットから自動的に排除されてしまうわけですね。

このあたりのパラドックスを真剣に考えるとなかなか難しくて、やっぱりデンマークみたいに労働組合に入らなくちゃ何も守られない社会じゃなくて、国家がちゃんとセーフティネットをかけてあげる社会でなくてはいけないと考える人もいるでしょうし、日本の非正規労働者みたいに入りたくても入れないのではなく、自分で勝手に入らなかった連中なんだから、どうなっても自分の責任じゃないか、という考え方もあるでしょう。

いずれにしても、地球上のどこかに完全無欠な理想郷が存在するなどということはありうるはずもないわけです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-1678.html(デンマークの労組の解雇規制要求)

経済危機で失業率が高まり、賃上げも期待できない中で、雇用保障をもう少し強めろという要求が労働者側に出つつあるようです。

といっても、現在ブルーカラー労働者の場合たった4か月である解雇予告期間をもっと延ばせという話なんですけどね。

公務員とホワイトカラーは解雇予告期間が6か月と格差があるので、それも原因のようです。

人によっては、デンマークは首斬り自由の国だと誤解する向きもあるようですが、もちろんこれだけの規制はあるのです。国会制定法ではなく中央労使協約による定めですけど。

ちなみに、人によっては絶対に解雇不可能だと思いこんでいる向きもあるらしい我が日本国においては、法律上の解雇予告期間はなんと1か月の長きに及んでいますが、そこはそれ、現場の労働相談に押し寄せてくる事案では、態度が悪いから即日解雇なんてのが山のようにあり、あっせんでようやく数万円支払わせても、1か月分の解雇予告手当にも及んでいないんじゃないかというのがかなりありますから、まあ、実態からいえば日本の方がずっと随意雇用に近いという気もしないではありません。

労働組合の組織率が全然違いますし、セーフティネットや職業訓練システムの完備の度合いも違うので、そもそも労働者保護水準はまったく違うわけですが、「お前はクビだ!」といわれてからほんとに会社を辞めるまでの期間の規制も、これだけ違います。多くの中小零細企業の労働者にとっては、これこそが実質的な解雇規制なので、日本はほとんど大企業からなっているかのように思いこんだ議論はいささか空中を浮遊している感があります。

そして決定版。日本弁護士連合会のデンマーク調査団の浩瀚な報告書について

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-5f50.html(日弁連デンマーク調査報告書)

フレクシキュリティといえば、一部インチキ経済学者による首斬り自由自在の経営者天国という粗雑な議論が横行する一方、それを真に受けたモリタク氏が「財界の罠」だと叫んでみたり、なかなかまっとうな認識が浸透しませんが、こういう現地の労使を始めとする関係者のナマの声をきちんと発信することが、インチキな議論の横行を防ぐ最良の手段なのでしょうね。

解雇はけっして自由ではない 」けれども、経済的理由による「整理解雇の「合理性」判断は緩やか」。それを支える「手厚い失業給付」と、なによりも重要な「職業教育を重視した教育制度」と「離職者向け就労支援」。

そして、それらをマクロ社会的に支える根本的なインフラとして、法律すらもほとんどなく大部分を労働協約で決めてしまうほどの「労使の社会的な役割」があるわけです。

こういうきちんとした認識を踏まえて、例えばこれら社会的機構を整備することを前提に、整理解雇4要件の緩和を主張するのであればまことにまっとうなのですが、それと「社長の云うことを聞かないような奴はクビだクビだ!」という解雇自由化との区別がつかないような人がまだまだ多いのが悲しいところでしょう。

ちなみに、わたくしも雑誌『エコノミスト』の次号に、「「フレクシキュリティ」の真実 日本にはハードルが高すぎる北欧型雇用モデル」というのを書いております。来週初めの発売です。

「人権」という「お題目」

うーむ、こういう言い方自体、すでに誤解を孕んでいるような・・・。

http://twitter.com/shinichiroinaba/status/298100241108983808

いわゆる「人権問題」には何も憲法を持ち出さなくとも語れるし語らねばならん(たとえばいわゆる「人格権」なんて民法の問題でもある)ということを我々素人に対してもっと啓蒙していただきたいと思いますが学者やプロの方には。

http://twitter.com/shinichiroinaba/status/298100668357545986

中公の公民でもっと法教育をやっていただいて、「人権というのは単に憲法に書いてあるお題目のことではないのだよ」と若い人たちの骨身にしみさせていただきたいとは思いますが、現場の先生方はそういう訓練は受けておりませんのでねえ。

問題は、憲法レベルの「人権」か、下位法令レベルの「権利」かですらないような。

それこそ本ブログで何回も取り上げてきた赤木智弘氏のように、

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2007/10/post_2af2.html(赤木智弘氏の新著その2~リベサヨからソーシャルへ)

男性と女性が平等になり、海外での活動を自己責任と揶揄されることもなくなり、世界も平和で、戦争の心配が全くなくなる。

で、その時に、自分はどうなるのか?

これまで通りに何も変わらぬ儘、フリーターとして親元で暮らしながら、惨めに死ぬしかないのか?

ニュースなどから「他人」を記述した記事ばかりを読みあさり、そこに左派的な言論をくっつけて満足する。生活に余裕のある人なら、これでもいいでしょう。しかし、私自身が「お金」の必要を身に沁みて判っていながら、自分自身にお金を回すような言論になっていない。自分の言論によって自分が幸せにならない。このことは、私が私自身の抱える問題から、ずーっと目を逸らしてきたことに等しい。

といういかにもよくありがちな(リベサヨ的)「人権」感覚は、

ええ、わかっていますよ。自分が無茶なことを言っているのは。

「カネくれ!」「仕事くれ!」ばっかりでいったい何なのかと。

という「人権」感覚(の欠如)と表裏一体なわけですよ。

いうまでもなく、どちらも憲法第25条、第27条という立派な「お題目」なんですけれどもね。

つまり、憲法のお題目すら、言葉としては教えられてることになっているけど、実は全然伝わっていないの。

「追い出し部屋」コメント@『週刊現代』

1120_o本日発売の『週刊現代』2月16・23日号の記事「パナソニック、シャープだけではありません 「追い出し部屋」 追い出す方も追い出す方なら、追い出される方も追い出される方」において、私のコメントが載っております。

電機・情報ユニオン書記長森英一氏、鵜飼良昭弁護士、徳住堅治弁護士などのコメントが並ぶ一方、冷ややかなコメントも連ねられています。そして、記事の最後に:

最後に労働政策研究・研修機構の濱口桂一郎統括研究員がこう語る。

「仕事がなくなった人は解雇していいというのが諸外国の常識ですが、日本では整理解雇はよくないので、会社は仕事のない社員にも仕事を見つけてやらなければいけないという考えが主流になっている。
加えて米国などではレイオフ(一時的な解雇)が当たり前で、業績が回復すればレイオフした社員に戻ってきてもらうということをきちんとやっているが、この考え方が日本にはない。その代わり日本では解雇を回避するための人事権が企業に広く認められていて、社員に何を命じても許されるようになってしまっている。
こうした日本のねじれた制度や考え方が、結果として『追い出し部屋』のような中途半端なものを生んでしまっている。そのような背景を理解することなく、この問題を論じても意味がないということを言っておきたいと思います」


2013年2月 3日 (日)

スウェーデンの解雇規制再三再論

下記労働総研の提言と、符号の向きが正反対なだけで全く同型的な認識を示しているのが、本ブログでおなじみの3法則こと池田信夫氏です。

例によって、半分だけ正しいというか、一点を除けばほぼ正しいことを言っているのですが・・・、

http://agora-web.jp/archives/1516896.html(北欧はなぜ成功したのか)

北欧諸国に特徴的なのは、企業に対する補助金や解雇規制がほとんどない代わり、個人のセーフティネットが手厚いことだ。経営の悪化した企業は守らないで破綻させるが、失業者には職業訓練をほどこし、それを条件として手厚い失業手当を出す。産業別労組の組織率が高く再就職が容易なので、企業の破綻は多いが長期失業率は低い。労働者が失業を恐れないので、90年代の金融危機で自殺率は下がった。

市場経済の変動に対応するための整理解雇と、その必要性がないのに使用者の権力を不当に振るう不公正解雇が区別できていない、というか、問題として整理解雇しか目に入っていないという点で、全く同型的なんですね。

スウェーデンの解雇規制がどういうものであるかについては、本ブログで繰り返し述べてきているので、ここではそのリンクと引用だけにしておきますが、何年たってもおんなじことを繰り返さなければならないのはいい加減飽きますな。

http://homepage3.nifty.com/hamachan/johororen1010.html(スウェーデンは解雇自由だって!?)

労働問題は単純にスパッと切れるようなものではない。専門家ほど発言に慎重になり、いろいろと条件をつけた上でないとなかなか断定的な言い方ができない。そこにつけこんで、一知半解で断定的な言説を振りまき、世論をあらぬ方向に誘導しようとする連中が湧いてくる。明らかな虚偽の宣伝に対してはきちんと批判を加えていかなければならない。本コラムではこれから毎月、ネットを含むメディアに流通するトンデモ労働論や一知半解の議論を取り上げ、批判を加えていく。

 第1回目は意外に多くの人が受け入れている「スウェーデンは解雇自由」という言説である。たとえば上武大学教授の池田信夫氏は、2009年に桜プロジェクト「派遣切りという弱者を生んだもの」というテレビ番組の中で、「僕の言っているのに一番似ているのはスウェーデンなんですよ。スウェーデンてのは基本的に解雇自由なんです。いつでも首切れるんです、正社員が。その代わりスウェーデンはやめた労働者に対しては再訓練のシステムは非常に行き届いている訳ですよ。だからスウェーデンの労働者は全然、失業を恐れない訳ですよ。」と語っている*1。後半は正しい認識である。連合が支持する政権でありながら、「仕分け」の名の下にただでさえ乏しい職業訓練施設を削減することをばかりを追求している民主党政権は噛みしめる必要があろう。しかしながら、前半は明らかなウソである。

 その証拠はスウェーデンの労働法規を読めばわかる。幸いスウェーデン政府は法律をすべて英訳してくれているので、誰でもアクセスできる。解雇法制は1982年の雇用保護法に規定されている*2。客観的な理由のある場合には1~6か月の解雇予告で解雇できるが、労働者が訴えて客観的な理由がないとされれば解雇は無効となり、雇用は維持される。ただし、使用者の申し出により金銭補償で雇用を終了することができる。また整理解雇に際しては厳格なセニョリティルールが適用される。さらに、解雇規制の潜脱を防ぐため有期契約の締結にも客観的理由が必要で、3年を超えると自動的に無期契約になる。解雇自由などといえるところはどこにもない。

 このように法律上は極めて厳格な解雇規制を持つスウェーデンが、同時に極めて流動的な労働市場を持っていることは何ら矛盾ではない。手厚い職業教育訓練を受けながら新たな仕事を探すことが権利として保障されているがゆえに、解雇されることがそれほど痛くない社会が実現している。しかしそのことと、不当な解雇に対しても泣き寝入りせざるをえない解雇自由とはまったく別のことである。むしろ判例法理で解雇権の濫用が制限されているはずの日本でこそ、不当な解雇に泣き寝入りしている人々ははるかに多いのではなかろうか。日本が学ぶべきは手厚い職業訓練だけでない。

*2http://www.regeringen.se/content/1/c6/07/65/36/9b9ee182.pdf

労働総研提言の勘違い

全労連系の労働運動総合研究所(労働総研)が「提言・電機産業の大リストラから日本経済と国民生活を守るために」というかなり大部の提言を出しています。

http://www.yuiyuidori.net/soken/ape/2013/data/130131_01.pdf

電機産業の分析についてもいろいろ書かれていますが、ここでは第2部の「労働総研の具体的提案」について、若干の指摘をしておきたいと思います。

それは要約すれば一つのことなのですが、その最初に書かれている

日本では、従来からEU などの先進諸国では考えられないような横暴な首切り=大量解雇がまかり通ってきたが、今回の電機大リストラはそのなかでも最悪の事例となりつつある。日本では、労働者の雇用を守るルールが、労働慣行としても、法制度としても確立していないのが、その最大の要因である。解雇にかかわる現行法制には“抜け穴”があるだけでなく、EU 諸国では当たり前になっている集団解雇規制や解雇規制法などの法的ルールが確立されていない。日本でも、雇用にたいする企業の社会的責任を明確にし、リストラ・解雇をやめさせる正しい“処方箋”が必要である。

という認識の一番根っこの根本的なところに勘違いがあるということなのです。

いや、「日本では、労働者の雇用を守るルールが、労働慣行としても、法制度としても確立していない」というのは、ある側面ではまさにそうだと思うのですが、それはいかなる意味でも「EU などの先進諸国では考えられないような横暴な首切り=大量解雇がまかり通ってきた」などということではなく、その全く逆、つまり、経済的理由による整理解雇を一番悪質な解雇と見なして、ひたすらそれを制約することばかりを考えてきたが故に、EU諸国ではそれこそが大事な不公正な解雇への制約が、それよりも劣る一般的なレベルのものにとどまってきているという点にこそあるのです。

この根本的な勘違いに立脚していろいろと書かれていくと、一見EU指令を引用してもっともらしく見えながら、その根っこの認識がずれまくってしまうということになってしまいます。

EUの大量解雇指令というのは、私の解説書を読んだ方ならおわかりの通り、整理解雇自体を禁止しようなどというものではなく、それを労働者代表との労使協議(及び公的機関への通知)によって粛々と進めることを義務づける手続規制です。

そもそも始めにジョブがあり、それに人を当てるという労働社会では、ジョブがなくなること自体は正当な解雇理由です。ただし、それを経営側のいいようにさせると、「こいつは言うことを聞かないやつだから、この際経営上の理由ということでクビにしてやろうか」というようなことがまかりとおるので、そうさせないためにきちんと手続規制をかけるわけです。

それに対して、ちゃんとジョブがあり、しかもそれをちゃんとこなしているのに、いろんな理屈をつけてクビにしようというようなのが不公正解雇であって、整理解雇はきちんと行われる限りは不公正解雇ではないのです。ここのところの概念区分がきちんとできているかどうかが大事なのですが、この提言ではそこがまったくぐちゃぐちゃで、整理解雇が一番けしからんという特殊日本的感覚がそのままむき出しになっていて、それとEU指令との根本的矛盾関係が全く意識されていません。

電機職場ではいま、横暴な退職強要など違法・脱法のリストラが横行している。不当解雇の禁止などが判例や行政基準にとどまり、ルール化されていないためである。企業のこうした横暴をやめさせるためには、雇用と人権を守る解雇規制法を制定する。このなかでは、解雇禁止の原則を明確にすることはもちろん、「整理解雇の4要件」の法制化、人権無視の退職強要をやめさせる具体的手立てのルール化をはかる。

いやだから、日本の解雇規制が整理解雇規制に偏って、肝心の人権的規制が弱いことの裏返しなわけですよ、それは。なまじ整理解雇4要件を金科玉条にして、解雇回避努力義務を無条件に奉ってしまったが故に、解雇を回避するためという理由で、あるとあらゆることが正当化されてしまう人事権の異常な拡大が容認されてきてしまったのであって、問題はむしろ、整理解雇さえしなければ何をやっても許されるのか?という本来労働法が問うべき問いをきちんと問うことにあるはずなわけで。

整理解雇するなら非正規を先にクビにしろという要件も含めて、正社員の雇用の維持というセキュリティと引き替えに認められてきたさまざまなフレクシビリティをもう一度問い直すというところからしか、この問題の解決はあり得ないと思いますけどね。

映画『Workers』

ワーカーズコープから映画の鑑賞券をお送りいただいていたので、昨日東中野ポレポレに見に行きました。

成果主義・効率優先・格差・貧困がすすむなか、働くことに生きがいを持てない時代。それでも国は経済成長を最優先課題として拡大再生産を繰り返し、グローバル化に突き進んでいます。 働く場を求めても他人と比べられ、選別され、未来への希望が見出せなくなっている若者たち。いつどうなるかもわからない非正規雇用の蔓延。 そして居場所さえ失う人たちと、大きな不安が私たちを覆っています。このような時代、私たちは何を求め、未来をみつめていくのでしょう。世の中のめまぐるしい変化の中で、あらためて人と人、地域、社会との結びつきを再生することが求められています。
 自分たちの明日を自分たちで耕しはじめている人々がいます。ワーカーズコープ=労働者、使用者という区別はなく、経営方針から具体的な仕事まで、一つ一つをみんなで決めていく…ちょっと面倒臭い、けど、てんてこ舞いしながら話し合いを繰り返すなかで、「イキガイ」や「キズナ」が育まれます。  どこかにある桃源郷ではなく、いまいるところで、地域の人と支え、支えられ、未来を耕し、培うもの…地域の中に溶け込んで、こころを合わせ、力を合わせ、助け合って働いていく。そこには新しい時代にむけてのかすかな光への芽生えがありました。

ということで、一言で言えばワーカーズコープの宣伝映画ってことになるわけですが、実はそういう意味では必ずしもできが良いわけではない。つうか、この映画を見終わっても、

一人一人が出資し、平等な立場で事業、経営に参加できる働く者の協同組合。つまり各々が経営者であり労働者。地域に必要とされている仕事を協同の力でおこし、必要な資金も自らで集め、事業計画、報酬等全てを合議制で決め、全員が経営にも責任を持つ。協同組合の理念・原則のもとで社会連帯を求める「協同労働の協同組合」です。

という理念のすばらしさがそれほど伝わってくるわけではない。でも、それはむしろ監督としては意図的なんではなかろうか。むしろ、スカイツリーの足下の下町の地域社会のつながりが結構濃厚に残っているところが非常に印象的なので、そういう意味では、良くできているんですよね。

でてくる児童館にしても、高齢者施設にしても、介護施設にしても、それ自体というよりも、地域社会とのつながりに重点を置いて描かれています。

興味深かったのは後半に出てくる介護施設のあゆみケアサービス。もともと家政婦紹介所だったのを、介護保険法施行とともにワーカーズコープに加入したそうですね。一方で、労働者供給事業として労働組合化しているところもあり、そして大規模に参入してきた企業もあるわけです。

2013年2月 1日 (金)

石水理論への疑問@『労旬』座談会より

JAMの早川さんから

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-fd81.html#comment-95236302

ところで労働法律旬報、出ましたがお読みいただけましたか?

と聞かれたので、感想を書かなければなりませんね。

Rojyun178384これは、『労働法律旬報』1月合併号に掲載されている

http://www.junposha.com/catalog/product_info.php/products_id/813?osCsid=5ec55cd11d06435531465d29dcba090c

[連載]賃金を問う!①【座談会】経済分析と労働運動-パラダイムシフトに向けて=石水喜夫+早川行雄+松井健+小原成朗+仁平章

という座談会のことです。

実は正直言って、この座談会における石水善夫さんの発言に、いささか失望感を感じてしまいました。

それは、冒頭早川さんが指摘した日本型雇用システムの意義と限界に関する論点に対して、

私は実はそこがわからないのです。わからないというのは、私自身に限界があるからです。・・・

私は日本型雇用システムを官庁エコノミストの視点から描きます。・・・私の存在は経済分析における技術官僚であり、しかもそれは技術だけの問題ではなく、その精神性も間違いなく官庁エコノミストです。長らくそのように育てられてきてしまったので、今さら変えようもないようです。

ただ、そこで「限界」とだけいわれてしまうと悔しいところがあります。国は経済分析を行い、経済調整政策を行って、解雇抑制的雇用政策を運営してきました。その持つ意義は極めて大きいだろうといいたいのです。

・・・私はこの分析は、その限りでいえば、かなりの成功を収めたと思っています。ところが、このシステムは改革の対象とされ、そのほとんどは壊されました。・・・

このようなシステムの中に育ち、そして、そのノウハウで生き延びている私にとって、その「限界」とはなんなのか。そこがわからないと先に進めないのです。

この物言いは、大変謙遜しているように見えて、実はあまりにも不遜なのではないか、と、戦後60年の労働政策の歴史を見る立場からは思えます。

石水さんは、たかだか1970年代半ばから1990年代初頭までの、せいぜい20年間に主流化したものの考え方(私のいう「企業主義」の労働政策)を、あたかも(少なくとも「官庁エコノミストの世界では)万古普遍の真理か正義であったかのように描き出しています。

1960年代の政府の経済政策論や労働政策論をみれば、全く逆であったことは一目瞭然です。石水さんの目には、国民所得倍増計画も人的資源に関する経済審議会答申も、あるいは第一次雇用対策基本計画も当時の様々な雇用流動化政策や賃金制度改革に向けた政策文書も見えていないのでしょうか。

日本型雇用システム万歳論は、せいぜい1970年代半ば、石油ショック以後に主流化し、1980年代に我が世の春を謳った後、1990年代には再び力を失っていった、あえていえば一時の流行思想に過ぎません。そういう歴史的感覚がないのかな?というのが、まずもって何よりも不思議なのです。

そして、1980年代に最高潮に達した万歳論の下でも、長時間労働、女性雇用の周辺化、中高年の排出など、その問題点は常に指摘され続けていました。無反省に日本型システムのすばらしさを誇っていたのは、スキルなんかなくてもすいすい就職できる日本の若者雇用が若年失業溢れる欧米に比べてすばらしいということくらいだったようにも思われます。

むしろ、今思い出せば、当時の万歳論は労働の世界それ自体の中からというよりも、経済パフォーマンスが優れているからその基盤の日本型雇用もすばらしいという他人のふんどし論が主だったようにも思われます。であれば、経済パフォーマンスが落ちれば万歳論の推進力が落ちるのも無理からぬものがあったと言えましょう。

そして、1980年代的日本型雇用万歳論が、他人のふんどしで褒め称える一方で、現場の不満感覚をきちんとすくい上げることができなかったからこそ、1990年代初頭に会社人間批判とか社畜批判という形でややゆがんだ批判がされ、それをうまくすくい上げる形で新自由主義が広まっていったのではないか、それを、「みんなネオリベが悪いんや」という人の責任に押しつける議論でものごとが解決するのか、という問題です。

ネオリベによる批判に足をすくわれるような万歳論でしかなかったことへの真摯な反省のないまま、「今さら変えようもない」のでは、そのような声が職場の現実に届かないのも無理はないのではないでしょうか。

このあたり、時間感覚がなく、万古普遍の真理のみが書かれる建前の経済学という学問が広まる一方で、様々な正義が時とともに相せめぎ合うことを前提である社会政策論が衰退していったことが背景にあるのかもしれません。そこはよくわかりませんが。

ここで、日本型雇用万歳論が世を風靡していた頃の私の小さな思い出を記しておきます。当時、私は今はなくなった労政局の労働法規課というところにいました。集団的労使関係法制を所管する部局です。そこに、ある一国民の方が見えられ、「おまえらは労働組合法をつかって、変な労働組合が騒ぐのを助けているのはけしからん」というような苦情を縷々、1時間以上にわたって語られました。私はそもそも三権分立で立法府が法律を作り、法律による行政の原理に基づいて粛々と法を施行するのが行政の役割でございまして・・・てなことを申し上げたわけですが、今でも記憶に残っているのは、その方が、

だいたい、最近出た経済白書でも日本型雇用システムがすばらしいと書いてあるじゃないか。それなのに、それと反することをやるのはおかしい。おまえらは経済白書に逆らうのか?

正直、内心このおっさん何を言うとんじゃ、と思いましたが、「経済白書はあくまでも経済政策の観点から分析するものでして云々」とお話して帰っていただきましたが、たかだかそのときの経済白書の執筆者の見解ごときで集団的労使関係法制の原理を否定するとは何事か、と思いましたよ。

さらに思い出せば、そのころ、週刊新潮に会社がちゃんと面倒見てくれているのに労働省なんて要らねえんじゃねえんか、というような記事が出て、こいつら何を考えてんだ、と思ったこともあります。

日本型雇用万歳論は、突き詰めると人事部が他の誰よりも社員のことを大事に思ってくれるんやから、それ以外に要らんやろ、というロジックになりかねない面もあるのです。せいぜい、雇用調整助成金とか能力開発助成金で企業に金をくれればええので、それ以上は要らんと。

縷々書きましたが、どうも石水さんの議論には、たまたま彼が官庁エコノミストになった一時期の流行思想が万古普遍の真理として固定化してしまっている感がぬぐえません。

皮肉な言い方ですが、労働行政が太古の昔から日本型雇用を擁護してきたかのような虚構に立脚して非難を投げつける城繁幸氏のインチキな議論と、価値判断の方向性だけは正反対とはいえ、ほとんど同型的な議論にすら見えます。

もうすこし物事を相対化して考えた方がいいのではないか、そして物事の正否を判断する基準は、何よりも職場で現に働いている労働者の感覚そのものにきちんと寄り添うべきなのではないか、と、エコノミストではない私は思うのです。

ノンエリート社員たちの職場組合@熊沢誠

0025960昨日紹介した熊沢誠さんの『労働組合運動とはなにか』、結構既視感のある本で、最初に原論があって、欧米の労働組合運動の歴史、日本の企業別組合への道行きが縷々描かれています。でも、労使関係の本がまるで売れない昨今では、ここで書かれているような「常識」はもはや共有されていないので、結構新鮮なのかもしれません。

ここでは、最後の第5章「労働組合=ユニオン運動の明日」から、ノンエリート社員たちの職場組合主義について書かれたところを。

・・・そこで、生活者の自然な願いとして企業への定着は願うけれど一定の職域で一生働き続ける、一章でいうAb型の労働者たち、いうならばノンエリート社員にとってふさわしい組合運動を考えてみます。・・・日本の労働者としては最大多数であるこのノンエリート正社員に対して、企業別組合を忌避するあまり、即時的にクラフトユニオンや一般組合の結成を促すのは現実的ではありません。職場への定着を願うということを前提にするならば、望ましい組合はやはり単産機能を強化した上での産業別組合の職場支部という形になるでしょう。

こうした普通の労働者にとっては、日本企業の要請する能力主義競争への投企よりは、仲間の間での<平等処遇を通じての保障>という競争制限の営みの方が結局、長期的に見ると生活の安定に通じると考えられます。

・・・この種の労働組合を特徴付ける営みの中で特に大切なことを挙げてみます。その第一は、ここでこそ定着型の、あるいは定着を希望する非正規労働者との間で均等待遇を追求することです。そして第二に、職場組合は、企業を横断する産業別規模での職種別労働条件の標準化政策に何とか踏み出さなければなりません。

・・・第三は、個別企業の雇用量の変動に連帯的に、つまり選別拒否的に対処する雇用政策の開発です。これにも二つの形態があって、一つは・・・一律型と個人選択型という二形態を車の両輪とするワークシェアリングに他なりません。もう一つは、企業単位の弾力的雇用調整としての、セニョリティに基づくレイオフ(一時解雇)制度の導入です。

ストレート・セニョリティに基づくレイオフが必要な所以をもう一度だけ繰り返します。日本には厳密なセニョリティ基準はなく、建前は終身雇用ながら、ある局面で人員が過剰と意識されれば、会社は不必要と見なした人を自由に選んで退職を勧奨(実際は強制)することができます。・・・私たちの国における実態としての能力主義的選別の慣行と、アメリカのセニョリティ基準によるレイオフ制とを改めて比べてみましょう。どちらがユニオン的か、どちらがノンエリート従業員に親和的か。そう問いたいのです。このあたりが前項に述べたエリート層の企業別組合と、ここでいう職場組合との分岐点と言えます。

終身雇用という建前のもとで退職勧奨の自由が極限まで認められている日本と、淡々とセニョリティに基づいてレイオフするアメリカと、どちらがノンエリート労働者にとって住みよい労働社会なのか?という深い問いです。

昨今の「追い出し部屋」問題に対しても、いかなる立場に立って何を問題にするのか?こそが問われています。来週月曜日発売の『週刊現代』をご覧ください。

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